Kientopp55 映画批評 硬派で少々辛口
・内容: 劇映画を中心に邦画、洋画を問わず ・頻度: 不定期、二週間に一本を目指す ・対象者: 本当の映画好き、Cineastさん向け
2026年9月14日月曜日
リヴェンジー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー
20世紀のアフガニスタン戦争は、1979年にアフガニスタンに侵攻したソ軍軍と、USAなどが支援した、アフガニスタンの部族社会に根差すジハード戦士ムジャヒディーンとの戦争であった。十年後の1989年、ソ連はアフガニスタンから撤退するが、その後のソ連の崩壊は、確かに、このソ連の対アフガニスタン戦争での敗退がその遠因であった。
アフガニスタンから追い出された大国は、実は、もう一つある。それは、19世紀の大英帝国で、それは、ロシアの南下政策を恐れて、アフガニスタンをその影響下に置こうとして、インドに駐留していたイギリス軍と東インド会社軍が、アフガニスタン国内の紛争に乗じて、1838年にアフガニスタンに侵攻したことから始まる。このアングロ・アフガン戦争は、三次に及び、1919年にイギリスが、第二次アングロ・アフガン戦争でイギリスの保護国となっていたアフガニスタンに独立を認めることになるが、第一次アングロ・アフガン戦争は、1838年から1842年まで続き、イギリス軍の敗退・撤退で終わる。
この戦いに加わっていた大英帝国陸軍軽歩兵連隊の一つが、本作の主人公Martin Feeneyマーティン・フィーニーが所属していた第88歩兵連隊Connaught Rangersコノート・レインジャーであった。この連隊は、1793年、即ち、フランス大革命中に創設されたもので、Connaughtは、アイルランドの北西部にある地域である。つまり、アイルランド人が徴用されて大英帝国のために海外遠征したことになり、アイルランド人にとっては、イギリスのために戦うことは、自分達がイングランドに支配されている存在でもあり、いくら金のためとは言え、アンビヴァレントな行為であった。1842年に命からがらアフガニスタンから撤退したMartin Feeney達は、インドに戻り、Martin Feeneyは、約五年間外地にいたのか、何れにしても、その後に連隊から脱走して、自分の故郷の地であるConnemaraコネマラに1847年に戻ってくる。しかし、自分の故郷は数年来の大飢饉で荒れ果てており、Martin Feeneyの母や弟は亡くなっていた。戻って間もなく、彼の目の前で甥っ子も銃殺され、義理の妹も姪も、住む家から追い出されて凍死する。こうして、Martin Feeneyの復讐劇が始まる。
アイルランドの地には、既に、12世紀以来、ブリテン島からの侵攻が相次いでいたが、清教徒革命時代のクロムウェル軍が本格的に侵攻して、宗教対立をこの地に招く。クロムウェル軍の目的は清教徒革命に反抗するカトリック教勢力の掃討であった。その後はアイルランド議会も存在し、一応の自治も存在してはいたが、1801年には、アイルランド議会は閉鎖されて、アイルランドは同君連合国の形態で完全に英国の支配下に置かれる。そして、イギリス議会には、アイルランドからの議員が一定枠送られることが制度化される。しかし、イギリス議会に席を持っている議員の大部分は、もはや、アイルランドの地を踏んだこともない、アイルランド系貴族であり、アイルランドには領地があっても、そこの管理は、現地にいる領地管理代理人に任せていた。その代理人の下には、小作人と直接関わり合う仲介人がおり、収穫された穀物や地代の取り立ては、この仲介人が処理していた訳である。穀物は徴収され、地代も払わされる小作人に生きるために残っている食糧はジャガイモだけしかなかった。しかし、恐らく北アメリカからもたらされた病原菌が原因でジャガイモが腐って食べられるなくなる状況が現出した。このような事態は既に何度もヨーロッパを襲っていたが、1845年からアイルランドで起こったジャガイモ飢饉は、1847年に最悪の事態に至り、アイルランドでは、この年を、原題の通り、『Black '47』と呼んでいる。本作は、この大飢饉で亡くなった、当時のアイルランドの人口の12%に当たる約百万人と言われるアイルランド人と、糧をUSAに求めて移民となってアイルランの地を去った人々を想う作品である。故に、本作の邦題は、たとえ、主人公がランボーを思わせ、音楽の一部がウェスタン映画を連想させる味付けがされているとしても、その追悼の想いをないがしろにする下品な題名の付け方である。
復讐劇は、まず、アイルランドの支配のシステムの下から始まる。故に、小作仲介人Beartlaから始まり、次に領地代理管理人Croninへ、そして、Lord Kilmichaelsキルマイケル卿へとシステムの上層に上っていく。とりわけ、Beartlaへの復讐はとりわけ凄惨であるが、それは、彼が同じアイルランド人であり、同胞を裏切って、同胞を搾取する裏切者であったからである。
このアイルランド人収奪のシステムを暴力装置として支えるのが、まずは、大英帝国軍の、現地に駐屯する陸軍歩兵連隊である。本作では、それは、第68軽歩兵連隊となっている。この連隊は、1758年に創立された連隊で、本作に登場する若い将校は、恐らくは、イングランド出身の貴族の子息であろう。人を人とも思わない、とりわけ、アイルランド人は家畜同様と見做している彼の傲慢さは、観る者の神経を逆撫でする。
