「Gemini man」、つまり、「双子座の男」とは、中々思わせぶりのタイトルで気が利いているのではあるが、このつまらない近未来SF・アクション映画を、あの台湾出身のアン・リー監督が撮っているとは信じがたい。米国アカデミー賞監督賞、ベルリン国際映画祭金熊賞、そして、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞をそれぞれ二回も獲得している、あのアン・リー監督である。なぜにつまらないのか? やはり、アン・リー監督に典型的な「家族の物語り」に本作も収束し、それも全くの調和主義的ハッピー・エンドで本作が終わるからであろうか。
しかも、ウィル・スミスが「伝説のスナイパー」というストーリー設定も何か嘘くさい。『MiBメン・イン・ブラック』のコメディーなら似合うが、「血も涙もない」はずのスナイパー役には彼は合わない。
一方、敵役のClive Owenクライヴ・オーウェンは、1964年生まれのイギリス人俳優で、本作の撮影時には約55歳である。何かめっきり年老いた感じなのであるが、クーロン化された、若い「ウィル・スミス」を我が子のようにして育てており、その演技力によって、演じられている役柄の人物の狂気振りに何か真実性を与えている。しかも、彼は、第二の「秘密兵器」をしっかり準備していたという、周到さである。
さて、この批評を書くついでに、「伝説のスナイパー」が所属するという、その諜報機関DIAなるものについて調べてみた。
DIAとは、Defense Intelligence Agencyの略称であり、アメリカ国防総省の情報機関の一つである。USAの、いわゆる、「インテリジェンス・コニュニティー」の、一つの機関を構成するが、国防総省に存在する、幾つかの米軍関係の諜報機関を統括する位置にあるので、USAの諜報活動全体において、比較的大きな役割を演じる。
USAの「インテリジェンス・コニュニティー」が、17以上もあるという、諸諜報機関で構成されているという、驚くべき事実は、なぜ、このように多くの諜報機関自体が存在するのであろうかという点で、そこに何か不気味なものを感じさせる。恐らく、それは、それぞれが自らの諜報機関を保持することにより、相互不信の上に成り立った、それぞれの機関の「独立性」の確保という意味合いを持つからなのであろう。
こうした「インテリジェンス・コニュニティー」全体を統括するのが、ODNI国家情報長官室で、DIAも組織的には、このODNIの下に位置する。有名なCIA中央情報局は、独立の対外諜報機関であるが、それ以外は、ある省の管轄下の諜報・情報機関となる。例えば、これまた有名なFBI連邦捜査局は、司法省に所属し、その下に独自の対国内向けの情報部を保持している。
また、エドワード・スノーデンが機密情報をリークしたことで有名になったNSA、National Security Agency 国家安全保障局は、DIAと並ぶ国防総省の管轄下の情報組織である。但し、予算規模で言うと、NSAのそれは、DIAのそれの約二倍であり、CIAのそれは、さらに、DIAのそれの約三倍以上であると言われ、諜報機関中、最大の規模の予算を計上している。
DIAは、当時のR.マクナマラ国防長官が、軍事情報を専門に収集、分析する機関として1961年に設置したものである。NSAの設置年が1952年であるから、1961年とは、東西冷戦の渦中としては遅い方ではあるが、それでも、キューバ危機の二年前である。こうして、それぞれ独自の情報部を持つ陸・海・空軍及び海兵隊に対しても、軍事情報を提供する立場にあるのが、DIAである。
DIA長官は、国防総省の意思決定に参加することになっており、統合参謀本部の幕僚でもある。ウィキペディアによると、DIAの推定人員は、約16.500人で、その内、65%が文官、35%が武官であると言われ、という訳で、DIAは、各国の駐在武官員の配置の調整も行なっている。
Directorate主要部門としては、大きく分けて四つがあると言われており、それぞれ、分析部門、科学・技術部門、オペレーション部門、Mission Services部門となっている。そして、アンダー・カバー・エージェントは、約500名ほどがいて、彼らが、世界を四つのインテリジェンス・センターに別けて、アメリカ地域、アジア・太平洋地域、ヨーロッパ・ユーラシア地域、中東・アフリカ地域を分担し、秘密諜報活動を行なっていると言う。さて、我々の「英雄」ウィル・スミスは、これらのどの部門に所属しているのであろうか。
2023年11月23日木曜日
2023年11月21日火曜日
ボッカチオ'70(イタリア/フランス、1962年作)監督:F.フェリーニ、L.ヴィスコンティ他
題名の中にある「ボッカチオ」は、14世紀イタリアの小説家であり、例の有名な『デカメロン(十日物語)』の作者である。散文文学作品『デカメロン』は、フィレンツェに発生したペストを避けて、その郊外に逃れてきた、男三人、女七人の計十人が、退屈しのぎに、一人が十話ずつ話しをするという趣向で、結局、合計で百のエピソードが語られる。その話しの内容は、滑稽で、艶笑の混じった、恋愛の成功談や失敗談である。こうして、ボッカチオは、14世紀イタリアの人間生活の在り様を、人文主義の観点から活写したのであったが、映画『Boccaccio '70』を発案したCesare Zavattini(チェザーレ・ザヴァティーニ)は、それでは、ボッカチオが、ほぼ600年後の1970年に生きていて、この時代のイタリア人の愛、恋愛、性を描いたらどうなるであろうかというアイディアを出してきたのである。しかも、本作の制作年が1961/62年であるから、将来を見据えての映画プロジェクトのストーリー化である。
