すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには見劣りする。)
続けて、次の挿入文が流れる:
「沖縄敗れ 日本の空と海は 米機動部隊に征圧された」
「終戦近く」
(つまり、沖縄戦が終わった45年6月下旬以降のことになる。)
こうして、タイトルロールは、『最後の戦斗機』という題名から始まる。背景は、雲の上の風景で、最初の「雲の彼方に散った若人」に合わせたようであり、BGMは、ハミングによる、まるで鎮魂歌を聞いているかのようである(音楽:牧野由多可)。(作中では多くの軍歌、例えば、「定番」である『同期の桜』や、学徒動員による飛行予備学生が多い訳であるから、当然に学生歌『デカンショ節』などが作中歌われ、聞こえる。)
こうして、タイトルロールは、『最後の戦斗機』という題名から始まる。背景は、雲の上の風景で、最初の「雲の彼方に散った若人」に合わせたようであり、BGMは、ハミングによる、まるで鎮魂歌を聞いているかのようである(音楽:牧野由多可)。(作中では多くの軍歌、例えば、「定番」である『同期の桜』や、学徒動員による飛行予備学生が多い訳であるから、当然に学生歌『デカンショ節』などが作中歌われ、聞こえる。)
本作の原作は、谷本敏雄作の『黒い河』により、脚本は三人掛かりである。タイトルロールは、監督名「野口博志」で締めくくられるが、背景は、雲上を飛ぶ五機編隊(先頭を一機が要となり、後方に扇状に開く形)の戦闘機になっている。(BGMは、『海行かば』である。)
太い機体からそれは、零戦ではないことはすぐに分かったが、シーンが変わって、それは二人乗りの日本の飛行機(二人乗りであるところから、戦時中の艦上爆撃機「彗星」たり得るが、戦後は破壊されているであろうから、これは、米軍のお払い箱のプロペラ機であろう)であることが分かる。一機は、機体が故障したのであろう、次第に戦列から離れて、高度を低めていく。他の四機は、更に、前進して、雲間から米機動部隊を発見すると、右に旋回して、突っ込んでいく。実写場面となり、日本機が米空母などに体当たりする場面が映し出されたり、稚拙な特撮場面が見られたりする。
故障機からは故障の連絡が本部の航空基地に入るが、司令官・関根少佐(西村晃:自身に特攻隊員であった実体験あり)は、「特攻は、必死必殺であり、帰還はあり得ない」と言って、故障機の帰還を拒んだところから、故障機は自爆せざるを得ないことになり、犬死は無駄であると考える分隊士・白井中尉(葉山良二演じる、本作の主人公)は、少佐に抗議していたのである。武士道の古典『葉隠』にも、犬死はするなと書いてある。
「国民精神総動員」と書かれた全体主義国家のスローガンが街中に見られる中、恐らく南九州(鹿児島か?)にある海軍航空基地がある町には、海軍士官倶楽部「ちよもと」があり、この日は、新司令官関根少佐の着任を祝しての宴会が催される。関根は、フィリッピン戦線から「転戦」してきた佐官級将校で、断末魔に喘ぐ帝国海軍の最後のあがきである「特別攻撃」で、「必死必殺」の標語を以って「海軍飛行予備学生」を特攻隊員として死地に送り出す軍人である。彼の配下に、第二〇三海軍航空隊があった。
この頃には不沈艦大和も撃沈されており、連合艦隊なるものは帝国海軍には最早存在しておらなかった。故に、母艦海軍航空隊なるものも存在しておらず、陸上基地航空隊のみしかあり得なかったのである。第二〇三海軍航空隊は、元々は、戦闘機乗りを養成する「厚木航空隊」が44年二月に改編されて出来た航空隊で、それ以降、戦闘航空部隊として各地を転戦していた。翌年の二月に編成された宇垣纒中将率いる第五航空艦隊に、第二〇三海軍航空隊も編入されるが、それまで黙認という形で行なわれていた「特攻」が、艦隊編成の基本方針としてここにはっきり謳われることとなった訳で、宇垣は長官訓示で全員に特攻の決意を全艦隊に徹底させていた。
