2026年11月6日金曜日

炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えたシーンは、筆者には、未だに印象的な場面として記憶に残っている。今回、本作を観て、1958年前後に彼が何を撮っていたか、改めて調べてみると、成程、『ビルマの竪琴』(日活、1956年作)があった。市川が、この作品を以って、映画監督としてヴェネツィア国際映画際で「サン・ジョルジョ賞」を獲得するなど、国際的にも評価される作品を撮り始めた作品である。

 戦後の東宝争議の中で、言わば「スト破り」的に東宝から離脱し、「新東宝」が1947年に設立されるが、その新東宝への移籍により、監督昇進のカードを手にした市川は、48年から監督として活動をし始め、50年代初めには、監督として東宝に戻ることになる。55年には夏目漱石作品たる『こころ』を映画化する。56年以降は、市川は、文芸路線の大映に所属して、矢継ぎ早に、文芸作品を発表している。石原慎太郎作品を映画化した『処刑の部屋』(1956年作)、泉鏡花作品の『日本橋』(同年、市川初のカラー作品)、三島由紀夫作品の本作(58年作)、谷崎潤一郎作品の『鍵』(59年作)、大岡昇平作品の『野火』(同年)、島崎藤村作品の『破戒』(1962年作)などである。

 『ビルマの竪琴』の上映を巡って意見が合わず、日活を離籍しようとしていた市川は、本人の言によると、大映にいる撮影監督の宮川一夫と一緒に仕事がしたくて、辣腕の永田雅一社長がいる大映に移籍する。こうして、市川は、本作でようやく希望が叶い、宮川と仕事をすることになる。しかも、それは、『金閣寺』という観念小説の映画化であって、その脚本化には、有能な脚本家であり、市川の妻でもあった和田夏十(わだ なっと)と、もう一人の脚本家長谷部慶治の手を借りても難航した。そこら辺の事情を市川は次のように回想している:

 「原作を生かすためには、あくまでも映画としてのオリジナルの切り口を持たねばならないという発想から、原作にある有為子を切り、トップとラスト・シーンの構成を変更した。シナリオが難航して困っていたら、藤井君が大学ノートを三、四冊持って来た。それには、三島さんが小説を書くため歩いて取材したメモが、鉛筆でビッシリ書いてあった(創作ノート)。(中略)脚本の夏十さんと相談して、三島さん独特の名文をいったん横に置いて、親子の話に絞ることにした。『美とは何か』という抽象的なことではなくて、裏日本で育った何でもない青年の生き方、悩み、親との離反、そういったものを、金閣寺を背景に追求してみよう、その方が逆に、原作の主題に迫れるのではないかと。」 —  市川崑「映画化の経緯」より(ウィキペディアからの再引用)

 自分の妻を「夏十さん」と呼ぶ、市川の妻に対する尊敬振りも推察できる引用であるが、本作の映画化に当たっての脚本化の方向性がよく理解できる部分である。「原作の主題」は、別なところにあり、本稿筆者個人としては、放火は金閣寺の絶対的美(それは、また同時に神格たる天皇)からの自己解放の行為と理解する。故に、原作では、主人公は放火後に生きようと覚悟するのであるが、本作では、逆に、主人公は、京都から東京への護送中、滋賀県付近で列車から飛び降り自殺をしており、主人公溝口は、むしろ、金閣寺の美に殉じているのではないか。何れにしても、原作の有為子を切ったことにより、戦中と戦後の対比や、性が人生へコミットする「窓口」であったという、溝口と女性との関わりが本作では薄くなっていることは否めない。であるからと言って、戦後80年以上の経った2026年に本作を鑑賞して、現状において戦前・戦中との関わりがこれ程も薄れている中、本作が原作からこのように離れたことにより、逆に、戦争を知らない世代にとっては、本作の内容がより理解しやすい切り口になってはいないか。

 上に挙げた引用の中に登場する「藤井君」とは、大映のプロデューサーで、本作の企画を担当した藤井浩明(ふじい ひろあき)のことである。三島作品の映画化に尽力した藤井は、1957年作の『永すぎた春』の映画化以降、三島と親交を持つようになり、『炎上』(58年作)、『お嬢さん』(61年作)、『剣』(64年作、市川雷蔵主演の現代劇)、『獣の戯れ』(同年作)、『複雑な彼』(66年作封切)と、三島作品を企画・映画化している。66年には、藤井は、三島の自主製作映画『憂国』を共に製作している程の三島文学への心酔振りであった。

 この市川監督の本作の脚本について、1950年代前半にイタリア留学をし、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学んで帰国した後、溝口健二や市川崑の助監督となった当時の映画理論家とでも言える増村保造が、次のように論評している:

 「三島由紀夫氏の小説『金閣寺』に於ける金閣は、主人公にとって、一つの主観的な美意識であり、映画が追究するには厄介な対象であった。ところが市川監督は、映画化に際し、この『金閣』を、主人公の父親への愛情と、社会的な正義感の結晶に転換し、彼の金閣に対する愛情を見事に客観的に描き出したのである。『炎上』はその意味で、小説の鮮やかな映画的再構成と言えるであらう。」 — 増村保造「原作映画とその映画化」より(ウィキペディアからの再引用)

 上述の引用で、「社会的な正義感の結晶」という部分は筆者には理解しがたいが、「主人公の父親への愛情」は、市川監督の意図とも合致し、よく理解できる。肺結核で病弱な父・溝口承道(浜村純)は、同窓の「驟閣寺」の田山道詮老師(二代目 中村鴈治郎)と違って、日本海を臨む舞鶴市・成生岬(なりゅうみさき)にある小寺の住職に甘んじていた。しかも、その梵妻・あき(北林谷栄)が自分の兄弟である男と不義を働いているのを知っていた。息子・吾市がその不貞を目撃した際には、父はその目を塞いで、吾市を岬に連れて行き、驟閣寺ほど美しいものはこの世に存在しないと言い聞かす。こう言われた吾市は、自分の母を汚らわしいと思う気持ちに逆比例する形で、尊敬する父が考える驟閣寺の「美」が彼にとって絶対的なものになったのである。映画化のための脚本化に対して、市川監督夫妻とは小説の内容の議論はすることはあっても、脚本が如何にあるべきか一切の口出しをしなかった原作者三島は、本作の中のあるシーンに関して次のように記述している:

 「黒白の画面の美しさはすばらしく、全体に重厚沈痛の趣きがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックな美しさを持つてゐる。放火前に主人公が、すでに人手に渡つた故郷の寺を見に来て、みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところは、怖しい白日夢を見るやうである。俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は望めないほどだ。試写会のあとの座談会で、市川崑監督と雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。センチメンタリズムの少しもないところが、外国人にうけるだらう。」 — 三島由紀夫「日記――裸体と衣裳」(昭和33年8月12日付)(ウィキペディアからの再引用)