暴力装置のもう一つが、Royal Irish Constabularyコンスタビュラリー(RIC:王立アイルランド警察隊)で、その黒い制服は、ナチスのSSを思わせる。この警察隊は、19世紀の初めに治安維持の目的のために創設され、1822年のアイルランド警察隊法により、各Countyカウンティ―に配置される警察組織となる。この「警察」組織の第一の役割は、英国国教会教会区に納める十分の一税の強制的取り立てである。統計によると、1841年には、とりわけ、約8.600名の警察官がおり、その多くは、カトリック系であったが、本作の主人公の一人Hannahハナは、Feeneyの軍隊時代の上官であり、恐らく、軍役後にイギリスに戻ってきて、Irish Constabularyに勤めていた人間であった。RICは、実は、最初は、ICのみの名称であったが、19世紀後半にアイルランド人の対イングランド抵抗運動の鎮圧に「功績」があったことから、ヴィクトリア女王から、「Royal」の名称を与えられて、RICとなった警察組織である。
本作の監督Lance Dalyランス・デイリ―は、ダブリン生まれの映画作家で、2001年に、自らが書いた脚本をプロデュースし、その監督を務めて発表した『Last Days in Dublin』でデビューした。2008年制作の『Kisses』で、アイルランド・アカデミー賞の最優秀監督賞を受賞する。本作は、批評上も商業上も成功した作品と評価されており、本作で歌われるアイリッシュ・ゲール語の歌曲も、作詞を彼自身が共作している。2025年制作の作品『Trad』では、各地を巡業して歩き回る音楽グループを描いた音楽映画を制作しており、彼は、音楽的にも興味が高いようであり、この作品『Trad』には、本作で主人公の義理の妹役で登場し、アイリッシュ・ゲール語の歌を歌うSarah Greeneが脇役で出ている。
アイリッシュ・ゲール語とは、印欧語族のケルト語派に属する言語である。ケルト諸語の中では、ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語がp-Celticに分類されるのに対して、スコットランド・ゲール語、アイリッシュ・ゲール語、マン語は、q-Celticに分類される。この区別は、語頭の[qu]音が、p-Celticでは、[p]音に変わったのに対して、q-Celticでは、それがそのままで残ったことによる。ゲール語は、アイルランド語では、「Gaelige」と綴られ、「ゲールグ」乃至「ゲールゲ」と発音される。ゲール語は、印欧語族の言語ではあるが、同じ印欧語族の英語を話す人間にはそのままでは通じない。その英語を話すインランド人が、ゲール語を話すアイルランド人を蔑む、文化的差別も本作にはしっかり描かれており、本作では、そのゲール語をたっぷり聞けるのも、本作の魅力であろう。ゲール語で、アイルランドは、「Éire(エーラ)」、イングランドは、「Sasana(ササナ)」と、そして、因みに、日本は、「An tSeapáin(アン・チャパーン)」と言うそうである。「アン」は、定冠詞である。
最後に、言わば、アイルランド人の視点に立った「語り部」という存在が、これまた、イギリス人将校と「原住民」との間の通訳としての役割を演じるConneely コネ―リーである。この役を演じているのが、Stephen Reaスティーヴン・レイで、彼は、北アイルランドのベルファスト出身である。元々舞台俳優であった彼は、その後、映画界にも進出し、アイルランド人映画監督Neil Jordanニール・ジョーダンが制作した『クライング・ゲーム』(1992年作)で、IRA暫定派のメンバーを演じてUSAアカデミー賞にノミネートされて世界的に注目された俳優である。以来、ジョーダン組俳優として活躍している。Stephen Reaが本作で歌うゲール語の歌は、子供が発音される音を意味もなく並べて作ったような、大人の童謡のような趣きがあり、印象的である。本作のエンディング・ロールで、作中で歌われたゲール語の歌が繰り返されるので、ゆっくりとこれらの歌を聞きながら、本作のストーリーの余韻を味わいたいものである。
2026年9月13日日曜日
ガンヒルの決斗(USA、1959年作)監督:ジョン・スタージェス
ある原作を基にした本作の脚本は、残念ながら、ストーリー展開に説得性が足りないのであるが、K.ダグラス演じる主人公が北米原住民の女性と結婚しているという最初の設定が特徴的である。しかも自分の妻を殺された主人公は、Marshalであり、治安の保全者が正義の回復のために行動を起こす。しかし、世は19世紀末であり、暴力よりは法の支配が貫徹している時代である。主人公は、リンチをしたくてならないところを、それを押さえて、妻を殺した殺人犯を法の手に委ねようとするのであるが、犯人の絞首刑を望む主人公は、捕まえた犯人に向かって、裁判から判決、更に、判決執行に及んで、絞首刑の縄にぶら下がった犯人の死の孤独を、まるで、ホラー小説の残忍なクライマックスを読み上げるように、語るのである。この迫力あるシーンをK.ダグラスは好演しており、このシーンを観るだけでも本作を観た甲斐があったと言うものである。