海軍航空隊は、航空「艦隊」を構成する航空「戦隊」を形作る一つの単位である。そして、一海軍航空隊は、幾つかの航空「分隊」で編成されており、一航空分隊は、普通は、九機で成り立っている。更に、一航空分隊は、三つの班に分かれ、それぞれを中尉または少尉、更には、他国の航空部隊では余り見られないのではあるが、兵曹長が指揮するのである。映画によると、鹿児島の鹿屋にある航空基地には五航艦の司令部があるようであり、そこから、補充の戦闘機が五機、送られてくる。こうして、五航艦の参謀も特攻作戦の督励に移動してくる中、敵艦載機の基地攻撃で、「同期の桜」たる戦友が機銃で撃たれて戦死すると、負傷により特攻隊員から一時外されて情報係りとなっていた白井中尉は志願して、特攻出撃隊員となる。
しかし、搭乗していた戦闘機が故障して戦列を離脱した白井(頭に締めた鉢巻きには「八紘一宇」の文字が見える)は、海上に不時着して、同乗していた二兵曹は溺死したのにも関わらず、白井は救助されて出撃後の一週間後に、基地に帰還する。白井は、特攻の理由を以って、二階級特進の「軍神」となっていたのである。「必死必殺」を豪語する関根少佐は、元々「犬死はしない」と誓っている白井中尉を謹慎処分にする。早速、次の出撃命令を受けるものの、今回も搭乗機の故障で帰還した白井には、航艦司令部も知るところとなり、銃殺の刑が科せられるのではないかというところまで、事態はエスカレートする。
このように錯綜する中、結局、白井は、自分の大学の先輩で航空隊の副官をやっている戦友・遠藤中尉(大坂志郎が、後輩と上官の間に立つ者の苦悩を好演)の「介添え」を受けて、二人で最後に残っていた戦斗機に乗って、笑顔で(!)雲の彼方に飛んでいったのである。
さて、このように「男の戦時世界」が描かれる一方で、それに関わる「女の戦時世界」も描かれる。海軍士官倶楽部「ちよもと」は、その名の通り、海軍士官が訪れる、商売上手な女将(北林谷栄)が営む料亭であるが、ここには住み込みの芸者が五人ほどおり、その中の一人にあき子(渡辺美佐子が好演)がいた。彼女は、気が強くて粋のある芸者で、「ちよもと」に来る特攻隊員とは枕を一緒にして、出撃前の特攻隊員に「筋金」を入れてあげる、言わば、内地の「慰安婦」であった。ふとしたことで白井中尉と知り合った彼女は、誘惑しても乗ってこない白井の潔癖さに、普通の男にはない魅力を感じ、白井を好きになってしまう。そして、最後には、銃殺になるかもしれない白井を思い、彼のために命を落としてしまう哀しい存在である。
他方には、「身体は汚れているが、心は清い」あき子に対して、「身体は病気で冒されているが、心は愛に貫かれた」女性、則子(芦川いづみ)がいる。彼女は、白井が学生時代に知り合った高等女学校の生徒で、二人は愛を誓い合い、白井が軍隊に招集された後も、お互いがそれぞれ記念の対の鈴を持っていることで、遠く離れていても、思っている心ではお互いがすぐ側にいる存在として、愛によって結ばれていたのである。結核で弱っている身体であったが、則子は、虫が知らせたのか、東京から鹿児島まで白井に会いにくる。実は、二人が再会したのは、白井が最初に特攻に出撃する前日で、白井は、そのことを則子に告げることを躊躇したのである。翌日、白井が出撃したことを回りから聞いて知った則子は、そのまま海岸に向かう。そして、あるそりたった岩の上にきりっと立ったままの則子は、じっと海を見つめたままで、シーンはカットされる。(58分台)その後、帰還した白井が、遠藤副官の好意で、則子が書き上げた、以下のような遺書を読む機会がある:
「静かな海原です。則子は、この海のどこかで死んでいった白井さんと同じように海に身を沈めます。もう別れなくてもいい。そして、永遠に別れることのない平和な国で、白井さんと誓った通り、二人で一つの美しい命を生きるのです。ただ、心残りは、貴方のお母様を一人ぼっちにしたことです。お可哀そうなお母様。則子は、遠い海の向こうから白井さんとご一緒にお護り致します。白井さんにお会いしてから、短いけれど、楽しかった数々の思い出、これが則子の美しい人生の花でした。則子は、この美しい花を咲かせるために生まれてきました。そして、その花が散った時、則子の命は燃え尽きてしまうのです。今は何も思い残すことなく、則子は海に入っていきます。海の向こうにいる貴方の所へ。」(78分台から約二分間)
この美しい純愛を引き裂いたのは、戦争である。民族共同体の仮想の中、国家のために死ねと言われ、死ぬには拘泥しないが、犬死はしないという、最後の線での抵抗を示した白井中尉と、彼が自分を思いながら死地に向かい、死んでいったと思い込んだ則子は、白井へのこの世での愛を貫くために、彼が英霊として生きているはずの海の世界へと投身自殺したのであった。