 蓋し、これは、三島の慧眼であり、筆者も、「みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところ」から始まるシークエンスは、浜辺に用意された場所に父親が入っている棺桶が置かれ、そこに吾市がマッチで火を点けて、父を自らの手で荼毘に掛ける場面となる。この場面は、正に、後に、父が究極の美と息子に言い聞かせた驟閣寺に放火する光景と重なる、本作における最も重要な場面であったと言えるのである。

 さて、三島が言うところの「白黒の画面の美しさ」を創り出したのは、市川監督が大映に入る時に欲していた、モノクロームの映像美で定評のあった宮川一夫撮影監督であった。宮川は、黒澤明監督の『羅生門』(1950年作)でその白黒撮影の審美眼が世界的にも実証されていたが、その後は、溝口健二監督の『お遊さま』(51年作)、同監督の『雨月物語』(53年作)で、一流の撮影監督としての地位は映画界では揺るぎないものとなっていた。筆者は、とりわけ、白黒映画の美学としては、溝口監督、宮川撮影監督の作品『近松物語』(54年作)をより高く評価するものであるが、市川監督は、とりわけ『雨月物語』での撮影技術の見事さに感嘆していたと言う。本作で、ようやく、市川監督・宮川撮影監督の共作が叶った訳であるが、その後は、このデゥェットは、上述の市川監督作品である、『鍵』(59年作)、『破戒』(62年作)、『東京オリンピック』(65年作)でも成立しており、とりわけ、市川監督作品の『おとうと』(60年作)では、宮川は、いわゆる「銀残し」の手法を開発し、カラー・フィルムの現像時に銀を意図的に残して、カラー撮影に白黒フィルムの蓋いを掛けたようにして、陰影のコントラストをより高める技法を創り出したのであった。

 会社大映側は、本作をカラー作品として撮ることを市川監督に提案していたが、市川は、それに対して、カラーにしては、肝心の炎上のシーンが間延びすることを恐れて、白黒で撮ることを、また、「大映スコープ」の横長の画面比率にすることを条件とした。会社側との交渉で市川の二条件は飲まれたが、宮川にとっては、「シネマスコープ」は初めての挑戦であった。故に、画面の構図の取り方では、市川と宮川は最初は議論を交わすこともしばしばあったが、次第に、お互いに意気投合したと言う。

 映画初盤の、主人公の市川雷蔵が初めて驟閣寺にやってくる場面での、背景の白壁がくっきりと浮き上がり、中間部は土間で灰色、前景が黒の木造の造りという画面構成は、このシーン一つで、禅宗の禁欲的建築構造を感じさせて、観ている者を満足させる場面である。また、主人公が彷徨する、夜の新京極の路地の、宵の闇と店の灯りのコントラストも魅力的である。ウィキペディアによると、主人公が、成生岬の崖から日本海を見下ろす映画中盤のシーンでは、風景の厳しさを出すために、わざわざ曇りの日にロケ撮影を狙い、それでも足りずに、崖一面に墨汁を噴霧器で散布して黒色を誇張したと言う。流石である。

 それでは、原作では「おびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたやう」と表現されている、本作のクライマックスの「炎上」場面では、さて、どんな工夫がされていたか、ウィキペディアに従って述べてみよう。驟閣寺の普通の撮影では、真言宗の寺院である大覚寺の池のほとりに原寸大のセットが建てられて撮影されたが、炎上のシーンのためには、嵐山の川の中州に二分の一のミニチュアが作られて、これを燃やした。しかし、それでも炎上の迫力が出ないので、シネマスコープ・サイズで撮ったものと、普通の35㎜で撮影して、それをシネマスコープ・サイズに伸ばしたものとをモンタージュして制作したと言う。火の粉が夜空に舞い上がる場面では、カンナ屑を燃やしたりもしたのであるが、十分満足のいく撮影とはならず、色々な議論の末、金粉を炎の中に混ぜるアイディアが出て、それを採用することにした。大映の美術監督と言えば、この人と言われる西岡善信がチーフであった美術部スタッフは、黒布を背景とし、餅焼き網のようなものの下から扇風機を金砂子(きんすなこ)を舞い上がらせる「操撮」を工夫したと、西岡は言う:

 「金砂子というのは金箔を屑にしたようなもので、襖に糊を敷いて金砂子を撒くという手法は京都でよく使われていた。それだけだと金が降ってくるだけなので、襖二枚ぐらいの黒布バックに、餅焼き網のようなものの下から扇風機を当て金粉を舞い上らせ、さらに風で流れるように見せるために、横から団扇で扇ぐ。」 —  西岡善信「映画美術とは何か」より (ウィキペディアからの再引用)

 こうして、題名に相応しい「炎上」の場面が撮られた訳である。このシーンは、監督、撮影監督、美術監督の努力が実った、日本映画史に記録されるべき成功例であろう。

 音楽は、作曲家の黛敏郎で、黒地に金閣寺の見取り図を見せるタイトル・ロールの背景音楽には、黛が作曲した『涅槃交響曲』(1958年作)の一部が使われいて、それは、声明であった。本作の芸術性をより高める背景音楽であるが、ウィキペディアによると、黛は劇伴をすべてこの感じで通そうとしたのに対して、市川監督が待ったを掛けて黛と大議論をして、タイトル・ロール以外は、残りは現代音楽風に変えさせたと言う。蓋し、市川監督の正しい指示であった。

 放火の夜に主人公が話しをする五番町の娼妓役の中村玉緒、「洋館の女」役の浦路洋子、「花の師匠」役の新珠三千代は、それぞれ適切な配役で、とりわけ、主人公が憧れる高貴な美を体現していた新珠は、とりわけ、ストーリーの展開上、脇役ではあるが、重要な役柄を演じている。それまで大映の時代劇のスター的存在であった市川雷蔵が、性格俳優として現代劇に初めて挑戦した作品が本作であり、三島も、雷蔵以外にこれ程のはまり役はいないと褒めちぎっているが、その主役を喰っている助演男優が仲代達也である。女との関係では初心な主人公・溝口に対して、仲代演ずる戸刈は、自分の足が不自由であることを逆手に取り、逆に相手に良心の呵責を起こさせて、その呵責を攻め上げて、女を陥落させる汚い手を使う。この手に、洋館の女も花の師匠も籠絡される。この仲代が体現する、悪魔的・メフィストフェレス的な存在は、この現世において美しいと思われているものの化けの皮を剥がす存在であり、仲代の演技力の強烈さを印象付ける、彼の初期の作品の一本に挙げられるであろう。

2026年10月25日日曜日

ゴールデン・リバー(仏/ベルギー/スペイン/ルーマニア/USA合作、2018年作)監督:ジャック・オディアール

 嘗て、日本語で「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれたウエスタン映画のサブ・ジャンルがあった。本家USAのウエスタンの十八番を奪ったイタリア製ウエスタンであったからである。ヨーロッパでは、「イタ公」が喰うのはスパゲッティであるからと言って、この種のウエスタンを「スパゲッティ・ウエスタン」と揶揄して呼んだのであるが、この「スパゲッティ・ウエスタン」のロケ地の多くはスペインであったと言う。イベリア半島中央部の沙漠のような地形が、あのUSAのウエスタンに登場する大自然に似ていたからである。

