2025年10月29日水曜日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場(イギリス、2015年)監督:ギャヴィン・フッド

 本作の制作は2015年であるが、その前年の14年には、『ドローン・オブ・ウォー』という訳の分からない邦題のUSA作品が既に発表されていた。この映画の監督は、その脚本も書いたAndrew Niccolで、主役は、US空軍少佐を演じるEthan Hawkeである。原題が『Good Kill』と、その主題を的確に突いていて、自らはその場にはいないのであるが、それでも、攻撃型ドローン「Reaperリーパー」(「草刈り鎌」の意)を使って、敵のアフガン人テロリストを爆殺していくUS空軍少佐の内面の空虚と葛藤を描いたものであった。本作も同型のドローンMQ-9 Reaperが登場し、そのストーリーは、ケニアのナイロビに潜伏する英国人テロリストを如何に「中立化」するかを巡るものではあるが、その立て付けは、個人の内面の問題ではなく、軍事・政治・倫理の枠組みでテロリストを間接的にKillすることの意味を政治スリラー映画として制作したものである。本作のラストシーンの情緒性はいただけないが、そのテーマの政治性は大きく取り上げられるべき問題であり、評価したい。脚本は、Guy Hibbertガイ・ヒパートで、本作により、2016年度英国映画賞で脚本賞を獲得している。監督は、Gavin Hoodギャヴィン・フッドという白人系の南アフリカ人で、本作では、US空軍中佐Ed Walshとしても台詞付きで登場している。主演の一人は、鉄血の英国軍人キャサリーン・パウエル大佐を演じるHelen Mirrenヘレン・ミレンである。

 第二次世界大戦において、制空権を持たない者は戦争に負けることがはっきりした。そして、戦略的空爆は、第一次世界大戦で明確になった総力戦において、敵方の戦争遂行能力に打撃を与えるために肝要・不可欠のものとなる。さて、1960年代から70年代に掛けてヴェトナム戦争で米兵を現地投入して、「痛い目」にあったUSAは、軍事的対立には、出来るだけアメリカ兵の海外派兵をせずに、これを解決しようとする。となると、戦略的空爆により大きな意味が置かれるようになる。その典型が、1990年代のユーゴスラヴィア内戦におけるNATO軍の行動の在り方で、NATO軍は、現地には歩兵を派兵せずに、空爆により内戦とジェノサイドを終わらせようとしたのであった。こうした戦争の在り方の変化に対応して、攻撃型ドローンの開発も急速に行なわれるようになったのであろうし、しかも、ジェット戦闘機であれば、有人でもあり、経費も嵩むところが、UCAV(unmanned combat air vehicle無人戦闘航空機)であれば、パイロットを失う危険もなく、軍事衛星の整備のためのコストを除けば、兵器自体の経費もより安く済む。こうして、USA軍のUCAVたるMQシリーズが開発され、現在では改良型のMQ-9まで来ている。MQ-9 Reaperは、既に2007年より運用されているが、2001年の同時多発テロ事件以来、国際テロリスト集団との「War」が国際政治上の焦眉の的となっており、この関りでも、上述の『Good Kill』のようなテーマが映画でも取り上げられることとなる。因みに、本来的に言って、国家対テロリスト集団という構図を「戦争」と呼ぶことに疑問があるのではあるが。

 MQ-9 Reaperの仕様は、以下の通りである:
長さ:11 m、翼幅:20 m、最高高度:15.200m、運用高度:7.600m、滞空時間:14〜28時間、航続距離:5.926km、最高速度:482 km/h、巡航速度:276-313km/h、ハードポイント(ミサイル固定装置):6である。

 遠隔操作員は二名で、パイロットが一名、センサー員が一名となる。本作では、この要員がUSAネヴァダ州にある地上誘導ステーションでドローンを操作している。作戦本部はイギリスであり、作戦地は、ケニアのナイロビという「国際性」である。しかも、ナイロビ現地のケニア情報部の要員は、鳥型ドローン(Ornithopterオーニソプター)や昆虫型ドローン(Insectothopterインセクトソプター)を使用するという手の入れようである。(-pterとは、ギリシャ語で「~の翼」を意味し、Helicopterヘリコプターとは、「回転翼」を意味する。)

