2025年6月29日日曜日

若草物語(日本、1964年作)監督:森永 健次郎

 映画の序盤、大阪の家を飛行機(これがコメディタッチ)で家出してきた、四人姉妹の内の、下の三人が、東京の一番上の姉が住んでいる晴海団地(中層の五階建て)に押しかけて来る。こうして、「団地妻」の姉が住む「文化住宅」の茶の間で四人姉妹が揃い踏みするのであるが、長女(芦川いづみ)は、何故か灰色のスカートに黒色の上着を着ている。彼女は、二十歳代末の年齢であり、恐らくは大きな恋愛体験もなく、何か十歳も年上でありそうな、しかも、うだつが上がらなそうな旦那(内藤武敏)と三年の結婚生活を過ごしていた。既婚女性である長女が黒地の服を着ることには、未婚女性が羽織る派手な振袖に対して、既婚女性が身に付けた地味な留袖は黒地が基本という着物着用のマナーがここで働いていたのであろうか。

 という訳で、映画の冒頭で羽田「国際」空港(成田空港は未だ存在していない)で四発プロペラ機から降りてくる三人の妹たちは、それぞれ、次女(浅丘ルリ子)が赤い色の服を、三女(吉永小百合)が水色の服を、そして四女(和泉雅子)が黄色の服を着ており、このカラー・コーディネーションに何か「思惑」があるのではないかと筆者は勘ぐりを効かせた。

 性格が異常に明るく、本作でのコメディアン役を演じ、所謂「新人類」の先走りとも言える「現金な」四女は、その明るさの故に、黄色なのであろうか。黄色は、黒に対して最も明度の差がある色である。一方、結婚適齢期のど真ん中の次女は、羽田空港で知り合った年下の学生に言い寄られる。この外国車を乗り回す「坊ちゃん」は、にわか成金で下劣な成金趣味のブルジョワ家庭の息子である。その「対抗馬」が、次女の年下の幼馴染で、東京ではTVニュース会社のキャメラマンとして働いている次郎(浜田光夫)である。ブルジョワ対プロレタリアートの二項対立の中で、愛を求める次女は、故に、愛の色・赤を纏う訳であろう。そして、この時未だ19歳の吉永が演じる三女は何故に水色か、この色のシンボライズするものは何か。(映画の終盤の雨の日のシーンでは、次女が赤い傘を、三女が青い傘をさす。)

 まず、この映画での吉永のヘアスタイルが、他の三人とも比べて、個性的である。髪の長さは本来は長いのであろうが、こめかみ辺りはそのまま後ろでまとめてあるらしい。とは言え、その髪の一部をカールさせて耳の周りをぐるりと囲むようにもさせてある。一方、額の部分の髪は、額を丸出しにするようにして、ここの部分だけオールバックにし、髪を後ろに束ねている。しかも、その上には黒のリボンを併用して付け髪を載せて、後頭部をより高く見せている。19歳の女性の髪型にしては、古風と言えば、古風と言えるが、何れにしても、本人の複雑な感情を反映したようなヘア・スタイルである。

 父親っ子である彼女は、大阪で模型店を営む父(伊藤雄之助:圧倒的存在感あり)を、二年前に母親が亡くなった後は母親代わりに世話してきた。彼女は、このようにして家事を切り回し、店番もし、父親を助けてきた存在であった。その父親に、京都生まれの美人の後妻が来たことから、自らの役割にライバルが登場し、自己の存在意義に疑問を感じたのであろう。これが、彼女が家出をする動機であった。