先の「環」太平洋戦争では、この白黒の反戦映画が描いたような悲劇がいくらあったことであろうか。それは、日本人だけではない。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、そして、中国人、東南アジア人にも、戦争による多くの悲劇が起こったのである。そして、この「環」太平洋戦争を引き起こしたのが日本であったことも我々日本人は忘れてはならない。(八十周年目の八月十五日を迎えるに当たって筆者は強く思う。)
太い機体からそれは、零戦ではないことはすぐに分かったが、シーンが変わって、それは二人乗りの日本の飛行機(二人乗りであるところから、戦時中の艦上爆撃機「彗星」たり得るが、戦後は破壊されているであろうから、これは、米軍のお払い箱のプロペラ機であろう)であることが分かる。一機は、機体が故障したのであろう、次第に戦列から離れて、高度を低めていく。他の四機は、更に、前進して、雲間から米機動部隊を発見すると、右に旋回して、突っ込んでいく。実写場面となり、日本機が米空母などに体当たりする場面が映し出されたり、稚拙な特撮場面が見られたりする。
故障機からは故障の連絡が本部の航空基地に入るが、司令官・関根少佐(西村晃:自身に特攻隊員であった実体験あり)は、「特攻は、必死必殺であり、帰還はあり得ない」と言って、故障機の帰還を拒んだところから、故障機は自爆せざるを得ないことになり、犬死は無駄であると考える分隊士・白井中尉(葉山良二演じる、本作の主人公)は、少佐に抗議していたのである。武士道の古典『葉隠』にも、犬死はするなと書いてある。
「国民精神総動員」と書かれた全体主義国家のスローガンが街中に見られる中、恐らく南九州(鹿児島か?)にある海軍航空基地がある町には、海軍士官倶楽部「ちよもと」があり、この日は、新司令官関根少佐の着任を祝しての宴会が催される。関根は、フィリッピン戦線から「転戦」してきた佐官級将校で、断末魔に喘ぐ帝国海軍の最後のあがきである「特別攻撃」で、「必死必殺」の標語を以って「海軍飛行予備学生」を特攻隊員として死地に送り出す軍人である。彼の配下に、第二〇三海軍航空隊があった。
この頃には不沈艦大和も撃沈されており、連合艦隊なるものは帝国海軍には最早存在しておらなかった。故に、母艦海軍航空隊なるものも存在しておらず、陸上基地航空隊のみしかあり得なかったのである。第二〇三海軍航空隊は、元々は、戦闘機乗りを養成する「厚木航空隊」が44年二月に改編されて出来た航空隊で、それ以降、戦闘航空部隊として各地を転戦していた。翌年の二月に編成された宇垣纒中将率いる第五航空艦隊に、第二〇三海軍航空隊も編入されるが、それまで黙認という形で行なわれていた「特攻」が、艦隊編成の基本方針としてここにはっきり謳われることとなった訳で、宇垣は長官訓示で全員に特攻の決意を全艦隊に徹底させていた。
海軍航空隊は、航空「艦隊」を構成する航空「戦隊」を形作る一つの単位である。そして、一海軍航空隊は、幾つかの航空「分隊」で編成されており、一航空分隊は、普通は、九機で成り立っている。更に、一航空分隊は、三つの班に分かれ、それぞれを中尉または少尉、更には、他国の航空部隊では余り見られないのではあるが、兵曹長が指揮するのである。映画によると、鹿児島の鹿屋にある航空基地には五航艦の司令部があるようであり、そこから、補充の戦闘機が五機、送られてくる。こうして、五航艦の参謀も特攻作戦の督励に移動してくる中、敵艦載機の基地攻撃で、「同期の桜」たる戦友が機銃で撃たれて戦死すると、負傷により特攻隊員から一時外されて情報係りとなっていた白井中尉は志願して、特攻出撃隊員となる。
しかし、搭乗していた戦闘機が故障して戦列を離脱した白井(頭に締めた鉢巻きには「八紘一宇」の文字が見える)は、海上に不時着して、同乗していた二兵曹は溺死したのにも関わらず、白井は救助されて出撃後の一週間後に、基地に帰還する。白井は、特攻の理由を以って、二階級特進の「軍神」となっていたのである。「必死必殺」を豪語する関根少佐は、元々「犬死はしない」と誓っている白井中尉を謹慎処分にする。早速、次の出撃命令を受けるものの、今回も搭乗機の故障で帰還した白井には、航艦司令部も知るところとなり、銃殺の刑が科せられるのではないかというところまで、事態はエスカレートする。
