2026年11月6日金曜日

炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えたシーンは、筆者には、未だに印象的な場面として記憶に残っている。今回、本作を観て、1958年前後に彼が何を撮っていたか、改めて調べてみると、成程、『ビルマの竪琴』(日活、1956年作)があった。市川が、この作品を以って、映画監督としてヴェネツィア国際映画際で「サン・ジョルジョ賞」を獲得するなど、国際的にも評価される作品を撮り始めた作品である。

 戦後の東宝争議の中で、言わば「スト破り」的に東宝から離脱し、「新東宝」が1947年に設立されるが、その新東宝への移籍により、監督昇進のカードを手にした市川は、48年から監督として活動をし始め、50年代初めには、監督として東宝に戻ることになる。55年には夏目漱石作品たる『こころ』を映画化する。56年以降は、市川は、文芸路線の大映に所属して、矢継ぎ早に、文芸作品を発表している。石原慎太郎作品を映画化した『処刑の部屋』(1956年作)、泉鏡花作品の『日本橋』(同年、市川初のカラー作品)、三島由紀夫作品の本作(58年作)、谷崎潤一郎作品の『鍵』(59年作)、大岡昇平作品の『野火』(同年)、島崎藤村作品の『破戒』(1962年作)などである。

 『ビルマの竪琴』の上映を巡って意見が合わず、日活を離籍しようとしていた市川は、本人の言によると、大映にいる撮影監督の宮川一夫と一緒に仕事がしたくて、辣腕の永田雅一社長がいる大映に移籍する。こうして、市川は、本作でようやく希望が叶い、宮川と仕事をすることになる。しかも、それは、『金閣寺』という観念小説の映画化であって、その脚本化には、有能な脚本家であり、市川の妻でもあった和田夏十(わだ なっと)と、もう一人の脚本家長谷部慶治の手を借りても難航した。そこら辺の事情を市川は次のように回想している:

 「原作を生かすためには、あくまでも映画としてのオリジナルの切り口を持たねばならないという発想から、原作にある有為子を切り、トップとラスト・シーンの構成を変更した。シナリオが難航して困っていたら、藤井君が大学ノートを三、四冊持って来た。それには、三島さんが小説を書くため歩いて取材したメモが、鉛筆でビッシリ書いてあった(創作ノート)。(中略)脚本の夏十さんと相談して、三島さん独特の名文をいったん横に置いて、親子の話に絞ることにした。『美とは何か』という抽象的なことではなくて、裏日本で育った何でもない青年の生き方、悩み、親との離反、そういったものを、金閣寺を背景に追求してみよう、その方が逆に、原作の主題に迫れるのではないかと。」 —  市川崑「映画化の経緯」より(ウィキペディアからの再引用)

 自分の妻を「夏十さん」と呼ぶ、市川の妻に対する尊敬振りも推察できる引用であるが、本作の映画化に当たっての脚本化の方向性がよく理解できる部分である。「原作の主題」は、別なところにあり、本稿筆者個人としては、放火は金閣寺の絶対的美(それは、また同時に神格たる天皇)からの自己解放の行為と理解する。故に、原作では、主人公は放火後に生きようと覚悟するのであるが、本作では、逆に、主人公は、京都から東京への護送中、滋賀県付近で列車から飛び降り自殺をしており、主人公溝口は、むしろ、金閣寺の美に殉じているのではないか。何れにしても、原作の有為子を切ったことにより、戦中と戦後の対比や、性が人生へコミットする「窓口」であったという、溝口と女性との関わりが本作では薄くなっていることは否めない。であるからと言って、戦後80年以上の経った2026年に本作を鑑賞して、現状において戦前・戦中との関わりがこれ程も薄れている中、本作が原作からこのように離れたことにより、逆に、戦争を知らない世代にとっては、本作の内容がより理解しやすい切り口になってはいないか。

 上に挙げた引用の中に登場する「藤井君」とは、大映のプロデューサーで、本作の企画を担当した藤井浩明(ふじい ひろあき)のことである。三島作品の映画化に尽力した藤井は、1957年作の『永すぎた春』の映画化以降、三島と親交を持つようになり、『炎上』(58年作)、『お嬢さん』(61年作)、『剣』(64年作、市川雷蔵主演の現代劇)、『獣の戯れ』(同年作)、『複雑な彼』(66年作封切)と、三島作品を企画・映画化している。66年には、藤井は、三島の自主製作映画『憂国』を共に製作している程の三島文学への心酔振りであった。