 ここら辺の三女の気持ちの錯綜は、映画の中盤で、今度は父親自身が大阪の家を家出して、東京にやってくるくだりで明確になる。父親は、単なる夫婦喧嘩なのであるが、後妻から「精神的迫害」を受けたと誇大に言って、家出してきたのである。それをただただ喜んで自分を頼りにして父親が東京に出て来たと決め付けた三女しずか(この名前も「静御前」を思わせて古風である)は、東京で父親の面倒を自分が見ると言い張る。「だらしのうたって、我儘かて、女癖がわるかったて、出世せいかって、酒飲み屋かて」、亡くなった妻の枕元で一晩中泣いていたそんな父親をしずかは好きなのである。姉妹と口喧嘩をした後、シーンが変わって、しずかは父親とある埠頭を歩きながら話しを続ける。しずか以外の娘達から諭されて、しずかの説得にも関わらず、自分が好きで一緒になった後妻の元に戻ると言い出す父親に、がっくりするしずか。その二人を捉えながら、カメラは俯瞰位置に駆け上る。これは、しずかの精神的な「親離れ」が決定的になった瞬間であり、それを視覚化したカメラワークである。(撮影監督:板橋梅夫)

 結局、大阪にその日の夜行で帰っていった父親を恐らくは見送ったしずかは、自分のアパートには帰るに帰られず、次女の恋人であるが、前から心に留めていた次郎の下宿を訪ねていく。前に志賀高原でスキーをした時に、雪に嵌まって抜け出せなくなっていたしずかを次郎が助けてくれた。その時から、しずかにとって、そういう庇護をしてくれる父親的存在に次郎はなっていたのであり、この感情は、自分が父親を世話したいという気持ちと表裏一体のものであったのであろう。こうして、次女を巡る、学生とニュース・キャメラマンの三角関係から、今度は、ニュース・キャメラマンを巡る次女としずかとの秘められた、しずかから見れば「忍ぶ恋」の三角関係にフォーカスが予想通りに移っていく。なにせ、日活青春映画のゴールデン・コンビと言えば、吉永・浜田である。愛される代償を求める次女に対して、三女しずかは、愛される代償を求めず、ただひたすら自らが愛する「純愛」を体現する存在なのである。どこまでも透明で純情な愛、これを象徴する色は、水色しかないのではなかろうか。彼女は、東京14:00に急行「よど号」で出発した次郎を追いかけて、飛行機で大阪に飛んだ。列車よど号は、大阪に21:30に到着するからである...

 このように、本作は1960年代半ばの日活青春映画で、内容もつまらなそうな正月上映用のサービス満点の恋愛映画である。しかし、所々に隠された、当時の日本社会への皮肉を見逃してはならないであろう。脚本は、東宝の専属脚本家である井出俊郎が、日活のためのオリジナル脚本ということで、「三木克巳」と偽名で書いた作物である。

 長女の夫の平凡さは、当時のサラリーマン稼業に対する皮肉であろう。次女に言い寄る「ぼんぼん」たる学生の家庭の、誇張された成金趣味は、高度経済成長期ににわか成金になった連中への警鐘であろう。更に、次女の家出の動機は、空気の汚い大阪で鼻の穴をま黒にしてあくせく働いていてもしょうがない、そんな生活に飽き飽きしたからであった。そして、東京に出てからは、窓の外を見て、四女も、東京の空気も汚いわねえと呟く。「四日市ぜんそく」の問題や環境汚染が野放しになっていることの環境問題が未だ一般民衆にははっきりと意識されていなかった時期である。制作年の1964年と言えば、第一回東京オリンピック大会の年でもある。撮影自体は、前年の歳末から翌年の初春頃であろうか。オリンピック大会の開催が同年10月10日からであったから、上映は、これを受けてのものとなり、作中に出てくる、開通したばかりの東京モノレール、出来たばかりの国立代々木競技場、首都高速などのシーンを観衆も「ああ、そうだった。」と改めて見直したことであろう。2025年の現代から見れば、1960年代半ばの、市電が走っている銀座通りや有名デパート・松屋店内の吹き抜けの建物の構造などは、歴史的価値のある映像風俗資料となっている。

