19世紀に入ると、北米先住民の形勢は更に悪くなり、アンドリュー・ジャクソン大統領が署名した「インディアン移住法」が1830年に成立する。「インディアン移住法」とは、ウィキペディアによると、「インディアンを白人のいない西部のインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住させ、連邦政府が信託保留 (reserve) した土地 (Reservation) に住まわせ、そこで白人の社会システムを構築し、白人社会に同化させる」という政策である。「これに従わない場合、そのインディアン部族は絶滅させる」とまで、ジャクソン大統領は宣言しており、これは、正に、暴力的な民族浄化政策である。このことは、人権宣言を高らかに謳ったUSAで、その人権が「白人」にのみ当て嵌まるとするダブル・スタンダードであることを図らずも露呈させている。この段階になると、「インディアン戦争」の趨勢はほぼ決着が付いたと言え、遅くとも1870年代には、誇りある北米先住民の運命は、既に、その挽歌が歌われていたと言える。
本作の原作となっているのが、大衆娯楽小説作家Louis D'Amourルイ・ダムールが書いた『The Gift of Cochise』(「コチーズの贈り物」)である。コーチーズは、アパッチ部族の六つある支族の一つChiricahuaチリカウア族の、支族の尊敬を集めた戦士であった。彼にまつわる話しとしては以下のものがあるので、少々長いがウィキペディアより引用する:
「アパッチ峠の西の新設のブキャナン砦のそばに、メキシコ女のヘイスーサ・マルチネスを愛人とするジョン・ウォードというならず者が、怪しげな牧場を開いていた。ここにはマルチネスの息子のフェリックスという10歳か11歳の少年がいたが、この少年の父親はアパッチ族だった。
1860年の夏にピネル・アパッチの一団がこの牧場にやってきて、牛数頭とフェリックスをさらった。ウォードはブキャナン砦に訴えたが、米軍は手いっぱいで何カ月もこの訴えは放置された。そのうちに、ウォードは根拠もなく、この襲撃はチリカウア・アパッチの有名なコーチーズの仕業だと妄想するようになった。現在では、このウォードの考えは根も葉もない妄言と断定されているが、米軍は彼のこの考えに賛成した。
翌年1月に、ようやく米軍のジョージ・N・バスコム少尉が派遣されてきた。バスコムは西部に来たばかりで、名を挙げることしか考えていない青年将校だった。バスコムは部下54名とともにアパッチ峠に向かい、ジョン・ウォードもその部隊と同行した。バスコムはバターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所で、チリカウア族と親しい御者のジェームズ・ウォレスに、『我々はリオグランデ川に定例の巡察に行くところだ』と嘘を教え、そのまま峡谷に野営を張った。
ほどなくしてコーチーズが中継所に来て、なぜ大勢の軍人が来たのか尋ねた。ウォレスは聞いたままを答えたので、コーチーズは安心し、弟のネレテナ、妻のナレカディア、息子ナチーズ、甥二人を連れてバスコムの野営を表敬訪問した。コーチーズは礼儀正しく挨拶をし、テントの中に座ったが、バスコムはこっそりと兵士たちにテントを包囲させた。
バスコムはいきなりコーチーズに、例の一件を詰問した。コーチーズは寝耳に水のこの話に驚いたが、この犯人を捜そうと言った。コーチーズはチリカウア・アパッチの沈着冷静な戦士で、白人も一目置く人物だった。コーチーズはあくまでもチリカウア族であるから、他のアパッチ支族に対してなんらの責任もない。それでも努力を約束したのであるから、ただでも理不尽なこの要求に、これ以上の返答などあり得ない。
しかしバスコムはこれを偽りと思い込んで満足せず、『コーチーズ自らが事件に関与した』と非難し、コーチーズの家族を人質にすると脅迫した。コーチーズは非難されたことと拘束されたことに怒り、テントをナイフで切り裂いて逃亡した。コーチーズはウォレスにだまされたと思い込み、中継所に戦士たちと押しかけ、出てきたウォレスと所長のカルバー、馬丁のウォルシュを取り押さえた。カルバーとウォルシュは逃げたが、カルバーはアパッチに射殺され、ウォルシュはインディアンと間違えられて米兵に射殺された。コーチーズはウォレスを人質にした。