 この市川監督の本作の脚本について、1950年代前半にイタリア留学をし、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学んで帰国した後、溝口健二や市川崑の助監督となった当時の映画理論家とでも言える増村保造が、次のように論評している:

 「三島由紀夫氏の小説『金閣寺』に於ける金閣は、主人公にとって、一つの主観的な美意識であり、映画が追究するには厄介な対象であった。ところが市川監督は、映画化に際し、この『金閣』を、主人公の父親への愛情と、社会的な正義感の結晶に転換し、彼の金閣に対する愛情を見事に客観的に描き出したのである。『炎上』はその意味で、小説の鮮やかな映画的再構成と言えるであらう。」 — 増村保造「原作映画とその映画化」より(ウィキペディアからの再引用)

 上述の引用で、「社会的な正義感の結晶」という部分は筆者には理解しがたいが、「主人公の父親への愛情」は、市川監督の意図とも合致し、よく理解できる。肺結核で病弱な父・溝口承道(浜村純)は、同窓の「驟閣寺」の田山道詮老師(二代目 中村鴈治郎)と違って、日本海を臨む舞鶴市・成生岬(なりゅうみさき)にある小寺の住職に甘んじていた。しかも、その梵妻・あき(北林谷栄)が自分の兄弟である男と不義を働いているのを知っていた。息子・吾市がその不貞を目撃した際には、父はその目を塞いで、吾市を岬に連れて行き、驟閣寺ほど美しいものはこの世に存在しないと言い聞かす。こう言われた吾市は、自分の母を汚らわしいと思う気持ちに逆比例する形で、尊敬する父が考える驟閣寺の「美」が彼にとって絶対的なものになったのである。映画化のための脚本化に対して、市川監督夫妻とは小説の内容の議論はすることはあっても、脚本が如何にあるべきか一切の口出しをしなかった原作者三島は、本作の中のあるシーンに関して次のように記述している:

 「黒白の画面の美しさはすばらしく、全体に重厚沈痛の趣きがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックな美しさを持つてゐる。放火前に主人公が、すでに人手に渡つた故郷の寺を見に来て、みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところは、怖しい白日夢を見るやうである。俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は望めないほどだ。試写会のあとの座談会で、市川崑監督と雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。センチメンタリズムの少しもないところが、外国人にうけるだらう。」 — 三島由紀夫「日記――裸体と衣裳」(昭和33年8月12日付)(ウィキペディアからの再引用)

 蓋し、これは、三島の慧眼であり、筆者も、「みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところ」から始まるシークエンスは、浜辺に用意された場所に父親が入っている棺桶が置かれ、そこに吾市がマッチで火を点けて、父を自らの手で荼毘に掛ける場面となる。この場面は、正に、後に、父が究極の美と息子に言い聞かせた驟閣寺に放火する光景と重なる、本作における最も重要な場面であったと言えるのである。

 さて、三島が言うところの「白黒の画面の美しさ」を創り出したのは、市川監督が大映に入る時に欲していた、モノクロームの映像美で定評のあった宮川一夫撮影監督であった。宮川は、黒澤明監督の『羅生門』(1950年作)でその白黒撮影の審美眼が世界的にも実証されていたが、その後は、溝口健二監督の『お遊さま』(51年作)、同監督の『雨月物語』(53年作)で、一流の撮影監督としての地位は映画界では揺るぎないものとなっていた。筆者は、とりわけ、白黒映画の美学としては、溝口監督、宮川撮影監督の作品『近松物語』(54年作)をより高く評価するものであるが、市川監督は、とりわけ『雨月物語』での撮影技術の見事さに感嘆していたと言う。本作で、ようやく、市川監督・宮川撮影監督の共作が叶った訳であるが、その後は、このデゥェットは、上述の市川監督作品である、『鍵』(59年作)、『破戒』(62年作)、『東京オリンピック』(65年作)でも成立しており、とりわけ、市川監督作品の『おとうと』(60年作)では、宮川は、いわゆる「銀残し」の手法を開発し、カラー・フィルムの現像時に銀を意図的に残して、カラー撮影に白黒フィルムの蓋いを掛けたようにして、陰影のコントラストをより高める技法を創り出したのであった。

