映画の冒頭、調整中のある飛行機が登場する。この時は、どの単葉機か分からないのではあるが、ラスト・シーンでは、その飛行機が、P-51であることが分かる。軽快な、スリムな機体と、それと思われる、腹に抱えた吸気口が特徴的なこの戦闘機は、ノース・アメリカン社が開発し、USA陸軍航空軍で使用された単座戦闘機である。当時としては高速で、しかも戦闘機として比較的長い航続距離があったことから、爆撃隊の護衛戦闘機として、第二次世界大戦末期にはドイツ第三帝国の上空を制圧した。この戦闘機は、また、帝国日本の上空にも現れ、対地攻撃で、地上を射撃して回ったものである。愛称は、Mustangマスタングで、これは、スペイン人によって北アメリカ大陸に持ち込まれ、野生化した小型の馬の名称であると言う。こうして、ウィキペディアによると、この機は、第二次世界大戦中・後期の「最優秀戦闘機」であったと言われる。
すると、映画ではシーンが変わって、今度は、一挙に80年程時代が飛んで、極超音速ジェット機となるテスト機「ダークスター」が登場する。これは、マッハ5以上のハイパー・ソニック・スピード(Hypersonic Speed)で飛行するテスト機で、これで以って、マッハ10以上を越えようと言うのである。とすれば、これは、恐らく、いわゆる「第六世代」のジェット機の試作機であるということになろうか。2020年代初頭、ジェット機は、もう、「第六世代」の時代なのである。
何を以って「第六世代」とするのか、2020年代に入っても未だはっきりした定義はないようであるが、その要件の一つとしては、第五世代を上回るステルス性能と超音速巡航能力であると言う。であれば、「ダークスター」は、この超音速巡航能力を試作するための機体であると言える。
現在実用化されている第五世代ジェット機の要件は、ステルス性能が最も核心的なものであろう。という訳で、USA軍と対抗する敵方のジェット戦闘機は、本作では、単に「第五世代戦闘機」と呼称されて登場するが、ウィキペディアによると、それは、どうもロシア製ジェット戦闘機Su-57型機であるようである。この世代に属するUSAジェット戦闘機としては、例えば、F-35がある。
この第五世代ジェット戦闘機に追跡されたF-14機は、何とか危機を切り抜けるが、何と、このF-14機を我等が英雄T.クルーズは、敵方から奪ったのである。どうして、F-14機が敵の手にあったのか、都合がよすぎるのではあるが......
このF-14型は、USA軍のジェット戦闘機としては、第四世代ジェット戦闘機に属する型で、しかも、本作の主役的ジェット機であるF/A-18よりも前の型で、この二つの型の間には、F-15や、その汎用性において名ジェット戦闘機と言われたF-16が存在しており、この第四世代ジェット戦闘機の初期型とも言えるF-14型機が、その世代一つ後のSu-57型機からその追跡を逃れられる可能性は極めて低いのではか。そのストーリー展開に「眉唾もの」が多い本作には、仕方がないことであろうが、それでも、やはり、危機を救うために突如やって来なければならない「騎兵隊」の出番作りは、これで以って、完璧である。
それでは、何故に本作ではF-14型やF/A-18型が主役を演ずるのか。どうして、次世代型のF-35型ではないのか。それは、「Top Gun II」としての本作の前作との関わりがあるからである。故に、作戦内容をわざとF-35型では相応しくないものとして、老体に鞭打ったT.クルーズが四機編隊のリーダー役を務められるようにした訳である。
ジェット戦闘機の世代は、第一世代が1940年代の後半から始まり、音速に達しない速度で朝鮮戦争をお互いに戦った世代(F-86対MiG-15)から始まる。音速に達して、第二世代となり、超音速の速さにミサイル弾を装備した第三世代で、ジェット戦闘機の時代は1960年代に入るが、USA軍は、この世代で格闘戦性能を軽視したことで、ヴェトナムの上空でソ連製戦闘機との戦いで苦戦する。その戦訓から、およそ1980年代から運用が始められた第四世代では、大推進力で機敏な運動飛行が可能であり、格闘戦性能、いわゆる「ドグファイト」性が重視されたのである。つまり、ここで格闘戦を戦える、パイロットの技量と闘志が求められた訳で、ここがまた、本作におけるメッセージ「考えるな!(本能に従え!)」に通じる理由でもあった。そして、これは、正に、『Top Gun I』(Tony Scott監督、1986年作)へのオマージュでもあり、この前作での主役戦闘機も、F-14であったのである。この時、この機を駆って、若きT.クルーズは、架空のMiG-28と戦ったのである。
第六世代ジェット戦闘機では、恐らく最早、人間の「闘志」の出る幕はなくなり、AIに制御された、場合によっては無人機の飛行団が制空権を圧することになるであろう。この意味で、本作のラストシーンでの、P-51マスタングが、ゆらりゆらりと飛行する場面は、ご愛敬でもあろうが、同時にジェット戦闘機時代で人間の要素が未だにある役割を演じられたじだいへのノスタルギー・哀惜でさえあるのである。
Kientopp55 映画批評 硬派で少々辛口
・内容: 劇映画を中心に邦画、洋画を問わず ・頻度: 不定期、二週間に一本を目指す ・対象者: 本当の映画好き、Cineastさん向け
2026年3月18日水曜日
2026年3月16日月曜日
ボーダー 二つの世界(スェーデン、デンマーク、2018年作)監督:アリ・アッバシ
この圧巻な「説話力」は何であろうか。もちろん、ストーリー自体の「吸引力」は当然である。北欧的な静寂さも物語りのミステリー性をより強めていることは確かである。しかし、この「説話力」の強さは、主人公ティーナの存在感、少々ずんぐりした体つき、筋肉か脂肪なのか分からいが、起伏がある顔面、眼窩の上の眉に沿った隆起、そして、射るような眼光、これらの要素が醸し出す圧倒的な存在感が本作を特異たらしめている。
スェーデン映画協会主催のGuldbaggen(ゴールデン・ビートル)賞では、2019年に本作を11部門中、九つの部門でノミネートし、本作は、六部門で受賞した。作品賞、音響編集賞(クリスチャン・ホルム)、視覚効果賞(ピーター・ヨルト;ヨーロッパ映画賞でも受賞)、そして、言わずもがな、主演女優賞(エーヴァ・メランデル) 、助演男優賞(ヴォーレ役のエーロ・ミロノフ)、更に、メイクアップ・ヘア賞(ゴーラン・ルンドストローム、パメラ・ゴールドアンマー、エリカ・スペツィグ)である。同時に、本映画協会は、本作を米国アカデミー賞の最優秀外国映画賞候補に推薦する。米国アカデミー賞では、やはり、最優秀メイクアップ・ヘアスタイル賞にノミネートされた。ウィキペディアによると、ティーナ役のメランデルとヴォーレ役のミロノフは、撮影期間中、毎日四時間、メイクアップのために椅子に座っていなければならなかったと言う。
一方、本作は、カンヌ国際映画祭では、「Un Certrain Regardある視点」部門で本賞を獲得した。受賞の理由は、本作のテーマである、自然界と人間界の狭間を生きる「Trollトロル」という「少数派」の行き様を、現代社会に蔓延る悪である「児童性愛」の犯罪と結び付けた点であったからであろうと思われる。(故に、個人的には、邦題の『ボーダー 二つの世界』は、正しくない題の付け方であり、「ボーダー」は、何も二つだけの世界を区切るだけではなく、また、様々な世界の「狭間」に存在する「もの」をこれでは含意していないからである。)
作品の同名原作は、スェーデン人作家John Ajvide Lindqvistヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる。吸血鬼・ゾンビのホラーもので有名になった彼は、本作の原作では、北欧に存在する妖怪・モンスター・妖精的存在であるTrollトロルを扱っており、本作の脚本作成にも参加している。本作の監督のAli Abbasiアリ・アッバシもまた脚本チームに加わり、更に、監督のたっての願いにより、女性監督兼脚本家であるIsabella Eklöfイサベラ・エクルーフが、彼女が犯罪ドラマ部門から来ていることもあり、ミステリー的ストーリーに心理的な現実味を加味するパートを担当したと言う。こうして、ティーナの境界的存在にマッチするように、本作も、単なるミステリー作品に終わらない、ジャンル映画的なミックスが可能となった訳である。
監督のA.アッバシ自身も特異な存在であり、1981年にイランの首都テヘランに生まれた彼は、2002年までテヘランにある工科大学で学んだ後、この年に、ストックホルムに移住して、スェーデン王立工科大学で建築を勉学する。2007年に同大学を卒業すると、この年から、今度は、デンマークの国立映画大学で映画製作を学んで、ここを2011年に卒業して、監督、脚本家となったという、変わった経歴を持つ人物である。2008年から11年までは自らが脚本を書いた短編映画を三本程制作し、16年に長編劇映画の第一作目を発表し、18年作の本作が彼の長編劇映画第二作目となる。22年には『聖地には蜘蛛が巣を張る』で、主演を演じた女優がカンヌ国際映画祭で女優賞を受賞し、その二年後に伝記映画『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』を撮る。このような監督A.アッバシのフィルモグラフィーを見ると、彼は、ミステリー映画監督系ではなく、社会派映画監督としての傾向がより強い人物であると見ることが出来であろう。その意味でも、本作は、A.アッバシ監督の映画歴から見ると、むしろ、異色作品であると言える。
さて、ティーナと同じような外見を持つヴォーレは、自分達は、Trollトロルであると言う。Trollとは、イギリスの北東にあるシェットランド諸島・オークニー諸島なども含む北欧・スカンディナビア地方の民俗伝承で語られる巨人乃至は小人の精霊・妖精である。キリスト教がこの地域に広まるのに従って、彼等は悪霊乃至悪魔とされてきたが、北欧ゲルマン神話の雷神たるトールにより、Trollはより北の寒冷地に追われたと言うから、Trollは、ゲルマン人よりも更に前にこの地域にいた先住民族であった可能性がある。つまりは、Trollは、ゲルマン人よりも古層の存在だった訳である。
Troll達は、一部には、「醜く」、また、毛むくじゃらであり、ジャガイモに似た鼻は大きく、手の指は四本しかないと言う。彼等は、丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作って暮らすところから、スェーデンでは「ベルグフォルク(山の人々)」と呼ばれた。デンマークでは、彼等は、北の氷海に面した森の中に住むとも言われている。
人間界との関りでは、Troll達は、人間に幸運も不幸ももたらす存在であるが、金属工芸に秀で、薬草や魔法を使った治療も出来ると言うのである。そして、興味深いことには、映画でもこのような場面が登場するのであるが、Troll達は、洗礼を受けていない乳児を奪い、その代りに、Troll達の「取り替え子」を子供のベットに置いておくというのである。
このTroll達がゲルマン人よりもより古い存在であるとすると、それは、ケルト人であったかもしれないが、寒冷地に生きた先住民族ということで、監督A.アッバシを含む脚本家チームは、更に大胆な仮説を提示したと思われる。つまり、Troll達は、ネアンデルタール人の末裔ではないかというのである。
筆者は、映画に登場するティーナを見て、即、これはネアンデルタール人ではないかと感じた。それで調べてみると、ウィキペディアのネアンデルタール人の項目に出ている写真は、正に、ヴォーレの顔とよく似ているのである。