西部劇には紅一点とでも言えるヒロインが必要である。本作の不幸のヒロイン役を演ずるのが、Carolyn Jonesキャロリン・ジョーンズである。少々平板な丸顔で、両眼が少々離れている顔立ちでは、本作のTechnicolorの色彩なのか、少々緑色した青い目をしているように見え、極めて印象的である。どこかで見たことがある顔立ちと思いながら本作を観終わって、調べてみると、彼女は、テレビ映画シリーズ『The Addams Family』(1964 – 1966)で、一家の母親で、美しく異様に瘦せこけた魔女モーティシア役を演じていた、あの女優であった。
1930年にテキサス州で生まれたC.ジョーンズは、15歳である劇団に入団し、スカウトされてパラマウント映画社と契約し、1952年に映画デビューを飾る。ビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』(1955年作)やA.ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』(1956年作)などに端役として登場していたが、1957年作の『The Bachelor Party(独身お別れパーティー)』で、主人公に言い寄る女性実存主義者としての演技で注目され、USアカデミー助演女優賞にノミネートされた。こうして、本作で、主演男優二人K.ダグラスとアンソニー・クインの間を揺れる元酒場の女を演じる。
2026年9月2日水曜日
ムーラン(USA、1998年作)監督:バリー・クック他
ムーランを漢字で書くと、「木蘭」となる。これを日本語読みにすれば、「もくらん」で、何か「モクレン」と似ている。流石は、漢字文化圏にある日本語である。「モクレン」を漢字で書くと、「木蓮」となり、実は、「木蘭」は、中国語の「モクレン」で、植物学の学名で言うと、「マグノリア」である。何か華々しい花で、さて、この花は、本作のヒロインに相応しいであろうか。
この「木蘭」の伝承が、漢民族の王朝にも伝えられると、今度は、恐らく、儒教の教えによる家父長制的なイデオロギーが入れ込まれたのか、中国の歴史上に存在する女傑として、「忠孝節義、勇武仁愛」の精神を体現する者として、中国の歴史の中で、語り継がれていく。鮮卑と同じく遊牧民族たるモンゴル族が中国に13世紀後半に建国した元朝の時代には、以下のようなムーランについての物語りが取り上げられている:
「将軍魏氏、本名は木蘭といい、亳州譙県の出である。世に伝えるところによれば、可汗が兵を募った際、孝烈(木蘭)は父が老いて衰弱し、弟妹も皆幼いのを哀れみ、慨然として身代わりで従軍した。甲冑を身にまとうと、弓袋を背負い矛を手に、馬を駆って神のごとく疾走し、艱苦に耐え武器を研ぎ、戦場で胆力少しも衰えず、誰も彼女が男でないと看破できなかった。十二年という歳月を経て、十八度の戦闘に交鋒し、数々の勲功を立てて朝廷に参内した。天子はその武勇と功績を喜び、尚書の官職を授けようとしたが、彼女は厚遇を辞退し、故郷へ帰省することを懇願した。兵を率いて譙に戻ると、父の家を訪れ、戎服を脱ぎ捨てて再び閨房の装いに復した。人々は皆驚き、『生まれてこの方、このようなことは未だ見たことがない』と口々に言った。魏の兵が軍を返した後、この異聞は朝廷に伝わり、再び宮中に召し出されて后妃に迎えられようとしたが、将軍は『臣たる者が君主と婚礼を結ぶ礼制はありません』と言い、死をもって誓って拒絶した。圧力が強まる中、遂に自害した。これが『孝烈』という諡号が追贈された所以である。」(ウィキペディアからの引用)
ここでは、「木蘭」の姓は、「魏」となっており、時代も「北魏」のこととなっているようである。故に、王は、皇帝ではなく、「可汗:カン」(あのチンギス・カンの「カン」)となっている。そして、「木蘭」は、「将軍」の位階を得る程までに活躍することになるが、「木蘭」が女性であることが世間に知られることになると、自分の名誉を守って、自害するという運命を選ばざるを得なくなるという説話になっている。
因みに、本作の時代設定は、前漢時代(紀元前206年から紀元後8年まで)のことになっているようで、それからすると、北方からの前漢皇帝にとっての脅威は、匈奴(きょうど;ピン音:ションヌゥ)であるはずであるが、それが本作ではフン族になっているのは、歴史的には正しくなく、匈奴とフン族との繋がりも歴史的には証明されていない。前漢時代に中国北方から中央アジアまで大きな版図を広げた匈奴は、紀元後一世紀に北匈奴と南匈奴に分裂して、南匈奴は後漢に取り込まれ、南匈奴に追われた北匈奴は歴史の舞台から姿を消すことになる。その後、この匈奴の版図と同じ地域に、鮮卑族が乗り出してくることになるが、一方、フン族は、現ロシア領のヴォルガ川辺りから西に移動してきた民族と言われ、バルカン半島北部やポーランドに侵攻してくる騎馬民族として、むしろヨーロッパ史に登場する存在である。
話しが少々ずれたが、紀元後五世紀に北魏時代に採録された「木蘭」の伝承が、漢民族の王朝たる明代になって、ある雑劇短編の戯曲として翻案されると、次のようなストーリーに変わる:
「物語は北魏の時代に起こります。黒山の賊の首領・豹子皮が徒党を組んで反乱を起こしたため、朝廷は緊急に兵士を徴集し、軍令の文書が頻繁に下され、その中に木蘭の父・花弧の名前もあった。父親が年老いて体が弱く、弟はまだ幼いことを考慮し、17歳の花木蘭は決然と、女扮男装して父に代わり従軍することを決意する。彼女は駿馬と装備を購入し、纏足による不便を克服するため、足を放ち靴に履き替え、武芸を練習した。その後、家族に別れを告げ、征途につく。戦場では、木蘭は知勇を頼りに数々の手柄を立てます。最終的に、彼女は伏兵を設け、自ら賊首の豹子皮を捕らえ、大きな戦功を立てた。凱旋後、朝廷は彼女に官位を与えて表彰しようとするが、木蘭は官職を辞退し、ただ故郷に帰って家族と再会することを願う。故郷に戻ると、彼女は女性の姿に戻り、同郷の王郎と結婚し、良縁を成就させることで、『忠孝両全』を実現した。」(ウィキペディアからの引用)
紀元後13世紀の元朝時代のストーリーとは異なって、結婚というハッピー・エンドで終わるこの戯曲は、本作の一部脚本の原作になっているようにも思われる。話しは、北魏の時代のことではあるが、遊牧民族の女性には考えられない「纏足」のプロットが入っており、このことを以って、如何にこの話しが漢民族化されているかが象徴されているであろう。ムーランが知勇を発揮することも、本作のストーリーに酷似しており、そうであれば、彼女が結婚することになる同郷の「王郎」とは、本作における隊長リー・シャング(李翔)となる。
このような、儒教的道徳話しや家族主義的イデオロギーを背景とした「忠孝両全」で終わるハッピー・エンドに比較すると、本稿の一番最初に言及した北魏時代に採録されたという『木蘭詩』は、むしろ、ユーモアを以ってして、ストーリーを完結する。
この「バラード」は、木蘭が男装して出征し、戦功を立てて、兵を連れて故郷に戻るところまでは、他のストーリー展開と同じであるが、最後は、ある種のユーモアを以って、話しを終える。女装して戦友の前に立ち現れた木蘭に対して、戦友達は、「この12年間いっしょに行軍していてもお前が女であることに気が付かなった。雄兎であれば、あちこちと歩き回る。雌兎であれば、目はどんよりとしていて、ガラス玉のようである。」と言う。それに対して、木蘭は、取って返して言ってのけた。「雄兎と雌兎が並んで走っていて、貴様らは、どっちが雄で、どっちが雌か、見分けられるのか。」と。
さて、20世紀も終わろうとする1998年に本作は公開された。時代は、USAが未だ自己の覇権にとって中国が脅威になろうとは思っても見なかった頃である。そして、性的志向の違いを尊重することを「Woke」と、未だなじらなかった頃である。トランプ政権が二期目を迎えて、USAの民主主義を破壊しようとしている2026年、果たして、ウォルト・ディズニー・カンパニーは、本作のような作品を製作したのであろうか、自問せざるを得ない。
最後に、「木蘭」をテーマとした映画作品のフィルモグラフィーを見てみよう。これだけの民族的伝承とさえなっている「木蘭」を映画にしない手はないであろう。という訳で、1927年の中華民国で早速、『木蘭従軍』というタイトルで中国映画が撮られれている。1939年にも同名の作品が発表されている。もちろん、日中戦争が始まっており、日本軍の占領下にあった上海の映画会社が撮った作品であり、異民族と戦った木蘭の英雄的行為を、対日抗戦の文脈で捉えて制作されたことは明らかであった。
戦後になると、1950年代に香港映画作品として二本が、中国本土製として、1960年代に一本が撮られている。こうして、世界映画史的には、約30年の空白を破って、本作がUSA製アニメーション映画として1998年に発表される。更に、『ムーラン2』が2005年に本作の続編として制作される。中国映画としては、『花木蘭』の題名で2009年に一本出されると、本作の実写版と言える作品『Mulan』が2020年にUSAで制作される。これに刺激を受けたのか、今度は中国側でも同じ年に、木蘭をテーマとした作品が四本も撮られていることが興味深い。こう考えると、木蘭を巡っては、既に2020年には、米中争奪戦が戦われていたことになる。
2026年8月31日月曜日
シンデレラ(USA、1950年作)監督:ウィルフレッド・ジャクソン他
1940年二月に、長編劇映画第二作目の『ピノキオ』が、同年11月には、長編劇映画第三作目の『ファンタジア』が公開される。しかし、世界情勢は、第二次世界大戦が欧州ではその前年に既に勃発しており、日米の外交関係も険悪化する中、世相は、アニメーション・ファンタジー映画どころではなかったのか、ディズニー・スタジオは、この二作で大赤字を計上せざるを得なくなる。
とりわけ、『ファンタジア』は、高度の芸術性を持っており、ほとんど台詞のない中、バッハ、ベートーベン、ストラヴィンスキーなどのクラシック音楽を八つの物語りに分けて描こうというものであり、上映の際には、音響のステレオ効果を利用している。しかも、その音響効果は、サラウンドの原型とでも言える音響再生方式を世界で初めて導入したものであり、音響技術の発展においても、本作は、画期的で、歴史的な作品であった。制作には、11人の監督、120人以上のアニメーター、103人編成のオーケストラ(「音の魔術師」と異名を取ったイギリス人指揮者レオポルド・ストコフスキーの下、フィラデルフィア管弦楽団が演奏)など、ウィキペディアによると、投入されたスタッフは、延べ千人、作画枚数は、約百万枚になるという、前例のないスケールでの製作となっていたのである。(因みに、日米開戦により、『ピノキオ』も『ファンタジア』も、日本での公開は、戦後復興後の1955年のことになる。)