 さて、本作の製作国は、フランス、ベルギー、スペイン、ルーマニア、そして、USAである。確かに、本作では、部分的にロシア語が話されるが、基本的には英語が話され、主役は、主演級が、ホアキン・フェニックス、ジェイク・ギレンホールなどのUSAの有名俳優達である。とは言え、実は、本作は、ウエスタンの皮を被ったアンチ・ウエスタン映画であり、同じ「西部」と言っても、それは、ヨーロッパ大陸の「西部」なのである。故に、本作に、USA西部劇のテイストを求めても、それは、無理な次第なのである。

 という訳で、21世紀の「スパゲッティ・ウエスタン」たる本作のロケ地の一つは、その伝統に従って、スペインにあるテーマ・パークである「テキサス・ハリウッド」である。とは言え、予算の関係もあってか、野外撮影の多くはルーマニアでの撮影であった。監督は、パリジャンのジャック・オディアールJacques Audiardで、彼は、脚本も共作しているが、本作を以って、ヴェネツィア国際映画祭では、監督賞の銀獅子賞を受賞している。

 撮影監督は、ベルギー人ベノワ・ドゥビエBenoît Debieで、彼は、本作の美しい野外撮影で、フランスの映画賞セザール賞において、同賞の監督賞を受賞したJ.オディアールと並んで、最優秀撮影賞を受賞している。音楽は、監督同様のパリジャンであるアレクサンドル・デスプラAlexandre Desplat で、その音楽的センスの良さで、このアンチ・ウエスタンのストーリーに相応しい随伴音楽を作曲している。因みに、彼は、USAアカデミー作曲賞に2026年現在まで計12回ノミネートされており、2014年制作の『グランド・ブダペスト・ホテル』、そして、本作が公開された前年の2017年に制作された『シェイプ・オブ・ウォーター』で、USAアカデミー音楽賞を受賞していた逸材で、本作の音楽担当に彼を持ってこられたことは本作の大きな強みでもあろう。

 原作は、本作の英語原題『The Sisters Brothers』と同じ題名で、2011年に発表された小説である。作者は、カナダの西海岸にあるヴァンクーヴァー・アイランドで生まれたパトリック・ドゥウィットPatrick deWittである。彼の育ちは、カルフォルニア州南部で、一旦カナダに戻った後、作家として自立できる見通しが立った2009年にUSAの、本作の舞台ともなるオレゴン州にあるPortlandに移住し、2011年に、言わば、郷土史とでも言える小説作品を、とりわけ、カルフォルニア・ゴールド・ラッシュに当たる時期(1848年から1855年頃まで)に焦点を当てて書いている。本投稿の筆者は、本映画が原作とどれ程異なっているのか、原作を読んではいないので、判断する立場ではないが、本作の登場人物の中で、とりわけ、化学者であるウォーム(Hermann Kermit Warm)の存在に注目する。

 筆者は、映画を観ていて、このウォームなる人物がインド系の人間ではないかと見ていたのであるが、調べて見ると、この役を演じているリズ・アーメットRiz Ahmedは、パキスタン系イギリス人であると言うことである。演じている俳優の名前からして、イスラム教徒的感じであり、また、ドイツ的な名前「Hermann」と、「Kermit」という、出所の分からない名前から判断して、中東から来ていそうな化学者を19世紀半ばのUSA西海岸に登場させる本作の設定は極めて興味深い。

 黄金と化学との関係から言えば、歴史的に、「錬金術」の「夢」が思い出され、大体、世界史の中世において最も科学が発達していた地域は、イスラス教圏国の地域であった。古代ギリシャ文化を中世まで温存し、それをヨーロッパに伝えたのが、イスラム教圏国であり、そのことがあってこそ、ヨーロッパを「近代」へ発展させることになるルネサンス(「古典復興」)もまた、ヨーロッパであり得た訳である。この歴史的絡みを、本作は、中東的「ウォーム」の存在を以ってして、さりげなく、ストーリーに織り込んでいるのではなかろうか。

 しかも、ウォームの政治的・社会的理想は、ゴールド・ラッシュに象徴される利益競走に害されない民主的な共同体の建設である。時折しも、ヨーロッパでは1848年の民主化革命が失敗し、その失敗の中で、旧守権力に弾圧されて、ヨーロッパからアメリカ大陸に逃れてきた西ヨーロッパの民主主義者も少なからずいたのである。故に、ウォームは、ヨーロッパ人が多くいるテキサスのダラスに理想とする共同体が作れるのではないかと希望している。この思いに衝き動かされたのか、本作における「語り部」とでも言える、ジェイク・ギレンホール演ずるところのジョン・モリスJohn Morrisは、謎の化学方程式を奪うべく、密かにウォームを追尾する依頼を裏切り、逆に、ウォームの希望を叶えるために一財を投げ打って、ウォームに同行する。

 しかしである。本作が制作された2018年は、第一次トランプ政権が成立して二年目の年である。当時は、第二次トランプ政権が成立した25年以降の政治状況に較べれば、それ程明らさまではなかったにしても、明らかに、それは、USA民主主義の低下をもたらしていたのであり、そのトランプ政権を支える基盤の一つに、テキサス州があったのであった。テキサスこそは、正に、ウォームが抱いていた希望の地である。しかも、結局、ウォームとモリスが、 ホアキン・フェニックス演ずるところのチャーリー・シスターズの強欲により、死んでしまうことは、彼等の民主主義の夢もまた、あえなく潰えたことを意味してはいないか。

 本作のラストシーンで示される「癒し」は、慈母の許に戻ることでしか得られなかったのであり、本作の、この救いのないメッセージは、つまりは、政治的諦観としか言いようがないのではあるが、この2018年の諦観は、詰まるところは、七年後にトランプ第二次政権が成立する帰結を見れば、本作の調和的なラストシーンは、2026年の現時点から見て、如何に欺瞞に満ちたものであったかも明らかになったと言える。この意味でも、機会があれば、この点を是非一度、脚本も共同作成した監督J.オディアールに質したいものである。

 最後に苦言を一言。つまり、本作の邦題『ゴールデン・リバー』の芸のなささ加減である。これは、原作の題名を受けて、本作の原題も『The Sisters Brothers』とした、原作者並びに制作者の意図を全く解していない邦題の付け方である。その原題の言葉の洒落と、その洒落が、その背後にある、キリスト教信徒を「ブラザー、シスター」と呼ぶ宗教的精神と関わっていることを、この無邪気な邦題は、全く考慮していない点である。英語原題をそのままカタカナ書きにしてしまう悪習に筆者も組するものではないが、「シスター」も「ブラザー」もほぼ日本語化している中、何故に、「ザ・シスターズ・ブラザーズ」では行けなかったのか、日本の配給業者のセンスのなさに唖然とするばかりである。