さて、イタリア映画史と言えば、イタリアは、すでに戦時中の1940年代に、新しい映画制作の方向性としての「ネオ・リアリズモ」が発祥した地である。この流れは、世界各国の映画制作者たちに影響を与えていくが、一方、そのイタリアでは、ネオ・レアリズモとは別の流れが、既に1950年代末から出てくる。いわゆる、「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」である。
この名称は、本作と同年の1962年作の映画『イタリア式離婚狂想曲 Divorzio all'italiana』(Pietro Germiピエトロ・ジェルミ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演)から来ていると言われるが、傾向としては、1958年作の『いつもの見知らぬ男たち』(イタリア語題名: I soliti ignoti)で、すでに出ていた。この作品でもM.マストロヤンニが主演しており、コソ泥の役を演じているが、監督は本作の第一話を担当したマリオ・モニチェルリ監督である。彼こそは、上述の「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」という映画ジャンルの立役者で、このジャンルを以下のように定義している:
「Commedia all'italianaとは何かと言うと、それは、本来ドラマティックなテーマを、滑稽、陽気さ、風刺、そして、ユーモアでトリートメントすることである。この点こそが、イタリア式コメディーを、他のコメディーから異ならせる点なのである。」(ウィキペディアのドイツ語版よりの訳)
私見、このままの定義では、喜劇の成立の一般的な定立に思われ、何が「イタリア式」を「イタリア式」にならしめているのか、はっきりしないのであるが、筆者が思うには、遵法と違法との間の間隙を縫い、場合によっては違法であっても、自らの利得を得ようとする、庶民的狡猾さが、上述の要素に加わることにより、Commediaは、Commedia all'italianaとなるのではないか。この意味で、正に、Commedia all'italianaは、イタリア16世紀以降の「Commedia dell'arteコメディア デラルテ(デル・アルテ)」、即ち、即興的風刺喜劇の伝統に則るものである。
という訳で、イタリア式艶笑喜劇たる本作では、「艶」に当たる部分に、とりわけ、第二話と第四話では、男たちの垂涎の的となる美女たちを持ってくる。F.フェリーニが監督した第二話では、同じくF.フェリーニ監督の1960年作品『ラ・ドルチェ・ヴィータ、甘い生活』で、ローマのトレヴィの泉にドレスのまま入ったA.エクバークが起用される。『甘い生活』での、この役で世界的に有名になった、このスウェーデン人モデル兼女優は、二年後の本作の役では、豊満なバストをドレスのデコルテを思い切り下げて強調し、夜のローマの街を、女性版キングコングのようにして、巨大化して徘徊する。さすがは、F.フェリーニ監督ならではの発想である。
V.デ=シーカが監督となった第四話では、本作の製作者であるC.ポンティと、撮影時点で数年来から内縁・婚姻関係にあったS.ローレンが登場する。下唇が膨れて、大衆受けする美人顔、しかも体躯は、イタリア製バイクのヴェスパに似て、ウエストは締まり、バストとヒップは大きいという、魅力的な体型である。そして、本作内では、度々ブラウスを脱いでくれて、少々外側を向いた、大きなバストを、少々透けて見えるブラジャー付きで何度もご披露してくれる。本作では、彼女は、違法な籤引きで一等が当たった者と一晩をいっしょに過ごす「賞品」なのである。
一方、「艶笑」の内の、「笑」となると、こちらは、上述の美人諸君に、コメディアン俳優を付けることで、確保する。第二話は、コメディアンのトトとコンビになって有名になったコメディアン俳優Peppino De Filippoペピーノ・デ=フィリポが主役である。彼は、A.エックバークの魅力に抗せずに、自分の偽善的な性モラル感との板挟みになり、自滅する。とりわけ、カトリック派が強いイタリアの二重道徳性を暴く、F.フェリーニ監督ならではの作品である。
このPeppino De Filippoに当たる役は、第一話、第三話、第四話では、それ程はっきりとは表象されてはいないが、それぞれ、第一話では、主人公が働く会社の、極めて厳格な会計担当係りが、第三話では、異常に饒舌な弁護士が、第四話では、籤に当たった、冴えない教会下僕が、これに当たる役柄である。
なるほど、第二話、第四話は、典型的に「イタリア式コメディー」に該当する展開であるが、第一話では、むしろ、1960年代の日活青春映画のように、それまでの既成の社会概念から若干外れて、自分たちの感覚で自分たちの家族の在り方を模索しようとするカップルがテーマとなっている。
一方、それ程豊満な体つきではない、ウィーン生まれのR.シュナイダーが登場する第三話は、コメディーたることを試みてはいるが、それ自体としては余り成功はしていない作品である。舞台作品とでも言える、このパートは、実際、その原作がフランス人作家のG.ドゥ=モパッサンの短編『Au bord du litベットの端で』であると言う。