ウィキペディアによると、2010年にセンセーショナルなある発表がなされた。約四万年前に絶滅したと言われる旧人ネアンデルタール人のDNAの痕跡を現生人類たるホモ・サピエンスも平均すると1から2%程度持っているのであると言う。つまり、ネアンデルタール人(とりわけ男性)とホモ・サピエンス(とりわけ女性)が交雑していたことをこの事実は示すのである。しかも、アフリカ系の祖先を持つ女性のヒトのゲノムにはほぼ見られないネアンデルタール人のゲノムの痕跡が、高い場合には約4%あると言う。仮に、残されたネアンデルタール人のDNAの割合が偶然にも高まる環境が存在するとしたら、Troll的な人種が生まれたかもしれないのである。そして、それは、どうも北欧の寒冷地が好適地であった。
脳の大きさではホモ・サピエンスを上回ったネアンデルタール人は、筋力もあり、狩猟の能力も高く、寒冷地への適応能力がよりあったのである。故に、彼等は毛深かったのであり、皮下脂肪が厚かったのであろう。「胴長短脚」の体型も、寒冷気候に適した体型であった。一説には、高緯度地方で生き延びたことから、ネアンデルタール人は、白い肌で、赤い髪であったとも言われれている。
また、顔が大きく、鼻は鼻根部と先端部共に高く、且つ、幅広く、眉の部分が張り出して、言わゆる、眼窩上隆起が形成されている。ここまで、ネアンデルタール人の体型的特徴を書くと、さて、本作の主人公ティーナの顔立ちと体型が浮かんでくるのは偶然の一致であろうか。
スェーデン映画協会主催のGuldbaggen(ゴールデン・ビートル)賞では、2019年に本作を11部門中、九つの部門でノミネートし、本作は、六部門で受賞した。作品賞、音響編集賞(クリスチャン・ホルム)、視覚効果賞(ピーター・ヨルト;ヨーロッパ映画賞でも受賞)、そして、言わずもがな、主演女優賞(エーヴァ・メランデル) 、助演男優賞(ヴォーレ役のエーロ・ミロノフ)、更に、メイクアップ・ヘア賞(ゴーラン・ルンドストローム、パメラ・ゴールドアンマー、エリカ・スペツィグ)である。同時に、本映画協会は、本作を米国アカデミー賞の最優秀外国映画賞候補に推薦する。米国アカデミー賞では、やはり、最優秀メイクアップ・ヘアスタイル賞にノミネートされた。ウィキペディアによると、ティーナ役のメランデルとヴォーレ役のミロノフは、撮影期間中、毎日四時間、メイクアップのために椅子に座っていなければならなかったと言う。
一方、本作は、カンヌ国際映画祭では、「Un Certrain Regardある視点」部門で本賞を獲得した。受賞の理由は、本作のテーマである、自然界と人間界の狭間を生きる「Trollトロル」という「少数派」の行き様を、現代社会に蔓延る悪である「児童性愛」の犯罪と結び付けた点であったからであろうと思われる。(故に、個人的には、邦題の『ボーダー 二つの世界』は、正しくない題の付け方であり、「ボーダー」は、何も二つだけの世界を区切るだけではなく、また、様々な世界の「狭間」に存在する「もの」をこれでは含意していないからである。)
作品の同名原作は、スェーデン人作家John Ajvide Lindqvistヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる。吸血鬼・ゾンビのホラーもので有名になった彼は、本作の原作では、北欧に存在する妖怪・モンスター・妖精的存在であるTrollトロルを扱っており、本作の脚本作成にも参加している。本作の監督のAli Abbasiアリ・アッバシもまた脚本チームに加わり、更に、監督のたっての願いにより、女性監督兼脚本家であるIsabella Eklöfイサベラ・エクルーフが、彼女が犯罪ドラマ部門から来ていることもあり、ミステリー的ストーリーに心理的な現実味を加味するパートを担当したと言う。こうして、ティーナの境界的存在にマッチするように、本作も、単なるミステリー作品に終わらない、ジャンル映画的なミックスが可能となった訳である。
監督のA.アッバシ自身も特異な存在であり、1981年にイランの首都テヘランに生まれた彼は、2002年までテヘランにある工科大学で学んだ後、この年に、ストックホルムに移住して、スェーデン王立工科大学で建築を勉学する。2007年に同大学を卒業すると、この年から、今度は、デンマークの国立映画大学で映画製作を学んで、ここを2011年に卒業して、監督、脚本家となったという、変わった経歴を持つ人物である。2008年から11年までは自らが脚本を書いた短編映画を三本程制作し、16年に長編劇映画の第一作目を発表し、18年作の本作が彼の長編劇映画第二作目となる。22年には『聖地には蜘蛛が巣を張る』で、主演を演じた女優がカンヌ国際映画祭で女優賞を受賞し、その二年後に伝記映画『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』を撮る。このような監督A.アッバシのフィルモグラフィーを見ると、彼は、ミステリー映画監督系ではなく、社会派映画監督としての傾向がより強い人物であると見ることが出来であろう。その意味でも、本作は、A.アッバシ監督の映画歴から見ると、むしろ、異色作品であると言える。
さて、ティーナと同じような外見を持つヴォーレは、自分達は、Trollトロルであると言う。Trollとは、イギリスの北東にあるシェットランド諸島・オークニー諸島なども含む北欧・スカンディナビア地方の民俗伝承で語られる巨人乃至は小人の精霊・妖精である。キリスト教がこの地域に広まるのに従って、彼等は悪霊乃至悪魔とされてきたが、北欧ゲルマン神話の雷神たるトールにより、Trollはより北の寒冷地に追われたと言うから、Trollは、ゲルマン人よりも更に前にこの地域にいた先住民族であった可能性がある。つまりは、Trollは、ゲルマン人よりも古層の存在だった訳である。
Troll達は、一部には、「醜く」、また、毛むくじゃらであり、ジャガイモに似た鼻は大きく、手の指は四本しかないと言う。彼等は、丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作って暮らすところから、スェーデンでは「ベルグフォルク(山の人々)」と呼ばれた。デンマークでは、彼等は、北の氷海に面した森の中に住むとも言われている。
人間界との関りでは、Troll達は、人間に幸運も不幸ももたらす存在であるが、金属工芸に秀で、薬草や魔法を使った治療も出来ると言うのである。そして、興味深いことには、映画でもこのような場面が登場するのであるが、Troll達は、洗礼を受けていない乳児を奪い、その代りに、Troll達の「取り替え子」を子供のベットに置いておくというのである。
このTroll達がゲルマン人よりもより古い存在であるとすると、それは、ケルト人であったかもしれないが、寒冷地に生きた先住民族ということで、監督A.アッバシを含む脚本家チームは、更に大胆な仮説を提示したと思われる。つまり、Troll達は、ネアンデルタール人の末裔ではないかというのである。
筆者は、映画に登場するティーナを見て、即、これはネアンデルタール人ではないかと感じた。それで調べてみると、ウィキペディアのネアンデルタール人の項目に出ている写真は、正に、ヴォーレの顔とよく似ているのである。
ウィキペディアによると、2010年にセンセーショナルなある発表がなされた。約四万年前に絶滅したと言われる旧人ネアンデルタール人のDNAの痕跡を現生人類たるホモ・サピエンスも平均すると1から2%程度持っているのであると言う。つまり、ネアンデルタール人(とりわけ男性)とホモ・サピエンス(とりわけ女性)が交雑していたことをこの事実は示すのである。しかも、アフリカ系の祖先を持つ女性のヒトのゲノムにはほぼ見られないネアンデルタール人のゲノムの痕跡が、高い場合には約4%あると言う。仮に、残されたネアンデルタール人のDNAの割合が偶然にも高まる環境が存在するとしたら、Troll的な人種が生まれたかもしれないのである。そして、それは、どうも北欧の寒冷地が好適地であった。
脳の大きさではホモ・サピエンスを上回ったネアンデルタール人は、筋力もあり、狩猟の能力も高く、寒冷地への適応能力がよりあったのである。故に、彼等は毛深かったのであり、皮下脂肪が厚かったのであろう。「胴長短脚」の体型も、寒冷気候に適した体型であった。一説には、高緯度地方で生き延びたことから、ネアンデルタール人は、白い肌で、赤い髪であったとも言われれている。
また、顔が大きく、鼻は鼻根部と先端部共に高く、且つ、幅広く、眉の部分が張り出して、言わゆる、眼窩上隆起が形成されている。ここまで、ネアンデルタール人の体型的特徴を書くと、さて、本作の主人公ティーナの顔立ちと体型が浮かんでくるのは偶然の一致であろうか。
2026年3月9日月曜日
欲望のバージニア(USA、2012年作)監督:ジョン・ヒルコート
時は、1931年、USAは未だ禁酒法時代であった。場所は、ヴァージニア州にあるCountyカウンティ―Franklinフランクリンである。ヴァージニア州は、USAの東海岸にある各州を南北に繋げると、その中ほどにあり、郡名の「フランクリン」は、USA建国の父であるベンジャミン・フランクリンに因んで採られている。ウィキペディアによると、禁酒法時代(1920 – 1933)に、ここの地元民はフランクリン郡のことを「世界の密造酒首都」と呼び、「1920年代に、郡民100人中99人は何らかの形で違法酒販売に関わった」と言われた郡であった。
本作の原作の著者Matt Bondurantは、本作の主人公ジャックら三人兄弟と同様の苗字Bondurantであり、実は、孫のマットは、祖父のジャックを本作の語り手として、祖父やその兄弟の「行状」と運命、そして、33年には終わる禁酒法時代後の自らの家族の繁栄を描いた。原作名が『The Wettest County in the World』(2008年作)とあるのは、上述の「世界の密造酒首都」と似ているのであるが、この「Wettest」とは、禁酒法に賛成する派を「dry」と呼んだに対して、アルコール容認派を「wet」としたことによる。
Bondurantボンデュラン兄弟の長男ハワードは、第一次世界大戦に従軍し、自分が所属する部隊全員がほぼ戦死する中、一人だけ生き残った元兵隊であり、その心の傷を癒すべく、アルコールを手から離せなくなっていた。また、次男のフォーレストは、兄弟の両親が亡くなったスペイン風邪に罹患し、重体であったのにも関わらず、それを生き延びた男であった。故に、彼には「不死身」であるという伝説が地元ではまかり通っていたのである。実際、彼は、剃刀で頸を切られても、銃弾を身体に数発受けても、不思議なことにそれを生き延びる。
三男のジャックも不死身なのかは映画では語られないが、何れにしても、この三兄弟は、郡内にある街道沿いのガソリンスタンドとドライブインを表では経営し、裏では、密造酒を作っては、それを町で売りさばいて、金の儲けていた。正に、アルコールが禁止されているが故に、彼等は密造酒で金が儲けられていたのである。そんな中、頭の切れるジャックは、偶然にコネを付けることが出来た町のギャングFloyd Banner(名優Gary Oldman)の助けもあり、密造酒製造所を改良し、馬力のある車を手に入れて、本格的に密造酒の製造と販売に乗り出したのである。
これと前後する時期に、新しく郡の検察官(Attorney)と共にやってきたSpecial Deputy(連邦保安官Marshalを特別に補佐する人物;イギリス人俳優Guy Pearceがその厭らしさを好演)が、密造酒から上がる利益からの分け前を懐に入れようと、郡内の密造酒製造者達に圧力を掛ける。その圧力に屈して密造酒製造の同業者が次々と分け前金を支払うことに妥協していく中、Bondurant兄弟はこれに抵抗することから、彼等と特別補佐官Rakesとの対立は銃撃戦へと発展することになる。さて、その結末は、如何なることになるか?