 また、映像ということであれば、浜田がTVニュース・キャメラマンという役回りでもあり、映像制作の点でも本作は凝っている。回想部分をまず画面の左か右の四分の一位を切り取って出し、それを拡大して回想部分の画面全体に持っていく技術(その他にも画面を半分や四分の一に区切り、その部分に別の画像を入れる技術、次郎が撮影したことになっている場面を映画の画面中央に入れる技術など)、ヘリコプターによる空撮(東京タワーなど)、車上にカメラを載せての移動撮影から始めて、次女がデパートで販売担当しているKodak社の「インスタマチック」の存在(映画内コマーシャル)、更には、次郎が下宿しているのも、D.P.E店であり、カメラ文化がこれ程までに普及していることなどが本作では何気なく語られている。

 最後に、映画の序盤、姉達に内緒で四女が勤めているという「アルサロ」という言葉が気になったので、調べてみたことを記して、筆を置こうと思う。「アルサロ」とは、「アルバイト・サロン」の略語であるそうで、「アルバイト」はドイツ語から、「サロン」はフランス語から持ってきた合成語である。「サロン」は、風俗店にも使われる言葉で、「アルバイト」は、「学生アルバイト」などでお馴染みの言葉であろう。つまり、「キャバレー」や「クラブ」にいるプロの接待嬢ではなく、アルバイトで雇われた素人の接待係りをお店に出す、そういう風俗店のことを言うのである。しかも、この言葉は、主に関西で使われたということで、大阪で育ったという四人姉妹には、それが何であるか、すぐに理解できたのである。今でもこの「アルサロ」が存在するのか、筆者には定かではないところである。

2025年6月18日水曜日

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:

 「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。(ここでカメラは城を完全に斜め下から見上げるような視角を取り、同時に城は陽が射さして急に明るくなる。)爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 この口上が終わるや否や、画面は音楽と共に動転して、「青い山脈」の赤い題字が登場する。併せて、背景は後方に山々を見渡す場面となる。そして、あの有名な、敗戦直後のヒット歌謡曲の一曲『青い山脈』が流れ始めるのである。

 四番ある歌詞の内、三番は敗戦直後を思い出させるので本作ではカットされてあるが、最初は男女によって交互に歌われるこの主題歌(作詞:西條八十、作曲:服部良一)は、希望や夢を謳い上げる。その中でも二番が本作との関連で内容的に見て面白い。

(二)
 古い上着よ さようなら
 さみしい夢よ さようなら
 青い山脈 バラ色雲へ
 憧れの 旅の乙女に
 鳥も啼く  

四行目の「憧れ」が「旅」に掛かるか「乙女」に掛かるかは、はっきりしないのではあるが、ここは、旧習を捨てて、バラ色の未来に向けて旅立っているのは、憧れの若き乙女であると理解できなくもない。であれば、この乙女像は、映画の冒頭で語られた「封建的」女性像とは異なるものであり、このようなコントラストに照らし出されて、ストーリーは展開する。

 この伝統的城下町には、ある私立の女子高等学校がある。この女子校は、約80年の伝統を誇る女学校であり、その名も「貞淑女子高等学校」という。「貞淑」とは、「貞操が固く、心が清く、しとやかである」という意味であり、まさしく、この伝統に則った女子教育が行なわれている女子校なのである。この学校には、東京の女子大を出たインテリの若い女教師・島崎先生(芦川いづみ)が教職に就いており、三年生のAクラスを担任している。このクラスには高校二年の時に男女共学校から転向してきた寺沢新子(吉永小百合)がいる。男女交際にもオープンで積極的な寺沢は、同じクラスで茶髪の眼鏡っ子・松山浅子(進千賀子)が書いた偽のラブレターをもらい、それを担任の島崎先生に見せて相談する。母校を愛すると言いながらの、人を嬲りものにしようとするこの卑劣な行為を学級ホームルームで問題化した島崎先生に対して、松山を中心とするグループはクラス内で相談し、次のような要求を黒板に書き付けたのであった:

一.私達の愛校の精心を悔辱したことを取り消して下さい。

二.生徒の風記問題は生徒の自治に任せて下さい。

三.母校の伝統を尊長して下さい。

それでは、この三つの要求を読んで、四つの間違いを見つけて下さい。

 遅くとも既に1960年代の前半から始まっている生徒の国語能力のレベル低下はさて置き、愛校心と母校の伝統を強調する一方で、生徒の自治が主張されているという点で、これは面白い対照であり、戦後の民主的教育が、敗戦後18年も経つと、ここまで浸透しているのかと、筆者には一つの驚きを禁じ得ない。

