本作の制作年1966年とは、第一回東京オリンピックが開催された1964年の二年後のことであり、第一回東京オリンピックとは、産業国家としての日本が国際的に認められた「報償」とでも言えるものである。1966年とは、つまり、敗戦、闇市、朝鮮戦争特需、「奇蹟の復興」、そして、「所得倍増計画」を謳えた高度経済成長政策が一定の成果を上げた戦後約20年の期間が経過して、一段落した時期と言える。そして、社会運動としての世界的な学生運動が起こる68年まであと二年、73年の「石油ショック」まで、あと七年の時間的立ち位置である。
このような時間的立ち位置を鑑みるに、昭和三十年代(1955年から64年まで)の経済発展の「バラ色の夢」は、昭和四十年代に入ってもこのまま夢想し続けることが出来ると、制作年の66年段階では大方の日本人は信じていたのではないか。
映画の冒頭のプロットの、「スポ根」ものを思わせる「ステュワーデス物語り」は、国内航空線の羽田・大阪間が、プロペラ機ではなく、ジェット旅客機が使われている話しである。しかし、大病院の内科の部長(下元勉が好演)と言えば、中産階層上位に位置するであったろうが、その父親の娘(吉永小百合)が希望して就職しているところを見ると、国際線「ステュワーデス」への憧れはこの時点でも未だに強かったのであろう。現在では、考えられないことではないか。
一方、浜田光夫が演じている「ゲルピン」の貧乏学生である。浜田の社会階層的背景は、下層階層のものであり、北九州の炭鉱地帯・筑豊で育っている。正に、高度経済成長に伴なう石炭から石油への「エネルギー革命」の下、経済発展の途上で切り捨てられていった炭鉱夫の生活を知っている人間である。このような社会的背景を持って育った浜田が、大学の偏差値が低い「園芸大学」で自ら望んで勉学しようとしていることは興味深い。1960年代は、水俣病、四日市ぜんそくなどの環境汚染、公害問題が、人々の意識にのぼってきた時期である。とすれば、園芸に興味を抱く浜田は、日本におけるエコロジー運動を担う存在になるかもしれない可能性を持った人間であったとも言える。
更に、吉永の母親(佐々木すみ江が熱演)は、病院長の娘だった女性であるが、ストーリー上の現代たる60年代半ばに、新興宗教に凝っている人間である。消費文明の浅薄さに何か心の「空洞」を感じて、その「穴」を埋めるために日本では60年代から新興宗教が流行り出していたと言われる。脚本家二氏は、しっかりと当時の日本社会の傾向を捉えていたとも言え、その30年後の「オウム真理教」のテロ行為が、このような社会的傾向の悪しき帰結の一つであったと考えると、本作を単純な日活青春映画として片付けてしまのは残念にも思える。
ウィキペディアで調べてみると、本作には同名の原作小説があると言う。著者は、1931年に新潟県で生まれた若山三郎という人間で、作家になる前は、在日米軍のための特殊通訳を務めていた人物である。即ち、英語が出来たということで、本作のストーリーの下地はこの通訳時代に培ったものであろう。吉永の年上の同僚十朱幸代が体現する「合理的な近代女性」像は、なるほど、若山の作家になる前の前身から来ているのであろうか。彼女は、自分が仕事中に乗らない自家用車をレンタカーとして貸し出し、自分のマンションのアパートには若い家政夫(!)を住まわせて家事をさせ、自分がいない時には、この家政夫にマネージさせて、居間をパーティー会場としてレンタルするという「合理主義者」である。作家若山は、1960年代に通訳業を辞めて本業の作家となるが、彼こそが、昭和30年代に一大ブームとなったという「貸本小説」の売れっ子小説家の一人であったと言われ、『お嬢さんの...』とか、『青春の...』とかという題名の作品を多作している。若山は、現代日本で言えば、高校生当たりをターゲットとするジュヴナイル小説の小説家の先駆けの一人であったと思われる。