2026年10月12日月曜日

狂つた一頁(日本、1926年作)監督:衣笠 貞之助

 1917年に起こったロシア革命、18年に終わった第一次世界大戦、それを受けた旧世界の崩壊、その世界が変わる激動の中で、ダダイズム、ロシア構成主義、イタリア未来主義(フトゥリズモ)、ドイツ表現主義(Expressionismusエクスプレスィオニスムス)などのモダニズム芸術運動がヨーロッパでは興隆していた。

 日本の映画界においても、1918年に純映画劇運動が起こる。この運動では、1.舞台脚本から映画シナリオへの、2.女形から女優への、そして、3.活動弁士から字幕への、変革が主張され、キネマトグラフィーは、「活動写真」から「映画」へと、映画独自の表現言語を獲得していくようになる。それは、映画が歌舞伎劇から独立していくことを意味し、1920年に、松竹は、映画製作会社の中では最初に「女優」を本格的に養成し始める。これはまた、演劇界で新劇が登場したことに対応する、松竹映画における現代劇ジャンルの登場を意味する。

 しかし、1923年の関東大震災により東京にあった映画スタジオが焼失してしまうと、撮影の本拠を一時京都に移さざるを得なくなり、こうして、京都は時代劇の本拠であったことから、時代劇が再び勢いを取り戻し、新派・女形映画が引き続き撮られることになる。

 このような中、自らも女形として日活の新派劇映画にスターとして出演していた衣笠貞之助は、女優の進出という事態から女形としての可能性に見切りを付けて、自らメガホンを取ることに決める。こうして1920年以降、自らも女形の役を演じながら、映画を撮り始める。監督としての力量を認められ、マキノ・プロダクションに所属していた衣笠は、25年に、横光利一が書いた小説を基にした映画『日輪』を発表する。卑弥呼を題材としたこの映画は、当時は、卑弥呼が天照大御神であったという説があったことから、不敬罪ということで、右翼の批判するところとなり、牧野省三がこの作品の上映中止を一人で決めたことから、それを不満に思った衣笠は、自立することに決める。彼が弱冠29歳の時のことである。

 こうして、『日輪』の制作で知り合った横光と意気投合していた衣笠は、川端康成らを含む新感覚派の文学者達と、1926年4月10日に「新感覚派映画連盟」を結成し、これらの文学者からアイディアを貰いながら、本作『狂つた一頁』を撮ることになる。

 撮影のためのカメラは、知り合いのドイツ人青年Aldenborgアルデンボルクを上海に行かせて、フランス製撮影機 Parvo Modell K(パルヴォK型;レンズを四種類装着することが可能であり、一本122mの長さの通常フィルムをカセットに入れられる)を購入してもらう。このような経緯があったことからか、Aldenborgは、精神病院の外国人医師の役で本作に二箇所で出演している。撮影には、松竹が協力して、京都の下加茂撮影所が使えることになり、クルー約70名で、5月6日から撮影を開始する。主演の井上正夫が五月一杯しかスケジュールが空いていなかったため、撮影にはチームが不眠不休で当たり、5月31日までに撮影を終える。故に、撮影期間は、25日間程であった。衣笠が六月初旬に完成した本作を持って東京に行くが、個人試写会で本作を観た横光が字幕なしを提案すると、それを受けて、衣笠が字幕を割愛した。自主映画製作会社の作品であることから、上映館が中々見つからなかったのであるが、ある試写会で本作を観た映画人・岩崎昶などの推薦を受けて、洋画上映の専門館「武蔵野館」での上映が決まって、映画完成から約四ヶ月経った9月24日から一週間公開された。当時人気弁士であった徳川夢声が本作の解説を担当した。

 東京以外でも幾つかの洋画専門館で本作は上映されたが、心ある映画人には評価はされたにも関わらず、アヴァンギャルド映画の典型的な運命を辿って、本作も興行的には失敗したことより、「新感覚派映画連盟」は本作の一本を以って解散する。

2026年9月28日月曜日

Fatherland(ポーランド/独/伊/仏、2026年作)監督:パヴェウ・パヴリコフスキ

 USAに亡命していたドイツの文豪トーマス・マンが戦後の1949年に東西両ドイツを訪れた歴史的事実を上手く脚本化して撮った本作は、戦後ドイツの歴史を考える上でも最良の作品であり、その白黒の映像美も併せて、静謐な佳作である

 ノーベル文学賞受賞者Thomas Mannトーマス・マンが祖国(ドイツ語でVaterlandファーター・ラント=「父国」)から亡命したのは、ナチスが政権を掌握した1933年と同年である。ナチス政権誕生と共に、「非アーリア的文学書」が公衆の面前で焚書にされる。それには、Th.マンの著作自体は含まれていなかったのではあるが、ナチスの暴虐性を早くも見抜いていたのか、マン一家は早々にドイツから亡命した。

 ナチスの「千年王国」が僅か12年で崩壊し、敗戦後の四年が経った1949年に、16年振りに祖国を訪れたTh.マンに対して、著名な全国紙『南ドイツ新聞』の記者は、もっと国内に残って同胞を支援すべきではなかったのか、あのように早期に国外亡命したのは、祖国に対する裏切りではなかったのかという意見があるがどう考えるのかと、意地の悪い質問をする。それに対して、Th.マンは、「残っていたら、こうして、貴方の質問に答えることは出来なかったでしょう。」と、Th.マンらしい皮肉を込めた返答をしている。こうして、1949年の夏に祖国を再訪したTh.マンは、西ドイツのフランクフルトと東ドイツのヴァイマールで、それぞれ、Goetheゲーテの生誕二百年を記念してのゲーテ賞を受けるために、黒塗りの大型高級車Buickビュイックの、恐らくは、Roadmaster型に乗って、戦争で荒廃したドイツを移動して歩いたのである。ビュイック車を運転するのは、Thomasのお気に入りの娘Erikaエリカで、彼女は嘗てはレーシング・カーも運転していたこともある、車の操作には長けた運転手でもあったのである。

 このTh.マンのドイツ再訪に随行したのは、実は、エリカではなく、Thomasの妻・Katiaカティアであった。故に、当然に運転手もエリカではなく、ある化学会社の若い社員で、Th.マン文学の熱烈な崇拝者であったGeorges Motschanという人物であった。脚本の内容を、史実とこれ程までに変えてよいものかという議論も起こり得るが、実は、映画の冒頭に登場する、Thomasの息子Klausがフランスのカンヌで睡眠薬の大量服薬で亡くなったのは、Th.マンがドイツに入る前の、49年5月21日のことである。この訃報がエリカを含めた旅行中のマン一家に届いたのは、Th.マンが講演旅行中のストックホルムであり、映画とは異なり、エリカも賛成して、今回のヨーロッパ旅行を中断しないことを家族で決めたのであった。つまり、映画内でのクラウス・マンの死亡の時点も、史実と異なるのであるが、以上の二点の改変により、ストーリー自体がそのドラマトゥルギーがより高まり、また、エリカを演じるドイツの名女優Sandra Hüllerザンドラ・ヒュラーの演技力をより求めるものとなっていることから、これらの改変は本作を成功させている一因であると筆者には思われる。

