題名の中にある「ボッカチオ」は、14世紀イタリアの小説家であり、例の有名な『デカメロン(十日物語)』の作者である。散文文学作品『デカメロン』は、フィレンツェに発生したペストを避けて、その郊外に逃れてきた、男三人、女七人の計十人が、退屈しのぎに、一人が十話ずつ話しをするという趣向で、結局、合計で百のエピソードが語られる。その話しの内容は、滑稽で、艶笑の混じった、恋愛の成功談や失敗談である。こうして、ボッカチオは、14世紀イタリアの人間生活の在り様を、人文主義の観点から活写したのであったが、映画『Boccaccio '70』を発案したCesare Zavattini(チェザーレ・ザヴァティーニ)は、それでは、ボッカチオが、ほぼ600年後の1970年に生きていて、この時代のイタリア人の愛、恋愛、性を描いたらどうなるであろうかというアイディアを出してきたのである。しかも、本作の制作年が1961/62年であるから、将来を見据えての映画プロジェクトのストーリー化である。
さて、イタリア映画史と言えば、イタリアは、すでに戦時中の1940年代に、新しい映画制作の方向性としての「ネオ・リアリズモ」が発祥した地である。この流れは、世界各国の映画制作者たちに影響を与えていくが、一方、そのイタリアでは、ネオ・レアリズモとは別の流れが、既に1950年代末から出てくる。いわゆる、「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」である。
この名称は、本作と同年の1962年作の映画『イタリア式離婚狂想曲 Divorzio all'italiana』(Pietro Germiピエトロ・ジェルミ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演)から来ていると言われるが、傾向としては、1958年作の『いつもの見知らぬ男たち』(イタリア語題名: I soliti ignoti)で、すでに出ていた。この作品でもM.マストロヤンニが主演しており、コソ泥の役を演じているが、監督は本作の第一話を担当したマリオ・モニチェルリ監督である。彼こそは、上述の「Commedia all'italiana イタリア式コメディー」という映画ジャンルの立役者で、このジャンルを以下のように定義している:
「Commedia all'italianaとは何かと言うと、それは、本来ドラマティックなテーマを、滑稽、陽気さ、風刺、そして、ユーモアでトリートメントすることである。この点こそが、イタリア式コメディーを、他のコメディーから異ならせる点なのである。」(ウィキペディアのドイツ語版よりの訳)
私見、このままの定義では、喜劇の成立の一般的な定立に思われ、何が「イタリア式」を「イタリア式」にならしめているのか、はっきりしないのであるが、筆者が思うには、遵法と違法との間の間隙を縫い、場合によっては違法であっても、自らの利得を得ようとする、庶民的狡猾さが、上述の要素に加わることにより、Commediaは、Commedia all'italianaとなるのではないか。この意味で、正に、Commedia all'italianaは、イタリア16世紀以降の「Commedia dell'arteコメディア デラルテ(デル・アルテ)」、即ち、即興的風刺喜劇の伝統に則るものである。
という訳で、イタリア式艶笑喜劇たる本作では、「艶」に当たる部分に、とりわけ、第二話と第四話では、男たちの垂涎の的となる美女たちを持ってくる。F.フェリーニが監督した第二話では、同じくF.フェリーニ監督の1960年作品『ラ・ドルチェ・ヴィータ、甘い生活』で、ローマのトレヴィの泉にドレスのまま入ったA.エクバークが起用される。『甘い生活』での、この役で世界的に有名になった、このスウェーデン人モデル兼女優は、二年後の本作の役では、豊満なバストをドレスのデコルテを思い切り下げて強調し、夜のローマの街を、女性版キングコングのようにして、巨大化して徘徊する。さすがは、F.フェリーニ監督ならではの発想である。
V.デ=シーカが監督となった第四話では、本作の製作者であるC.ポンティと、撮影時点で数年来から内縁・婚姻関係にあったS.ローレンが登場する。下唇が膨れて、大衆受けする美人顔、しかも体躯は、イタリア製バイクのヴェスパに似て、ウエストは締まり、バストとヒップは大きいという、魅力的な体型である。そして、本作内では、度々ブラウスを脱いでくれて、少々外側を向いた、大きなバストを、少々透けて見えるブラジャー付きで何度もご披露してくれる。本作では、彼女は、違法な籤引きで一等が当たった者と一晩をいっしょに過ごす「賞品」なのである。
一方、「艶笑」の内の、「笑」となると、こちらは、上述の美人諸君に、コメディアン俳優を付けることで、確保する。第二話は、コメディアンのトトとコンビになって有名になったコメディアン俳優Peppino De Filippoペピーノ・デ=フィリポが主役である。彼は、A.エックバークの魅力に抗せずに、自分の偽善的な性モラル感との板挟みになり、自滅する。とりわけ、カトリック派が強いイタリアの二重道徳性を暴く、F.フェリーニ監督ならではの作品である。
このPeppino De Filippoに当たる役は、第一話、第三話、第四話では、それ程はっきりとは表象されてはいないが、それぞれ、第一話では、主人公が働く会社の、極めて厳格な会計担当係りが、第三話では、異常に饒舌な弁護士が、第四話では、籤に当たった、冴えない教会下僕が、これに当たる役柄である。
なるほど、第二話、第四話は、典型的に「イタリア式コメディー」に該当する展開であるが、第一話では、むしろ、1960年代の日活青春映画のように、それまでの既成の社会概念から若干外れて、自分たちの感覚で自分たちの家族の在り方を模索しようとするカップルがテーマとなっている。
一方、それ程豊満な体つきではない、ウィーン生まれのR.シュナイダーが登場する第三話は、コメディーたることを試みてはいるが、それ自体としては余り成功はしていない作品である。舞台作品とでも言える、このパートは、実際、その原作がフランス人作家のG.ドゥ=モパッサンの短編『Au bord du litベットの端で』であると言う。
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