 本作の同名原作は、通俗大衆作家・石坂洋次郎が『朝日新聞』に連載小説として1947年に発表したものである。同年には、教育基本法と学校教育法が施行されたばかりであり、新制中学一年を除いては、旧制の高等女学校(五年制;原作の寺沢新子は高等女学校五年生で、年齢17歳)と旧制の高等学校(三年制であれば、修了時で二十歳の男子生徒)が未だに存在していた時期である。このような過渡期における高等女学校生徒と旧制高等学校男子生徒との間の男女交際を「新しい民主主義の息吹き」の下、これにフモールを込めて描いた作品がこの原作であった。

 日本の「ヌヴェル・ヴァーグ」の旗手の一人大島渚は、ウィキペディアによると、その「通俗的良識の甘さ」を批判しながらも、以下のように、自分が15歳の時にこの作品を読んだ時のことを回想している:

 「この戦後最初の新聞連載小説が、私たちに与えた新鮮な感動については、それを実際にあじわった人間以外には、いくら説明しても、それを実感として伝えることはできないだろう。(中略)私は今もなお『青い山脈』の文章のひとつ、ひとつ、ことに登場人物の会話のひとつ、ひとつを昨日の記憶のようになまなましく、生理的に思い出すことができる」

 更にウィキペディアによると、文芸評論家の高橋源一郎は、主人公六助の友人で、庭球部のマネージャーであり、しかも、兵役経験者で高等学校一の読書家である「ガンちゃん」こと富永安吉の存在に注目している。この役を本作では、若い高橋英樹が演じている。この「ガンちゃん」は、大学の文学部二年生で、ラグビー部に所属しており、彼は、本作のクライマックスに当たるPTA役員会の席上で、様々な賢人の箴言を引用して、会議の進行に影響を与えようとする、少々ユーモラスな役回りである。後年の高橋には余り予想できない役柄である。

 さて、この原作は、既に1949年に一度映画化されており、フォーカスは、島崎先生を演じた原節子に当てられている。1957年版では、島崎先生役を司葉子が、寺沢新子役を雪村いづみが演じている。この版でも、脚本は、49年版同様に、東宝の代表的脚本家であった井出俊郎が書いており、このことは、三度目の劇映画化である本作(但し、製作は日活)においても同様であった。もちろん、井出も時代に合わせて、「吉永小百合と言えば西河監督」と言われるくらい「吉永小百合もの」を1960年代に撮った西河克己監督と共に、ストーリーを「現代化」しなければならない部分(例えば、アマチュア無線によるPTA役員会の実況中継など)があったり、更には、ストーリー自体のフォーカスを、島崎先生ではなく、吉永・浜田の日活青春映画「ゴールデン・コンビ」に当てる必要があったりする違いがあるのではあるが。そして、もちろん、明朗快活な青春映画として、本作も「健康な」ハッピーエンドで終わる。

 このように、本作が観てすぐ忘れてもいいような日活青春映画の一本であるように思われるのではあるが、筆者は、上述の、高橋英樹演じる「ガンちゃん」が繰り出す、時には場違いな、時には、当を得た箴言の数々と、彼が学生服を着てわざと真面目くさって行なう、必ずしも理路整然としたものではない演説を聞いていて、これを2025年の現代日本の現状と突き合わせてみなざるを得なくなり、若干暗い気持ちになったのも正直なところである。

 既に別の場面でソクラテスや孔子を引用していた「ガンちゃん」は、PTA役員会の席上で、指名もされないのに、すーと立って、次のような箴言をぼっそりと言う:
ゲーテ曰く、新しき真理に最も有害なるものは古き誤りである。
セネカ曰く、思慮深き者はたやすく怒らず。
ピタゴラス曰く、怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。