 イギリスの作戦本部は、二箇所に別れており、パウエル大佐が勤務しているイギリス軍常設統合指令部は、大ロンドンの北部に接してある地域に存在しているノースウッド・ヘッドクォーター内にあって、実働部隊である。常設統合指令部は、もちろん、文民統制下にあることから、イギリス政府が構成する「緊急事態対策会議」の下に置かれている。この「緊急事態対策会議」は、イギリス政府・内閣府内に置かれている。その正式名称は、Cabinet Office Briefing Rooms(内閣府ブリーフィング・ルーム)で、その頭文字を採って「COBR」と略するが、これでは、発音するのに座りが悪いので、このルームの内、A会議室を多く使うことから、略称として「COBRAコブラ」と言いやすい方を取っているようである。

 COBRAは、議長となる内閣総理大臣乃至は担当大臣が、更に、関連の諸大臣、閣外大臣、関連の警察上級職員などが入って構成される。本作では、実働部隊への指揮命令系統の上位の者として、イギリス海軍中将Bensonが海軍国防副長官として会議体に入って、会議体の決定事項をパウエル大佐に指揮する。更に、パウエル大佐が、アメリカ軍のReaperパイロットやケニア情報部に指示するという具合である。(尚、ある場面では、Reaper操縦者であるUS空軍中尉が、Collateral damageを巡って、パウエル大佐に抗して、ロケット発射を逡巡する箇所がある。軍事行動もまた規則に則ってなされなければならない。その「ブレーキ装置」が如何に軍隊内で機能しているかが、その国の軍隊の民主主義度の計測機となることを本作は見せてくれる。)

 COBRAには、Benson中将以外に、法務長官(Attorney General:検事総長のような地位で、法務大臣と同格かそれ以上の地位にある、歴史ある役職)、外務省副大臣、外務省アフリカ担当の政務次官(女性)など四人が参加しているが、必要があれば、通信連絡で、外務大臣などもその決定を促されることになる。邦題として追加されている「世界一安全な戦場」は、この女性政務次官の言葉をその趣旨に則って言い換えたもので、蓋し、本作の核心を突いた「銘題」である。

 こうして、本作では、イギリス国籍の二人とUSA国籍の一人のテロリストをナイロビで 逮捕するつもりであったものが、事態の展開により、彼等をドローンからのロケット攻撃で殺傷することに替わり、その際に、どれだけのCollateral damageが赦されるのかという政治上、倫理上の問題がCOBRAで議論されることになる。これが、映画中盤のクライマックスとなるが、さて、その議論の結果は如何なるものになるか?

 さて、筆者はこの文章を2025年10月下旬に書いているが、この数週前から、アメリカ海軍がコロンビア乃至ヴェネズエラの海岸から出航した小型船を空爆によって乗組員もろともに爆砕するという軍事行動に出ている。それは、それらの小型船がUSAに麻薬を持ち込もうとする犯罪行為であるからであると唱えている。テロ行為を戦争行為であると見做すことには意見が別れるところであろうが、麻薬持ち込みは、明らかな犯罪行為であり、これに対抗するのは、本来は警察組織の役割である。しかも、ある軍隊が犯罪者を裁判なしで「処刑」するのは、 国際法に違反する明確な違反行為であろう。このように、いわゆる、「Targeted Killing」には、法律上、政治上、倫理上の問題がある。

 そして、空爆には、誤爆やCollateral damage(巻き添え損害)もあり得るのであり、本作は、Collateral damageが60%の可能性であるかを結局45%までに、殆んど故意に下げるという問題も浮き彫りにされている。

