ノーベル文学賞受賞者Thomas Mannトーマス・マンが祖国(ドイツ語でVaterlandファーター・ラント=「父国」)から亡命したのは、ナチスが政権を掌握した1933年と同年である。ナチス政権誕生と共に、「非アーリア的文学書」が公衆の面前で焚書にされる。それには、Th.マンの著作自体は含まれていなかったのではあるが、ナチスの暴虐性を早くも見抜いていたのか、マン一家は早々にドイツから亡命した。
ナチスの「千年王国」が僅か12年で崩壊し、敗戦後の四年が経った1949年に、16年振りに祖国を訪れたTh.マンに対して、著名な全国紙『南ドイツ新聞』の記者は、もっと国内に残って同胞を支援すべきではなかったのか、あのように早期に国外亡命したのは、祖国に対する裏切りではなかったのかという意見があるがどう考えるのかと、意地の悪い質問をする。それに対して、Th.マンは、「残っていたら、こうして、貴方の質問に答えることは出来なかったでしょう。」と、Th.マンらしい皮肉を込めた返答をしている。こうして、1949年の夏に祖国を再訪したTh.マンは、西ドイツのフランクフルトと東ドイツのヴァイマールで、それぞれ、Goetheゲーテの生誕二百年を記念してのゲーテ賞を受けるために、黒塗りの大型高級車Buickビュイックの、恐らくは、Roadmaster型に乗って、戦争で荒廃したドイツを移動して歩いたのである。ビュイック車を運転するのは、Thomasのお気に入りの娘Erikaエリカで、彼女は嘗てはレーシング・カーも運転していたこともある、車の操作には長けた運転手でもあったのである。
このTh.マンのドイツ再訪に随行したのは、実は、エリカではなく、Thomasの妻・Katiaカティアであった。故に、当然に運転手もエリカではなく、ある化学会社の若い社員で、Th.マン文学の熱烈な崇拝者であったGeorges Motschanという人物であった。脚本の内容を、史実とこれ程までに変えてよいものかという議論も起こり得るが、実は、映画の冒頭に登場する、Thomasの息子Klausがフランスのカンヌで睡眠薬の大量服薬で亡くなったのは、Th.マンがドイツに入る前の、49年5月21日のことである。この訃報がエリカを含めた旅行中のマン一家に届いたのは、Th.マンが講演旅行中のストックホルムであり、映画とは異なり、エリカも賛成して、今回のヨーロッパ旅行を中断しないことを家族で決めたのであった。つまり、映画内でのクラウス・マンの死亡の時点も、史実と異なるのであるが、以上の二点の改変により、ストーリー自体がそのドラマトゥルギーがより高まり、また、エリカを演じるドイツの名女優Sandra Hüllerザンドラ・ヒュラーの演技力をより求めるものとなっていることから、これらの改変は本作を成功させている一因であると筆者には思われる。
マン一家がニュー・ヨークからヨーロッパに向けて船出したのは、49年5月10日であった。ヨーロッパ大陸に到着してからは、スイスに長く滞在し、ゲーテの生誕地フランクフルトに入ったのは、同年7月25日となる。ここでの記者会見で上述の『南ドイツ新聞』の記者の意地悪な質問がTh.マンに向けられたのである。1848年の三月革命で民主主義的憲法が起草されたことから、特徴的な楕円形型の建物をしたフランクフルトのパウルス教会はドイツの民主主義の発祥のシンボル的な場所である。そこで、ゲーテ賞の受賞の講演が行なわれ、別の場所で記念の晩餐会なども催されたのであろう。このフランクフルトでの滞在に関してそれを回想してTh.マンは、次のように書いている:
「どれだけの血が、今日握手をしなければならなかった手のすべてにこびり付いていたのか、どれだけが?」
連合国による非ナチ化政策が冷戦により逆コースを取るようになり、嘗てのナチスが次第にまた西ドイツ社会の中枢に入り込んでいることを上のTh.マンの言葉が的確に指摘している。現在も存在する、ドイツの憲法に当たる「基本法」が49年5月23日、即ちクラウス・マンが亡くなった二日後には、発効することを以って、ドイツ連邦共和国が一般的には成立したとされているが、この西ドイツの成立は、冷戦構造下のドイツの東西分裂を確定的なものにしたと言える。尚、西ドイツが自らの司法の手で嘗てのナチスを取り締まっていくのは、1960年代に入ってからである。
さて、映画では、Th.マンが、恰も、西ドイツのフランクフルトから車で直接に東ドイツのヴァイマールに行ったかのように見えるが、史実では、彼は、まず、南ドイツのシュトゥットガルト、ミュンヘン、そこから北東に向かって、ニュルンベルクとバイロイトを経由して、それから、ヴァイマールに到着している。映画では、フランクフルトで、ナチス体制の順応者であったヴィーラントとヴォルフガング・ヴァーグナー兄弟が図々しくもバイロイト音楽祭が再開されることに、ヴァグネリアンであったTh.マンも協力して欲しいと頼む場面があるが、もし、そのようなことがあったとしたら、それは、バイロイトでのことであったであろうと想像される。頼まれたTh.マンは、かなりどぎつい反応を示して、二人の母親コジマ・ヴァーグナーに早く裁判が起こされればいいと捨て台詞を残して、二人を後にする。
Th.マンがヴァイマールに到着したのは、49年7月31日のことである。それは、ゲーテの生誕二百年を記念する行事であったが、Th.マンは、ナチス・ドイツから亡命する数ヶ月前にも、1932年のゲーテ没後百周年を記念してヴァーマールを訪れており、17年振りのヴァイマール再訪は彼にとっても感慨深いものであったことであろう。
監督Paweł Pawlikowski(パヴェウ・パヴリコフスキ)は、ポーランドのワルシャワ生まれの映画監督兼脚本家である。1970年代の初めに英文学の講師をしていた母と共に共産主義国のポーランドからドイツに移住した。その後イギリスに渡り、オックスフォード大学では、文学と哲学を専攻したが、そこでドイツ文学の研究プロジェクトにも関わることになる。それ故に、彼は、発音には癖があるが、ドイツ語をある程度よく話せる。また、あるインターヴューでは、Th.マン文学に関しても全てではないが、ある程度は読んでいると答えている。
1980年代にBBCのドキュメンタリー映画を制作するようになり、1990年にドキュメンタリー映画監督として自立する。1998年には劇映画部門にも進出し、2004年の三作目の『マイ・サマー・オブ・ラブ』で英国アカデミー賞作品賞を、2013年の『イーダ』でポーランド映画としては初めてのUSアカデミー賞外国映画賞を、2018年の『Cold Warあの歌、2つの心』でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞している。