さて、特別補佐官Rakesレイクスは、禁酒法時代にあのアル・カポーンがその縄張りとしていたシカゴから来ており、恐らくは修羅場をくぐってきた「強者」であった。そして、ボンデュラン兄弟が経営するドライブインの給仕に新たに雇われたマギーも、あのシカゴから逃げてきた元踊り子であった。という訳で、本作の一つのテーマとも言えるのが、「都会」対「田舎」の構図であり、本来、禁酒法がなければ、違法ではない「密造」酒を蒸溜する村の者達は、普通に生活していたはずなのである。そもそも国家(連邦)がアルコール類に税を掛けること自体が、彼等にとっては「国の越権行為」に映っていたのであり、村人と深く関わる地元のシェリフも、結局は、村人側に立つことになり、本作は、村落共同体がある意味で機能する「村の団結」へのオマージュであるとも言えるのである。
本作の原作の著者Matt Bondurantは、本作の主人公ジャックら三人兄弟と同様の苗字Bondurantであり、実は、孫のマットは、祖父のジャックを本作の語り手として、祖父やその兄弟の「行状」と運命、そして、33年には終わる禁酒法時代後の自らの家族の繁栄を描いた。原作名が『The Wettest County in the World』(2008年作)とあるのは、上述の「世界の密造酒首都」と似ているのであるが、この「Wettest」とは、禁酒法に賛成する派を「dry」と呼んだに対して、アルコール容認派を「wet」としたことによる。
Bondurantボンデュラン兄弟の長男ハワードは、第一次世界大戦に従軍し、自分が所属する部隊全員がほぼ戦死する中、一人だけ生き残った元兵隊であり、その心の傷を癒すべく、アルコールを手から離せなくなっていた。また、次男のフォーレストは、兄弟の両親が亡くなったスペイン風邪に罹患し、重体であったのにも関わらず、それを生き延びた男であった。故に、彼には「不死身」であるという伝説が地元ではまかり通っていたのである。実際、彼は、剃刀で頸を切られても、銃弾を身体に数発受けても、不思議なことにそれを生き延びる。
三男のジャックも不死身なのかは映画では語られないが、何れにしても、この三兄弟は、郡内にある街道沿いのガソリンスタンドとドライブインを表では経営し、裏では、密造酒を作っては、それを町で売りさばいて、金の儲けていた。正に、アルコールが禁止されているが故に、彼等は密造酒で金が儲けられていたのである。そんな中、頭の切れるジャックは、偶然にコネを付けることが出来た町のギャングFloyd Banner(名優Gary Oldman)の助けもあり、密造酒製造所を改良し、馬力のある車を手に入れて、本格的に密造酒の製造と販売に乗り出したのである。
これと前後する時期に、新しく郡の検察官(Attorney)と共にやってきたSpecial Deputy(連邦保安官Marshalを特別に補佐する人物;イギリス人俳優Guy Pearceがその厭らしさを好演)が、密造酒から上がる利益からの分け前を懐に入れようと、郡内の密造酒製造者達に圧力を掛ける。その圧力に屈して密造酒製造の同業者が次々と分け前金を支払うことに妥協していく中、Bondurant兄弟はこれに抵抗することから、彼等と特別補佐官Rakesとの対立は銃撃戦へと発展することになる。さて、その結末は、如何なることになるか?
さて、特別補佐官Rakesレイクスは、禁酒法時代にあのアル・カポーンがその縄張りとしていたシカゴから来ており、恐らくは修羅場をくぐってきた「強者」であった。そして、ボンデュラン兄弟が経営するドライブインの給仕に新たに雇われたマギーも、あのシカゴから逃げてきた元踊り子であった。という訳で、本作の一つのテーマとも言えるのが、「都会」対「田舎」の構図であり、本来、禁酒法がなければ、違法ではない「密造」酒を蒸溜する村の者達は、普通に生活していたはずなのである。そもそも国家(連邦)がアルコール類に税を掛けること自体が、彼等にとっては「国の越権行為」に映っていたのであり、村人と深く関わる地元のシェリフも、結局は、村人側に立つことになり、本作は、村落共同体がある意味で機能する「村の団結」へのオマージュであるとも言えるのである。
そもそも禁酒法の成立は、共和党や民主党の党派の別を越えた、殆んど宗教的な信条に基づくものであった。禁酒法成立への動きは、既に19世紀の半ば頃から燻っており、とりわけ、禁欲的生活を唱導するプロテスタント派、とりわけ、メソジスト派、再洗礼派、長老派、クェーカー派、北欧のルター派などがその担い手となり、USAの地方政治において主要なテーマとしていたのである。これに対して、国家・政府が道徳・倫理を規定することに反対する立場として、反禁酒法派(ドライに対するウェット)がおり、この立場に立ったのが、主に、米国聖公会派、ドイツ系のルター派、そして、ローマ・カトリック教派であった。
このような状況下で、1916年の大統領選挙で民主党の現職ウッドロウ・ウィルソンが再選され、17年一月に米国議会が招集されると、大統領選挙では争点となっていなかった禁酒法問題が突然脚光を浴びることとなる。ウィキペディアによると、この議会では、「ドライ」派が、民主党では140対64、共和党で138対62と、それぞれ「ウェット」派よりも多く、また、同年四月にUSAが対独宣戦布告をしたことから、「ウェット」派の主要勢力の一つであったドイツ系アメリカ人の発言力が失われたこともこれに影響した。しかも、当時のUSAにおける大手ビール製造会社の多くがドイツ系であったこともあり、「ビール=ドイツ=悪」という単純明快なイメージがまかり通ったこともあって、「ドライ」派を勢いづかせることに繋がったと言われている。こうして、1920年に禁酒法は議会で採択される。
このような禁酒法成立の宗教的な背景を鑑みると、本作の23分代から数分に亘り、ある教会内のでミサの様子が描かれたことは、興味深い。
この教会の外には車が止まっており、信者は、馬車にしか乗らないアーミッシュの信仰者よりはラディカルではないようである。教会内には祭壇のようなものはなく、建物の中央には空間を設けて、そこに牧師に当たる人物が立ち、集会者は、この中央の空間に向けて、四方に何列か椅子を並べて座っている。建物の東西方向は分からないが、建物の壁の二面に、女性が座る席が、他の二面には男性が座りっており、座る場所に男女の別が、ユダヤ教のシナゴーグと同様にあるようである。年齢の別は関係がないようであるが、女性に関しては、全員が被り物をしており、女の子が白い被り物をしているところから、未婚の女性は白の、既婚の女性は黒の被り物をするようである。主人公ジャックの意中の女性バーサ(Bertha)も、髪を後ろに撫でて纏め、白色の薄いレースのような被り物を被っている。集会者は、膝に上に置かれた聖書のような本を片手で広げ、もう一本の片腕を、右手か左手かは決まっておらず、肘を軸にして、歌に合わせてゆっくり上下させている。
ミサの儀式の一つに「洗足式(せんぞくしき)」があり、この儀式は、ヨハネによる福音書13:1-17に書かれてある、イエスが弟子の足を洗ったことによる。まず、一つの壁面に座っている四人の男性が立ち上がり、別の面に座っている四人の女性の前に向かう。彼女達の前には既に洗面器のような金盥があり、四人の男性は、跪いて、椅子に座ったままの四人の女性の足を洗う。足を洗われた四人の女性は、今度は、自分達の正面に座っている男性達の足を洗うのである。ある事情で、このミサの場面は別の場面へと急展開するのであるが、この教会の教派は、調べたところによると、Brethrenブレザレン会派という。この会派は、元々はドイツから発祥した、プロテスタント系再洗礼派の会派である。
このような状況下で、1916年の大統領選挙で民主党の現職ウッドロウ・ウィルソンが再選され、17年一月に米国議会が招集されると、大統領選挙では争点となっていなかった禁酒法問題が突然脚光を浴びることとなる。ウィキペディアによると、この議会では、「ドライ」派が、民主党では140対64、共和党で138対62と、それぞれ「ウェット」派よりも多く、また、同年四月にUSAが対独宣戦布告をしたことから、「ウェット」派の主要勢力の一つであったドイツ系アメリカ人の発言力が失われたこともこれに影響した。しかも、当時のUSAにおける大手ビール製造会社の多くがドイツ系であったこともあり、「ビール=ドイツ=悪」という単純明快なイメージがまかり通ったこともあって、「ドライ」派を勢いづかせることに繋がったと言われている。こうして、1920年に禁酒法は議会で採択される。
このような禁酒法成立の宗教的な背景を鑑みると、本作の23分代から数分に亘り、ある教会内のでミサの様子が描かれたことは、興味深い。
この教会の外には車が止まっており、信者は、馬車にしか乗らないアーミッシュの信仰者よりはラディカルではないようである。教会内には祭壇のようなものはなく、建物の中央には空間を設けて、そこに牧師に当たる人物が立ち、集会者は、この中央の空間に向けて、四方に何列か椅子を並べて座っている。建物の東西方向は分からないが、建物の壁の二面に、女性が座る席が、他の二面には男性が座りっており、座る場所に男女の別が、ユダヤ教のシナゴーグと同様にあるようである。年齢の別は関係がないようであるが、女性に関しては、全員が被り物をしており、女の子が白い被り物をしているところから、未婚の女性は白の、既婚の女性は黒の被り物をするようである。主人公ジャックの意中の女性バーサ(Bertha)も、髪を後ろに撫でて纏め、白色の薄いレースのような被り物を被っている。集会者は、膝に上に置かれた聖書のような本を片手で広げ、もう一本の片腕を、右手か左手かは決まっておらず、肘を軸にして、歌に合わせてゆっくり上下させている。