さて、それでは、本作もその一本である「日活青春映画」とは何であったか。筆者の、すぐに思い出せる、戦後の日本映画史的な規定としては、特撮・怪獣映画の東宝、現代家庭劇の松竹、ヤクザ映画の東映で、日活と言えば、「ロマンポルノ」である。但し、この「ロマンポルノ」は、日活の1970年代以降の製作路線であり、それ以前は、日活の路線の一つは、「青春映画」路線なのであった。
という訳で、ここで少し、日活に焦点を当てて、日本映画史を綴ってみたい。「日活」とは、「日本活動写真株式会社」の略称であり、「活動写真」という語感からして古い。この古い名称に劣ることなく、1912年創立の日活は、映画製作会社としては一時期中断するのではあるが、日本で現存する最古の映画製作会社である。
日活は、最初は剣戟映画の製作会社として「名門」となるが、その一方では、早くから映画女優を適用したりする前衛性を見せるものの、会社経営の失敗が祟って、1930年代末には、会社株を松竹と東宝に保有される状況となり、42年の「戦時統合」では、更に、製作部門を新進の「大映」に移譲して、自らは、映画配給・上映の専業会社に「堕して」いた。
敗戦後も日活は、大映の映画作品や洋画の上映で経営を続けていたが、大手の東宝・松竹にこの部門でも経営的に圧迫され、1950年代の前半に始まる日本映画界の第二の絶頂期を横目で見ながら、日活の映画製作部の再興を準備していた。こうして、1954年に製作再開第一作『国定忠治』を公開する。その翌年の55年が日本映画界の絶頂期のピークであったことを鑑みると、日活の製作再開は、少々遅きに過ぎた感がある。
更に、製作再開第一作が『国定忠治』であることからも推測できる通り、制作スタッフでは日活が嘗て使っていた人間を引き戻せたとしても、俳優の引き抜きには難航し、新派・新国劇の俳優を使わざるを得なかったことを物語っている。そんな中で、石原慎太郎の小説『太陽の季節』を原作とした56年の同名作品は、無軌道な青年男女の生態を描いた作品として反社会的な「太陽族」を生み出す社会現象となる程であった。これを受けて、日活は、低予算で、若者向けの「無国籍アクション映画」製作路線を採ることにし、そのために、他社の二番手俳優の引き抜きや新人俳優の発掘・養成に乗り出し、「和製ジェームズ・ディーン」こと赤木圭一郎などのスターを生み出す。
このようにして生み出された「看板スター」の男性陣は、赤木などが「日活ダイヤモンドライン」と、また、女性陣は、浅丘ルリ子などが「日活パールライン」と呼ばれた。吉永もこの「パールライン」を形成する一員として60年に日活に入社している。
その二年後、吉永は、映画『キューポラのある街』で、埼玉県川口市の鋳物工場で働く熟練労働者の娘役で主役を演じて、ブルーリボン賞主演賞を17歳の若さで授賞して、一躍スターとなる。更に、この映画でも既に、「日活グリーンライン」の一員を構成する浜田が脇役を演じており、この二人が、50年代後半の「アクション映画」路線に取って代わって、60年代の日活の「青春映画路線」の立役者となるのである。こうして、二人を主役として、本作も「日活青春映画路線」に乗っかった一作品になる訳であるが、本作で二人の脇役を演じる、どういう訳かセーラー服が余り似合わない和泉雅子は、吉永ともう一人の松原智恵子と「日活三人娘」と呼ばれた存在であった。
1971年から始まる「ロマンポルノ」路線は、経営に喘ぐ日活の苦肉の策であったが、この路線では、宮下順子などの新しいスターは生み出せても、従来の吉永などの「清純派スター」は日活から離れていくことを意味した。しかし、正にこの路線こそが、低予算で制作することを義務付けられた「監督の卵」達のために、実践的訓練の場を提供することにもなり、ここで育った監督達がその後の日本映画界を担う存在となっていくのである。
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