 そして、島崎先生が偽のラブレターを学級ホールルームで問題化したことにより生徒達の反発を招いた点で、この彼女の行動が正当であったかをPTA役員会が議論をしている最中、文学部二年生の「ガンちゃん」は次のような演説をぶつ:

 「そもそも現代社会における性道徳の混乱と頽廃とは、我々日本人に課せられた必然的、歴史的宿命でありますが、近頃、その一面のみを誇大視して歴史を逆行させようとする動向が見え始めております。世に復古調とか、リバイバル・ムードなどと言って、教育勅語を復活させようとする傾向などは甚だ遺憾であります。かのキンゼイ博士やバン=デ=ベルデ教授の研究を待つまでもなく、アダムとイブの昔より我々男性と女性の健康なる結合こそ、より健全なる社会の発展を齎すものでありまして、感情も意思も生理的欲求も率直に表現できなかった過去の生活に逆行させようとする時代錯誤的思想は絶対に遺憾であります。終わり!」(映画の1:14分代から約70秒間)

 原作では旧制高等学校一の読書家と言われた「ガンちゃん」に劣らない読書家ぶりを本作の「ガンちゃん」も発揮している訳であるが、「キンゼイ博士」とは、1940年代末から50年代に掛けてUSAの白人男女を対面調査して「キンゼイ報告」という形でその性生活の在り様を書き上げた、元々は昆虫学者で、この報告を以って、性科学の分野の地平を開拓した人物である。

 また、「バン=デ=ベルデ教授」とは、テオドール・ヘンドリック・ファン・デ・フェルデ(Theodor Hendrik van de Velde)のことで、彼はオランダ人産婦人科医として1926年に『完全なる結婚』なる本を発表した人物である。オランダ語で書かれたこの本は、世界中で翻訳され、結婚生活と性生活のマニュアル本となったが、日本においては、ウィキペディアによると、既に1930年に抄訳本が出されたものの発禁となり、戦後すぐの1946年に完訳本が、同年にはまた抄訳廉価版が出版されたことから、この抄訳本が二年連続のベストセラーとなっていた。この本は、更に本作と同年の63年には再刊されている具合で、本作の脚本家井出俊郎も、つとに少なくともこの本の題名は知っていたはずであろう。

 何れにしても、教育勅語の復活などという「時代錯誤的思想」復活の問題は現代政治的には2010年代にも政界に上がってきたことであり、教育基本法の「改定」も含めた教育現場での現状を鑑みるに、本作に描かれた女性の自立への賛歌を、憧憬と哀惜の念を以って今更ながらに観たのは筆者のみであろうか。

 最後に、映画の冒頭にあった落城の逸話について、調べたことをここに書いて、筆を置こうと思う。本作のロケ地が滋賀県彦根であると知って、彦根市について調べてみると、映画に出てくる海沿いの場面だと思われた箇所は、琵琶湖であることに気付いた。映画に登場する木造の校舎は未だにあるのか定かではないが、彦根市には、城下町としての面影が残っており、木造り平屋の町家が「城町」という地域に今でも保存されているようである。左の口角の下にホクロを付けて南田洋子が演じる気っ風のいい芸者・梅太郎の置き屋があるのもこの「城町」の一角であろう。

 映画の冒頭に登場するお城が、彦根城で、ここからは琵琶湖や鈴鹿山脈が見える。「青い山脈」とは本作では鈴鹿山脈のことかもしれないが(或いは伊吹山脈か)、同じく井伊家彦根城から見えるのが、佐和山で、ここには佐和山城があった。映画の冒頭で語られる戦国時代の落城の逸話は、実は、この佐和山城での出来事であった。そこで、手っ取り早いので、佐和山城の戦いをウィキペディアから引用する:

 「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」

 これを映画冒頭の口上と比較すると、口上は次の通りである:

 「慶長五年八月十八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 つまり、まず、日付が異なる。「八月十八日」とは、九月十七から十八に掛けてのこと、「敵の数三万八千」は、実は、一万五千、味方の数は、ほぼ同数、しかし、城主、つまり石田三成は、関ヶ原の戦場に出ていて、留守であった。この戦いで石田家は滅亡したと言ってよいであろうが、落城したのは、映画に映っている彦根城ではなく、関ヶ原の戦いの「裏切者」小早川秀秋を先鋒とする徳川勢に攻め立てられた佐和山城であったのである。

 と、まあ、我々が本作冒頭で聴いたのは、芸術の自由を謳歌した「創作」講談(或いは、「歴史改竄」)であった訳であるが、筆者にはこの講談、むしろ会津城陥落を思い起こさせていた。

2025年6月10日火曜日

幻の光(日本、1995年作)監督:是枝 裕和

 本作、画面の構図と色彩感覚がいい。画面の構図は、監督・是枝裕和の才能であろう。色彩感覚は、むしろ撮影監督・中堀正夫の持ち味であろうか。

 原作は、神戸出身の作家・宮本輝の1978年発表の同名小説である。筆者は原作を読んでいないので、本作のストーリー(脚本:荻田芳久)が原作のそれとどれほど異なるのか分からないが、関西出身の筆者の友人の言によると、本作の前半のストーリー展開の地は、兵庫県の尼崎ではないかということで、何れにしても、どうも社会の底辺で生きている人間達が住んでいる地区のようである。ウィキペディアによると、実際、原作者・宮本は1957年から小学校時代を尼崎で過ごしており、土地柄は肌身で感じていたはずである。

 そして、本作では、まず、主人公・ゆみ子の少女時代が描かれ、小学生と思しき彼女の体験が語られる。それもあるのか、カメラの視点の高さが、子供の背の高さに近いように思われる。しかも、ここでは、その子供の視点が路地の一方から他方へ抜けるように見ているような画面構成が多用される。この点、筆者には名匠小津の特徴的画面構成を思い出されたが、面白いのは、その路地の出口が、暗い画面の手前に比べて異常に明るのである。正に、トンネルを抜ける所が明るいという、あの「眩しい」感覚である。

 このトンネルの構図は、再婚してゆみ子が能登に住むようになり、ゆみ子の息子が相手方の夫の連れ子の娘と一緒に遊んでいる時にも出てくる。カメラはトンネルの手前に据え置かれたまま、血の繋がらない姉弟は、暗いトンネルの中に入っていく。トンネルの奥は明るく、能登の山野の緑色や黄緑色がこちら側からも見え、その色彩の景色は、トンネルの中にある水溜まりにも反射している。ゆみ子の子供時代の構図とは異なり、ここでは色彩に溢れ、しかも、トンネルの奥の自然の景色の一箇所が光っており、そこからトンネルの中を通って、それがカメラまで届き、更に画面を見る者にもまた射通すようである。これもまた、タイトルの通りの「幻の光」であろうか。

 もう一つ、構図的に印象的な場面は、同じく姉弟が自然の中で遊んでいる場面である。カメラが山地に段々畑状に整地された田圃を撮っている。田圃には既に水が溜められてあり、その水は鏡のように空を静謐に反射している。その田圃の向こう側は、日本海である。この構図の中に、画面の中央を左から右に抜けるように通っているあぜ道があり、ゆみ子の息子がたどたどしくもスキップするようにあぜ道を通って画面の左から入ってくる。その男の子を追いかけるようにして女の子も付いていく。あぜ道の反対側に男の子が転げ落ちるのではないかとハラハラしながら観衆は見守っているのであるが、二人の姉弟は無事に画面の右に抜けていく。是枝監督は、長編劇映画第一作目から、子役を使うのが上手いのである。

 筆者が本作の構図と色彩に圧倒されたのは、本作の終盤の、ある一シーンである。傷心に駆られたゆみ子が外に佇んでいると、ゆみ子が住む村で死者が出たのであろう。その死者を弔う葬列の一行が、小雪が降る中、彼女の近くを通り過ぎてゆく。すると、ゆみ子もその葬列に釣られて、間隔を置いてその後を付いてゆく。時は、既に夕暮れ時であり、空は夕暮れの群青色である。日本海の暗い青色が水平線の所で空の群青色と邂逅する。この大自然の中を葬列の闇が画面の中央の右から左へと水平線に沿うように抜けていくのである。そのうしろを一つの黒い人影が追いながら。壮大な自然の中で人の生の「終着点」を見ながら、ゆみ子は、自らの意識の中で極大化されていた心の傷を相対化できたのであろうか。