バスコムは人質交換を行うことには気乗りしないままであり、コーチーズたちは通りかかった幌馬車隊を襲い、アメリカ白人を二人捕虜にし、メキシコ人家畜商人を馬車ごと焼き殺した。その後バターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所での人質交換は、バスコムの拒否によって成立しなかった。バスコムとコーチーズの間の交渉は行き詰まりとなっており、その間にバスコムは援軍を要請する伝令を送った。コーチーズは怒り狂い、三人の捕虜を惨殺した。バスコムは軍医のバーナード・アーウィン博士の助言を容れ、コーチーズの弟と二人の甥を樫の木に吊るして縛り首にした。
バスコムはコーチーズの妻と息子は返したが、コーチーズの怒りは収まらなかった。この一件は『バスコム事件』と呼ばれるようになり、小さな事件であったにも拘らず、その後11年間におよぶアメリカ白人入植者および米軍と、コーチーズたちチリカウア・アパッチとの戦いのきっかけとなった。」
原作におけるコーチーズの「贈り物」が何であったのかは分からないが、コーチーズに関しての上述の話しは、確かに、本作のストーリーと似ているところがある。ジョン・ウォードというならず者の存在と彼が持っている牧場、そこにいる少年のフェリックス、新米のUS陸軍少尉バスコムなどである。そして、この「バスコム事件」がその後の11年間にも及ぶチリカウア・アパッチのゲリラ的闘争の切っ掛けとなったことである。
このコーチーズにまつわる話しは、1860年代のことになるが、丁度、この時期は、南北戦争の時期(1861年から64年まで)に当たり、対「インディアン戦争」は、この南北アメリカの内戦中も戦われていたことに注意したい。
ジョン・ウェイン演じるホンド―・レインの人物像も興味深い。未だ、いわゆる「正統派ウェスタン映画」が蔓延っている1950年代の時期に(本作の制作は、1953年)、ホンド―・レインは、その血の一部にインディアンの血が混じっており、本人が言うところでは、五年間アパッチの一支族であるMescaleroメスカレロ支族と共に生活し、Squawスクウォー(アメリカ東海岸北部にいた北米先住民の言葉が英語に入ったもので、「インディアン女性」を意味する)と同棲していたのである。
また、ホンド―が自分に付いて言う、「嘘が付けない男」という点では、コーチーズに関わる、次のエピソードも興味深い。USポストの配達人は、アパッチの土地(現ニュー・メキシコ州を中心とする地域)を横切らざるを得ないので、1871年までに14人もの配達人がアパッチによって殺されていた。そこで、トーマス・ジェフォーズという男は、単身でコーチーズに直談判に出掛けた。彼は、武器を預けて、アパッチの言葉でコーチーズに直接に申し入れを行ない、アパッチ族から、郵便通行の安全を保証させたのである。ジェフォーズとコーチーズとは、この時以来、終生の友情を結んだと言う。このジェフォーズの人物像もホンド―の人柄に反映されていると思って差し支えないであろう。ジェフォーズはコーチーズについて言う: 「彼は生まれながらの極めて優秀な男だと思う。鷲のような目を持ち、申し分のない男らしい身体つきをしていた。私たちは互いを尊敬した。彼は嘘をつかない男だった。」(ウィキペディアより)
このコーチーズに当たる本作の登場人物が「Vittorioヴィットリオ」である。但し、このヴィットリオは、「Victorioヴィクトリオ」の名称を変えたものであり、Victorioは、実在した人物で、コーチーズと同様に、チリカウア支族の出身のヴェテランの戦士である。彼は、元々は和平派であったが、1877年に、自分の生まれた、現ニュー・メキシコ州から西にあるアリゾナ州の保留地に移住されらたことから、1878年に抗戦派に変わり、他のアパッチの支族の戦士も加えて、約200名の軍団を組織して、山岳地帯を根城にしてゲリラ戦を展開し、ニュー・メキシコ州南部、テキサス州西部、メキシコ領も跨いで、約14ヶ月間抵抗を続けたが、1880年10月、メキシコ軍に取り囲まれて、戦死する。彼に同行していた女性と子供はメキシコに連れて行かれて、そこで奴隷として売られたと言う。このUS白人側が言う「アパッチ戦争」は、Victorioの後を継ぐ形で、同じくチリカウア支族出身の著名な戦士ジェロニモによって戦われる。この最後の抵抗者ジェロニモが1886年にUS陸軍に投降したことを以って、1851年以来の「アパッチ戦争」は、事実上、終わりを告げたのであった。