2025年10月4日土曜日

ヴェルミリオ(伊、仏、ベルギー、2024年作)監督:マウラ・デルペーロ

 第二次世界大戦末期の北東イタリアの山村に住んでいた、ある一家のこの話しは、まるでドキュメンタリー映画ように、イタリア・アルプスの美しい風景と静謐なピアノ音楽を背景にして淡々と描かれる。このドキュメンタリー性は、実は、本作の女性監督であるMaura Delperoマウラ・デルペーロが、自分の祖父と父親の生活を描こうとしたその個人的な動機によるところもあるが、監督自身がまずはドキュメンタリー畑で映画を撮ってきた経歴にもよるのである。実際に、デルペーロの祖父は教員であり、2019年に彼女の父親が亡くなった時に、家族の話しを聞いていた彼女は、自分の父と祖父の物語りが失われることを恐れて、本作を撮りたいと思ったということである。故に、共同プロデューサーも兼ねている彼女は、もちろん、本作の脚本を書いている。

 本作の監督・Maura Delperoは、1975年にBolzano市に生まれた。ボルツァーノ市にあるカトリック系の高校を卒業した後、1994年からボローニャ大学でイタリア語を勉学し、パリのソルボンヌ大学での留学経験もある。ボローニャ大学卒業後は、この地の高校でイタリア語を教えていた。しかし、2000年代に入って、バングラデシュでドキュメンタリー映画の制作に関係していた友人をバングラデシュに同行することになり、その際、ドキュメンタリー映画制作にも関わることになる。これが彼女が映画界に関わる切っ掛けとなり、2004年にあるドキュメンタリー映画の助監督となる。自学でドキュメンタリー映画制作を学び、2005年にある中編のドキュメンタリー映画でデビューを飾る。2008年には長編ドキュメンタリー映画『Signori professoriシニョーリ・プロフェッソーリ』で第26回トリノ映画祭で初めての受賞をする。2010年から二年間、本格的に、ブエノス・アイレスのCentro de formación profesional SICA で演出と脚本制作の勉学をする。初めての長編劇映画制作のために書き上げたプロジェクト脚本は、ベルリン国際映画祭でも注目され、これが、2019年に『Maternal』という題名で制作され、70以上の映画祭で上映されるという反響を得る。本作は、この『Maternal』を受けての五年振りの発表作品となった。

2025年10月3日金曜日

Mr.ノーバディ(USA、2021年作)監督:イリヤ・ナイシュラー

 監督のIlya Naishullerイリヤ・ナイシュラーは、父親がユダヤ系ロシア人で、金持ちの家に育ったところから、子供の頃はロンドンの豪邸に住んでいたと言う。モスクワ生まれの彼は、その後、ロシアに戻り、希望であるロシア映画大学を受験するが、これには受からず、それで、モスクワの映画関連の専門学校に入ったと言う。在学中、モスクワのモスフィルムで撮影助手などをやったりして、映画制作に熱中すると、この専門学校は中退してしまった。(一時は、ニューヨーク市にある著名な芸術関連の私立大学Tisch School of the Artsに入学していたとも言われている。)

 2008年には、自分も参加するバンドBiting Elbowsを結成するが、あるプロデューサーに支援を受けて、2010年から自分たちが制作したアルバムに合わせたミュージックヴィデオ(MV)を監督として制作するようにもなる。これらのMVに対する反響が大きかったことから、 本格的に劇映画を制作する話しが彼に回ってくる。こうして、2015年にSF映画『ハードコア』を発表する。全編が一人称視点で語られるこの作品は、トロント国際映画祭で観客賞を獲得する。この後も、MV制作に関わるが、2018年に本作制作の話しが舞い込む。製作会社の変更などもあって、話しが中々進行しなかったが、結局、彼を監督として本作の制作が始まり、21年に本作を発表することとなった。

 ストーリーにロシアン・マフィアが絡むことから、監督がロシア人であることは、ストーリー・テリング上の強みであるし、安心感がある。また、この映画の全編に漂うユーモア感は、「人種主義者」と呼ばれることを敢えて甘んじて言わせてもらえれば、監督の血のなかに流れているユダヤ的ユーモアの表徴ではないかと筆者には思われる。暴力自体には滑稽味はないのであるが、暴力が誇張されることにより生まれてくるその滑稽感は何とも言えない。更に、暴力の語り口も、それを若干ずらすことによって生じる、スマートさよりもズッコケ感を醸し出すタイミングの絶妙さも、シーンに合わせて聞こえてくる音楽の選曲のよさと共に、この監督のコメディー作家としての力量を思わせるものである。大体、凶悪なロシアン・マフィアとの激烈な闘争の発端は、実は、ダメ親父でも愛してくれる愛娘のものである、ネコちゃんの印が付いたブレスレットが無くなったことにあったという、その非日常性と日常性の段差の大きさに、観ている者はただ苦笑いをするのみである。

