1973年のTVアニメ・シリーズでは、冒頭の、何か講談調を思わせる、納谷悟朗のナレーションを、耳障りもよく、歯切れもよくて、好んで聴いたものである:
「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身のからだ。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる!」
その切ない覚悟を持って、東博士の息子・鉄也は、人間の身体には戻れないことを知りながら、新造人間キャシャーンとなった。なぜなら、「鉄の悪魔」たるロボット軍団が人間を亡ぼそうとしているからで、その不死身の身体を以ってのみ、鉄也は「アンドロ軍団」に対抗できるのである。ナチス的な統制を思わせ、大量に製造される各種のロボット軍団に、「錐揉みしつつ、体当たりでロボットを破壊するフライングドリル」の技で、対峙するキャシャーンは、しかし、孤立しており、優勢な敵と孤独に戦う、その悲壮感は、火曜日晩七時からのテレビ番組枠のアニメとしては、稀有のものであった。
しかも、「アンドロ軍団」が人間を亡ぼそうとする動機は、人間こそが環境を破壊して地球を亡ぼそうとしている存在であるから、地球を救うためには、人間を亡ぼさなければならないと、ロボット軍の総帥ブライキング・ボスが論理的に結論付けたからであった。
1973年と言えば、石油危機の年である。それまでの高度経済成長政策により、経済成長率が10%程度を記録していた日本経済は、このエネルギー危機で、一挙にスタグフレーションの段階に入る。そして、1960年代には、公害による環境破壊が国民の意識に根付き、世界でも最も厳しいと当時言われた環境法制が整いつつあった時期である。
この経済成長一本槍の政策を見直す雰囲気を敏感に感じ取ったストーリー内容は、単なる「子供のアニメ」で終わらすことが出来ない内容を含んでいた。キャシャーンのエネルギー供給源は、太陽光であり、キャシャーンが被るヘルメット(「ソーラーメット」)に付いた三日月形の鍬形が受光部となっているという具合である。1970年代の前半に「ソーラー発電」の考えがどれほど日本社会に浸透していたであろうか。その意味でも、このTVアニメシリーズのSF性は高かったと言える。
さて、本作の制作年は、2004年である。原作とも言える1973年TVアニメシリーズの放映が終わったのが、1974年6月であったから、30年振りのリメイクである。さすがに30年も経っているから、今更「ソーラー・エネルギー」でもないであろう。環境破壊は、50年も続いたヨーロッパとの戦争がその理由となっており、原作での問題意識とはかけ離れているように思える。そのせいもあるのか、プロダクション・ディザインは、スティーム・パンク的な、レトロSFのルックである。SFの未来志向であるはずなのに、レトロという伝統回帰は、その矛盾性が好みである筆者ではあるが、やはり、環境問題が喫緊な課題でもあることから、この点でもっと環境破壊の問題を深掘りして欲しかったと個人的には思う。
原作での「新造人間」という用語の使い方には、今から思うと、腑に落ちない点である。ロボットは機械であり、それがいくらアンドロイドの形態をしていようと、人間ではない。サイボーグは、あくまでも人間であり、ロボットではない、それ故、サイボーグでもないはずのキャシャーンは、新造の「人間」ではないはずである。この用語上の問題は、本作では、すっきりと解決されており、遺伝子工学の発達に関わる「新造細胞」による人間の再生はそれなりに説得力を持つが、キューブリックの『2001年』のあの黒い石板を思わせる、稲妻状の巨大な構造物は、原作との関連があるとは言え、都合がよ過ぎるプロットである。しかも、これにより、ブライキング・ボス達もまた「新造人間」になってしまい、Casshernとの対立の構図が不明確になってしまっている。そして、同じ「新造人間」同士であるからなのか、ブライキング・ボス対Casshernの対立が、極めて感情的にウェットで、パトスが強調されたドラマになっていて、141分の上映時間は、かなり冗長なものと感じられたのは、筆者のみではないであろう。残念である。
Kientopp55 映画批評 硬派で少々辛口
・内容: 劇映画を中心に邦画、洋画を問わず ・頻度: 不定期、二週間に一本を目指す ・対象者: 本当の映画好き、Cineastさん向け
2026年7月20日月曜日
2026年7月13日月曜日
猿の惑星: 聖戦記(USA、2017年作)監督:マット・リーヴス
前作の監督であったマット・リーヴスが、本作の監督を続投し、しかも、脚本も共同で担当しているのは、何か嫌な予感がする。元々の脚本家夫婦リック・ジャッファとアマンダ・シルヴァーは、今回は抜け、前作で共同脚本家であったマーク・ボンバックがM.リーヴスと脚本を共同執筆している。
さて、本作の二人の共同脚本家にはかなり難しい課題が課せられていた。まずは、前作の結末が本作の始まりであり、本作の結末が、1968年の元々の第一作のストーリーにつながらなければならないからである。つまり、スタートとゴールが決まっていて、その間をどう「盛り付ける」かである。そして、本作での「盛り付け」は、余り成功していないように見える。
本作の始まりは、サルとヒトとの闘争である。サルの武力のレベルは、騎兵と石槍のレベルである。それに対するヒトの武装は、20世紀のエリート部隊のレベルであり、火力の点では、シーザーには勝ち目はない。
一方、本作の結末は、1968年作品のストーリーの状態につながらなければならない。即ち、サルがヒトを支配し、ヒトは言語を持たずにサルより知能が低い状態に成らなければならない。
この二つの前提をどう「料理する」か。結末に関しては、説得ある理由が提示できており、納得できる。しかし、ラストシーンは、余りに調和主義的ではないか。或いは、白人の北米原住民の征服の端緒を模しているのであろうか。
一方、映画の始まりから登場するエリート部隊の存在とその在り方は、映画の中盤になって、筆者にはある映画を思い出させた。『地獄の黙示録』(1979年作)である。この映画にも、マーロン・ブランドーが演じる「大佐」が登場する。USA陸軍特殊部隊に所属していた彼は、上官の許可を得ずに独自の行動を取り、カンボジア東部のジャングルの中に前哨基地を築いて、そこを独立王国として、地元民兵からは半神と崇められていた存在である。本作の、狂気を内に秘めた人物を演じさせると一品のWoody Harrelsonが演じる「大佐」も、本隊から離反して、独立の大隊を率いて拠点を構えて、軍事独裁者として振舞っている。彼は、自らに課した、信念とでも言えるある「任務」を遂行していたのであり、それ故に、彼は、本隊から離反していたのである。