こうした経営的な苦境を戦中、終戦直後と何とかやりくりして、『白雪姫』のヒットをもう一度呼び起こそうとしてウォルト・ディズニーが社運を賭けて製作したのが、本作『シンデレラ』である。スタッフは約750名、作画数は、150万枚となり、『白雪姫』の約二倍の製作費を掛けたもので、この賭けにW.ディズニーは勝つことになり、現在の「ディズニー王国」の基礎をこの作品からの利益を基にして築けることなる。本作も、テクニカラー作品であり、『白雪姫』に較べるとパステル調である、その色彩を楽しみたいものである。
本作の上映は1950年のことであり、USAでの当時の批評も大体芳しいものであった。しかし、一部には次のような批評も見られた:
「この映画は中心人物であるシンデレラよりも動物を描写することに成功している。シンデレラはチャーミング王子と同様に、無表情で人形のような顔をしている」(ウィキペディアからの引用)
なるほど、金髪で青い目をしたシンデレラは、確かに、美形ではあるが、個性的ではない。本作の悪玉Lady Tremaineレイディー トレメーヌが飼っている、同じく性格が悪いネコ・ルーシファーと、ジャックやガスらネズミ共とのやり合いは、『トムとジェリー』を思わせて、如何にもアニメーションらしい。
本作の日本での公開は、『ファンタジア』(1940年作)などよりも早い1952年のことで、ウィキペディアによると、漫画家の藤子不二雄Aは、同年に本作について以下のように批評している:
「一般的でオーソドックスな童話を借りて再び『白雪姫』の世界へ帰ろうと正攻法で描いたものだけに安定感に満ちている」が、その一方では、「登場人物の正邪、美醜をはっきり割り切ったことが、内容の理解に容易さを増した反面、生き生きとした活躍を見せる小動物に比し、人間の方を様式化し平版化している...」
筆者もこれと意見を同じくするものであるが、この「様式化し平板化している」の謗りを免れているキャラクターが本作には一人いる。Lady Tremaineレイディー・トレメーヌである。シンデレラの継母であることの体裁を一応は取りながらも、亡くなった夫の連れ子であるシンデレラを事ある毎に陰湿に虐めぬこうとしているその陰険さは、「シンデレラ物語り」のポジティブな上昇志向とは真逆の性向であろう。
『白雪姫』の嫉妬深い「女王」、本作の「レイディー・トレメーヌ」、更には、『眠りの森の美女』(1959年作)の「マレフィセント」などには、何か「悪」の系譜とでも言えるものがあり、「ディズニー・ヴィランズ」として彼女等はその名を連ねている。ウィキペディアには、以下の引用があるのでここに挙げておく:
「トレメイン卿が病気で亡くなった後、トレメイン夫人はシンデレラの父であるリチャード卿 [ウィキペディアの英語版では「Sir」であり、そうであれば、男爵か騎士の位階] と結婚した。彼女は、自分の娘たちを手に負えなくなってきたため、彼の助けを必要としていた。しかし、シャトーでは、トレメイン夫人とその娘たちは、リチャード卿とシンデレラのもとで奉公することを余儀なくされる。そして、リチャード卿が貧困に陥り、王室に対して借金を抱えていたことが明らかになる。トレメイン夫人と結婚することだけが、[サー・リチャードにとって] その借金を緩和する唯一の方法であり、彼女は自分の名義では一文無しの状態にされてしまった。リチャード卿が亡くなると、トレメイン夫人は家の主導権を握り、復讐としてシンデレラを召使いにし、彼の娘を下層の使用人にさせることで最後の笑いを取ることにした。
アニメ映画の出来事から数年後、シャトーは完全に荒廃している。トレメイン夫人は今や一文無しとなり、狂気に囚われ、家事を娘たちに押し付けるだけでなく、[実の娘達] ドリゼラとアナスタシアにも虐待を始めた。そこで、フェアリー・ゴッドマザー [映画の邦訳では「妖精のおばさん」] が現れ、シンデレラの願いに応じて義理の姉妹たちに再びチャンスを与えようとする。しかし、トレメイン夫人はフェアリー・ゴッドマザーを攻撃しようとし、彼女によって石の像に変えられてしまう。」( [ ]内は、筆者の注)
このような、恐らくは後付けで考え出された「シンデレラの継母」の後日談は、本作を改めて観る上で、この悪役の魅力を更に高めてくれることであろう。
2026年8月27日木曜日
皆殺しのシンフォニー(仏・伊合作、1963年作)監督:ジャック・ドレ―
本作の制作年は1963年ということであり、むしろ、カラー映画作品が一般的である時代に、敢えて、白黒映画で撮ってあるのは、フィルム・ノワールへのオマージュということであろう。撮影監督は、Claude Renoirクロード・ルノワールである。「ルノワール」と言えば、フランス印象派の画家Pierre-Auguste Renoirが有名であるが、実は、このClaudeは、その孫に当たる人物である。同じ名前の叔父もいて、この叔父は、プロデューサー兼映画監督として活躍しているが、別の叔父でJean Renoirは、偉大なフランス映画の監督して名を成しており、この叔父とは、甥のClaudeは、その撮影監督として、1936年に白黒作品たる『Partie de campagne;邦題:ピクニック』を撮っている。約30年後に撮られた本作においては、外光での撮影としては、私見ではそれ程印象的なものが見られないが、室内撮影では、白黒のコントラストを上手く使って良質な画面を見せてくれている。