 ところで、このネコちゃんをワンちゃんにすり替えて、このワンちゃんがまた、とてつもない殺戮のコレオグラフィーに発展する切っ掛けとなる映画がある。自分の愛妻が自分の死ぬ前に、言わば、形見としてプレゼントしてくれた子犬を元殺し屋は大事にしていたのであるが、その子犬をあるロシアン・マフィアの極道息子が殺してしまう。そこから、大殺戮が始まるのである。この語り口が、『ジョン・ウィック』シリーズの第一作目であるが、この些細な出来事から大闘争が発展するという語り口は本作と同様である。そこで、調べると、本作の脚本家は、『ジョン・ウィック』第一作目と同じ脚本家・Derek Kolstadデレク・コルスタッドであった。成程と思う。

 ジョン・ウィックは、凄腕の殺し屋であったが、本作のMr.ノーバディは、どうもUSAの連邦政府機関で働いていたようである。USAには何故か18もの情報機関があるが、それは、軍関係ものから、非軍事関連のもの、例えば、対外情報機関CIAや国内捜査機関FBIなども存在する。これ程数が多くなると当然機関相互の調整が必要となってくる。そのための、大統領直轄の諸情報機関統括機関として、ロナルド・レーガン大統領は、1981年に大統領令を以って、United States Intelligence Communityが設置された。Mr.ノーバディ、つまり、日本で言えば、「名無しの権兵衛さん」は、どうも、この機関で働いていた名うての監査官であったようなのである。情報機関の活動費は公表されずに闇から闇へと活動費が流れる。この流れをコントールする必要はそれでもある訳なので、闇の中で、その会計検査をする(英語で「auditオーディット」)監査官Auditorオーディトアと呼ばれる存在の一人だったのが、今は風采が上がらず、妻や息子からは尊敬されていない、決まって火曜日にはゴミ出しに遅れるHutchハッチなのである。このハッチが、蚊も殺せない、大人しそうな一般市民の姿から、ロシアン・マフィアのMobster達を殺しまくる戦闘魔への変身するメタモルフォーゼは、痛快であり、ここにまた、本作のユーモア性もあると言える。

 エンディング・ロールが出ても、すぐに席を立たずに本作は最後まで観てほしいのであるが、エンディング・ロールの途中で、余り効いているとは思えないが、それでも「オチ」がある。故に、このオチもお見逃しなく。

2025年10月2日木曜日

女の闘ひ(日本、1949年作)監督:千葉 泰樹

白樺派 ミーツ ハリウッド映画


 白樺派は、明治末から大正期に掛けて日本の文壇の一主流となった傾向であり、その文学創作の思想的背景には、理想主義、人道主義、個人主義があったと言われている。その代表的文学者は、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などである。

 何故ここで白樺派のことを持ってくるかと言うと、高峰三枝子の兄役で、大学の東洋哲学の助教授をやっている山村聰が、小暮実千代のことについて、自分は彼女と結婚するつもりであることを妹・高峰に告白した時に、次のような言説を以ってその理由付けをしているからである:(映画の40分台以降)

 まず、山村が高峰に小暮の名前を言わずに、小暮のことを説明する。小暮は、「世間が何か意味ありげに見たがるグループに属している人」であり、「世間的な垢にまみれて、もみくちゃにされ通してきたというような人」である。だからと言って、「その人に憐れみを掛けている訳ではない」のであるが、自分は、「どんなに汚されてもまだ残っている、その人の美しさを愛している。」そして、山村は言う:「僕は、本当に幸福な結婚は、必ずしも世間的な常識の上に立たなくても出来るということを証明してやるつもりだよ。」