本作では、もう一人、否、もう一匹、ある映画を思い出させる存在がいる。Bad Apeである。他人の物を盗み、人間のように衣類を纏っている。何故なら、体毛が抜け落ちているからである。しかも、手話は出来ないが、動物園で育ったことから、英語は流暢に話せる存在である。ひょうきん者で、憎めないとも思えるが、こちらが油断をしたら、何をされるか分からないところもある。この性格の二重性が、筆者にはある映画に登場するキャラクターを思い出させたのである。『ロード・オブ・ザ・リング』の、とりわけ、第二作目『二つの塔』(2002年作)で重要な役を演じるGollumゴラムである。ウィキペディアの記述によると、Gollumは、「骨と皮ばかりに痩せており、目ばかりがぎょろりとした姿で頭髪・体毛はほとんど失われ」ていると言う。Bad Apeに外見が似ている。Gollumの本来の名前はSméagolスメアゴルで、元来は邪悪な存在ではなかったが、「指輪」の持つ魔力に侵されて狡猾さと残忍さを身に付けたが、「指輪」の魔力が弱くなると、スメアゴルの良心が一時的に復活するという二重人格の存在である。
という訳で、「大佐」と「Bad Ape」という、余りオリジナリティがないキャラクターが本作の「キー・パーソン」の一部になっている点で、「盛り付け」が上手く盛り付けられていないように感じざるを得なかったのが残念な次第であった。
さて、本作の二人の共同脚本家にはかなり難しい課題が課せられていた。まずは、前作の結末が本作の始まりであり、本作の結末が、1968年の元々の第一作のストーリーにつながらなければならないからである。つまり、スタートとゴールが決まっていて、その間をどう「盛り付ける」かである。そして、本作での「盛り付け」は、余り成功していないように見える。
本作の始まりは、サルとヒトとの闘争である。サルの武力のレベルは、騎兵と石槍のレベルである。それに対するヒトの武装は、20世紀のエリート部隊のレベルであり、火力の点では、シーザーには勝ち目はない。
一方、本作の結末は、1968年作品のストーリーの状態につながらなければならない。即ち、サルがヒトを支配し、ヒトは言語を持たずにサルより知能が低い状態に成らなければならない。
この二つの前提をどう「料理する」か。結末に関しては、説得ある理由が提示できており、納得できる。しかし、ラストシーンは、余りに調和主義的ではないか。或いは、白人の北米原住民の征服の端緒を模しているのであろうか。
一方、映画の始まりから登場するエリート部隊の存在とその在り方は、映画の中盤になって、筆者にはある映画を思い出させた。『地獄の黙示録』(1979年作)である。この映画にも、マーロン・ブランドーが演じる「大佐」が登場する。USA陸軍特殊部隊に所属していた彼は、上官の許可を得ずに独自の行動を取り、カンボジア東部のジャングルの中に前哨基地を築いて、そこを独立王国として、地元民兵からは半神と崇められていた存在である。本作の、狂気を内に秘めた人物を演じさせると一品のWoody Harrelsonが演じる「大佐」も、本隊から離反して、独立の大隊を率いて拠点を構えて、軍事独裁者として振舞っている。彼は、自らに課した、信念とでも言えるある「任務」を遂行していたのであり、それ故に、彼は、本隊から離反していたのである。
本作では、もう一人、否、もう一匹、ある映画を思い出させる存在がいる。Bad Apeである。他人の物を盗み、人間のように衣類を纏っている。何故なら、体毛が抜け落ちているからである。しかも、手話は出来ないが、動物園で育ったことから、英語は流暢に話せる存在である。ひょうきん者で、憎めないとも思えるが、こちらが油断をしたら、何をされるか分からないところもある。この性格の二重性が、筆者にはある映画に登場するキャラクターを思い出させたのである。『ロード・オブ・ザ・リング』の、とりわけ、第二作目『二つの塔』(2002年作)で重要な役を演じるGollumゴラムである。ウィキペディアの記述によると、Gollumは、「骨と皮ばかりに痩せており、目ばかりがぎょろりとした姿で頭髪・体毛はほとんど失われ」ていると言う。Bad Apeに外見が似ている。Gollumの本来の名前はSméagolスメアゴルで、元来は邪悪な存在ではなかったが、「指輪」の持つ魔力に侵されて狡猾さと残忍さを身に付けたが、「指輪」の魔力が弱くなると、スメアゴルの良心が一時的に復活するという二重人格の存在である。
という訳で、「大佐」と「Bad Ape」という、余りオリジナリティがないキャラクターが本作の「キー・パーソン」の一部になっている点で、「盛り付け」が上手く盛り付けられていないように感じざるを得なかったのが残念な次第であった。
地底探険(USA、1959年作)監督:ヘンリー・レヴィン
本作の原作は、SF冒険小説の生みの親の一人であるフランス人のジュール・ヴェルヌJules Verneの小説『地底旅行』(1864年作)である。この邦訳の『地底旅行』を原題にすると、『Voyage au centre de la terre』であり、意訳すると、『テラのセンターへのヴォアヤージュ』ということになろうか。本作に合わせて言うと、つまり、「地球の中心への旅」(『Journey to the Center of the Earth』)である。とは言え、どんどん地球の核に降りていく訳ではなく、アイスランドの死火山から地球の中に入った探検隊一行は、結局最後には、シチリア島の近くにある活火山Stromboliストロンボリから噴き出されて、地表に戻ってくることになるので、つまりは、地の底を旅して地中海まで辿り着いたことになり、この意味で、邦訳の『地底旅行』は適訳と言えよう。
原作では、主人公は、ドイツのハンブルクに住む鉱物学者・地学者である、年齢は50代後半のOtto Lidenbrockオットー・リーデンブロックである。彼が丁度手に入れたルーン文字で手書きされた古書の中に、リーデンブロック教授は、16世紀のアイスランドの錬金術師Arne Saknussemm アルネ・サクヌセムの秘密のメッセージが隠されていると確信し、それを、甥っ子でもあり、また、彼の信頼の置ける助手でもあるAlexアーレックス(19歳)と共に解読する。こうして、二人は、コペンハーゲン経由でアイスランドのレイキャビックに渡航し、そこで現地の案内人としてHansハンスを雇って、上述の地底旅行を1863年の夏から始める。原作の語りは、一人称型式で、物語りは、Alexを語り手として語られる。
原作が、初期のSF作品と言われる所以は、様々な科学的な叙述が比較的長く作中で綴られているからであるが、これを映画化するに当たっては、男三人の地底旅行をAlexのモノローグで淡々と辿る訳には行かない。という訳で、脚本家のWalter Reisch(ヴァルター・ライシュ;オーストリア系のUSA脚本家で、兼作詞家、兼映画監督)とCharles Brackettチャールズ・ブラケットが、脚本作りの経験を生かして、脚本化に取り掛かる。とりわけ、言わば「ビリー・ワイルダー組」の脚本家と言えるニューヨーカー・Ch.ブラケットは、B.ワイルダーのために十本以上の脚本を書いており、1950年作の『サンセット大通り』では、USアカデミー賞脚本賞を受賞している存在である。しかも、彼は、製作も担当しており、映画製作のツボも押えている人物である。