 会社大映側は、本作をカラー作品として撮ることを市川監督に提案していたが、市川は、それに対して、カラーにしては、肝心の炎上のシーンが間延びすることを恐れて、白黒で撮ることを、また、「大映スコープ」の横長の画面比率にすることを条件とした。会社側との交渉で市川の二条件は飲まれたが、宮川にとっては、「シネマスコープ」は初めての挑戦であった。故に、画面の構図の取り方では、市川と宮川は最初は議論を交わすこともしばしばあったが、次第に、お互いに意気投合したと言う。

 映画初盤の、主人公の市川雷蔵が初めて驟閣寺にやってくる場面での、背景の白壁がくっきりと浮き上がり、中間部は土間で灰色、前景が黒の木造の造りという画面構成は、このシーン一つで、禅宗の禁欲的建築構造を感じさせて、観ている者を満足させる場面である。また、主人公が彷徨する、夜の新京極の路地の、宵の闇と店の灯りのコントラストも魅力的である。ウィキペディアによると、主人公が、成生岬の崖から日本海を見下ろす映画中盤のシーンでは、風景の厳しさを出すために、わざわざ曇りの日にロケ撮影を狙い、それでも足りずに、崖一面に墨汁を噴霧器で散布して黒色を誇張したと言う。流石である。

 それでは、原作では「おびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたやう」と表現されている、本作のクライマックスの「炎上」場面では、さて、どんな工夫がされていたか、ウィキペディアに従って述べてみよう。驟閣寺の普通の撮影では、真言宗の寺院である大覚寺の池のほとりに原寸大のセットが建てられて撮影されたが、炎上のシーンのためには、嵐山の川の中州に二分の一のミニチュアが作られて、これを燃やした。しかし、それでも炎上の迫力が出ないので、シネマスコープ・サイズで撮ったものと、普通の35㎜で撮影して、それをシネマスコープ・サイズに伸ばしたものとをモンタージュして制作したと言う。火の粉が夜空に舞い上がる場面では、カンナ屑を燃やしたりもしたのであるが、十分満足のいく撮影とはならず、色々な議論の末、金粉を炎の中に混ぜるアイディアが出て、それを採用することにした。大映の美術監督と言えば、この人と言われる西岡善信がチーフであった美術部スタッフは、黒布を背景とし、餅焼き網のようなものの下から扇風機を金砂子(きんすなこ)を舞い上がらせる「操撮」を工夫したと、西岡は言う:

 「金砂子というのは金箔を屑にしたようなもので、襖に糊を敷いて金砂子を撒くという手法は京都でよく使われていた。それだけだと金が降ってくるだけなので、襖二枚ぐらいの黒布バックに、餅焼き網のようなものの下から扇風機を当て金粉を舞い上らせ、さらに風で流れるように見せるために、横から団扇で扇ぐ。」 —  西岡善信「映画美術とは何か」より (ウィキペディアからの再引用)

 こうして、題名に相応しい「炎上」の場面が撮られた訳である。このシーンは、監督、撮影監督、美術監督の努力が実った、日本映画史に記録されるべき成功例であろう。

 音楽は、作曲家の黛敏郎で、黒地に金閣寺の見取り図を見せるタイトル・ロールの背景音楽には、黛が作曲した『涅槃交響曲』(1958年作)の一部が使われいて、それは、声明であった。本作の芸術性をより高める背景音楽であるが、ウィキペディアによると、黛は劇伴をすべてこの感じで通そうとしたのに対して、市川監督が待ったを掛けて黛と大議論をして、タイトル・ロール以外は、残りは現代音楽風に変えさせたと言う。蓋し、市川監督の正しい指示であった。

 放火の夜に主人公が話しをする五番町の娼妓役の中村玉緒、「洋館の女」役の浦路洋子、「花の師匠」役の新珠三千代は、それぞれ適切な配役で、とりわけ、主人公が憧れる高貴な美を体現していた新珠は、とりわけ、ストーリーの展開上、脇役ではあるが、重要な役柄を演じている。それまで大映の時代劇のスター的存在であった市川雷蔵が、性格俳優として現代劇に初めて挑戦した作品が本作であり、三島も、雷蔵以外にこれ程のはまり役はいないと褒めちぎっているが、その主役を喰っている助演男優が仲代達也である。女との関係では初心な主人公・溝口に対して、仲代演ずる戸刈は、自分の足が不自由であることを逆手に取り、逆に相手に良心の呵責を起こさせて、その呵責を攻め上げて、女を陥落させる汚い手を使う。この手に、洋館の女も花の師匠も籠絡される。この仲代が体現する、悪魔的・メフィストフェレス的な存在は、この現世において美しいと思われているものの化けの皮を剥がす存在であり、仲代の演技力の強烈さを印象付ける、彼の初期の作品の一本に挙げられるであろう。