 この人間の心根の美しさ、そして善意を信ずる態度は、正に、白樺派がその創作の土台とした、理想主義と人道主義であると言える。故に、こうは言えなくないか。この白樺派の精神が、未だ進駐軍に占領されている戦後日本であっても、戦後の民主主義精神と結び付いて、本作を以って復活したと。しかも、その復活は、民主主義を唱導する進駐軍の本国、USAのハリウッド映画の映像美を借りる形で、示されたことから、筆者としては、表題の如く、「白樺派 ミーツ ハリウッド映画」と本作を特徴づけたのである。本作の最初の15分を、背景はそのままにして、俳優だけ、アメリカ人俳優にすげ替えたら、それはそのままアメリカ映画と通せそうなくらいである。最初の教会の場面、新婚旅行で泊るホテル、正に、外国映画を思わせる。という訳で、本作の最初のストーリー展開を、ここでなぞってみよう。

 タイトル・ロールの背景に朧気ながら教会の輪郭が見えており、本作のファースト・シーンは、キリスト教会の外観である。車が数台乗り付けるが、カメラは教会の中は写さずに、すぐにフォト・スタジオでの結婚の記念撮影となる。恥ずかし気にカメラを覗き込めない、ウエディングドレス姿の高峰に、写真屋が顔を少し上げて欲しいと頼んで、写真が撮られると、すぐに場面は移って、電車が走っている場面がワンショット入る。語りのテンポがいい。すると、恐らく合成写真なのであろう(合成技術:天羽四郎)。画面の右下から左に向かう坂道があり、その画面の右は崖、左は大きな針葉樹で、画面の奥には海が見える。入り江なのであろう、村の灯りも見える。その坂道を上ってくる車がある。新婚旅行に、東京から伊豆の海岸沿いのある場所に電車と車で来たのであろう。「Hotel Minami」というネオンサインが映し出され、カメラは、思わせぶりに「Hotel」を大写しにする。すると、回転ドアがホテルの中から写し出され、ホテルの従業員が客が入ってくるのを待ち受けている。画面の右奥から、ホテルのボーイを先頭に高峰達一行が回転ドアを左(!)から入ってくる。すると、カメラは左に首を振って、ホテルの奥にある階段を写す。その階段を降りて来る、黒のアフターヌーンのドレスを着た女がいる。ハリウッド映画を思わせる、意外とさまになる画面構成である(撮影:小原譲治;美術:河野鷹思)。降りて来る女は小暮で、彼女は左手に白い薔薇を持っている。階段に向けてやってくる新婚カップルを待ち受けているようであるが、どうも新郎(役:細川俊夫)とは因縁があるようであり、新郎が、小暮をわざと無視しながら階段を上って小暮の側を通り過ぎようとすると、小暮は新郎に向けて、白い薔薇を投げつける。もちろん、新郎の後ろを若干遅れて階段を上がっていた新婦・高峰も小暮の不可思議な挙動に気付く。新郎新婦がホテルの部屋に入ると、当然、高峰は細川に階段の女が誰であるのかを問い質すが、細川は女は自分が知っている女であるが、銀座のカフヱーUna Copa(スペイン語で「グラス一杯」の意)の女給で、自分にしつこく付きまとって、困っていると言うのである。色々と説明する細川に、信じてはいるが、潔癖過ぎる自分にはどうしても納得が行かないと言って、同じホテル内に別の部屋を取る高峰であった。結局、彼女は結婚の初夜を拒否し、翌朝早く、一人でホテルを発つ。彼女は小暮が勤めているという銀座のカフヱーに向かった。カフヱーの入口で高峰が待っていると、小暮が朋輩と三人でやってくる。女給達の着替え室で、高峰が小暮の朋輩からどんなに小暮が細川に入れ込んでいたか聞かされると、煙草を吸い終えた小暮が高峰に場所を変えて直接話しをする。小暮に、「わたくしを憎いと思っているでしょ?」と聞かれた高峰は、「あたくし、自分が哀しいんです。」と答える。その答えに胸を打たれたように、小暮は、「お可哀そうな方」と言う。嫌味で言っているのではないと補足する小暮に、「今日のこと、お気を悪くなさらないでね。」と少々顔を和ませて言う高峰。二人の間には、心無い男に痛めつけらた心の痛手を舐め合うような、同性同士の共感が生まれていた。ここに「女の戦ひ」は、「女同士が共闘する、心無い男に対する戦い」となる。小暮と別れて、高峰がカフヱーから出てきたところで、後を追いかけてきた細川は、車を降りて、道の反対側に渡ろうとした。しかし、丁度通り過ぎようとしたトラックに轢かれて細川は呆気なく死んでしまう。細川の葬式を終えた高峰は、たとえ初夜はなくとも結婚をしていたことから、細川の実家に、心優しく上品な義理の母(役:瀧花久子)と二人で、未亡人として住むことになる。こうして、ストーリーは新たな展開を迎える(脚本:八住利雄)。