まずは、時代を1863年から1880年に移し、主人公Otto Lidenbrockは、スコットランドはエジンバラ大学の教授Oliver Lindenbrookオリヴァー・リンデンブルックとする。その甥っ子であるはずのAlexは、リンデンブルック教授の下で地学を学ぶスコットランド人学生Alecアレックとなる。錬金術師Arne Saknussemmは、同じくアイスランド人の著名な地学者とし、新たに、その子孫であるサクヌッセム伯爵が本作の悪玉として登場して、彼が、リンデンブルック探検隊の邪魔をするのである。しかも、この悪玉が、リンデンブルック教授が協力を求めたストックホルム大学のゲータボルク教授を殺すという犯罪映画の要素もストーリーに加わる。SF冒険譚に犯罪事件が加われば、もちろん、色恋沙汰が出てこなければ「嘘」になる。という訳で、リンデンブルック教授には年頃の姪っ子のジェニーがいることになり、彼女とアレックは熱々の恋仲の関係である。このアレック役を、しかもコミカルに演じるのが、USA歌手のPat Booneパット・ブーンで、彼は、ジェニーに恋の歌をピアノの弾き語りで捧げるという趣向などを含めて、劇中所々で、その喉の魅力を披露することになる。更に、男三人のむさ苦しい地底旅行には、ゲータボルク教授未亡人Carlaカルラ(赤毛のブロンド女優Arlene Dahlアーレン・ダール)が、女丈夫よろしく、同行するのであった。こうして、探検隊隊長であるリンデンブルック教授(名優ジェームズ・メイスン)と、赤毛のカルラとの絡み合いも「色」の一つを添えることになるのである。
1960年開催のUSアカデミー賞は、『ベン・ハー』が12部門でノミネートされ、11部門で受賞した、言わば、『ベン・ハー』の年であるが、この際、本作も三部門でノミネートされた。カラー映画部門美術・セット装飾賞(五名)、音響賞(Carlton W. Faulkner;1954年にシネマスコープ技術の開発に絡んでUSアカデミー賞技術賞を共同受賞している) 、そして、特殊効果賞の三部門である。とりわけ、特殊効果賞でノミネートされたのは、二作だけであり、もう一作の『ベン・ハー』がこの賞を受賞している。本作での特殊効果の担当は、L.B. Abbott(撮影監督並びに特殊効果ディザイナーとして活動し、1968年には『ドリトル先生の不思議な旅』、1971年に『トラ、トラ、トラ!』でUSアカデミー賞視覚効果賞を受賞している)、James B. Gordon(1951年開催のUSアカデミー賞で科学・技術賞を受賞している)、そして、Emil Kosa Jr.の三名である。但し、Emil Kosa Jr.は、USアカデミー賞でのノミネートでは挙げられておらず、代わりに、特撮における音響録音に関係したと思われるCarlton W. Faulknerの名前が再度挙げられている。
特殊効果ということであると、本作の前年に発表された冒険ファンタジー映画『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』がある。CGが導入される前の、特殊効果の王道は、特撮の名匠と言われたRay Harryhausenレイ・ハリーハウゼンが開発した特殊効果撮影システム(ダイナメ―ション方式)で、ストップモーション撮影と写真合成技術をカラー撮影用に組み合わせたものである。この「特殊撮影の神様」が、『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』で、画面の中で怪物や怪獣を動かしたり、人間と骸骨とを剣を持って戦わせたりしたのである。
本作では、ストップモーション撮影は使われていないようであるが、いわゆる「トカゲ撮影」での写真合成技術は使われた。古代巨大生物を撮影するために、本物のトカゲやワニに作り物の鰭や角を付けさせてそれらしく見せるトリック撮影である。動物愛護の観点から今では考えられないトリック撮影技法である。
尚、言語としては、本作はUSA映画でもあり、英語がこの映画では基本であるが、アイスランドでガイド役になるハンスには、本当のアイスランド人Pétur Rögnvaldssonがなっている。熱烈な陸上競技選手で、アイスランドの陸上競技代表チームには、十種競技の選手として参加しているほどである。彼は、USAの大学から奨学金を得たことからUSAに渡って、Peter Ronsonと名乗ることになるが、渡ってまもなく、本作に、その193㎝の身長の高さを買われて、Hans役で登場する。一方、Carla役のArlene Dahlは、USA生まれの女優ではあるが、彼女の両親は、ノールウェー出身の移民であることから、恐らくは、ノールウェー語が出来たのであろう。本作中では、アイスランド語しか話さないハンスと、スコットランド人であるリンデンブルック教授との間のスェーデン人通訳として、その仲介の役割を演じる。デンマーク語も含めたスカンディナヴィア諸語がそれぞれどれだけ異なるのか、筆者には測りかねるが、ハンスとCarlaとの間のスカンディナヴィア語のやりとりは聞いていて興味深い。
本作は、CinemaScope作品として撮られている。CinemaScopeは、二十世紀フォックス社が開発したワイドスクリーン技術で、上述のCarlton W. Faulknerなどがその開発に携わっったものである。1953年制作の聖書物語『聖衣』(ヘンリー・コスタ監督、リチャード・バートン主演)が、初のCinemaScope作品となる。
また、未だ白黒作品が撮られていた1950年代末で、本作はカラー映画作品として映画のカラー化の方向を一歩進めた作品として、DeLuxe Colorによるカラー化が行なわれている。筆者の個人的な印象であるが、Technicolorが彩度の高い総天然色であるのに対し、Eastmancolorは、油絵のような濃度の濃い色合いを特徴としており、特に、黄色の再現力に強い。DeLuxe Colorは、このEastmancolorを基に、特に初上映向けに使われるプリントに施された現像技術であった。しかも、Technicolorでは三色撮りであるのに対して、DeLuxe Colorは、「single strip color」と言われるように、一本の撮影で済むことから、安上りでもあった訳である。
本作の中で、色彩関連で、とりわけ印象的なシーンを幾つか挙げれば、一つ目は、映画の序盤での、アレックの恋人ジェニーが着ているドレスである。シルクの光沢が感じられる薄い桜色のドレスは、それを纏った若いジェニーによく似合っている。日本で言えば、振り袖姿の二十歳のお嬢さんという感じである。二つ目は、夫によりアイスランドのレイキャビックに呼び寄せられたゲータボルク教授夫人Carlaが着ているドレスである。赤毛の髪を見せながら、赤色の補色である緑色の帽子を被り、それにコーディネートさせた、ビロードの素材を感じさせる若干くすんだ色の緑色のドレスである。そして、ドレスと言うことであれば、映画の終盤に、エディンバラに戻ってきた探検隊一行を讃える観衆の前で演説するリンデンブルック教授の隣に立つCarlaの着ているドレスである。明るい光沢を放つ薄い紫色の、華やかなドレスで、それにコーディネートされたように同じ色の日傘を差したCarlaの姿は、本作の大団円に相応しい一幅の絵であろう。(因みに、本作のタイトルロールでは、初期のカラー映画作品でよくあるように、「Color Consultant」の担当者の名前が挙げられており、本作では、Leonard Dossが担当している。)