ミサの儀式の一つに「洗足式(せんぞくしき)」があり、この儀式は、ヨハネによる福音書13:1-17に書かれてある、イエスが弟子の足を洗ったことによる。まず、一つの壁面に座っている四人の男性が立ち上がり、別の面に座っている四人の女性の前に向かう。彼女達の前には既に洗面器のような金盥があり、四人の男性は、跪いて、椅子に座ったままの四人の女性の足を洗う。足を洗われた四人の女性は、今度は、自分達の正面に座っている男性達の足を洗うのである。ある事情で、このミサの場面は別の場面へと急展開するのであるが、この教会の教派は、調べたところによると、Brethrenブレザレン会派という。この会派は、元々はドイツから発祥した、プロテスタント系再洗礼派の会派である。
2026年2月26日木曜日
柳生連也斎 秘伝月影抄(日本、1956年作)監督:田坂 勝彦
柳生家が、江戸だけではなく尾張にもあるとは知らなかった。調べてみると、柳生家は、元々は現・奈良県に所領を持つ一豪族に過ぎなかったと言う。それが、江戸時代初期に徳川家康・秀忠に厚遇されることとなり、それを以って、大名格の大和柳生藩にまで成長するが、それは、第一代目藩主・柳生宗矩(むねのり)がその基礎を築いたからであった。これが、「江戸柳生」である。
これに対し、「尾張柳生」というものもあり、これは宗矩の父で、剣聖と呼ばれた上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)から新陰流を伝授された柳生宗厳(むねとし、後の石舟斎)に、宗矩の他に長男・厳勝(としかつ)という子もおり、この厳勝の子・利厳(としとし;つまり宗矩の甥)が、大坂夏の陣の年の元和元年の1615年に尾張徳川家に五百石で出仕し、藩主徳川義直に兵法を伝授し、それ以降、代々藩主の指南役を務めることとなったからである。利厳は、本作では、「柳生兵庫助」という名称で登場し、本作の、市川雷蔵が演じるところの「兵介」は、正式には、「厳包(としかね)」といい、隠居後は、本作の題名の一部になっている「連也斎」と名乗った。「兵介」は、実際に、徳川義直の子・光友(光義)の師範となって、本作でも描かれるように新陰流を伝授しており(新陰流第六世)、後の「連也斎」となる彼は、『御秘書』、『連翁七箇條』などの著書も著わした江戸時代前期の剣術家であった。厳包は、剣術家となると、最早女性を自らに近づけず、それ故に妻子もいなかったと言われている。これが正しいとすると、本作のラストシーンもまんざら嘘ではないことになる。元禄七年の1694年、70歳の時に兄・利方の子たる厳延に印可を相伝して道統を継承させたと言う。有名な赤穂事件が起こるのは、その七年後であった。
兵介の父・柳生兵庫助に対する剣豪・宮本武蔵、余り腕が立つとは見えない兵介(市川雷蔵)に対する、武蔵の弟子で、武蔵より「見切りの秘太刀」を伝授された鈴木綱四郎(勝新太郎)、兵介を想う、武家の娘さんに対する同じく兵介を慕う遊女・美和と、コントラストの構図ははっきりしており、殆んど考えなくともストーリー展開には付いていける。この構図は、兵介に懸想する美和に、何故か綱四郎がぞっこん惚れ込んでいるところから、錯綜し、こうして、幼馴染でもあり、また良きライバルたる剣友・兵介への綱四郎の敵愾心はいやが上にも高まり、結局、この邪恋が、美和も、そして綱四郎自身までも亡ぼすことになる。
原作は、剣豪小説のジャンルを戦後の50年代になって改新したと言われる五味康佑(やすすけ)による。様々な職業に就きながらも、小説を書くことを諦めずにいた五味は、偶々音楽関連で知り合った新潮社の役員に支援を受けながら、ある時聴いたフランス人作曲家クロード・ドビュッシーのピアノ独奏曲「西風が見たもの」(プレリュード第一集より)にイメージを受けて、原稿用紙30枚程の短編『喪神』を書き上げ、これを『新潮』の1952年12月号の「同人雑誌推薦新人特集」に掲載してもらう。これが、翌年の第28回芥川賞を受賞し、五味の小説家としての地位を確固たるものとした。この作品は、53年に早速、大映により『魔剣』(安達伸生監督;大河内傅次郎主演)の題名で映画化される。55年には短編『秘剣』が発表され、これが、『喪神』も含む後の短編集『秘剣・柳生連也斎』の表題作となる。『秘剣』自体は、同名の映画作品として1963年に稲垣浩監督、市川染五郎主演で映画化されることになるが、『柳生連也斎』という作品も55年に世に問われている。これが何故に大映映画の本作の題名の一部となっている「秘伝月影抄」に関係があるのかは、今のところ筆者には未知である。しかも、市川と勝の決闘は、日中に行なわれており、その際、兵介が父から授かる知恵「相手の影を切る」は、勝が太陽を背に受けて投げる影を兵介が踏み続けて間合いを一定にするというものであるから、それであれば、「秘伝日影抄」であろう。
五味は、1956年の『週刊新潮』の創刊号より、『柳生武芸長』を連載し始め、これが人気を博し、剣豪小説、武芸長というジャンルのブームを、同時期の連載もの『眠狂四郎シリーズ』を書いた柴田錬三郎と共に、導いた一人であった。
最後に、本作を観ていて、非業の女・美和の髪型が気になったので、これについて述べておこう。インターネットに「女の髪型、室町時代、遊女」と入れて検索したら、ウィキペディアに「立兵庫(たてひょうご)」という項目が出てきた。映画を観ていて観察できたのは、この髪型は、耳の後ろ辺りは何やら小姓の髪型、髷は、太く結って立ち上げて、銀杏の葉のようにした形に広げたものである。そうして、ウィキペディアの「立兵庫」の説明によると、これは、主に女歌舞伎役者や遊女に好まれた髪型であると言う。安土・桃山時代頃、中国・明の女性の髷を真似て流行り出した髷に「唐輪(からわ)」という髪型があり、これは、兵庫や堺などの港町にいた遊女がよく結ったものである。その結い方は、「前髪を真ん中で分けたのち髷は髪を頭上で纏め上げて二つから四つの輪を作ってから、根元に余った髪を巻きつけて高く結い上げる」ものであると言う。立兵庫の方は、「髪を一つにくくったものを頭上で一つの輪にし、余った毛先を根元に巻きつけて高く結い上げる」のである。頭上で作る輪の数が、複数か一つかで異なるようであるが、この立兵庫の立っている髷を横に広げると「横兵庫」となり、江戸時代の花魁の髷として知られることになる。成程、立兵庫は、「縦」兵庫となり、そのヴァリエーションは、横兵庫となる訳である。
これに対し、「尾張柳生」というものもあり、これは宗矩の父で、剣聖と呼ばれた上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)から新陰流を伝授された柳生宗厳(むねとし、後の石舟斎)に、宗矩の他に長男・厳勝(としかつ)という子もおり、この厳勝の子・利厳(としとし;つまり宗矩の甥)が、大坂夏の陣の年の元和元年の1615年に尾張徳川家に五百石で出仕し、藩主徳川義直に兵法を伝授し、それ以降、代々藩主の指南役を務めることとなったからである。利厳は、本作では、「柳生兵庫助」という名称で登場し、本作の、市川雷蔵が演じるところの「兵介」は、正式には、「厳包(としかね)」といい、隠居後は、本作の題名の一部になっている「連也斎」と名乗った。「兵介」は、実際に、徳川義直の子・光友(光義)の師範となって、本作でも描かれるように新陰流を伝授しており(新陰流第六世)、後の「連也斎」となる彼は、『御秘書』、『連翁七箇條』などの著書も著わした江戸時代前期の剣術家であった。厳包は、剣術家となると、最早女性を自らに近づけず、それ故に妻子もいなかったと言われている。これが正しいとすると、本作のラストシーンもまんざら嘘ではないことになる。元禄七年の1694年、70歳の時に兄・利方の子たる厳延に印可を相伝して道統を継承させたと言う。有名な赤穂事件が起こるのは、その七年後であった。
兵介の父・柳生兵庫助に対する剣豪・宮本武蔵、余り腕が立つとは見えない兵介(市川雷蔵)に対する、武蔵の弟子で、武蔵より「見切りの秘太刀」を伝授された鈴木綱四郎(勝新太郎)、兵介を想う、武家の娘さんに対する同じく兵介を慕う遊女・美和と、コントラストの構図ははっきりしており、殆んど考えなくともストーリー展開には付いていける。この構図は、兵介に懸想する美和に、何故か綱四郎がぞっこん惚れ込んでいるところから、錯綜し、こうして、幼馴染でもあり、また良きライバルたる剣友・兵介への綱四郎の敵愾心はいやが上にも高まり、結局、この邪恋が、美和も、そして綱四郎自身までも亡ぼすことになる。
原作は、剣豪小説のジャンルを戦後の50年代になって改新したと言われる五味康佑(やすすけ)による。様々な職業に就きながらも、小説を書くことを諦めずにいた五味は、偶々音楽関連で知り合った新潮社の役員に支援を受けながら、ある時聴いたフランス人作曲家クロード・ドビュッシーのピアノ独奏曲「西風が見たもの」(プレリュード第一集より)にイメージを受けて、原稿用紙30枚程の短編『喪神』を書き上げ、これを『新潮』の1952年12月号の「同人雑誌推薦新人特集」に掲載してもらう。これが、翌年の第28回芥川賞を受賞し、五味の小説家としての地位を確固たるものとした。この作品は、53年に早速、大映により『魔剣』(安達伸生監督;大河内傅次郎主演)の題名で映画化される。55年には短編『秘剣』が発表され、これが、『喪神』も含む後の短編集『秘剣・柳生連也斎』の表題作となる。『秘剣』自体は、同名の映画作品として1963年に稲垣浩監督、市川染五郎主演で映画化されることになるが、『柳生連也斎』という作品も55年に世に問われている。これが何故に大映映画の本作の題名の一部となっている「秘伝月影抄」に関係があるのかは、今のところ筆者には未知である。しかも、市川と勝の決闘は、日中に行なわれており、その際、兵介が父から授かる知恵「相手の影を切る」は、勝が太陽を背に受けて投げる影を兵介が踏み続けて間合いを一定にするというものであるから、それであれば、「秘伝日影抄」であろう。