本作にはフランス語の原作があるそうであるが、筆者には読めないので、本作のストーリー内容とは比較できないが、脚本には、三人の名だたる名前が挙がっている。
まず、一人目は監督自身のJacques Derayジャック・ドゥレーである。彼は、日本では、1970年作の映画『ボルサリーノ』の監督としてよく知られているであろう。この映画は、1930年代のマルセイユを舞台として、ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドゥロンのチンピラが裏社会の大物になろうとする姿を描く。J.ドゥレーは、「フランス映画界のヒッチコック」と言われ、主に犯罪映画を手掛けた監督であった。
二人目は、Claude Sautetクロード・ソテーである。彼は、1970年代以降は、フランス社会のブルジョワ中間上層階層の姿に焦点を当てて、フランス映画らしい人間の心理の機微を繊細に描いた監督して名を成すことになる。また、1970年代には、西ドイツからフランスに移住して性格俳優となったRomy Schneiderローミー・シュナイダーと共作して、五本の作品を撮っている。『過ぎ去りし日の・・・』(1970年作)、『夕なぎ』(1972年)、『ありふれた愛のストーリー』(1978年)などである。しかし、1970年以前は、むしろ、犯罪映画ジャンルに関わって、脚本を書いたり、監督したりしていた映画人である。本作も、この関連で、監督J.ドゥレーに協力したものと思われる。
そして、三人目が、むしろ脚本化の主役を担った人物たるJosé Giovanniジョゼ・ジョヴァンニである。彼は、基本的には小説家であり、それに、脚本家も兼ね、場合によっては、監督としても活動した人物である。2004年に享年80歳で亡くなるまで、ウィキペディアによると、小説20冊、回想録二冊、脚本33本、映画15本を発表するという多作家であった。アラン・ドゥロンとリーノ・ヴァンテュラ主演の映画『冒険者たち』(1967年作)の同名の原作を提供しているのも、このJ.ジョヴァンニである。
1923年にパリで生まれたJ.ジョヴァンニは、ウィキペディアの記述が正しければ、実は、以下のような人生の前半を歩んだ人物である:
「戦時中から犯罪組織と関係し、かつファシスト政党フランス人民党に所属、ゲシュタポ協力者であった。誘拐や盗みなどを犯す。終戦直後、少なくとも3件の強盗殺人に関与し、死刑を宣告されるが、大統領恩赦を受けてまぬがれる。1956年に出所。」
つまり、彼の作品には自分の犯罪者としての体験が、色濃く反映されており、そう考えると、本作における「虐殺」のストーリーにも、一人一人と仲間を冷血に殺害していく人物像に何か実感が籠ってくるであろう。尚、本作では、現金の運び役のMoreauモローとしても一役を演じている。
フランス製の犯罪映画によくあるように、本作のFinも、因果応報的に終わるのであるが、本作の中盤から終盤に掛けては、偶然とそれぞれの人物の思い込みで、次々と殺人が行なわれていくサスペンスが秀逸である。そして、本作の初盤は、良き推理小説にように、緻密に計画が実行に移されて小気味が良い。犯行実施の段階で、パリ出発のリオン経由マルセイユ行きの夜行列車が登場する。それだけではなく、流石はヨーロッパである。パリとブリュッセル間の列車移動が主人公のアリバイ作りに使われる。そして、オールドタイマー・ファンには垂涎の的であろうJaguar XK150が本作には登場する。筆者は車には詳しくないのであるが、フラン語版のウィキペディアにこのことが出ており、ちょっと調べてみると、このイギリスの車は、1957年から61年まで生産されたスポーツ・カーで、XKとは、ジャガー社が開発したガソリン・エンジンのシリーズであるそうである。XKシリーズには、120、140、150とがあり、それぞれ、mph時速何マイルかを示すそうであり、150は、最高時速約240kmである。リオンとパリ間の走行距離が約460kmあるとすると、Jaguar XK150で走ると、約二時間が掛かる計算である。当時は、道路事情が今よりはかなり悪かったとしても、三時間もあれば、リオンからパリに着けるはずであり、成程、実行可能であろう。
最後に、本作の俳優陣の中に、Charles Vanelシャルル・ヴァネルがいることも嬉しい点である。Jean Gabinジャン・ギャバンと共に、フランス映画界を無声映画時代から代表する一人である彼の顔は、一度見たら忘れられない特徴のある顔である。日本では、1953年作の『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルゾー監督)で、恐らく、知られており、この作品で彼はカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞している。
2026年8月26日水曜日
ロード・ハウス/孤独の街(USA、2024年作)監督:ダグ・リーマン