原作では、主人公は、ドイツのハンブルクに住む鉱物学者・地学者である、年齢は50代後半のOtto Lidenbrockオットー・リーデンブロックである。彼が丁度手に入れたルーン文字で手書きされた古書の中に、リーデンブロック教授は、16世紀のアイスランドの錬金術師Arne Saknussemm アルネ・サクヌセムの秘密のメッセージが隠されていると確信し、それを、甥っ子でもあり、また、彼の信頼の置ける助手でもあるAlexアーレックス(19歳)と共に解読する。こうして、二人は、コペンハーゲン経由でアイスランドのレイキャビックに渡航し、そこで現地の案内人としてHansハンスを雇って、上述の地底旅行を1863年の夏から始める。原作の語りは、一人称型式で、物語りは、Alexを語り手として語られる。
原作が、初期のSF作品と言われる所以は、様々な科学的な叙述が比較的長く作中で綴られているからであるが、これを映画化するに当たっては、男三人の地底旅行をAlexのモノローグで淡々と辿る訳には行かない。という訳で、脚本家のWalter Reisch(ヴァルター・ライシュ;オーストリア系のUSA脚本家で、兼作詞家、兼映画監督)とCharles Brackettチャールズ・ブラケットが、脚本作りの経験を生かして、脚本化に取り掛かる。とりわけ、言わば「ビリー・ワイルダー組」の脚本家と言えるニューヨーカー・Ch.ブラケットは、B.ワイルダーのために十本以上の脚本を書いており、1950年作の『サンセット大通り』では、USアカデミー賞脚本賞を受賞している存在である。しかも、彼は、製作も担当しており、映画製作のツボも押えている人物である。
まずは、時代を1863年から1880年に移し、主人公Otto Lidenbrockは、スコットランドはエジンバラ大学の教授Oliver Lindenbrookオリヴァー・リンデンブルックとする。その甥っ子であるはずのAlexは、リンデンブルック教授の下で地学を学ぶスコットランド人学生Alecアレックとなる。錬金術師Arne Saknussemmは、同じくアイスランド人の著名な地学者とし、新たに、その子孫であるサクヌッセム伯爵が本作の悪玉として登場して、彼が、リンデンブルック探検隊の邪魔をするのである。しかも、この悪玉が、リンデンブルック教授が協力を求めたストックホルム大学のゲータボルク教授を殺すという犯罪映画の要素もストーリーに加わる。SF冒険譚に犯罪事件が加われば、もちろん、色恋沙汰が出てこなければ「嘘」になる。という訳で、リンデンブルック教授には年頃の姪っ子のジェニーがいることになり、彼女とアレックは熱々の恋仲の関係である。このアレック役を、しかもコミカルに演じるのが、USA歌手のPat Booneパット・ブーンで、彼は、ジェニーに恋の歌をピアノの弾き語りで捧げるという趣向などを含めて、劇中所々で、その喉の魅力を披露することになる。更に、男三人のむさ苦しい地底旅行には、ゲータボルク教授未亡人Carlaカルラ(赤毛のブロンド女優Arlene Dahlアーレン・ダール)が、女丈夫よろしく、同行するのであった。こうして、探検隊隊長であるリンデンブルック教授(名優ジェームズ・メイスン)と、赤毛のカルラとの絡み合いも「色」の一つを添えることになるのである。
1960年開催のUSアカデミー賞は、『ベン・ハー』が12部門でノミネートされ、11部門で受賞した、言わば、『ベン・ハー』の年であるが、この際、本作も三部門でノミネートされた。カラー映画部門美術・セット装飾賞(五名)、音響賞(Carlton W. Faulkner;1954年にシネマスコープ技術の開発に絡んでUSアカデミー賞技術賞を共同受賞している) 、そして、特殊効果賞の三部門である。とりわけ、特殊効果賞でノミネートされたのは、二作だけであり、もう一作の『ベン・ハー』がこの賞を受賞している。本作での特殊効果の担当は、L.B. Abbott(撮影監督並びに特殊効果ディザイナーとして活動し、1968年には『ドリトル先生の不思議な旅』、1971年に『トラ、トラ、トラ!』でUSアカデミー賞視覚効果賞を受賞している)、James B. Gordon(1951年開催のUSアカデミー賞で科学・技術賞を受賞している)、そして、Emil Kosa Jr.の三名である。但し、Emil Kosa Jr.は、USアカデミー賞でのノミネートでは挙げられておらず、代わりに、特撮における音響録音に関係したと思われるCarlton W. Faulknerの名前が再度挙げられている。
特殊効果ということであると、本作の前年に発表された冒険ファンタジー映画『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』がある。CGが導入される前の、特殊効果の王道は、特撮の名匠と言われたRay Harryhausenレイ・ハリーハウゼンが開発した特殊効果撮影システム(ダイナメ―ション方式)で、ストップモーション撮影と写真合成技術をカラー撮影用に組み合わせたものである。この「特殊撮影の神様」が、『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』で、画面の中で怪物や怪獣を動かしたり、人間と骸骨とを剣を持って戦わせたりしたのである。
本作では、ストップモーション撮影は使われていないようであるが、いわゆる「トカゲ撮影」での写真合成技術は使われた。古代巨大生物を撮影するために、本物のトカゲやワニに作り物の鰭や角を付けさせてそれらしく見せるトリック撮影である。動物愛護の観点から今では考えられないトリック撮影技法である。
尚、言語としては、本作はUSA映画でもあり、英語がこの映画では基本であるが、アイスランドでガイド役になるハンスには、本当のアイスランド人Pétur Rögnvaldssonがなっている。熱烈な陸上競技選手で、アイスランドの陸上競技代表チームには、十種競技の選手として参加しているほどである。彼は、USAの大学から奨学金を得たことからUSAに渡って、Peter Ronsonと名乗ることになるが、渡ってまもなく、本作に、その193㎝の身長の高さを買われて、Hans役で登場する。一方、Carla役のArlene Dahlは、USA生まれの女優ではあるが、彼女の両親は、ノールウェー出身の移民であることから、恐らくは、ノールウェー語が出来たのであろう。本作中では、アイスランド語しか話さないハンスと、スコットランド人であるリンデンブルック教授との間のスェーデン人通訳として、その仲介の役割を演じる。デンマーク語も含めたスカンディナヴィア諸語がそれぞれどれだけ異なるのか、筆者には測りかねるが、ハンスとCarlaとの間のスカンディナヴィア語のやりとりは聞いていて興味深い。
本作は、CinemaScope作品として撮られている。CinemaScopeは、二十世紀フォックス社が開発したワイドスクリーン技術で、上述のCarlton W. Faulknerなどがその開発に携わっったものである。1953年制作の聖書物語『聖衣』(ヘンリー・コスタ監督、リチャード・バートン主演)が、初のCinemaScope作品となる。