五味は、1956年の『週刊新潮』の創刊号より、『柳生武芸長』を連載し始め、これが人気を博し、剣豪小説、武芸長というジャンルのブームを、同時期の連載もの『眠狂四郎シリーズ』を書いた柴田錬三郎と共に、導いた一人であった。
最後に、本作を観ていて、非業の女・美和の髪型が気になったので、これについて述べておこう。インターネットに「女の髪型、室町時代、遊女」と入れて検索したら、ウィキペディアに「立兵庫(たてひょうご)」という項目が出てきた。映画を観ていて観察できたのは、この髪型は、耳の後ろ辺りは何やら小姓の髪型、髷は、太く結って立ち上げて、銀杏の葉のようにした形に広げたものである。そうして、ウィキペディアの「立兵庫」の説明によると、これは、主に女歌舞伎役者や遊女に好まれた髪型であると言う。安土・桃山時代頃、中国・明の女性の髷を真似て流行り出した髷に「唐輪(からわ)」という髪型があり、これは、兵庫や堺などの港町にいた遊女がよく結ったものである。その結い方は、「前髪を真ん中で分けたのち髷は髪を頭上で纏め上げて二つから四つの輪を作ってから、根元に余った髪を巻きつけて高く結い上げる」ものであると言う。立兵庫の方は、「髪を一つにくくったものを頭上で一つの輪にし、余った毛先を根元に巻きつけて高く結い上げる」のである。頭上で作る輪の数が、複数か一つかで異なるようであるが、この立兵庫の立っている髷を横に広げると「横兵庫」となり、江戸時代の花魁の髷として知られることになる。成程、立兵庫は、「縦」兵庫となり、そのヴァリエーションは、横兵庫となる訳である。
(本作は白黒映画である。)
2026年2月17日火曜日
バトルシップ(USA、2012年作)監督:ピーター・バーグ
某国女性首相がお好みの艦種「戦艦」が、21世紀の現代においても、対エイリアン戦の土壇場で大活躍する、痛快SFミリタリー・アクション映画。US・Navyと日本海軍が共同する「お友達作戦」も見どころである。
さて、本作に登場する戦艦は、USS Missouri,BB-63戦艦ミズーリ号である。本艦は、太平洋戦争中の1944年六月に就役し、一時予備役に入ったものの改装され、その後の1990年に勃発した対イラク湾岸戦争でも任務に就き、ようやく1992年三月になって退役したBattleshipである。
戦艦ミズーリ号と言えば、太平洋戦争史の最後を飾る、1945年九月二日に、日本が連合国諸国に対して無条件降伏したことを認める調印式がその艦上で行なわれた戦艦であった。ウィキペディアによると、この日、東京湾にあった本艦艦上の出来事は以下のようであったようである:
「全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦した。チェスター・ニミッツ海軍元帥は8:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は8:43に乗艦し、日本側全権代表団は8:56に到着した。アメリカ海軍では、乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げると規定されているが、降伏調印式では、マッカーサーの要求で例外的に、海軍元帥の将旗だけでなく、陸軍元帥の将旗も掲げられた。9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中甲板は2枚の星条旗で飾られた。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で東京湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(31州の星が描かれた星条旗)である。」
このペリー艦隊との関連付けは、マッカーサーの演出であったと言われ、ミズーリ号の係留場所は、ペリー艦隊の旗艦Pawhatanポーハタン号が日米和親条約の署名の際に停泊した場所と同じ場所であった。この降伏文書調印式には、USA以外は、中華民国、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダ、フランスにソ連が加わり、日本側からは、天皇及び帝国政府を代表して重光葵外務大臣が、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長などが出席した。
この歴史的に由緒ある戦艦ミズーリ号は、US海軍の超弩級戦艦アイオワ級の三番艦として建造された。本作における見ものの一つである、本艦主砲斉射の場面は、ウィキペディアにある、湾岸戦争時の写真でも確認できる。故に、本艦と戦艦大和と比較して、本作での本艦の「活躍」を相対化してみようと思う。各項目の左側の数字がミズーリ号のもの、右側の数字が戦艦大和のものである。
基準排水量 45.000t 64.000t
満載排水量 58.000t 72.800t
全長 270,4m 263,4m
最大幅 33m 38,9m
主砲 50口径40,6cm三連装砲 45口径46cm三連装砲
両艦をこのように比較してみると、全長以外は、大和の方が全て数値が上回っており、当時の戦艦建造技術において日本が如何に優れていたかが垣間見られるのである。
さて、本作に登場する戦艦は、USS Missouri,BB-63戦艦ミズーリ号である。本艦は、太平洋戦争中の1944年六月に就役し、一時予備役に入ったものの改装され、その後の1990年に勃発した対イラク湾岸戦争でも任務に就き、ようやく1992年三月になって退役したBattleshipである。
戦艦ミズーリ号と言えば、太平洋戦争史の最後を飾る、1945年九月二日に、日本が連合国諸国に対して無条件降伏したことを認める調印式がその艦上で行なわれた戦艦であった。ウィキペディアによると、この日、東京湾にあった本艦艦上の出来事は以下のようであったようである:
「全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦した。チェスター・ニミッツ海軍元帥は8:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は8:43に乗艦し、日本側全権代表団は8:56に到着した。アメリカ海軍では、乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げると規定されているが、降伏調印式では、マッカーサーの要求で例外的に、海軍元帥の将旗だけでなく、陸軍元帥の将旗も掲げられた。9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中甲板は2枚の星条旗で飾られた。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で東京湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(31州の星が描かれた星条旗)である。」
このペリー艦隊との関連付けは、マッカーサーの演出であったと言われ、ミズーリ号の係留場所は、ペリー艦隊の旗艦Pawhatanポーハタン号が日米和親条約の署名の際に停泊した場所と同じ場所であった。この降伏文書調印式には、USA以外は、中華民国、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダ、フランスにソ連が加わり、日本側からは、天皇及び帝国政府を代表して重光葵外務大臣が、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長などが出席した。
この歴史的に由緒ある戦艦ミズーリ号は、US海軍の超弩級戦艦アイオワ級の三番艦として建造された。本作における見ものの一つである、本艦主砲斉射の場面は、ウィキペディアにある、湾岸戦争時の写真でも確認できる。故に、本艦と戦艦大和と比較して、本作での本艦の「活躍」を相対化してみようと思う。各項目の左側の数字がミズーリ号のもの、右側の数字が戦艦大和のものである。
基準排水量 45.000t 64.000t
満載排水量 58.000t 72.800t
全長 270,4m 263,4m
最大幅 33m 38,9m
主砲 50口径40,6cm三連装砲 45口径46cm三連装砲
両艦をこのように比較してみると、全長以外は、大和の方が全て数値が上回っており、当時の戦艦建造技術において日本が如何に優れていたかが垣間見られるのである。
ところで、本作の、少々冗長な序盤で、US・Navyと日本海軍が親善サッカー試合をする場面がある。その際、日本海軍チームの選手の背中には、旭日旗が貼り付けられている。筆者は、一時、旧帝国海軍が生き返ったのではないかと、目を疑い、後で調べてみると、旧帝国海軍の軍艦旗である「十六条旭日旗」は、現代にも生き延びていることを知り、少々思うところがあった。改めて問うに、日本人は、「先の大戦」と歴史的にどう向き合っているのであろうか。
2026年2月7日土曜日
ハンター・キラー 潜行せよ(USA, 2018年作)監督:ドノヴァン・マーシュ
Pride runs deep Silent Service
沈黙の艦隊、潜水艦乗りの誇りを持って北極海の海底深く潜行する