「Shane!! カムバック!!」と、少年ジョーイは、馬に跨ってワイオミングの山へ去って行く早撃ちガンマンに必死に呼び掛けた。撃ち合いで脇腹を撃たれながらも最後の敵を片付けたシェーンには、「人を殺してしまえば、もう元には戻れない」と分かっていた。彼は、脇腹の傷が致命傷でなければ、自分にはさすらいの運命しかないのであると覚悟していたのである。
ワイオミング州の、ある開拓地に流れてきたシェーンは、急ぐ旅をしている訳でもなく、偶然なことで開拓農民のStarrettスターレット家に世話を受けることになる。言わば、一宿一飯の恩義を受けたのである。スターレット家の息子ジョーイとは、シェーンはすぐに仲がよくなり、日を過ごす内に、彼は、一家の主人ジョーとも親しくなる。そして、ジョーの妻のマリアンもシェーンも、口には出さないが、お互いに淡い好意を抱くようになっていたのである。しかし、この地には大牧畜業者たるRykerライカー一家がおり、開拓民達を不法占拠者として、この地から追い出しにかかっていた。ライカー一家と、ジョーを中心とする開拓民の争いは次第に激しさを増し、遂に、ライカー一家は、殺し屋ウィルソン(ジャック・パランス)を雇って、開拓民を強引に追い出しにかかる。事情が事情でガンマンたることを隠していたシェーンは、ジョー達のために、死地に赴き、ウィルソンとライカー一家を、その早業で撃ち殺した次第であった。
以上が、1953年制作の、「股旅もの」ウェスタンの傑作『シェーンShane』を簡単にまとめたものであるが、何故、これをここに挙げたかと言うと、このストーリーの構造は、本作のストーリーのそれと、基本的には、軌を一にするからである。
本作でShaneに当たるのが、Mixed Martial Artsの元選手で、脛にリング状での疵がある身であることから、ストーリー上の現時点では、しがない居酒屋のドアマンをしているElwood(Jake Gyllenhaalジェイク・ジレンホール)である。彼は、雇われではあるが、流れ者として、Florida Keysフロリダ・キーズにやって来ていた。フロリダ・キーズとは、フロリダ半島南端部の沖に、北東から南西方向に約290kmの長さで延びている列島のことで、映画にも登場するようにここをハイウエーとバス路線が走っている。Elwoodは、このハイウエー沿いにあるバー「Road House」の、女性の持ち主フランキーに雇われたのであった。
映画『シェーン』でのスターレット家は、本作では、残念ながら、はっきりとこれに該当するものが出てこないのであるが、有色人種のタフなフランキーを中心とした、バーに雇われている連中や、バーの近くにある本屋の、同じく有色人種の男性主人スティーヴンとその娘チャーリーが、流れ者Elwoodと関わる。このチャーリーがElwoodと親交を結んでおり、彼女がスターレット家のジョーイに当たり、その父親ジョーに当たるのが、チャーリーの父親のスティーヴンと言えないことはない。本作のラストシーンでは、長距離バスに乗って立ち去っていくElwoodを呼び止めようとするのが、このスティーヴンなのであり、このシーンで筆者は、「おお、これはShaneだ!」という連想を得たのである。
とすると、スターレット家のジョーの妻マリアンは、本作では、悪徳シェリフ・ブラックの娘Ellieということに出来ないか。積極的なEllieに誘われて、控え目なElwoodもまんざらな気分ではないようではあったが、結局は、彼が去ることで、二人の関係は淡いものに終わったと言え、正に、これは、マリアンとシェーンの関係であろう。実は、本作は、1989年制作の同名作品のリメイク版であるが、元祖『ロード・ハウス』は、要するには、主人公ジェームズ・ダルトン(パトリック・スウェイジ)と女医エリザベスとの熱い恋愛をテーマとした映画である。
そして、シェーンの敵役の大牧畜業者ライカー一家に当たるのが、本作では、ブラント一家であり、彼等は、「ロード・ハウス」のフランキーに嫌がらせを働いて、追い出しに掛かっていたのである。追い出した後には、その地に大リゾート施設を建設する予定であった。(トランプ一家が、ガザのパレスティナ人を追い出して、そのガザの地に大リゾート地を建設しようとするのと同様のやり口である。) そして、この追い出し工作を早めるために、シェーンの対抗馬たる殺し屋ウィルソンならぬ、格闘家ノックス(コナー・マクレガー;地をそのまま演じているのか、印象的な映画出演)が差し向けられたのであった。
という訳で、本作とウェスタン『シェーン』のストーリーの構造上の類似点を述べてみたのであるが、オーソドックスな西部劇の要素は、さすらいのヒーローということであり、本作のテイストとは、その類似性が強いのである。とは言え、本作で最も特筆すべきは、主人公Elwoodの処世観であり、それを体現した俳優J.ジレンホールの演技力であろう。その過去の影を引きずって、シニカルな中に、何かメランコリー感を漂わせるElwoodの存在は、本作を単なる格闘家映画に終わらせない、人間的な魅力を醸し出していると言える。
2026年8月24日月曜日
ホラー・エクスプレス/ゾンビ特急地獄行き(スペイン、大英帝国合作、1972年作)監督:ユージニオ・マーティン