また、未だ白黒作品が撮られていた1950年代末で、本作はカラー映画作品として映画のカラー化の方向を一歩進めた作品として、DeLuxe Colorによるカラー化が行なわれている。筆者の個人的な印象であるが、Technicolorが彩度の高い総天然色であるのに対し、Eastmancolorは、油絵のような濃度の濃い色合いを特徴としており、特に、黄色の再現力に強い。DeLuxe Colorは、このEastmancolorを基に、特に初上映向けに使われるプリントに施された現像技術であった。しかも、Technicolorでは三色撮りであるのに対して、DeLuxe Colorは、「single strip color」と言われるように、一本の撮影で済むことから、安上りでもあった訳である。
本作の中で、色彩関連で、とりわけ印象的なシーンを幾つか挙げれば、一つ目は、映画の序盤での、アレックの恋人ジェニーが着ているドレスである。シルクの光沢が感じられる薄い桜色のドレスは、それを纏った若いジェニーによく似合っている。日本で言えば、振り袖姿の二十歳のお嬢さんという感じである。二つ目は、夫によりアイスランドのレイキャビックに呼び寄せられたゲータボルク教授夫人Carlaが着ているドレスである。赤毛の髪を見せながら、赤色の補色である緑色の帽子を被り、それにコーディネートさせた、ビロードの素材を感じさせる若干くすんだ色の緑色のドレスである。そして、ドレスと言うことであれば、映画の終盤に、エディンバラに戻ってきた探検隊一行を讃える観衆の前で演説するリンデンブルック教授の隣に立つCarlaの着ているドレスである。明るい光沢を放つ薄い紫色の、華やかなドレスで、それにコーディネートされたように同じ色の日傘を差したCarlaの姿は、本作の大団円に相応しい一幅の絵であろう。(因みに、本作のタイトルロールでは、初期のカラー映画作品でよくあるように、「Color Consultant」の担当者の名前が挙げられており、本作では、Leonard Dossが担当している。)
そして、本作の極めつけは、探検隊が地底に着いて、初めて狂喜する、様々な奇石に散りばめられた、地下水が流れ込む洞穴の場面である。ここでは、特殊撮影は必要がなく、ただ美術監督の裁量の下、セット装飾が存分に腕を揮ったところである。正に、カラー映画作品でなければ、楽しめない場面であり、USアカデミー賞の美術部門で本作がノミネートされたのも然りという仕事振りである。改めて、担当したJeseph KishとWalter M. Scottに敬意を表するものである。
2026年7月7日火曜日
ザ・コア(USA、2003年作)監督:ジョン・アミエル
地球の中心へ向かう使命ということであると、SF冒険小説の生みの親の一人であるフランス人のジュール・ヴェルヌJules Verneの小説『地底旅行』(1864年作)が思い出される。『地底旅行』を原題にすると、『Voyage au centre de la terre』であり、意訳すると、『テラのセンターへのヴォアヤージュ』ということになろうか。本作に合わせて言うと、つまり、「地球の核への旅」である。
この原作を少々ファンタジー映画的に1959年に映画化したものが、USA映画『Journey to the Center of the Earth 地底探検』(Henry Levin監督、ジェームズ・ジェイソン主演)であり、これは、SF映画と言うよりは、冒険映画と言うべきストーリー設定であった。この映画を、よりSF的に引き戻し、更に、現代風のストーリー展開にしたものが、本作であると言えようか。『The Core』とは、「地球の核」のことである。
地球物理学の専門家から見る本作のストーリーは、「人を馬鹿だと思っているような映画物理学」を以ってするものであり、「映画史上最悪の物理学映画」の「栄誉賞」を与えられていると、ウィキペディアには書いてある。しかし、地球物理学に疎い筆者には、「なるほど、これもあり」という感じで、それ程、違和感もなく最後まで見られたのである。次から次へと「危機」が訪れるストーリー展開で、人類を救おうという意気込みの、アストロナウトならぬ、Terranaut テラナウトが一人一人と亡くなっていくのにも伴なって、本作は、展開のスピード感を以って、飽かずに最後まで観られた次第である。
監督は、Jon Amielという、ロンドン生まれのイギリス人であり、本作を単なるアクション冒険ものに終わらせてはおらず、とりわけ、極めて「人間的、余りに人間的な」Dr.ジムスキー(Stanley Tucci スタンリー・トゥッチ)の人物像は、本作のストーリーを平板な冒険映画に終わらせていない。しかも、彼は、USA国防総省ともつながりがあり、「デスティニー計画」にも関わっている人間なのである。本作終盤のストーリー展開でこの計画は暴露されるが、それは、痛快でもあり、また、現在のトランプ政権下でのUSAの政治状況を鑑みると、必要な「市民的抵抗」であるとも思われる。
さて、地中の奥深くから排出される「ヴァージル」艇を観ていて、1966年作のSF冒険映画『ミクロの決死圏』を思い出した方はいたであろうか。それは、地球ならぬ、人体であった。
この原作を少々ファンタジー映画的に1959年に映画化したものが、USA映画『Journey to the Center of the Earth 地底探検』(Henry Levin監督、ジェームズ・ジェイソン主演)であり、これは、SF映画と言うよりは、冒険映画と言うべきストーリー設定であった。この映画を、よりSF的に引き戻し、更に、現代風のストーリー展開にしたものが、本作であると言えようか。『The Core』とは、「地球の核」のことである。
地球物理学の専門家から見る本作のストーリーは、「人を馬鹿だと思っているような映画物理学」を以ってするものであり、「映画史上最悪の物理学映画」の「栄誉賞」を与えられていると、ウィキペディアには書いてある。しかし、地球物理学に疎い筆者には、「なるほど、これもあり」という感じで、それ程、違和感もなく最後まで見られたのである。次から次へと「危機」が訪れるストーリー展開で、人類を救おうという意気込みの、アストロナウトならぬ、Terranaut テラナウトが一人一人と亡くなっていくのにも伴なって、本作は、展開のスピード感を以って、飽かずに最後まで観られた次第である。
監督は、Jon Amielという、ロンドン生まれのイギリス人であり、本作を単なるアクション冒険ものに終わらせてはおらず、とりわけ、極めて「人間的、余りに人間的な」Dr.ジムスキー(Stanley Tucci スタンリー・トゥッチ)の人物像は、本作のストーリーを平板な冒険映画に終わらせていない。しかも、彼は、USA国防総省ともつながりがあり、「デスティニー計画」にも関わっている人間なのである。本作終盤のストーリー展開でこの計画は暴露されるが、それは、痛快でもあり、また、現在のトランプ政権下でのUSAの政治状況を鑑みると、必要な「市民的抵抗」であるとも思われる。
さて、地中の奥深くから排出される「ヴァージル」艇を観ていて、1966年作のSF冒険映画『ミクロの決死圏』を思い出した方はいたであろうか。それは、地球ならぬ、人体であった。
猿の惑星:創世記(USA、2011年作)監督:ルパート・ワイアット