 是枝監督は、何故、自分の劇場映画デビュー作に、中堀正夫撮影監督を起用したのであろうか。両者の映画人としての経歴を見ても、その接点が見当たらないのではあるが、ここで中堀撮影監督の経歴を簡単に述べておく。

 中堀撮影監督は、1943年に東京で生まれたキャメラマンである。父の影響を受けて、写真家になるつもりで日本大学藝術学部に入学するが、その在学中に大学の先輩の誘いを受けて、特撮を手掛ける円谷特技プロダクションの現場に参加することになる。大学卒業後は、就職難であったこともあり、『ウルトラマン』の制作準備に関わることとなり、ちょうど人手を求めていた円谷プロダクションへ撮影助手として入社する。こうして、同じく『ウルトラマン』の制作に関わっていた、「奇才」実相寺昭雄と知り合うこととなり、中堀は、実相寺組撮影監督となるのである。テレビ番組演出、テレビ映画監督畑出身の実相寺監督が、長編劇映画第一作目として1970年に世に問うた作品『無常』は、ロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞したが、この作品の撮影を共同担当したのは中堀であった。こうして、中堀は、1970年代、80年代のアヴァンギャルド映画作家の一人たる実相寺監督の奇抜な画面構成に耐え得る撮影技術を磨き、実相寺が亡くなるまで、十数本の作品を撮ることになる。本作が制作された1995年の三年前の1992年に、中堀は、江戸川乱歩原作の『屋根裏の散歩者』を
実相寺監督と撮っているが、ウィキペディアの経歴には、彼と是枝の「交差点」は見え出せず、中堀が本作の撮影に関わることになる。そして、本作により、中堀は、ヴェネツィア国際映画祭における特別賞に当たるオゼッラ金賞(Osella d'oro:現在は存在しない賞)の撮影賞を受賞する。

 それでは、是枝裕和監督の映画人としての経歴を見てみよう。1962年に東京で生まれた是枝は、物書きになろうと、早稲田大学第一文学部文芸学科に入学し、ここを卒業する。母親譲りの映画好きから在学中から映画館に足繁く通い、卒論は創作脚本であった。大学卒業後の1987年に番組制作会社テレビマンユニオンに入社し、ここでテレビ番組制作の下積み生活を過ごす。こうして、是枝は、フジテレビのドキュメンタリー番組『NONFIX』(命名は、「ノンフィクション」からではなく、「固定されていない」という意味)で番組を担当するようになり、1991年に『しかし…福祉切り捨ての時代に』を制作する。生活保護を打ち切られた女性と、水俣病和解訴訟で患者と国の板挟みとなったある厚生官僚の、二つの自死をテーマとしたこの番組は早くもギャラクシー賞優秀作品賞を受賞し、是枝は、同じ番組の枠組みで、『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』(1991年)、『公害はどこへ行った…』(1991年)、『日本人になりたかった…』(1992年)、『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』(1993年)、『彼のいない八月が』(1994年)と立て続けに発表する。

 是枝は、これ以外にも別の放送局の別の番組の枠組みでドキュメンタリー映画を制作するのであるが、テレビマンユニオンに在籍のまま、映画監督してデビューすることを決め、本作を制作することになる。ここで、とりわけ注目したいのは、恐らく是枝がデビュー作品を何にするかを思案していたであろう時期の、本作発表の二年前に出された『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』である。