本作は、潜水艦ものとしては、『沈黙の艦隊 北極海大海戦』に匹敵する作品である。但し、誤解がないように!『沈黙の艦隊 北極海大海戦』と言っているのは、実写版ではなく、傑作のアニメ版である。
上述の英語文は、主人公G.バトラー(制作者の一人も兼ねる)が映画の冒頭で、新しく自分が艦長となるべき、「Hunter Killer」たるべきUSS最新鋭潜水艦に乗り組む前に、自分のポケットから取り出したコインに書かれてある言葉である。狩りに出るハンターをも殺ってしまえる程、性能がいい、この最新鋭潜水艦は、USSヴァージニア級攻撃型原子力潜水艦の一隻である。『沈黙の艦隊 北極海大海戦』で登場する「シーウルフ」級が建造に経費が嵩み過ぎて殆んど建造されなかったことに鑑みて、その性能は、本作の冒頭で登場し、撃沈されるロサンゼルス級原子力潜水艦より性能はあるが、シーウルフ級よりは廉価である型である。故に、60隻以上の建造が見込まれている、建造が2000年に、就役がその四年後から始まった、2025年現在でも現役のサブマリーンである。
しかし、本作はストーリー展開が早過ぎ、また、潜水艦ものに徹していない作品なので、潜水艦ものに付き物の、あの狭い艦内での閉塞感が殆んど感じられない点で、マイナスである。この潜水艦ものに徹底できない代わり、Navy SEALsネイヴィー・シールズの地上戦のサブ・ストーリーがあり、このサブ・ストーリーは、確かに「損失」があるのではあるが、それでも展開が上手く行き過ぎで、「眉唾物」である。まず、ロシア連邦のドゥ―ロフ国防相がクー・デタを実行し、米露の戦争を勃発させようとするだけの内面的動機が全く本作では説明されていないことに内容の深みのなさがあり、不満が残る。その意味では、本作は、残念ながら、何も考えなくてもよいポップコーン・戦闘アクション映画である。
さて、本作には、ストーリーとしては、もう一つのレベルがあり、それが、国防省(現:戦争省)でのやり取りである。このレベルでのストーリー展開で重要な役割を演じるのが、統合参謀本部議長である。この役を、イギリス人名俳優サー・ゲアリー・ゴールドマンが演じている。善玉たるUSAの側において、好戦的な軍事上の権力者として、緊張を作り出して、ストーリー展開に、言わば、「塩味を効かせる」役である。尚、G.ゴールドマンは、2018年の第90回USAアカデミー賞で、別の作品でのウィンストン・チャーチル役で主演男優賞を獲得しており、本作は、彼がアカデミー賞を受賞した直後の作品となる。
ところで、統合参謀本部議長とは、USAにおける政治・軍事機構の中でどんな位置を占める役職なのであろうか。
これには、まずは、the Joint Chiefs of Staff 統合参謀本部がどんなものであるか知らねばならない。1947年以来存在する、この本部は、米軍の五種類の軍種、つまり、陸軍、海軍、空軍、宇宙軍、そして、海兵隊の長、更に、州兵を管轄する州兵総局のトップ・州兵総局局長がメンバーであり、これに、専任の議長及び副議長が加わって、構成される。つまり、八名で構成される組織である。
この合議体の長がChairman of the Joint Chiefs of Staff統合参謀本部議長となり、議長は大統領が、各軍の最高司令官級の軍人の中から指名し、上院の助言と承認を以って、任期四年で任命される。階級は、大将となり、一般には、「制服組のトップ」と言われる存在である。
統合参謀本部議長が「制服組のトップ」とは言え、シヴィリアン・コントロールのUSAでは、最高指揮権は大統領にあり、統合参謀本部議長は軍事面における助言者であるに過ぎない。故に、各軍への命令は、大統領から戦争省長官を経て、各統合軍の司令官を通じて直接発動されるという経路を辿る。故に、本作で、G.オールドマン演じるところの統合参謀本部議長が直接に命令を下して、米露軍事衝突になり兼ねない軍事行動を発令できないはずであるが、これは、ストーリー展開を盛り上げるための「芸術上の自由」というところであろうか。
本作には2012年に発表された『Firing Point』という原作があり、作者は、Don Keithドン・キースとGeorge Wallaceジョージ・ウォレスである。G.ウォレスは、USA海軍潜水艦の元艦長であり、彼が共作しているからこそ、やはり、本作ラストシーンのテイストが出てくるのであろう。米露の潜水艦艦長同志の「潜水艦乗り魂」が称揚される本作のラストシーンは、対立の中においても人間性を失わないヒューマニズムへの賛歌を感じさせる終わりとなっている。
そうとは思いつつも、ウクライナ侵攻後のロシア、トランプ第二次政権の権威主義的統治を知っている2026年以降の人間には、本作が米ソ協調の古き良き時代の遺物にしか見えなかったのではなかろうか。
沈黙の艦隊、潜水艦乗りの誇りを持って北極海の海底深く潜行する
本作は、潜水艦ものとしては、『沈黙の艦隊 北極海大海戦』に匹敵する作品である。但し、誤解がないように!『沈黙の艦隊 北極海大海戦』と言っているのは、実写版ではなく、傑作のアニメ版である。
上述の英語文は、主人公G.バトラー(制作者の一人も兼ねる)が映画の冒頭で、新しく自分が艦長となるべき、「Hunter Killer」たるべきUSS最新鋭潜水艦に乗り組む前に、自分のポケットから取り出したコインに書かれてある言葉である。狩りに出るハンターをも殺ってしまえる程、性能がいい、この最新鋭潜水艦は、USSヴァージニア級攻撃型原子力潜水艦の一隻である。『沈黙の艦隊 北極海大海戦』で登場する「シーウルフ」級が建造に経費が嵩み過ぎて殆んど建造されなかったことに鑑みて、その性能は、本作の冒頭で登場し、撃沈されるロサンゼルス級原子力潜水艦より性能はあるが、シーウルフ級よりは廉価である型である。故に、60隻以上の建造が見込まれている、建造が2000年に、就役がその四年後から始まった、2025年現在でも現役のサブマリーンである。
しかし、本作はストーリー展開が早過ぎ、また、潜水艦ものに徹していない作品なので、潜水艦ものに付き物の、あの狭い艦内での閉塞感が殆んど感じられない点で、マイナスである。この潜水艦ものに徹底できない代わり、Navy SEALsネイヴィー・シールズの地上戦のサブ・ストーリーがあり、このサブ・ストーリーは、確かに「損失」があるのではあるが、それでも展開が上手く行き過ぎで、「眉唾物」である。まず、ロシア連邦のドゥ―ロフ国防相がクー・デタを実行し、米露の戦争を勃発させようとするだけの内面的動機が全く本作では説明されていないことに内容の深みのなさがあり、不満が残る。その意味では、本作は、残念ながら、何も考えなくてもよいポップコーン・戦闘アクション映画である。
さて、本作には、ストーリーとしては、もう一つのレベルがあり、それが、国防省(現:戦争省)でのやり取りである。このレベルでのストーリー展開で重要な役割を演じるのが、統合参謀本部議長である。この役を、イギリス人名俳優サー・ゲアリー・ゴールドマンが演じている。善玉たるUSAの側において、好戦的な軍事上の権力者として、緊張を作り出して、ストーリー展開に、言わば、「塩味を効かせる」役である。尚、G.ゴールドマンは、2018年の第90回USAアカデミー賞で、別の作品でのウィンストン・チャーチル役で主演男優賞を獲得しており、本作は、彼がアカデミー賞を受賞した直後の作品となる。
ところで、統合参謀本部議長とは、USAにおける政治・軍事機構の中でどんな位置を占める役職なのであろうか。
これには、まずは、the Joint Chiefs of Staff 統合参謀本部がどんなものであるか知らねばならない。1947年以来存在する、この本部は、米軍の五種類の軍種、つまり、陸軍、海軍、空軍、宇宙軍、そして、海兵隊の長、更に、州兵を管轄する州兵総局のトップ・州兵総局局長がメンバーであり、これに、専任の議長及び副議長が加わって、構成される。つまり、八名で構成される組織である。
この合議体の長がChairman of the Joint Chiefs of Staff統合参謀本部議長となり、議長は大統領が、各軍の最高司令官級の軍人の中から指名し、上院の助言と承認を以って、任期四年で任命される。階級は、大将となり、一般には、「制服組のトップ」と言われる存在である。
統合参謀本部議長が「制服組のトップ」とは言え、シヴィリアン・コントロールのUSAでは、最高指揮権は大統領にあり、統合参謀本部議長は軍事面における助言者であるに過ぎない。故に、各軍への命令は、大統領から戦争省長官を経て、各統合軍の司令官を通じて直接発動されるという経路を辿る。故に、本作で、G.オールドマン演じるところの統合参謀本部議長が直接に命令を下して、米露軍事衝突になり兼ねない軍事行動を発令できないはずであるが、これは、ストーリー展開を盛り上げるための「芸術上の自由」というところであろうか。
本作には2012年に発表された『Firing Point』という原作があり、作者は、Don Keithドン・キースとGeorge Wallaceジョージ・ウォレスである。G.ウォレスは、USA海軍潜水艦の元艦長であり、彼が共作しているからこそ、やはり、本作ラストシーンのテイストが出てくるのであろう。米露の潜水艦艦長同志の「潜水艦乗り魂」が称揚される本作のラストシーンは、対立の中においても人間性を失わないヒューマニズムへの賛歌を感じさせる終わりとなっている。
そうとは思いつつも、ウクライナ侵攻後のロシア、トランプ第二次政権の権威主義的統治を知っている2026年以降の人間には、本作が米ソ協調の古き良き時代の遺物にしか見えなかったのではなかろうか。
2026年2月4日水曜日
ゴジラ(日本、1954年作)監督:本多 猪四郎
「呉爾羅」、大都を襲う!