本シリーズの元祖とも言える『猿の惑星』(1968年制作)の、恐らく伝説的なショックは、主人公達が不時着した惑星が実は地球であったということであろう。この作品のヒットを受けて、その二年後の1970年から73年まで、第一回目の『猿の惑星』シリーズが展開し、高度な知性を持つ類人猿に支配される、奴隷的存在としてのヒトという、倒錯した世界が描かれる。とりわけ、ヒトの生存権を守ろうとするチンパンジーの女性科学者Dr. Zira(ジーラ:キム・ハンター)の存在がこのシリーズの初期には印象的であった。73年のシリーズ四作目の作品は、駄作の批評を受けて、本シリーズは中止される。
ほぼ30年の空白を破って、USA映画界の奇才Tim Burtonが新世紀の最初の年・2001年に発表した『猿の惑星』は、1968年作品を、自称「リ・イマジネーション」した作品であると言う。宇宙での移動に絡む「時差」を上手く使い、主人公(Mark Wahlberg)が「救世主」となるストーリーは、Burtonらしいストーリー展開である。
この21世紀に入ってからの10年後、福島大災害が起こった年の2011年に発表されたのが、本シリーズの「リブート」とも言える第二回目シリーズの第一弾『猿の惑星:Rise』である。類人猿がどうして知能を高めることが出来たのかの部分を、現代医療の課題たるアルツハイマー病の克服を目指す製薬会社ジェネシスの思惑を絡めながら、SF科学的な説得性を以って描いている。また、知能が比較的高まった類人猿の指導者となるシーザーの生立ちを丁寧に描いている点でも本作は筆者には好感が持てる。
そのシーザーが使用する手話は、American Sign Languageであるそうで、シーザーが、サーカスで飼われていたオラウータン・モーリスと、その手話で以って会話をするというアイディアは、中々興味深い。この点でも、脚本家アマンダ・シルヴァ―及びリック・ジャファ夫婦の本シリーズでの仕事振りを評価したい。尚、二人はシリーズ三本ともにおいてその製作を担当しており、第二作目でも脚本作成を続投している。
本シリーズの英語の原題が、2011年の本作では「Rise」、2014年の第二作では「Dawn」、2017年の第三作では「War」となっており、邦題の方が、それぞれ、「創世記」、「新世紀」、「聖戦記」と改題されている。それなりにセンスがある邦題名の付け方と言える。
さて、第二作目の「新世紀」につながる、人類の地球支配の崩壊を結果する「猿インフルエンザ」の世界へのパンデミック的蔓延は、本作ではエンドロールが一部始まってからもう一度場面となって提示され、USAを発現地として国際航空路線網に沿って暗示される。それは、もちろん、日本にも及ぶ。2011年時におけるこの「暗示」は、2020年のからパンデミックを知っている2020年代後半に生きている我々には、その現実味がひしひしと伝わるものである。
ほぼ30年の空白を破って、USA映画界の奇才Tim Burtonが新世紀の最初の年・2001年に発表した『猿の惑星』は、1968年作品を、自称「リ・イマジネーション」した作品であると言う。宇宙での移動に絡む「時差」を上手く使い、主人公(Mark Wahlberg)が「救世主」となるストーリーは、Burtonらしいストーリー展開である。
この21世紀に入ってからの10年後、福島大災害が起こった年の2011年に発表されたのが、本シリーズの「リブート」とも言える第二回目シリーズの第一弾『猿の惑星:Rise』である。類人猿がどうして知能を高めることが出来たのかの部分を、現代医療の課題たるアルツハイマー病の克服を目指す製薬会社ジェネシスの思惑を絡めながら、SF科学的な説得性を以って描いている。また、知能が比較的高まった類人猿の指導者となるシーザーの生立ちを丁寧に描いている点でも本作は筆者には好感が持てる。
そのシーザーが使用する手話は、American Sign Languageであるそうで、シーザーが、サーカスで飼われていたオラウータン・モーリスと、その手話で以って会話をするというアイディアは、中々興味深い。この点でも、脚本家アマンダ・シルヴァ―及びリック・ジャファ夫婦の本シリーズでの仕事振りを評価したい。尚、二人はシリーズ三本ともにおいてその製作を担当しており、第二作目でも脚本作成を続投している。
本シリーズの英語の原題が、2011年の本作では「Rise」、2014年の第二作では「Dawn」、2017年の第三作では「War」となっており、邦題の方が、それぞれ、「創世記」、「新世紀」、「聖戦記」と改題されている。それなりにセンスがある邦題名の付け方と言える。
さて、第二作目の「新世紀」につながる、人類の地球支配の崩壊を結果する「猿インフルエンザ」の世界へのパンデミック的蔓延は、本作ではエンドロールが一部始まってからもう一度場面となって提示され、USAを発現地として国際航空路線網に沿って暗示される。それは、もちろん、日本にも及ぶ。2011年時におけるこの「暗示」は、2020年のからパンデミックを知っている2020年代後半に生きている我々には、その現実味がひしひしと伝わるものである。
2026年7月1日水曜日
ある神父の希望と絶望の7日間(アイルランド/UK、2014年作)監督:ジョン=マイケル・マクドナー
カトリック教会の聖職者による性的暴行の問題を主眼に据えながら、アイルランド島の北西、大西洋岸にある、ある村での村人の人間模様をブラック・ユーモアとシニシズムを以って悲喜劇的描く本作は、果たして、佳作であろうか。
本作では、アイルランドはダブリン出身の人気俳優Brendan Gleesonブレンダン・グリーソンが、神父役であるところからか、髭を蓄えて登場する。その実在感と共に、彼は、村人達のその心の悩みに癒しを与えようと努力するカトリック教会聖職者を説得力を以って好演している。とは言え、村人達の悩みは、次から次へと目まぐるしく描かれ、それもステレオタイプ的な描き方であるところから、何か底の浅さを感じさせる脚本である。
しかも、背景に映し出されるアイルランド島北西の自然風景は、確かに、印象的ではあるのではあるが、どこか、観光協会のキャンペーン映画を思わせるところもあって、どうもいただけない。海岸でのサーファーの場面、アイルランドの航空会社の航空機が止まっている地方空港の場面、民族舞踊のグループが踊っているパブの場面、主題のテーマに即してストーリーを展開をさせようとするのであれば、入れなくてもよいシーンではないか。
撮影場所は、アイルランドの北西にあるSligoスライゴ県で、先史時代の巨石文化遺跡で有名であり、また、映画にも再三登場する、大きな台形をしたBenbulbin山は、この県をシンボライズする標識になっている名勝である。そして、日本語版ポスターの背景になっている山はKnocknareaナクナレイ山といい、これまたこの県の名所の一つとなっている山であると言う。という訳で、残念ながら、いささか「胡散臭い」のである。
監督は、ロンドン生まれながら、アイルランド国籍を持つJohn Michael McDonagh ジョン=マイケル・マクドナーで、本作の脚本も書いている。アイルランドを舞台としたブラックユーモア的な人間劇を描いている点で、また、その名もMcDonaghといえば、どこかで聞いたことがあると思ってよく調べてみると、彼は、Martin McDonaghの兄であると言う。
マーティン・マクドナーは著名な劇作家であり、彼には、初期の映画作品としては、『ヒットマンズ・レクイエム』(2008年作)がある。この作品では、既に自分の初期短編映画(2004年作)で起用していたB.グリーソンを使って、ある殺し屋達の悲喜劇を描いていた。この意味では、本作のストーリーが与えるタッチが何か似ている。