 亡き夫の実家に義理の母と一緒に住む高峰は、無為に時を過ごしていたが、元々好きであった絵画を描くために、義理の母の許しを得て、パリー帰りの気障な画家小谷(役:河津清三郎)の自宅兼アトリエに通うことにする。この悪役小谷・河津が、実は、映画の終盤になって、高峰と小暮の運命にも大きく関わって来ることになるのであるが、山村聰が高峰の兄であること、小谷・河津と小暮が実は因縁深い関係にあったことなどが、可成りストーリーが展開した後に観ている者に明かされる。故に、ストーリー展開が強引であるかのようにも思われ、脚本がよくこなれていない感じがあるのは否めない。

 脚本家・八住(やすみ)は、東宝の前身の一つとなるP.C.L.映画製作会社に1936年に、つまり日中戦争が始まる前年に入社して、本格的に映画脚本家としての道を歩む。戦時中は、東宝の国策映画(例えば、43年作の、帝国海軍予科練の生活を描く『決戦の大空へ』など)の脚本を書いたりする。そのこともあってか、八住は、戦後も『戦艦大和』(本作同様の新東宝製作の1953年作品)などの戦争映画の脚本も書くが、娯楽映画から文芸映画(例えば、新東宝製作の1950年作品『細雪』など)までの脚本を扱う日本映画界の重鎮・脚本家として、とりわけ、1950・60年代を通じてその健筆を振るうことになる。本作は、その八住が戦時国策映画から民主主義キャンペーン映画制作への路線転換を自ら以って遂げる過程の一本であったとも言えるが、本作のストーリー展開のぎこちなさは、民主主義プロパガンダが八住には未だ慣れていなかったところから来ているのかもしれない。

 とは言え、小暮が勤める「カフヱー」に絡む描写は、戦前との連続性があり、1940年代末の日本における風俗営業がどんなものであったかが分かって、興味深い。戦前の「カフヱーの女給」と言えば、「それなりの」社会的評価を受ける存在であった。つまり、「エロ・グロ・ナンセンス」が横行する1930年代に入って、彼女達は、当世風「娼妓」として扱われていたのである。

 永井荷風が1931年(昭和六年)に「女給・君江」ついて描いた作品『つゆのあとさき』にはここらの辺の事情が明確に言語化されている:

 「西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢(がいく)のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。」(『つゆのあとさき』第七章から)

 女給は、元々は「カフヱー」なるものの給仕、ウェートレスであった。カフヱーとは、もちろん、西洋文明、とりわけフランス文化から導入されたもので、1910年代以降、文化人が集まる、言わば、「サロン」としての趣きを備えたものであった。映画でも、山村が小暮と知り合う切っ掛けとなるのは、ある「肉体派文学」の文筆家が、「ウナ・コーパUna Copa」(スペイン語で「グラス一杯」の意)というカフヱーに連れてきたことによる。つまり、このカフヱーは、「カフヱー」文化の草創期の趣きも引きずっていたことになる。

 当初の「カフヱー」には、フランス系で、酒も飲ませるものもあったが、同様に、西洋料理を提供する「カフヱー」もあった。その料理を運ぶ「女ボーイ」ということで、1915年以降から、着物に白いエプロンを掛けた女給がテーブルの近くに立って、お客にサービスをしたのである。更に、「カフヱー」と言っても、純粋にコーヒーのみを提供するものもあり、これが、「純喫茶」という名称として今日も残ることになる。