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)は、台湾ニューシネマの代表的監督の二人である。本作の音楽を担当しているのが、 陳明章と同じく台湾人音楽家であり、是枝自身、家族の縁で台湾とは関係があるのである。是枝の祖父は、奄美生まれで、そこから台湾に渡り、是枝の父はその関係で台湾で生まれている。そう言う背景を是枝が持っている訳で、その彼が、1980年代、90年代の台湾ニューシネマの動向に映画人として興味を持たない方が可笑しい程である。そして、ウィキペディアの日本語版での「台湾ニューシネマ」の特徴を読んでみると、正に、本作を含む是枝監督の映画作りの方針がここにまとめられているように筆者には思われる。それ故、少々長いのであるが、それをここに引用しようと思う:

 「台湾ニューシネマに属する作品群とそれまでの台湾映画とで最も異なる点は、その写実性にある。従来の台湾映画が政治宣伝的色彩国策映画や、現実社会とは遊離したいわゆるヒーローもの中心だったのに比べ、台湾ニューシネマの作品には、台湾人の日常生活や台湾社会が抱える問題などに直接向き合い、それを丹念に追うことを通じて、ときには台湾社会の暗部にまで光をあてるといったような内容の作品が多い。

また、黄春明など、いわゆる郷土作家の文芸作品を積極的に題材に取り上げていること、それまで公共の場での使用が禁じられてきた台湾語などの方言を台詞に使用するなど、画期的な手法を取り入れていることなども大きな特徴である。

その他、ストーリー展開がはっきりしないこと、スローテンポで、抑揚を抑えた展開のものが多いことなども特徴として挙げることができる。」

 という訳で、台湾ニューシネマの特徴を箇条書きにすると、①写実性、②日常性、③社会問題との関り、④郷土性、⑤方言の使用、⑥ストーリー展開の曖昧性、⑦スローテンポの語り の七つの特徴をここで拾い上げることが出来る。そして、面白いことにこのすべての特徴が、少なくとも本作における作品の特質と合致するのではないか。

 写実性は、是枝がドキュメンタリー映画畑出身である点で、その制作態度の前提中の前提と言っていい点であろう。幼馴染同士が結婚して子供をもうけるという日常性は、夫の理由が分からない自殺で以って一挙にドラマ化する。こうして、自殺という社会問題がストーリー展開に関わってくる。しかも、関西弁を話す主人公が後妻に入って、日本海側の能登に行くことで、別の風土の中で、自殺された妻が自分の心の傷を見直すことになる。自然の中で遊ぶ子供達の姿を入れたり、能登の風物詩を描いたりしながら、ゆっくりとストーリーは展開する。しかし、物語りは、主人公ゆみ子が自殺された者の心の痛みにどのような決着を付けたかは観ている者にははっきりと分からないままで、彼女の、義理の父親との何気ない会話で終わる。

 是枝は、本作以降、自作の劇映画には自ら脚本を書く姿勢を貫く。編集も2023年制作の最近作『怪物』以外は、自分で担当している。そして、彼は、長編劇映画第二作目『ワンダフルライフ』(1999年作)で自分の組の撮影監督を見つけたようであった。山崎裕(ゆたか)である。しかし、作品賞、監督賞を数々受賞している是枝作品で、撮影賞(日本アカデミー賞)を獲得することになるのは、本作以来、『万引き家族』(2018年作)と『怪物』(2023年作)の二作を待たなければならない。この二作の撮影監督は、近藤龍人(りゅうと)である。故に、劇場映画デビュー作に、中堀正人を人選したことは、誠にラッキーであったとも言えるのである。

 映像素材は、Fujiフィルムで、自然の風景の撮影に適した素材であり、撮影機材は、Arriflex 535, Zeiss Super Speed Lensesである。さすがは、Zeissレンズで、本作の映像は、誠に鮮やかに撮られている。

若草物語(日本、1964年作)監督:森永 健次郎

 映画の序盤、大阪の家を飛行機(これがコメディタッチ)で家出してきた、四人姉妹の内の、下の三人が、東京の一番上の姉が住んでいる晴海団地(中層の五階建て)に押しかけて来る。こうして、「団地妻」の姉が住む「文化住宅」の茶の間で四人姉妹が揃い踏みするのであるが、長女(芦川いづみ)は、何...