更に、ジョン=マイケルの前作が、これまたアイルランドを舞台とした刑事もので、その主役を演じたのが、B.グリーソンであった。『ザ・ガード〜西部の相棒〜』という、2011年の作品である。しかも、この作品の製作総指揮の一人は、弟のマーティンという具合である。その意味でも、監督のジョン=マイケルと主役のB.グリーソンとは、よく知っている仲であると言えよう。
本作では、アイルランドはダブリン出身の人気俳優Brendan Gleesonブレンダン・グリーソンが、神父役であるところからか、髭を蓄えて登場する。その実在感と共に、彼は、村人達のその心の悩みに癒しを与えようと努力するカトリック教会聖職者を説得力を以って好演している。とは言え、村人達の悩みは、次から次へと目まぐるしく描かれ、それもステレオタイプ的な描き方であるところから、何か底の浅さを感じさせる脚本である。
しかも、背景に映し出されるアイルランド島北西の自然風景は、確かに、印象的ではあるのではあるが、どこか、観光協会のキャンペーン映画を思わせるところもあって、どうもいただけない。海岸でのサーファーの場面、アイルランドの航空会社の航空機が止まっている地方空港の場面、民族舞踊のグループが踊っているパブの場面、主題のテーマに即してストーリーを展開をさせようとするのであれば、入れなくてもよいシーンではないか。
撮影場所は、アイルランドの北西にあるSligoスライゴ県で、先史時代の巨石文化遺跡で有名であり、また、映画にも再三登場する、大きな台形をしたBenbulbin山は、この県をシンボライズする標識になっている名勝である。そして、日本語版ポスターの背景になっている山はKnocknareaナクナレイ山といい、これまたこの県の名所の一つとなっている山であると言う。という訳で、残念ながら、いささか「胡散臭い」のである。
監督は、ロンドン生まれながら、アイルランド国籍を持つJohn Michael McDonagh ジョン=マイケル・マクドナーで、本作の脚本も書いている。アイルランドを舞台としたブラックユーモア的な人間劇を描いている点で、また、その名もMcDonaghといえば、どこかで聞いたことがあると思ってよく調べてみると、彼は、Martin McDonaghの兄であると言う。
マーティン・マクドナーは著名な劇作家であり、彼には、初期の映画作品としては、『ヒットマンズ・レクイエム』(2008年作)がある。この作品では、既に自分の初期短編映画(2004年作)で起用していたB.グリーソンを使って、ある殺し屋達の悲喜劇を描いていた。この意味では、本作のストーリーが与えるタッチが何か似ている。
更に、ジョン=マイケルの前作が、これまたアイルランドを舞台とした刑事もので、その主役を演じたのが、B.グリーソンであった。『ザ・ガード〜西部の相棒〜』という、2011年の作品である。しかも、この作品の製作総指揮の一人は、弟のマーティンという具合である。その意味でも、監督のジョン=マイケルと主役のB.グリーソンとは、よく知っている仲であると言えよう。
邦題の『ある神父の希望と絶望の7日間』とは野暮な題名であり、そもそも、主人公の神父に希望はあったのか。絶望しかないところから這い上がったのは、彼に希望があったからであろうか。そして、彼をして「処刑」の地に足を運ばせたのは、神への信仰心ではなかったはずである。英語原題の『Calvary』とは、「髑髏の丘」、つまり、「ゴルゴタの丘」を意味する。しかも、その「処刑」が「神を祝祭する曜日」、つまり日曜日に行なわれたことも意味深と言えば、意味深であろう。
2026年6月30日火曜日
ノスタルジア(イタリア/ソ連合作、1983年作)監督:アンドレイ・タルコフスキー
白黒写真が年月を重ねると、段々セピア色になっていくように、そのような色の映像で本作は始まる。映像の構図は、画面のこちら側は丘になっているようで、その丘から、画面の奥をゆったりと流れている川を見下ろす構図である。丘の中腹には、人や牛の姿が、17世紀の伝統的な風景画のStaffageスタファージュのように、点景として配置されている。この風景は、恐らくは、ロシア人であるアンドレイ・タルコフスキーが育ったロシアの古里とも言える原風景を映像化したものであろう。画面の奥を流れている川は、彼の生地の近くを流れていたヴォルガ川であるかもしれない。正に、題名通りのノスタルジーの映像である。
本作の発表が、1983年で、A.タルコフスキーがソ連当局の帰国要請を無視して、西側に事実上亡命したのが1984年であったから、彼が既に望郷の念で以って本作を撮り上げた想いの強さが感じられる。それだけに、本作制作時には彼が内面的には「亡命」を、遅くとも83年段階で決意していたものと想像される。本作の製作は、一応「イタリア・ソ連合作」となってはいるものの、資本はソ連側からは出ていなかったと言われている事実からも、当時の事情の在り様(よう)が推察される。
モチーフとしての「水」の存在にA.タルコフスキーがどのような意味の象徴性を与えていたかは筆者が詳らかに知るところではないが、水のないところに生命が存在し得ないことからも生命の源泉としての意味を、四大種(仏教用語で、「しだいしゅ」と読む。地、水、火、風の四要素を言う)の元素である「水」が持っていたのではないか。
であれば、同じく四大種の一要素である「火」もまた「水」の対立項の意味を持つ。こうして考えれば、本作の主人公たるロシア人作家アンドレイ・ゴルチャコフの精神的ドッペルゲンガー・ドメニコが世界の救済を願って焼身自殺をした、その自殺の方法の必然性も理解できる。そして、映画の中盤で、アンドレイ(奇しくも、A.タルコフスキーと同じ名前)が水のひたたる洞穴で望郷の念に駆られて詠みあげた後、持参していたロシア語の詩集の手帳が、彼が泥酔して眠っている間に、自然に焼けたことの神秘も理解できる。尚、詠まれたロシア語の詩は、A.タルコフスキー本人と彼の母親を捨てて別の家庭を築いたウクライナ人の父親Arseni Tarkowskiの作品であることも、これまた、象徴的であろう。
さて、映画の前半では、イタリア人の女性通訳Eugeniaに連れられてアンドレイは、イタリア・トスカーナ地方で、18世紀にこの地にやって来たロシア人作曲家Pawel Sosnowski の足跡を辿っていた。彼は、イタリアで成功を収めていたのにも関わらず、この作曲家は、望郷の念に駆られて不自由な帝政ロシアに戻り、そこで不幸な恋愛をすることになって自殺を遂げた人物である。アンドレイは、無神論のソ連社会から来ている人物である。その彼が、カトリック教国のイタリアにやってきて、嘗ての同胞の足跡を辿ることの政治・宗教的意味は大きい。同時に、Eugenia(字義的には「優生」の意)の自分への愛を拒むアンドレイの心理の複雑さも深い。この点、Eugeniaのみが、ある教会の地下納骨堂で、イタリア・ルネサンスの代表的な画家の一人ピエトロ・デラ・フランチェスカのMadonna del Parto(「妊婦のマドンナ」)を祀る、無数の蝋燭(元素・火!)に点された祝祭に立ち会う点も、象徴的な意味を持つ。因みに、アンドレイがEugeniaと泊まるホテルで時々、子犬を連れた婦人が登場するが、果たして、これは、A.タルコフスキーがロシアの文豪チェホフに捧げたオマージュであろうか。