  マン一家がニュー・ヨークからヨーロッパに向けて船出したのは、49年5月10日であった。ヨーロッパ大陸に到着してからは、スイスに長く滞在し、ゲーテの生誕地フランクフルトに入ったのは、同年7月25日となる。ここでの記者会見で上述の『南ドイツ新聞』の記者の意地悪な質問がTh.マンに向けられたのである。1848年の三月革命で民主主義的憲法が起草されたことから、特徴的な楕円形型の建物をしたフランクフルトのパウルス教会はドイツの民主主義の発祥のシンボル的な場所である。そこで、ゲーテ賞の受賞の講演が行なわれ、別の場所で記念の晩餐会なども催されたのであろう。このフランクフルトでの滞在に関してそれを回想してTh.マンは、次のように書いている:

 「どれだけの血が、今日握手をしなければならなかった手のすべてにこびり付いていたのか、どれだけが?」

 連合国による非ナチ化政策が冷戦により逆コースを取るようになり、嘗てのナチスが次第にまた西ドイツ社会の中枢に入り込んでいることを上のTh.マンの言葉が的確に指摘している。現在も存在する、ドイツの憲法に当たる「基本法」が49年5月23日、即ちクラウス・マンが亡くなった二日後には、発効することを以って、ドイツ連邦共和国が一般的には成立したとされているが、この西ドイツの成立は、冷戦構造下のドイツの東西分裂を確定的なものにしたと言える。尚、西ドイツが自らの司法の手で嘗てのナチスを取り締まっていくのは、1960年代に入ってからである。

 さて、映画では、Th.マンが、恰も、西ドイツのフランクフルトから車で直接に東ドイツのヴァイマールに行ったかのように見えるが、史実では、彼は、まず、南ドイツのシュトゥットガルト、ミュンヘン、そこから北東に向かって、ニュルンベルクとバイロイトを経由して、それから、ヴァイマールに到着している。映画では、フランクフルトで、ナチス体制の順応者であったヴィーラントとヴォルフガング・ヴァーグナー兄弟が図々しくもバイロイト音楽祭が再開されることに、ヴァグネリアンであったTh.マンも協力して欲しいと頼む場面があるが、もし、そのようなことがあったとしたら、それは、バイロイトでのことであったであろうと想像される。頼まれたTh.マンは、かなりどぎつい反応を示して、二人の母親コジマ・ヴァーグナーに早く裁判が起こされればいいと捨て台詞を残して、二人を後にする。

 Th.マンがヴァイマールに到着したのは、49年7月31日のことである。それは、ゲーテの生誕二百年を記念する行事であったが、Th.マンは、ナチス・ドイツから亡命する数ヶ月前にも、1932年のゲーテ没後百周年を記念してヴァーマールを訪れており、17年振りのヴァイマール再訪は彼にとっても感慨深いものであったことであろう。

 監督Paweł Pawlikowski(パヴェウ・パヴリコフスキ)は、ポーランドのワルシャワ生まれの映画監督兼脚本家である。1970年代の初めに英文学の講師をしていた母と共に共産主義国のポーランドからドイツに移住した。その後イギリスに渡り、オックスフォード大学では、文学と哲学を専攻したが、そこでドイツ文学の研究プロジェクトにも関わることになる。それ故に、彼は、発音には癖があるが、ドイツ語をある程度よく話せる。また、あるインターヴューでは、Th.マン文学に関しても全てではないが、ある程度は読んでいると答えている。

 1980年代にBBCのドキュメンタリー映画を制作するようになり、1990年にドキュメンタリー映画監督として自立する。1998年には劇映画部門にも進出し、2004年の三作目の『マイ・サマー・オブ・ラブ』で英国アカデミー賞作品賞を、2013年の『イーダ』でポーランド映画としては初めてのUSアカデミー賞外国映画賞を、2018年の『Cold Warあの歌、2つの心』でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞している。

2026年9月24日木曜日

0線の女狼群(日本、1960年作)監督:三輪 彰

ホテル酔月
御休息 お一人様 一〇〇円(一時間)
御泊り お一人様 六〇〇円
御食事 お一人様 一五〇円より

 これは、本作に登場する一場面であるが、「ホテル酔月」は、現代であれば、「ラブホテル」と言うべき場所であろう。「ホテル」とすれば、聞こえはいいであろうが、本作が制作された年1960年ということであれば、「連れ込み宿」と言える所である。料金を見れば、約60年後の現在と較べて、何と物価が違うことかと驚かされる。この点は、本作の中では、映画の冒頭の上野駅とその駅前の風景を含めて、歴史的価値がある部分であろう。タイトル・ロールの背景となる蒸気機関車の力強い走りや、この場面の白黒を反転させて見せる意匠も中々である(撮影監督:岡田公直)。ドキュメンタリー性を強調し、フィルム・ノワールの臭いを出すためにも、意図的に白黒映画にした点も納得は行くが、何せ、ストーリーは二束三文ぐらいの価値しかない低劣なものである。映画の終盤、どこから現れるのか、「女狼群」が登場するのもご都合主義である。

 東北の田舎から列車で東京に出てきた無辜の若い娘を暴力的に「囲い」、連れ込み宿で強制売春をさせるストーリーは、猟奇的で煽情的である。この手の映画を「Exploitation エクスプロイテーション」映画といい、時事問題や社会的にタブーとされるテーマを「exploit搾取する」して煽情的に味付けし、それで以って、好奇心を煽られた下劣な観客を映画館に呼び込もうとする、偽善的な映画である。本作もこのジャンルの作品臭がプンプンとする。

 こんな映画にあの丹波哲郎が出演していることに意外さを覚えるのであるが、丹波は、1951年に「新東宝」に採用されて映画俳優となり、本作が制作された1960年の前年に新東宝を退社して、フリーランスとなっていたのである。故に、本作は、丹波が新東宝の作品に登場した最後期の作品の一本となる。丹波が新東宝を退社するに際しては、ウィキペディアよると次のようなエピソードがある:

 「...1959年、丹波の『新東宝の作品のレベルが落ちている』との発言が記事となり、社長の大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社」したと言う。

 むべなるかなである。映画製作会社「新東宝」は、1947年に創業された。
それは、「東宝争議」の中で、組合側にも経営側にも付かずに映画製作を続けたいという表向きの理由で創立されたのであるが、事実上はスト破りの形で、東宝に製作した映画を提供する会社であった。倒産する1961年までの14年間に800本以上の映画を製作したと言われているが、1955年に大蔵貢が社長・プロデューサーになると、「安く早く面白く」のモットーの下、それまでの文芸路線(溝口の『西鶴一代女』)などを離れて、「エログロ」とでも言える徹底した娯楽・大衆路線にシフトした。これは、USAのエクスプロイテーション映画ジャンルそのものであり、新東宝こそは、この方面で、他の映画会社に先駆けていたのである。同じく丹波が助演している新東宝作品『女真珠王の復讐』(1957年作)は、邦画史上初めての主演女優の後ろ姿のオール・ヌード・シーンが撮られて話題となった作品である。ヤクザ映画の東映が「東映ポルノ」を製作し始めるのが、1968年、日活が、「日活ロマンポルノ」を製作・配給し始めるのが、1971年であるのを考えると、新東宝の「先見性」がよく理解できるであろう。新東宝は、1958年に、この年に廃止された、いわゆる「赤線地帯」をテーマとした『女の防波堤』(プロの売春婦が米兵を相手にして、日本の淑女を守る「防波堤」になる)を製作しているが、同じ年には、『白線秘密地帯』なる作品を出している。