日本の戯作の歴史において、「黄表紙」とは、18世紀後半の、政治風刺に重きを置いた知的な読みものであった。USAの1890年代からの、「イエロー・ペイパー」、即ち「黄色新聞」は、大衆の受けを狙って、煽情的な記事を掲載した低俗な新聞であった。同じ黄色でも、古今東西、随分と違うものである。この後者の「黄色の伝統」を受け継いだのが、1960年代のイタリア映画の一ジャンルである。この時期に、Gialloジャッㇽロ(「黄色」の意味で、その複数形は、Gialli)と呼ばれる一群の映画作品が製作される。Gialloの言葉自体は、文学的には、既に1930年代から存在し、USAのパルプ・フィクションを模倣した作品群がイタリアでも増産されていたのである。これらをイタリア映画界が映画化し出したのが、1960年代であった。イタリア絵画を思わせる色彩性と、イタリア・オペラを思わせる演劇性も絡み合った、スタイリッシュに映像化された、とりわけ、猟奇(連続)殺人事件がそのテーマとなる。しかも、その映像の背景には、流麗な音楽が流れるのである。あのエンニオ・モリコーネも、このジャンルの幾つもの映画作品に映画音楽を提供している。
つまり、本作は、「パエーリア・ウェスタン」を撮っている監督が、エンニオ・モリコーネ張りのメロディアスな曲をテーマ音楽として流し、しかし、そのストーリーは、イギリス風のゴシック・ホラーとSFを混ぜ合わせたものにするという、正に、超ごった煮のシベリア横断鉄道物語りである。
しかも、物語りは、1906年の四川省から始まり、まずは、上海を中継地点として、何やら、いかがわしい東洋人達が登場する。映画に出てくる、漢字で書かれた「上海」が、現代書道的にアレンジされていて、中々である。蒸気機関車ファンにとっても、垂涎ものの蒸気機関車が、その型式は筆者には分からないが、登場するところも見ものであろう。こうして、一行は、シベリア横断鉄道に乗り継ぎ、モスクワを目指すことになるが、その一行の前には、目から赤い光線を発するモンスターが現れる。この凍結していた、約二百万年前の猿人がモンスターとして蘇るというナンセンスに、ピーター・カッシング演ずる医者が被害者の頭蓋骨を開けてみるというグロテスクが邂逅する。であれば、日本の1930年代の「エロ・グロ・ナンセンス」ではないが、当然、「エロ」を体現する女優が出てこなければならないであろう。
そのような女優一人が、本作でポーランドの伯爵夫人を演じるSilvia Tortosaである。バルセロナ生まれの彼女は、元々は舞台女優として出発したが、1960年代の半ば以降、映画界にも進出し、本作でも、クリストファー・リー演じる人類学者に、人妻であるにもかかわらず、「興味」を示す役を演じる。彼女は、列車の豪華コンパートメントに置かれたピアノで、映画の冒頭に流れるテーマ曲を演奏する。
もう一人の女優は、女スパイ・ナターシャを演じるHelga Linéである。彼女の本名は、Helga Lina Sternシュテルンといい、1932年にベルリンで生まれたユダヤ系ドイツ人である。彼女が生まれた翌年にナチス政権が誕生すると、彼女は、両親と共にポルトガルに亡命する。そこで育ったHelgaは、40年代の頭から映画界にデビューにするものの、その後は、ダンサー、サーカス芸人、ファッション・モデルとして働いて生計を立てる。1961年には、本作の監督でもあるEugenio Martinの下、カリブ海を舞台とする海賊映画に登場する女海賊を演じる。こうして、イタリア映画界への道が開かれたのか、これ以降、もう一つのイタリア映画が得意とするジャンル、古代ギリシャ・ローマをテーマとした「サンダル映画」や「スパゲッティ・ウェスタン」に出るようになり、1972年に本作での役を得ることになる。後年、スペイン映画界の鬼才ペドロ・アルモドバル監督に敬意を払われる存在となり、Helga Linéは、1982年に公開された映画『セクシリア』に助演している。
さて、この愛すべき、レトロ感があるホラー映画は、クリストファー・リーとピータ・カッシングの両イギリス俳優のゴシック・ホラーのアウラが香気高く漂って、筆者には、好みの作品である。それに、スペインの宗教性が絡み、イタリア風のGialloジャッㇽロ映画感もまた出ており、高校の文化祭にある、お化け屋敷を思い出させ、怖がらないと申し訳ない気分が満載で、実に、楽しい。しかも、本作には、正確にはSFではないのであるが、異星物体が絡むという点で更に面白くなる。
氷結した「物体」、赤い目、そして、何らかの力によって人間に乗り移る能力、この三点の特徴を挙げてみると、SF好きの方には、ハタと思い付くSF短編作品があるであろう。そうである。『Wo Goes There?』、邦題は、『影が行く』である。1938年発表のこの作品の作者は、SF雑誌の編集長として辣腕を揮ったJohn W. Campbell Jr.ジョン W. キャンベル Jr.である。この作品は、1951年に映画化されており、『遊星よりの物体X』が撮られているが、現代では、1982年作の『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、カート・ラッセル主演)の方が有名であろう。という訳で、本作は、そのストーリーの一部は、SFホラー映画の翻案ものであるという、楽しいおまけ付きでもある訳である。
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