つまり、『言の葉の庭』で見せた、リアリティーのあるストーリー性を離れて、ストーリーを基本的にファンタジーとする。その際、日本的民俗の要素をストーリーに取り入れる。主人公は、中学生・高校生とする。女子生徒には、ファンタジーでもあり、宮崎駿アニメ・ワールド並みに特殊の能力を持たせる。以上、新海がこのような制作定式を立てたと類推すると、上述の長編アニメ三作は、理解しやすくなるのではないか。
という訳で、この制作定式を本作に当てはめると、どうなるか。
1.ファンジー性:現実世界、つまり現世(うつしよ)と常世(とこよ)が、扉・後ろ戸によって結ばれており、主人公たちはこの扉を通じて、二つの世界を行き来することが出来る。
2.日本的民俗:常世の概念自体が民俗的、ないしは、神道的世界の、「あの世」の理解であると共に、すずめの苗字が「岩戸」であり、しかも、すずめが叔母といっしょに育った場所が宮崎県である。岩戸と宮崎と言えば、「天の岩戸」が宮崎県にあったという日本神話の代表的な、女神天照大神の伝説である。
3.主人公は、すずめという、高校二年の女子生徒である。
4.すずめには、常世に繋がる「扉」を見つけ出すことできる、特殊な能力がある。
何れにしても、本作では、前作二作に較べて、ファンタジー物語の恣意性が少なく、構造化されており、映画終盤における、日常の挨拶語「いってきます」と「お帰り」に込められたメッセージ性がはっきりしていて、好感が持てる。
以上のように見てみると、本作のストーリー展開の構造がはっきり分かるのであるが、これに、宮崎県から目的地の岩手県宮古までロード・ムーヴィーの道筋が加わることにより、本作は、物語り展開がしっかり構造付けられている。
ここから、同様に、そのルートが、なぜ神戸、東京、宮古という箇所を通るのかも容易に想像できる。つまり、この三カ所は、それぞれの大震災の被災地としての共通性があるからである。しかも、物語りの時間帯が、2023年ということであれば、関東大震災から丁度100年目の節目に当たる年である。その意味で、本作は、かなり考え抜かれたストーリー構成になっていると言えるのではないか。
さて、ファンタジーには「悪の力」は、必須の存在であり、本作でもそれは、「ミミズ」となっている。その映画での形も、みみず、或いは、「目見えず」からくる名称「めめず」を巨大化させたものが青黒く描かれており、この名称が、本作における「悪の力」の形象化に大いに役立ったものと推察されるが、筆者個人には、ミミズが、「悪の力」の権化あることに、少なからず抵抗感があった。なぜなら、土壌の性質を肥沃なものにしていく上で、ミミズは欠かせない「益虫」であるからである。ウィキペディアは言う:
「ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として[これを]排泄する。それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した、[単粒構造に対して、排水性ないしは保水性に優れた]団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。そのため、[ミミズは、]農業では一般に益虫として扱われ、土壌改良のために利用される。表層性ミミズよりも土中性ミミズの方が土壌改良効果が高いとされる。」
という訳で、筆者にとっては、「悪の力」をもっと無機質的なものにイメージして欲しかったのであるが、このミミズの悪のイメージは、ものの本によると、新海は、村上春樹が阪神淡路大震災後に書いた、短編『かえるくん、東京を救う』からインスピレーションを受けていると言うので、この非難は、むしろ、村上に向けるべきなのであろう。
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