 「パイセン」と読む「白線」とは、もぐりの売春行為をいい、この作品は、この売春行為の組織を暴く警察活動をテーマしたものである。宇津井健、天知茂、菅原文太などが出演したこの作品を撮ったのが、早撮りの監督として有名な石井輝男である。この「〇〇線地帯」はシリーズ化されて、石井監督の下、1960年に『黒線地帯』と『黄線地帯』が公開されている。「黒線」とは、暴力団が組織するもぐりの売春行為を、「横線(イエロー・ライン)」とは、電話コールによる売春行為を指すと言う。本作の題名「0線(ゼロせん)」も、この「ライン・シリーズ」に掛けた、駅のホームの番線から外れた番線ということで付けたものであろう。

 US進駐軍が日本に入って公娼制度が禁止される。これを受けて、売春防止法が1956年に公布され、「移行期間」を経て、58年に罰則が施行されることになると、売春行為は地下に潜ることになるが、新東宝は、正に、このプロセスをエクスプロイテーションしたことになる。

 本作の制作された1960年は、日本映画史上最高製作本数となる547本が製作された年で、それは、今は存在しない大映を含む大手六社によるプログラム・ピクチャー作品群であった。観客動員数は、1958年に11億人強で史上最高であったものが、61年には八億人台に既に落ちており、日本の映画産業の衰退の兆しが早くも現れることになる。新東宝は、この61年に、大映は、その十年後の71年に倒産することになる。

2026年9月23日水曜日

ホンド―(USA、1953年作)監督:ジョン・ファロー

 タイトル名の「Hondo」の名前を持つ主人公(ジョン・ウェイン)は、George Crookジョージ・クルック将軍麾下の第八US騎兵隊の、経験あるScout(斥候)である。クルック将軍は、他の将軍と異なり、北米先住民に対しては若干理解を示そうとする良心的態度を持った将軍である。時代は、1870年代初めである。アメリカ独立戦争は、実は、東部が対英戦線であったとすると、西部戦線があり、これは、イギリスと同盟する北米先住民諸部族との戦いであった。独立戦争が1783年に終わって、イギリスを北米大陸から追い出したUSAは、とりわけイギリス側に味方した北米先住民を追い詰める形で、対「インディアン戦争」の戦線を徐々に北米大陸西部・南西部へと進めることになる。

 19世紀に入ると、北米先住民の形勢は更に悪くなり、アンドリュー・ジャクソン大統領が署名した「インディアン移住法」が1830年に成立する。「インディアン移住法」とは、ウィキペディアによると、「インディアンを白人のいない西部のインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住させ、連邦政府が信託保留 (reserve) した土地 (Reservation) に住まわせ、そこで白人の社会システムを構築し、白人社会に同化させる」という政策である。「これに従わない場合、そのインディアン部族は絶滅させる」とまで、ジャクソン大統領は宣言しており、これは、正に、暴力的な民族浄化政策である。このことは、人権宣言を高らかに謳ったUSAで、その人権が「白人」にのみ当て嵌まるとするダブル・スタンダードであることを図らずも露呈させている。この段階になると、「インディアン戦争」の趨勢はほぼ決着が付いたと言え、遅くとも1870年代には、誇りある北米先住民の運命は、既に、その挽歌が歌われていたと言える。

 本作の原作となっているのが、大衆娯楽小説作家Louis D'Amourルイ・ダムールが書いた『The Gift of Cochise』(「コチーズの贈り物」)である。コーチーズは、アパッチ部族の六つある支族の一つChiricahuaチリカウア族の、支族の尊敬を集めた戦士であった。彼にまつわる話しとしては以下のものがあるので、少々長いがウィキペディアより引用する:

 「アパッチ峠の西の新設のブキャナン砦のそばに、メキシコ女のヘイスーサ・マルチネスを愛人とするジョン・ウォードというならず者が、怪しげな牧場を開いていた。ここにはマルチネスの息子のフェリックスという10歳か11歳の少年がいたが、この少年の父親はアパッチ族だった。

 1860年の夏にピネル・アパッチの一団がこの牧場にやってきて、牛数頭とフェリックスをさらった。ウォードはブキャナン砦に訴えたが、米軍は手いっぱいで何カ月もこの訴えは放置された。そのうちに、ウォードは根拠もなく、この襲撃はチリカウア・アパッチの有名なコーチーズの仕業だと妄想するようになった。現在では、このウォードの考えは根も葉もない妄言と断定されているが、米軍は彼のこの考えに賛成した。

 翌年1月に、ようやく米軍のジョージ・N・バスコム少尉が派遣されてきた。バスコムは西部に来たばかりで、名を挙げることしか考えていない青年将校だった。バスコムは部下54名とともにアパッチ峠に向かい、ジョン・ウォードもその部隊と同行した。バスコムはバターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所で、チリカウア族と親しい御者のジェームズ・ウォレスに、『我々はリオグランデ川に定例の巡察に行くところだ』と嘘を教え、そのまま峡谷に野営を張った。

 ほどなくしてコーチーズが中継所に来て、なぜ大勢の軍人が来たのか尋ねた。ウォレスは聞いたままを答えたので、コーチーズは安心し、弟のネレテナ、妻のナレカディア、息子ナチーズ、甥二人を連れてバスコムの野営を表敬訪問した。コーチーズは礼儀正しく挨拶をし、テントの中に座ったが、バスコムはこっそりと兵士たちにテントを包囲させた。

 バスコムはいきなりコーチーズに、例の一件を詰問した。コーチーズは寝耳に水のこの話に驚いたが、この犯人を捜そうと言った。コーチーズはチリカウア・アパッチの沈着冷静な戦士で、白人も一目置く人物だった。コーチーズはあくまでもチリカウア族であるから、他のアパッチ支族に対してなんらの責任もない。それでも努力を約束したのであるから、ただでも理不尽なこの要求に、これ以上の返答などあり得ない。

 しかしバスコムはこれを偽りと思い込んで満足せず、『コーチーズ自らが事件に関与した』と非難し、コーチーズの家族を人質にすると脅迫した。コーチーズは非難されたことと拘束されたことに怒り、テントをナイフで切り裂いて逃亡した。コーチーズはウォレスにだまされたと思い込み、中継所に戦士たちと押しかけ、出てきたウォレスと所長のカルバー、馬丁のウォルシュを取り押さえた。カルバーとウォルシュは逃げたが、カルバーはアパッチに射殺され、ウォルシュはインディアンと間違えられて米兵に射殺された。コーチーズはウォレスを人質にした。