このゴジラ映画シリーズの第一作目を記念する東宝特撮映画は、「水爆大怪獣映画」とポスターに銘打たれた。
まず、ここでは、「原爆怪獣」ではなく、「水爆怪獣」となっていることに気を付けたい。冷戦は、遅くとも1950年代に入ると共に、原爆よりも何倍も破壊力がある水爆による「熱戦」の可能性が現実味を帯びていたのである。既に、通常兵器による東西冷戦の代理戦争、つまり、朝鮮戦争は1950年に勃発しており、この日本の近隣での戦争の中で、日本は、西側だけとの一方的平和条約を1951年に締結し、朝鮮戦争による「特需」で、「奇蹟的経済復興」の端緒を掴むことになる。そして、朝鮮戦争が停戦協定により取り敢えず休戦したのが、1953年の七月下旬である。こうした国際環境の中、翌年三月一日に起こったのが、第五福竜丸被曝事件である。これは、USAのビキニ環礁での初の水爆実験で、予想外の爆発力の結果、危険水域外であると言われていた水域にいた数多くの漁船(一説によると1400隻以上)が被曝し、その内の一隻であった遠洋マグロ漁船・第五福竜丸でも、その乗組員23名が水爆爆発後の「死の灰」を浴びた。第五福竜丸は、被曝したものの救難連絡はせずに、三月中旬に自力で静岡県焼津港に帰還する。この事件は新聞にスクープされ、日本は、原爆のみならず、水爆の被害にも曝された国として、また、被曝したマグロは、本作でも言及された通り、「原爆マグロ」と呼ばれて廃棄されたのであった。こうして、第五福竜丸被曝事件は、54年四月以降、日本全国で知られるところとなる。
さて、東宝製作による本作のプロデューサーとなった田中友幸は、これに先立つ1953年八月以降、日本とインドネシアとの合作映画『栄光のかげに』の制作のために奔走し、監督に谷口千吉を、主演に山口淑子、池辺良を招いて、敗戦後も日本に帰還せず、インドネシア独立のために対オランダ独立闘争を闘った元日本兵をテーマとした映画を制作する目的で動いていた。第五福竜丸被曝事件と同月の54年三月には、東宝側はインドネシアに撮影機材を送って、四月からのクランクインに備えていた程であった。しかし、未だ日本とインドネシアの間での国交が回復されておらず、戦後の賠償問題も解決していない中、自国の占領軍であった大日本帝国軍の一員が解放運動の「英雄」となる「虫のよい」話しがインドネシア政府に気に入るはずもなく、三月下旬に急に合作制作の契約が解除される事態となる。田中は、急遽、代替え案を出さざる得なくなる。まずは、監督の谷口には、文芸作品として当時ベストセラーとなっていた三島由紀夫作品『潮騒』の映画化に回ってもらう。そして、二本の戦争もの『太平洋の嵐』(1953年作)と『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で、戦中からのプロパガンダ用の特撮映画が戦後もその可能性が大きいことに改めて気付いていた田中は、ウィキペディアによると、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の代替え企画を、ジャカルタから東京への帰路、立てたと言う。
東京の東宝本社の企画会議で上述の企画に関して一応の了承を取り付けると、田中は文芸部と大まかな方向性を54年五月には決めるが、水爆大怪獣の名称はこの時には既に「呉爾羅」となっていたようである。田中は同月、自らもファンである怪奇幻想・冒険ものの作家である香山滋に原作を依頼し、「G作品検討用台本」が同月末には出来上がった。
既に、田中はプロデューサーとして、『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で円谷英二と一緒の仕事をしており、「G作品」の特撮は円谷が担当することは早くから決まっていたが、池辺良主演の『さらばラバウル』の監督が本多猪四郎であったこともあり、田中は本多を「G作品」監督に連投で担当させ、脚本家・村田武雄を、生活感の薄い香山原作の「G作品検討用台本」により人間味を与える目的で選び出し、彼に本多と共同で「G作品準備稿」の作成に当たらせた。本作に漂う平和を願う雰囲気や女子高校生が平和を祈る斉唱のシーンなどはクリスチャンであった村田の存在なしでは考えられないと一部では評されている。こうして、「撮影台本決定稿」が出来上がっていくが、撮影監督には、正攻法で撮るヴェテランカメラマンであった玉井正夫を起用した。玉井は、東宝の女性ものの名監督・成瀬巳喜男の作品を何本も撮った、言わば、成瀬組撮影監督であり、本作本編のしっかりした撮影に相応しい人物であったと言える。玉井は本作の制作年の54年には、成瀬監督の下、『山の音』(川端康成原作)、『晩菊』(林芙美子原作)などの文芸作品を撮っている。
本作制作には、東宝は、本多組の本篇A班、円谷組の特技B班、そして、本編映像と特撮映像の合成加工を担当する合成C班(チーフ:向山宏)の三班体制で取り掛かり、本篇A班は54年八月上旬に、特技B班は同月下旬に撮影入りした。A班は、九月下旬に、B班は、撮影準備に時間が掛かったところから、ようやく十月下旬に撮了した。予定の初上映日の11月3日にようやく間に合った訳である。
このような東宝側の動きに対して、第五福竜丸被曝事件を巡る動静は、水爆大怪獣映画を撮る方向性が決まった五月上旬に新たな運動へと発展した。この時期、東京都杉並区の婦人団体(本作に登場する、菅井きん演ずるところの女性国会議員の態度に見られる日本人女性の行動力を思わせる)、福祉協議会、PTA、労働組合などが音頭を取って、約40人の代表人が、「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成し、「杉並アピール」なる声明を発表する。この署名運動は、またたく間に全国に拡がり、その三ヶ月後の八月上旬、つまり本多A班の撮影入りの時期には、「全国協議会」の結成大会が東京都で開催されることになる。これが一年後の55年八月六日に広島で開催された「第一回原水爆禁止世界大会」に繋がる訳である。
A班の撮影が終了するのは、上述したように、九月下旬であったが、同月の中旬の9月24日に本作でも重要な場面となる女子高校生斉唱の撮影が行われた。実は、その前日、第五福竜丸の船員の一人あった久保山愛吉が、当時の東大の医師の診断によれば、「放射能症」が原因で亡くなっていた。久保山の病死は、日本人被曝者の内、半年以内で亡くなった唯一のケースとなったが、このことが日本での原水爆禁止運動の展開に具体的な動機を与えたことは間違いない。
こうして、「水爆大怪獣映画 ゴジラ」は、初上映日の11月3日を迎え、怪獣ものという「ゲテモノ作品」であるのにも関わらず、これがヒット作となった社会的背景には、第五福竜丸被曝という現実の事件、社会的な運動に発展しつつあった原水爆禁止署名運動の存在を抜きにしては考えられないのではないか。
とは言え、もう一方では、科学技術への未来主義的信仰も本作にあることは、見逃せない。本作のキャッチコピーが次のように言っている:
「ゴジラか化学兵器か 驚異と戦慄の一大攻防戦!放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!」
水爆という、地球をも破壊し兼ねない「科学技術の結晶」によって、解き放たれたジュラ紀の恐竜ゴジラに、人類はやはり化学兵器を以って対抗しようと言う。その化学兵器が、オキシジェン・デストロイヤーである。どうも、戦時中からドイツと共同研究をしていたらしいものを、天才科学者芹沢(平田昭彦)が極秘裏に戦後の日本で開発していたのである。右目に黒の眼帯を掛け、自宅の邸宅の地下にある実験室で新兵器を完成させた芹沢は、映画の78分台、ゴジラの大都での暴威を抑え込むために彼が開発した新兵器を使用するように頼みに来た主人公の尾形(宝田明)に次のように言う:
「尾形、若しも一旦このオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ... 必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、その上さらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは科学者として、いや、一個の人間として許す訳にはいかない。そうだろう。」
これに対して若い尾形は、現前としてある不幸を見逃せないし、新兵器の存在は公表しなければいいのではないかと反論する。すると、自己の立場に懊悩する芹沢は言う:
「尾形、人間というものは弱いもんで、一切の書類を焼いたとしても、俺の頭の中には残っている... 俺が死なない限り、どんなことで再び使用する立場に追い込まれないと誰が断言できる... ああ、こんなものさえ作らなきゃ。」
芹沢は両手で頭を抱えて側にあった机の上に崩れ落ちる。この時、BGMには葬送曲のような重々しいメロディーが既に流れている。オフから声が聞こえてくる:
「安らぎよ、光よ、とくかえれかし、本日全国一斉に行なわれました平和への祈り。これは東京からお送りするその一コマであります。暫くは命込めて祈る乙女達の歌声をお聞きください。」
どういう訳かスイッチが入っていた、日本国産初のテレビ「ユタカ テレビ」は、まずは東京の廃墟を写し、続けて、看護婦達に看護される被災者、怪我人を捉える。未だ十年も経っていない東京大空襲後の帝都東京を思わせる画面が変わると、ある大講堂の全屋に整列した女子生徒達が歌を斉唱している:
『平和への祈り』
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
命こめて 祈る我らの この一ふしの 哀れにめでて
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
嗚呼
この曲の作詞は、原作者の香山滋が書いたものであり、作曲は、本作の音楽を担当した伊福部昭である。この女子高生が斉唱する場面は、上述の通り、54年9月24日に撮られたものである。撮影場所は、当時女子中学校・高等学校であった桐朋学園の大講堂であった。撮影時には、女子高校生のみ、約570名を大講堂床面並びにギャラリーにも整列させ、その彼女達の前の講壇に伊福部が自ら立って指揮をしたと言う。映画で聞こえてくる声は、本職の合唱グループが歌ったものをプレスコで場面に合わせて被せたものであるが、台風一五号が近づいていたところから、「うだるような暑さ」の中で、女子高校生達は、暗記した歌詞を真摯に歌っていたと言う。この場面について考察しているある投稿記事(『桐朋教育』第56号;筆者:飯島望)によると、撮影時間は午後一時からの二・三時間のことであり、女子生徒達の多くがその前日に久保山愛吉が死亡したことを知っていたのではないかと推測している。何れにしても、清純な乙女達が真摯に平和への祈りを斉唱するシーンは、本作を単なる怪獣映画に終わらせない、本作の社会的な深みを感じさせる名場面である。
この歌に聴き入っていた芹沢は、ある決心をして、おもむろにテレビのスイッチを切ったのである。
このゴジラ映画シリーズの第一作目を記念する東宝特撮映画は、「水爆大怪獣映画」とポスターに銘打たれた。