A.タルコフスキーは、「映画作家」ではなくて、「映像作家」である。何故に筆者がそう規定するかと言うと、それは、本作の終盤での映像の構成の仕方から言えるのである。主人公のアンドレイは、恐らく死者として、ある修道院教会の廃墟を訪れているのであろう。廃墟は、何かシトー派修道院の禁欲的な建築構想を思わせる、壁は高いが、装飾は少ない清楚な建築である。(撮影場所は、トスカーナ地方のシエナから南西に35km程行った所にあるSan Galgano修道院教会である。)ゆっくりと動くカメラは、廃墟の建物を舐めるようにして写す。その、静かではあるが、何かの激情を内に秘めた映像は、次第に建物の全体を写すように廃墟からの距離を取っていく。すると、教会堂の回廊の中にあるはずの、今は屋根がないためにただの地面となっている場所に水溜まり(元素・水!)がある。その左脇にはアンドレイが寝そべり、水溜まりの右脇には、ドメニコが飼っていたシェパード犬が腹這いに座っている。そこに何と、小雪が静かに降りそそぐのである。この静謐な映像構成は、正に、冒頭の望郷の念を搔き立てる映像に対応するものであろう。ソ連が生んだ世界的映像作家が初めてソ連以外の地で撮った初めての作品には、誠に相応しいラストシーンである。
脚本には、A.タルコフスキーの名前に連ねて、イタリアを代表する脚本家Tonino Guerraトニーノ・グェッラの名前が出ている。ミケランジェロ・アントニオーニ、フランチェスコ・ロージー、フェデリコ・フェリーニなど、イタリア映画の代表格的監督の作品を手掛けている彼が、A.タルコフスキーの描いた大筋に沿って、それにイタリアのロケーションで肉付けした脚本と想像される。
撮影監督は、ローマ人のGuiseppe Lanciジュゼッペ・ランキである。彼は1970年後半以降チーフ・キャメラマンとして活動をし始め、抒情的な場面や詩的で幻想的な場面の撮影において冴えた腕を見せると評価されている撮影監督である。本作は、その評価を裏付ける彼の仕事振りを見事に示している作品であると言える。
本作の発表が、1983年で、A.タルコフスキーがソ連当局の帰国要請を無視して、西側に事実上亡命したのが1984年であったから、彼が既に望郷の念で以って本作を撮り上げた想いの強さが感じられる。それだけに、本作制作時には彼が内面的には「亡命」を、遅くとも83年段階で決意していたものと想像される。本作の製作は、一応「イタリア・ソ連合作」となってはいるものの、資本はソ連側からは出ていなかったと言われている事実からも、当時の事情の在り様(よう)が推察される。
モチーフとしての「水」の存在にA.タルコフスキーがどのような意味の象徴性を与えていたかは筆者が詳らかに知るところではないが、水のないところに生命が存在し得ないことからも生命の源泉としての意味を、四大種(仏教用語で、「しだいしゅ」と読む。地、水、火、風の四要素を言う)の元素である「水」が持っていたのではないか。
であれば、同じく四大種の一要素である「火」もまた「水」の対立項の意味を持つ。こうして考えれば、本作の主人公たるロシア人作家アンドレイ・ゴルチャコフの精神的ドッペルゲンガー・ドメニコが世界の救済を願って焼身自殺をした、その自殺の方法の必然性も理解できる。そして、映画の中盤で、アンドレイ(奇しくも、A.タルコフスキーと同じ名前)が水のひたたる洞穴で望郷の念に駆られて詠みあげた後、持参していたロシア語の詩集の手帳が、彼が泥酔して眠っている間に、自然に焼けたことの神秘も理解できる。尚、詠まれたロシア語の詩は、A.タルコフスキー本人と彼の母親を捨てて別の家庭を築いたウクライナ人の父親Arseni Tarkowskiの作品であることも、これまた、象徴的であろう。
さて、映画の前半では、イタリア人の女性通訳Eugeniaに連れられてアンドレイは、イタリア・トスカーナ地方で、18世紀にこの地にやって来たロシア人作曲家Pawel Sosnowski の足跡を辿っていた。彼は、イタリアで成功を収めていたのにも関わらず、この作曲家は、望郷の念に駆られて不自由な帝政ロシアに戻り、そこで不幸な恋愛をすることになって自殺を遂げた人物である。アンドレイは、無神論のソ連社会から来ている人物である。その彼が、カトリック教国のイタリアにやってきて、嘗ての同胞の足跡を辿ることの政治・宗教的意味は大きい。同時に、Eugenia(字義的には「優生」の意)の自分への愛を拒むアンドレイの心理の複雑さも深い。この点、Eugeniaのみが、ある教会の地下納骨堂で、イタリア・ルネサンスの代表的な画家の一人ピエトロ・デラ・フランチェスカのMadonna del Parto(「妊婦のマドンナ」)を祀る、無数の蝋燭(元素・火!)に点された祝祭に立ち会う点も、象徴的な意味を持つ。因みに、アンドレイがEugeniaと泊まるホテルで時々、子犬を連れた婦人が登場するが、果たして、これは、A.タルコフスキーがロシアの文豪チェホフに捧げたオマージュであろうか。
A.タルコフスキーは、「映画作家」ではなくて、「映像作家」である。何故に筆者がそう規定するかと言うと、それは、本作の終盤での映像の構成の仕方から言えるのである。主人公のアンドレイは、恐らく死者として、ある修道院教会の廃墟を訪れているのであろう。廃墟は、何かシトー派修道院の禁欲的な建築構想を思わせる、壁は高いが、装飾は少ない清楚な建築である。(撮影場所は、トスカーナ地方のシエナから南西に35km程行った所にあるSan Galgano修道院教会である。)ゆっくりと動くカメラは、廃墟の建物を舐めるようにして写す。その、静かではあるが、何かの激情を内に秘めた映像は、次第に建物の全体を写すように廃墟からの距離を取っていく。すると、教会堂の回廊の中にあるはずの、今は屋根がないためにただの地面となっている場所に水溜まり(元素・水!)がある。その左脇にはアンドレイが寝そべり、水溜まりの右脇には、ドメニコが飼っていたシェパード犬が腹這いに座っている。そこに何と、小雪が静かに降りそそぐのである。この静謐な映像構成は、正に、冒頭の望郷の念を搔き立てる映像に対応するものであろう。ソ連が生んだ世界的映像作家が初めてソ連以外の地で撮った初めての作品には、誠に相応しいラストシーンである。
脚本には、A.タルコフスキーの名前に連ねて、イタリアを代表する脚本家Tonino Guerraトニーノ・グェッラの名前が出ている。ミケランジェロ・アントニオーニ、フランチェスコ・ロージー、フェデリコ・フェリーニなど、イタリア映画の代表格的監督の作品を手掛けている彼が、A.タルコフスキーの描いた大筋に沿って、それにイタリアのロケーションで肉付けした脚本と想像される。
撮影監督は、ローマ人のGuiseppe Lanciジュゼッペ・ランキである。彼は1970年後半以降チーフ・キャメラマンとして活動をし始め、抒情的な場面や詩的で幻想的な場面の撮影において冴えた腕を見せると評価されている撮影監督である。本作は、その評価を裏付ける彼の仕事振りを見事に示している作品であると言える。
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