 バスコムは人質交換を行うことには気乗りしないままであり、コーチーズたちは通りかかった幌馬車隊を襲い、アメリカ白人を二人捕虜にし、メキシコ人家畜商人を馬車ごと焼き殺した。その後バターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所での人質交換は、バスコムの拒否によって成立しなかった。バスコムとコーチーズの間の交渉は行き詰まりとなっており、その間にバスコムは援軍を要請する伝令を送った。コーチーズは怒り狂い、三人の捕虜を惨殺した。バスコムは軍医のバーナード・アーウィン博士の助言を容れ、コーチーズの弟と二人の甥を樫の木に吊るして縛り首にした。

 バスコムはコーチーズの妻と息子は返したが、コーチーズの怒りは収まらなかった。この一件は『バスコム事件』と呼ばれるようになり、小さな事件であったにも拘らず、その後11年間におよぶアメリカ白人入植者および米軍と、コーチーズたちチリカウア・アパッチとの戦いのきっかけとなった。」

 原作におけるコーチーズの「贈り物」が何であったのかは分からないが、コーチーズに関しての上述の話しは、確かに、本作のストーリーと似ているところがある。ジョン・ウォードというならず者の存在と彼が持っている牧場、そこにいる少年のフェリックス、新米のUS陸軍少尉バスコムなどである。そして、この「バスコム事件」がその後の11年間にも及ぶチリカウア・アパッチのゲリラ的闘争の切っ掛けとなったことである。

 このコーチーズにまつわる話しは、1860年代のことになるが、丁度、この時期は、南北戦争の時期(1861年から64年まで)に当たり、対「インディアン戦争」は、この南北アメリカの内戦中も戦われていたことに注意したい。

 ジョン・ウェイン演じるホンド―・レインの人物像も興味深い。未だ、いわゆる「正統派ウェスタン映画」が蔓延っている1950年代の時期に(本作の制作は、1953年)、ホンド―・レインは、その血の一部にインディアンの血が混じっており、本人が言うところでは、五年間アパッチの一支族であるMescaleroメスカレロ支族と共に生活し、Squawスクウォー(アメリカ東海岸北部にいた北米先住民の言葉が英語に入ったもので、「インディアン女性」を意味する)と同棲していたのである。

 また、ホンド―が自分に付いて言う、「嘘が付けない男」という点では、コーチーズに関わる、次のエピソードも興味深い。USポストの配達人は、アパッチの土地(現ニュー・メキシコ州を中心とする地域)を横切らざるを得ないので、1871年までに14人もの配達人がアパッチによって殺されていた。そこで、トーマス・ジェフォーズという男は、単身でコーチーズに直談判に出掛けた。彼は、武器を預けて、アパッチの言葉でコーチーズに直接に申し入れを行ない、アパッチ族から、郵便通行の安全を保証させたのである。ジェフォーズとコーチーズとは、この時以来、終生の友情を結んだと言う。このジェフォーズの人物像もホンド―の人柄に反映されていると思って差し支えないであろう。ジェフォーズはコーチーズについて言う:  「彼は生まれながらの極めて優秀な男だと思う。鷲のような目を持ち、申し分のない男らしい身体つきをしていた。私たちは互いを尊敬した。彼は嘘をつかない男だった。」(ウィキペディアより)

  このコーチーズに当たる本作の登場人物が「Vittorioヴィットリオ」である。但し、このヴィットリオは、「Victorioヴィクトリオ」の名称を変えたものであり、Victorioは、実在した人物で、コーチーズと同様に、チリカウア支族の出身のヴェテランの戦士である。彼は、元々は和平派であったが、1877年に、自分の生まれた、現ニュー・メキシコ州から西にあるアリゾナ州の保留地に移住されらたことから、1878年に抗戦派に変わり、他のアパッチの支族の戦士も加えて、約200名の軍団を組織して、山岳地帯を根城にしてゲリラ戦を展開し、ニュー・メキシコ州南部、テキサス州西部、メキシコ領も跨いで、約14ヶ月間抵抗を続けたが、1880年10月、メキシコ軍に取り囲まれて、戦死する。彼に同行していた女性と子供はメキシコに連れて行かれて、そこで奴隷として売られたと言う。このUS白人側が言う「アパッチ戦争」は、Victorioの後を継ぐ形で、同じくチリカウア支族出身の著名な戦士ジェロニモによって戦われる。この最後の抵抗者ジェロニモが1886年にUS陸軍に投降したことを以って、1851年以来の「アパッチ戦争」は、事実上、終わりを告げたのであった。

2026年9月14日月曜日

リヴェンジャー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー

 21世紀の初年に起こった9.11.(ナイン・イレヴン)は、世界を変え、今年2026年は、あれから四半世紀が経った年となる。現在のトランプ現象も、この世界の変化と関連するものと見ることも出来るが、9.11.こそは、USAが対アフガニスタン戦争を遂行することになった原因であった。そして、USAとNATO「有志国」は、結局、敗退してアフガニスタンの地を去り、2021年に、USA軍に追い出されていたタリバン政権がカプールに再復帰する。

 20世紀のアフガニスタン戦争は、1979年にアフガニスタンに侵攻したソ軍軍と、USAなどが支援した、アフガニスタンの部族社会に根差すジハード戦士ムジャヒディーンとの戦争であった。十年後の1989年、ソ連はアフガニスタンから撤退するが、その後のソ連の崩壊は、確かに、このソ連の対アフガニスタン戦争での敗退がその遠因であった。

 アフガニスタンから追い出された大国は、実は、もう一つある。19世紀の大英帝国である。それは、ロシアの南下政策を恐れて、アフガニスタンをその影響下に置こうとして、インドに駐留していたイギリス軍と東インド会社軍が、アフガニスタン国内の紛争に乗じて、1838年にアフガニスタンに侵攻したことから始まる。このアングロ・アフガン戦争は、三次に及び、1919年にイギリスが、第二次アングロ・アフガン戦争でイギリスの保護国としていたアフガニスタンに独立を認めることになるが、第一次アングロ・アフガン戦争は、1838年から1842年まで続き、イギリス軍の敗退・撤退で終わる。

 この戦いに加わっていた大英帝国陸軍軽歩兵連隊の一つが、本作の主人公Martin Feeneyマーティン・フィーニーが所属していた第88歩兵連隊Connaught Rangersコノート・レインジャーであった。この連隊は、1793年、即ち、フランス大革命中に創設されたもので、Connaughtは、アイルランドの北西部にある地域である。つまり、アイルランド人が徴用されて大英帝国のために海外遠征したことになり、アイルランド人にとっては、イギリスのために戦うことは、自分達がイングランドに支配されている存在でもあり、いくら金のためとは言え、アンビヴァレントな行為であった。1842年に命からがらアフガニスタンから撤退したMartin Feeney達は、インドに戻り、Martin Feeneyは、約五年間外地にいたのか、何れにしても、その後に連隊から脱走して、自分の故郷の地であるConnemaraコネマラに1847年に戻ってくる。しかし、自分の故郷は数年来の大飢饉で荒れ果てており、Martin Feeneyの母や弟は亡くなっていた。戻って間もなく、彼の目の前で甥っ子も銃殺され、義理の妹も姪も、住む家から追い出されて凍死する。こうして、Martin Feeneyの復讐劇が始まる。