まず、ここでは、「原爆怪獣」ではなく、「水爆怪獣」となっていることに気を付けたい。冷戦は、遅くとも1950年代に入ると共に、原爆よりも何倍も破壊力がある水爆による「熱戦」の可能性が現実味を帯びていたのである。既に、通常兵器による東西冷戦の代理戦争、つまり、朝鮮戦争は1950年に勃発しており、この日本の近隣での戦争の中で、日本は、西側だけとの一方的平和条約を1951年に締結し、朝鮮戦争による「特需」で、「奇蹟的経済復興」の端緒を掴むことになる。そして、朝鮮戦争が停戦協定により取り敢えず休戦したのが、1953年の七月下旬である。こうした国際環境の中、翌年三月一日に起こったのが、第五福竜丸被曝事件である。これは、USAのビキニ環礁での初の水爆実験で、予想外の爆発力の結果、危険水域外であると言われていた水域にいた数多くの漁船(一説によると1400隻以上)が被曝し、その内の一隻であった遠洋マグロ漁船・第五福竜丸でも、その乗組員23名が水爆爆発後の「死の灰」を浴びた。第五福竜丸は、被曝したものの救難連絡はせずに、三月中旬に自力で静岡県焼津港に帰還する。この事件は新聞にスクープされ、日本は、原爆のみならず、水爆の被害にも曝された国として、また、被曝したマグロは、本作でも言及された通り、「原爆マグロ」と呼ばれて廃棄されたのであった。こうして、第五福竜丸被曝事件は、54年四月以降、日本全国で知られるところとなる。
さて、東宝製作による本作のプロデューサーとなった田中友幸は、これに先立つ1953年八月以降、日本とインドネシアとの合作映画『栄光のかげに』の制作のために奔走し、監督に谷口千吉を、主演に山口淑子、池辺良を招いて、敗戦後も日本に帰還せず、インドネシア独立のために対オランダ独立闘争を闘った元日本兵をテーマとした映画を制作する目的で動いていた。第五福竜丸被曝事件と同月の54年三月には、東宝側はインドネシアに撮影機材を送って、四月からのクランクインに備えていた程であった。しかし、未だ日本とインドネシアの間での国交が回復されておらず、戦後の賠償問題も解決していない中、自国の占領軍であった大日本帝国軍の一員が解放運動の「英雄」となる「虫のよい」話しがインドネシア政府に気に入るはずもなく、三月下旬に急に合作制作の契約が解除される事態となる。田中は、急遽、代替え案を出さざる得なくなる。まずは、監督の谷口には、文芸作品として当時ベストセラーとなっていた三島由紀夫作品『潮騒』の映画化に回ってもらう。そして、二本の戦争もの『太平洋の嵐』(1953年作)と『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で、戦中からのプロパガンダ用の特撮映画が戦後もその可能性が大きいことに改めて気付いていた田中は、ウィキペディアによると、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の代替え企画を、ジャカルタから東京への帰路、立てたと言う。
東京の東宝本社の企画会議で上述の企画に関して一応の了承を取り付けると、田中は文芸部と大まかな方向性を54年五月には決めるが、水爆大怪獣の名称はこの時には既に「呉爾羅」となっていたようである。田中は同月、自らもファンである怪奇幻想・冒険ものの作家である香山滋に原作を依頼し、「G作品検討用台本」が同月末には出来上がった。
既に、田中はプロデューサーとして、『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で円谷英二と一緒の仕事をしており、「G作品」の特撮は円谷が担当することは早くから決まっていたが、池辺良主演の『さらばラバウル』の監督が本多猪四郎であったこともあり、田中は本多を「G作品」監督に連投で担当させ、脚本家・村田武雄を、生活感の薄い香山原作の「G作品検討用台本」により人間味を与える目的で選び出し、彼に本多と共同で「G作品準備稿」の作成に当たらせた。本作に漂う平和を願う雰囲気や女子高校生が平和を祈る斉唱のシーンなどはクリスチャンであった村田の存在なしでは考えられないと一部では評されている。こうして、「撮影台本決定稿」が出来上がっていくが、撮影監督には、正攻法で撮るヴェテランカメラマンであった玉井正夫を起用した。玉井は、東宝の女性ものの名監督・成瀬巳喜男の作品を何本も撮った、言わば、成瀬組撮影監督であり、本作本編のしっかりした撮影に相応しい人物であったと言える。玉井は本作の制作年の54年には、成瀬監督の下、『山の音』(川端康成原作)、『晩菊』(林芙美子原作)などの文芸作品を撮っている。
本作制作には、東宝は、本多組の本篇A班、円谷組の特技B班、そして、本編映像と特撮映像の合成加工を担当する合成C班(チーフ:向山宏)の三班体制で取り掛かり、本篇A班は54年八月上旬に、特技B班は同月下旬に撮影入りした。A班は、九月下旬に、B班は、撮影準備に時間が掛かったところから、ようやく十月下旬に撮了した。予定の初上映日の11月3日にようやく間に合った訳である。
このような東宝側の動きに対して、第五福竜丸被曝事件を巡る動静は、水爆大怪獣映画を撮る方向性が決まった五月上旬に新たな運動へと発展した。この時期、東京都杉並区の婦人団体(本作に登場する、菅井きん演ずるところの女性国会議員の態度に見られる日本人女性の行動力を思わせる)、福祉協議会、PTA、労働組合などが音頭を取って、約40人の代表人が、「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成し、「杉並アピール」なる声明を発表する。この署名運動は、またたく間に全国に拡がり、その三ヶ月後の八月上旬、つまり本多A班の撮影入りの時期には、「全国協議会」の結成大会が東京都で開催されることになる。これが一年後の55年八月六日に広島で開催された「第一回原水爆禁止世界大会」に繋がる訳である。
A班の撮影が終了するのは、上述したように、九月下旬であったが、同月の中旬の9月24日に本作でも重要な場面となる女子高校生斉唱の撮影が行われた。実は、その前日、第五福竜丸の船員の一人あった久保山愛吉が、当時の東大の医師の診断によれば、「放射能症」が原因で亡くなっていた。久保山の病死は、日本人被曝者の内、半年以内で亡くなった唯一のケースとなったが、このことが日本での原水爆禁止運動の展開に具体的な動機を与えたことは間違いない。
こうして、「水爆大怪獣映画 ゴジラ」は、初上映日の11月3日を迎え、怪獣ものという「ゲテモノ作品」であるのにも関わらず、これがヒット作となった社会的背景には、第五福竜丸被曝という現実の事件、社会的な運動に発展しつつあった原水爆禁止署名運動の存在を抜きにしては考えられないのではないか。
とは言え、もう一方では、科学技術への未来主義的信仰も本作にあることは、見逃せない。本作のキャッチコピーが次のように言っている:
「ゴジラか化学兵器か 驚異と戦慄の一大攻防戦!放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!」
水爆という、地球をも破壊し兼ねない「科学技術の結晶」によって、解き放たれたジュラ紀の恐竜ゴジラに、人類はやはり化学兵器を以って対抗しようと言う。その化学兵器が、オキシジェン・デストロイヤーである。どうも、戦時中からドイツと共同研究をしていたらしいものを、天才科学者芹沢(平田昭彦)が極秘裏に戦後の日本で開発していたのである。右目に黒の眼帯を掛け、自宅の邸宅の地下にある実験室で新兵器を完成させた芹沢は、映画の78分台、ゴジラの大都での暴威を抑え込むために彼が開発した新兵器を使用するように頼みに来た主人公の尾形(宝田明)に次のように言う:
「尾形、若しも一旦このオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ... 必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、その上さらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは科学者として、いや、一個の人間として許す訳にはいかない。そうだろう。」
これに対して若い尾形は、現前としてある不幸を見逃せないし、新兵器の存在は公表しなければいいのではないかと反論する。すると、自己の立場に懊悩する芹沢は言う:
「尾形、人間というものは弱いもんで、一切の書類を焼いたとしても、俺の頭の中には残っている... 俺が死なない限り、どんなことで再び使用する立場に追い込まれないと誰が断言できる... ああ、こんなものさえ作らなきゃ。」
芹沢は両手で頭を抱えて側にあった机の上に崩れ落ちる。この時、BGMには葬送曲のような重々しいメロディーが既に流れている。オフから声が聞こえてくる:
「安らぎよ、光よ、とくかえれかし、本日全国一斉に行なわれました平和への祈り。これは東京からお送りするその一コマであります。暫くは命込めて祈る乙女達の歌声をお聞きください。」
どういう訳かスイッチが入っていた、日本国産初のテレビ「ユタカ テレビ」は、まずは東京の廃墟を写し、続けて、看護婦達に看護される被災者、怪我人を捉える。未だ十年も経っていない東京大空襲後の帝都東京を思わせる画面が変わると、ある大講堂の全屋に整列した女子生徒達が歌を斉唱している:
『平和への祈り』
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
命こめて 祈る我らの この一ふしの 哀れにめでて
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
嗚呼
この曲の作詞は、原作者の香山滋が書いたものであり、作曲は、本作の音楽を担当した伊福部昭である。この女子高生が斉唱する場面は、上述の通り、54年9月24日に撮られたものである。撮影場所は、当時女子中学校・高等学校であった桐朋学園の大講堂であった。撮影時には、女子高校生のみ、約570名を大講堂床面並びにギャラリーにも整列させ、その彼女達の前の講壇に伊福部が自ら立って指揮をしたと言う。映画で聞こえてくる声は、本職の合唱グループが歌ったものをプレスコで場面に合わせて被せたものであるが、台風一五号が近づいていたところから、「うだるような暑さ」の中で、女子高校生達は、暗記した歌詞を真摯に歌っていたと言う。この場面について考察しているある投稿記事(『桐朋教育』第56号;筆者:飯島望)によると、撮影時間は午後一時からの二・三時間のことであり、女子生徒達の多くがその前日に久保山愛吉が死亡したことを知っていたのではないかと推測している。何れにしても、清純な乙女達が真摯に平和への祈りを斉唱するシーンは、本作を単なる怪獣映画に終わらせない、本作の社会的な深みを感じさせる名場面である。
この歌に聴き入っていた芹沢は、ある決心をして、おもむろにテレビのスイッチを切ったのである。
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