 これらの系統に加えて、大阪の業者が考え出した「カフヱー」では、「接待要員」を置いた、今で言う風俗営業がなされるようになる。1929年にあるジャーナリストがこの大阪から広まった現象を以下のように説明している:

 「東京の女給が、未だ上品に白のエプロン姿凛々しく、客席を離れてつつましやかに、客の指図を待って佇んでいる時、大阪では、女給が早くもエプロンを外し、惜しげもなく愛嬌を振りまきながら、客の傍に寄り添う如く腰を下ろす」

 つまりは、エプロンを外した女給こそは、ホステスである。彼女等が、永井荷風が描く女給「君江」であり、彼女達は、「カフヱー」の経営者から固定給で雇われている被雇用者ではなく、言わば、「自営業者」として、客からのチップと、客が飲み食いしたものからの「報奨金」で稼いでいたのである。このようにして、彼女等の境遇は、永井が描いたような、私娼の生活と紙一重のものとなった訳である。

 太平洋戦争の戦況が逼迫すると、カフヱーも含む「高級享楽」は1944年三月に一斉に禁止され、カフヱーは街角から一時的に姿を消すことになるが、敗戦と共に、早速復活したようであり、映画内で、小暮が、山村がけち臭いチップしか寄こさないことに不平を言うように、戦前の「女給システム」も戦後もそのまま復活したようであった。

 以上、本作の内容を若干補足しながら述べてきたのであるが、最後に、証明の仕様がないのではあるが、本作の24分台以降数分のシーンを観て思ったことを記しておきたい。それは、高峰が絵画を習い始めた後、そして、小暮が、山村が高峰の兄であることを知らないまま、彼をカフヱー「ウナ・コーパ」で知り合う前のプロットとして挿入されてる場面である。

 まず、並木道を画面の奥に向かって歩く女性の、小さな後ろ姿が見える。画面が変わって、カメラは女を正面から写す。小暮である。彼女は、黒色のストールのような物で頭を覆い、それを首の前で結んでストールの両端を胸の前で下に垂らしている。着ているコートは長めで、右肩にショルダー・バッグを掛けている。アングルが変わると、この小暮を今度は斜め前から写す映像となる。すると、高峰が、並木道の脇道の一本から、つまり画面右から前面に向かって小走りに走ってきて、「映子さん!」と呼ぶ。こうして二人の会話が始まるのであるが、実は、この場所は墓地であり、二人は、亡くなった細川の墓を詣でていたのである。寡婦たる高峰は、ここで会ったことを以って、亡夫の愛人・小暮が真面目に細川との関係を考えていた明かしを見たと感じたのであろう。二人は、それぞれの思いを抱きながら、それぞれが別の方向へと更に歩いて行く。カメラは、今度は、高峰の後ろ姿を写しつづける。

 筆者は、上述のシーンを観ながら、キャルロ・リード監督作のイギリス映画『第三の男』の有名な映画の冒頭とラストシーンの、墓地の中の並木道を歩く、オーソン・ウェルズの愛人役を務めたAlida Valliアリダ・ヴァリの姿を思い出していた。『第三の男』の制作が、本作制作と同年の1949年であるが、『第三の男』の日本上映は、1952年のことである。最初は、本作が『第三の男』の場面を真似たのではないかと勘ぐったのであるが、制作年、日本上映年から言っても、それはあり得ないことであり、それぞれが独自に同じような場面を撮影していたことについて、本作の監督・千葉泰樹にここで敬意を表したい。

リバティ・バランスを射った男(USA、1962年作)監督:ジョン・フォード

 西部劇の「古典」をストーリー的に捉えると、北アメリカ大陸の西部を舞台として、ピストルの威力にものを言わせて、無法者や北米「インディアン」と闘って、正義と秩序を維持する構図と言えるであろうか。これを古典的西部劇と名付けるとすると、北米先住民の観点に立って、ストーリーを語ろうとした...