このように錯綜する中、結局、白井は、自分の大学の先輩で航空隊の副官をやっている戦友・遠藤中尉(大坂志郎が、後輩と上官の間に立つ者の苦悩を好演)の「介添え」を受けて、二人で最後に残っていた戦斗機に乗って、笑顔で(!)雲の彼方に飛んでいったのである。
さて、このように「男の戦時世界」が描かれる一方で、それに関わる「女の戦時世界」も描かれる。海軍士官倶楽部「ちよもと」は、その名の通り、海軍士官が訪れる、商売上手な女将(北林谷栄)が営む料亭であるが、ここには住み込みの芸者が五人ほどおり、その中の一人にあき子(渡辺美佐子が好演)がいた。彼女は、気が強くて粋のある芸者で、「ちよもと」に来る特攻隊員とは枕を一緒にして、出撃前の特攻隊員に「筋金」を入れてあげる、言わば、内地の「慰安婦」であった。ふとしたことで白井中尉と知り合った彼女は、誘惑しても乗ってこない白井の潔癖さに、普通の男にはない魅力を感じ、白井を好きになってしまう。そして、最後には、銃殺になるかもしれない白井を思い、彼のために命を落としてしまう哀しい存在である。
他方には、「身体は汚れているが、心は清い」あき子に対して、「身体は病気で冒されているが、心は愛に貫かれた」女性、則子(芦川いづみ)がいる。彼女は、白井が学生時代に知り合った高等女学校の生徒で、二人は愛を誓い合い、白井が軍隊に招集された後も、お互いがそれぞれ記念の対の鈴を持っていることで、遠く離れていても、思っている心ではお互いがすぐ側にいる存在として、愛によって結ばれていたのである。結核で弱っている身体であったが、則子は、虫が知らせたのか、東京から鹿児島まで白井に会いにくる。実は、二人が再会したのは、白井が最初に特攻に出撃する前日で、白井は、そのことを則子に告げることを躊躇したのである。翌日、白井が出撃したことを回りから聞いて知った則子は、そのまま海岸に向かう。そして、あるそりたった岩の上にきりっと立ったままの則子は、じっと海を見つめたままで、シーンはカットされる。(58分台)その後、帰還した白井が、遠藤副官の好意で、則子が書き上げた、以下のような遺書を読む機会がある:
「静かな海原です。則子は、この海のどこかで死んでいった白井さんと同じように海に身を沈めます。もう別れなくてもいい。そして、永遠に別れることのない平和な国で、白井さんと誓った通り、二人で一つの美しい命を生きるのです。ただ、心残りは、貴方のお母様を一人ぼっちにしたことです。お可哀そうなお母様。則子は、遠い海の向こうから白井さんとご一緒にお護り致します。白井さんにお会いしてから、短いけれど、楽しかった数々の思い出、これが則子の美しい人生の花でした。則子は、この美しい花を咲かせるために生まれてきました。そして、その花が散った時、則子の命は燃え尽きてしまうのです。今は何も思い残すことなく、則子は海に入っていきます。海の向こうにいる貴方の所へ。」(78分台から約二分間)
この美しい純愛を引き裂いたのは、戦争である。民族共同体の仮想の中、国家のために死ねと言われ、死ぬには拘泥しないが、犬死はしないという、最後の線での抵抗を示した白井中尉と、彼が自分を思いながら死地に向かい、死んでいったと思い込んだ則子は、白井へのこの世での愛を貫くために、彼が英霊として生きているはずの海の世界へと投身自殺したのであった。
先の「環」太平洋戦争では、この白黒の反戦映画が描いたような悲劇がいくらあったことであろうか。それは、日本人だけではない。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、そして、中国人、東南アジア人にも、戦争による多くの悲劇が起こったのである。そして、この「環」太平洋戦争を引き起こしたのが日本であったことも我々日本人は忘れてはならない。(八十周年目の八月十五日を迎えるに当たって筆者は強く思う。)
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