さて、イタリア映画史と言えば、イタリアは、すでに戦時中の1940年代に、新しい映画制作の方向性としての「ネオ・リアリズモ」が発祥した地である。この流れは、世界各国の映画制作者たちに影響を与えていくが、一方、そのイタリアでは、ネオ・レアリズモとは別の流れが、既に1950年代末から出てくる。いわゆる、「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」である。
この名称は、本作と同年の1962年作の映画『イタリア式離婚狂想曲 Divorzio all'italiana』(Pietro Germiピエトロ・ジェルミ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演)から来ていると言われるが、傾向としては、1958年作の『いつもの見知らぬ男たち』(イタリア語題名: I soliti ignoti)で、すでに出ていた。この作品でもM.マストロヤンニが主演しており、コソ泥の役を演じているが、監督は本作の第一話を担当したマリオ・モニチェルリ監督である。彼こそは、上述の「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」という映画ジャンルの立役者で、このジャンルを以下のように定義している:
「Commedia all'italianaとは何かと言うと、それは、本来ドラマティックなテーマを、滑稽、陽気さ、風刺、そして、ユーモアでトリートメントすることである。この点こそが、イタリア式コメディーを、他のコメディーから異ならせる点なのである。」(ウィキペディアのドイツ語版よりの訳)
私見、このままの定義では、喜劇の成立の一般的な定立に思われ、何が「イタリア式」を「イタリア式」にならしめているのか、はっきりしないのであるが、筆者が思うには、遵法と違法との間の間隙を縫い、場合によっては違法であっても、自らの利得を得ようとする、庶民的狡猾さが、上述の要素に加わることにより、Commediaは、Commedia all'italianaとなるのではないか。この意味で、正に、Commedia all'italianaは、イタリア16世紀以降の「Commedia dell'arteコメディア デラルテ(デル・アルテ)」、即ち、即興的風刺喜劇の伝統に則るものである。
という訳で、イタリア式艶笑喜劇たる本作では、「艶」に当たる部分に、とりわけ、第二話と第四話では、男たちの垂涎の的となる美女たちを持ってくる。F.フェリーニが監督した第二話では、同じくF.フェリーニ監督の1960年作品『ラ・ドルチェ・ヴィータ、甘い生活』で、ローマのトレヴィの泉にドレスのまま入ったA.エクバークが起用される。『甘い生活』での、この役で世界的に有名になった、このスウェーデン人モデル兼女優は、二年後の本作の役では、豊満なバストをドレスのデコルテを思い切り下げて強調し、夜のローマの街を、女性版キングコングのようにして、巨大化して徘徊する。さすがは、F.フェリーニ監督ならではの発想である。
V.デ=シーカが監督となった第四話では、本作の製作者であるC.ポンティと、撮影時点で数年来から内縁・婚姻関係にあったS.ローレンが登場する。下唇が膨れて、大衆受けする美人顔、しかも体躯は、イタリア製バイクのヴェスパに似て、ウエストは締まり、バストとヒップは大きいという、魅力的な体型である。そして、本作内では、度々ブラウスを脱いでくれて、少々外側を向いた、大きなバストを、少々透けて見えるブラジャー付きで何度もご披露してくれる。本作では、彼女は、違法な籤引きで一等が当たった者と一晩をいっしょに過ごす「賞品」なのである。
一方、「艶笑」の内の、「笑」となると、こちらは、上述の美人諸君に、コメディアン俳優を付けることで、確保する。第二話は、コメディアンのトトとコンビになって有名になったコメディアン俳優Peppino De Filippoペピーノ・デ=フィリポが主役である。彼は、A.エックバークの魅力に抗せずに、自分の偽善的な性モラル感との板挟みになり、自滅する。とりわけ、カトリック派が強いイタリアの二重道徳性を暴く、F.フェリーニ監督ならではの作品である。
このPeppino De Filippoに当たる役は、第一話、第三話、第四話では、それ程はっきりとは表象されてはいないが、それぞれ、第一話では、主人公が働く会社の、極めて厳格な会計担当係りが、第三話では、異常に饒舌な弁護士が、第四話では、籤に当たった、冴えない教会下僕が、これに当たる役柄である。
なるほど、第二話、第四話は、典型的に「イタリア式コメディー」に該当する展開であるが、第一話では、むしろ、1960年代の日活青春映画のように、それまでの既成の社会概念から若干外れて、自分たちの感覚で自分たちの家族の在り方を模索しようとするカップルがテーマとなっている。
一方、それ程豊満な体つきではない、ウィーン生まれのR.シュナイダーが登場する第三話は、コメディーたることを試みてはいるが、それ自体としては余り成功はしていない作品である。舞台作品とでも言える、このパートは、実際、その原作がフランス人作家のG.ドゥ=モパッサンの短編『Au bord du litベットの端で』であると言う。
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