 アイルランドの地には、既に、12世紀以来、ブリテン島からの侵攻が相次いでいたが、清教徒革命時代のクロムウェル軍が本格的に侵攻して、宗教対立をこの地に招く。クロムウェル軍の目的は清教徒革命に反抗するカトリック教勢力の掃討であった。その後はアイルランド議会もあり、一応の自治も存在してはいたが、1801年には、アイルランド議会は閉鎖されて、アイルランドは同君連合国の形態で完全に英国の支配下に置かれる。そして、イギリス議会には、アイルランドからの議員が一定枠送られることが制度化される。しかし、イギリス議会に席を持っている議員の大部分は、もはや、アイルランドの地を踏んだこともない、アイルランド系貴族であり、アイルランドには領地があっても、そこの管理は、現地にいる領地管理代理人に任せていた。その代理人の下には、小作人と直接関わり合う仲介人がおり、収穫された穀物や地代の取り立ては、この仲介人が処理していた訳である。穀物は徴収され、地代も払わされる小作人に生きるために残っている食糧はジャガイモだけしかなかった。しかし、恐らく北アメリカからもたらされた病原菌が原因でジャガイモが腐って食べられるなくなる状況が現出した。このような事態は既に何度もヨーロッパを襲っていたが、1845年からアイルランドで起こったジャガイモ飢饉は、1847年に最悪の事態に至り、アイルランドでは、この年を、原題の通り、『Black '47』と呼んでいる。本作は、この大飢饉で亡くなった、当時のアイルランドの人口の12%に当たる約百万人と言われるアイルランド人と、糧をUSAに求めて移民となってアイルランドの地を去った人々を想う作品である。故に、本作の邦題は、たとえ、主人公がランボーを思わせ、音楽の一部がウェスタン映画を連想させる味付けがされているとしても、その追悼の想いをないがしろにする下品な題名の付け方である。 

 復讐劇は、まず、アイルランドの支配のシステムの下から始まる。故に、小作仲介人Beartlaから始まり、次に領地代理管理人Croninへ、そして、Lord Kilmichaelsキルマイケル卿へとシステムの上層に上っていく。とりわけ、Beartlaへの復讐はとりわけ凄惨であるが、それは、彼が同じアイルランド人でありながら、同胞を裏切って、逆に同胞を搾取する存在であったからである。

 このアイルランド人収奪のシステムを暴力装置として支えるのが、まずは、大英帝国軍の、現地に駐屯する陸軍歩兵連隊である。本作では、それは、第68軽歩兵連隊となっている。この連隊は、1758年に創立された連隊で、本作に登場する若い将校は、恐らくは、イングランド出身の貴族の子息であろう。人を人とも思わない、とりわけ、アイルランド人は家畜同様と見做している彼の傲慢さは、観る者の神経を逆撫でする。

 暴力装置のもう一つが、Royal Irish Constabularyコンスタビュラリー(RIC:王立アイルランド警察隊)で、その黒い制服は、ナチスのSSを思わせる。この警察隊は、19世紀の初めに治安維持の目的のために創設され、1822年のアイルランド警察隊法により、各Countyカウンティ―に配置される警察組織となる。この「警察」組織の第一の役割は、英国国教会教会区に納める十分の一税の強制的取り立てである。統計によると、1841年には、約8.600名の警察官がおり、その多くは、カトリック系であったが、本作の主人公の一人Hannahハナは、Feeneyの軍隊時代の上官であり、恐らく、軍役後にイギリスに戻ってきて、Irish Constabularyに勤めていた人間であった。RICは、実は、最初は、ICのみの名称であったが、19世紀後半にアイルランド人の対イングランド抵抗運動の鎮圧に「功績」があったことから、ヴィクトリア女王から、「Royal」の名称を与えられて、RICとなった警察組織である。

 本作の監督Lance Dalyランス・デイリ―は、ダブリン生まれの映画作家で、2001年に、自らが書いた脚本をプロデュースし、その監督を務めて発表した『Last Days in Dublin』でデビューした。2008年制作の『Kisses』で、アイルランド・アカデミー賞の最優秀監督賞を受賞する。本作は、批評上も商業上も成功した作品と評価されており、本作で歌われるアイリッシュ・ゲール語の歌曲も、作詞を彼自身が共作している。2025年制作の作品『Trad』では、各地を巡業して歩き回る音楽グループを描いた音楽映画を制作しており、彼は、音楽的にも興味が高いようであり、この作品『Trad』には、本作で主人公の義理の妹役で登場し、アイリッシュ・ゲール語の歌を歌うSarah Greeneが脇役で出ている。

 アイリッシュ・ゲール語とは、印欧語族のケルト語派に属する言語である。ケルト諸語の中では、ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語がp-Celticに分類されるのに対して、スコットランド・ゲール語、アイリッシュ・ゲール語、マン語は、q-Celticに分類される。この区別は、語頭の[qu]音が、p-Celticでは、[p]音に変わったのに対して、q-Celticでは、それがそのままで残ったことによる。ゲール語は、アイルランド語では、「Gaelige」と綴られ、「ゲールグ」乃至「ゲールゲ」と発音される。ゲール語は、印欧語族の言語ではあるが、同じ印欧語族の英語を話す人間にはそのままでは通じない。その英語を話すインランド人が、ゲール語を話すアイルランド人を蔑む、文化的差別も本作にはしっかり描かれており、本作では、そのゲール語をたっぷり聞けるのも、本作の魅力であろう。ゲール語で、アイルランドは、「Éire(エーラ)」、イングランドは、「Sasana(ササナ)」と、そして、因みに、日本は、「An tSeapáin(アン・チャパーン)」と言うそうである。「アン」は、定冠詞である。

 最後に、言わば、アイルランド人の視点に立った「語り部」という存在が、これまた、イギリス人将校と「原住民」との間の通訳としての役割も演じるConneely コネ―リーである。この役を演じているのが、Stephen Reaスティーヴン・レイで、彼は、北アイルランドのベルファスト出身である。元々舞台俳優であった彼は、その後、映画界にも進出し、アイルランド人映画監督Neil Jordanニール・ジョーダンが制作した『クライング・ゲーム』(1992年作)で、IRA暫定派のメンバーを演じてUSAアカデミー賞にノミネートされて世界的に注目された俳優である。以来、ジョーダン組俳優として活躍している。Stephen Reaが本作で歌うゲール語の歌は、子供が発音される音を意味もなく並べて作ったような、大人の童謡のような趣きがあり、印象的である。本作のエンディング・ロールで、作中で歌われたゲール語の歌が繰り返されるので、ゆっくりとこれらの歌を聞きながら、本作のストーリーの余韻を味わいたいものである。

炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えた...