2026年10月25日日曜日

ゴールデン・リバー(仏/ベルギー/スペイン/ルーマニア/USA合作、2018年作)監督:ジャック・オディアール

 嘗て、日本語で「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれたウエスタン映画のサブ・ジャンルがあった。本家USAのウエスタンの十八番を奪ったイタリア製ウエスタンであったからである。ヨーロッパでは、「イタ公」が喰うのはスパゲッティであるからと言って、この種のウエスタンを「スパゲッティ・ウエスタン」と揶揄して呼んだのであるが、この「スパゲッティ・ウエスタン」のロケ地の多くはスペインであったと言う。イベリア半島中央部の沙漠のような地形が、あのUSAのウエスタンに登場する大自然に似ていたからである。

 さて、本作の製作国は、フランス、ベルギー、スペイン、ルーマニア、そして、USAである。確かに、本作では、部分的にロシア語が話されるが、基本的には英語が話され、主役は、主演級が、ホアキン・フェニックス、ジェイク・ギレンホールなどのUSAの有名俳優達である。とは言え、実は、本作は、ウエスタンの皮を被ったアンチ・ウエスタン映画であり、同じ「西部」と言っても、それは、ヨーロッパ大陸の「西部」なのである。故に、本作に、USA西部劇のテイストを求めても、それは、無理な次第なのである。

 という訳で、21世紀の「スパゲッティ・ウエスタン」たる本作のロケ地の一つは、その伝統に従って、スペインにあるテーマ・パークである「テキサス・ハリウッド」である。とは言え、予算の関係もあってか、野外撮影の多くはルーマニアでの撮影であった。監督は、パリジャンのジャック・オディアールJacques Audiardで、彼は、脚本も共作しているが、本作を以って、ヴェネツィア国際映画祭では、監督賞の銀獅子賞を受賞している。

 撮影監督は、ベルギー人ベノワ・ドゥビエBenoît Debieで、彼は、本作の美しい野外撮影で、フランスの映画賞セザール賞において、同賞の監督賞を受賞したJ.オディアールと並んで、最優秀撮影賞を受賞している。音楽は、監督同様のパリジャンであるアレクサンドル・デスプラAlexandre Desplat で、その音楽的センスの良さで、このアンチ・ウエスタンのストーリーに相応しい随伴音楽を作曲している。因みに、彼は、USAアカデミー作曲賞に2026年現在まで計12回ノミネートされており、2014年制作の『グランド・ブダペスト・ホテル』、そして、本作が公開された前年の2017年に制作された『シェイプ・オブ・ウォーター』で、USAアカデミー音楽賞を受賞していた逸材で、本作の音楽担当に彼を持ってこられたことは本作の大きな強みでもあろう。

 原作は、本作の英語原題『The Sisters Brothers』と同じ題名で、2011年に発表された小説である。作者は、カナダの西海岸にあるヴァンクーヴァー・アイランドで生まれたパトリック・ドゥウィットPatrick deWittである。彼の育ちは、カルフォルニア州南部で、一旦カナダに戻った後、作家として自立できる見通しが立った2009年にUSAの、本作の舞台ともなるオレゴン州にあるPortlandに移住し、2011年に、言わば、郷土史とでも言える小説作品を、とりわけ、カルフォルニア・ゴールド・ラッシュに当たる時期(1848年から1855年頃まで)に焦点を当てて書いている。本投稿の筆者は、本映画が原作とどれ程異なっているのか、原作を読んではいないので、判断する立場ではないが、本作の登場人物の中で、とりわけ、化学者であるウォーム(Hermann Kermit Warm)の存在に注目する。

 筆者は、映画を観ていて、このウォームなる人物がインド系の人間ではないかと見ていたのであるが、調べて見ると、この役を演じているリズ・アーメットRiz Ahmedは、パキスタン系イギリス人であると言うことである。演じている俳優の名前からして、イスラム教徒的感じであり、また、ドイツ的な名前「Hermann」と、「Kermit」という、出所の分からない名前から判断して、中東から来ていそうな化学者を19世紀半ばのUSA西海岸に登場させる本作の設定は極めて興味深い。

 黄金と化学との関係から言えば、歴史的に、「錬金術」の「夢」が思い出され、大体、世界史の中世において最も科学が発達していた地域は、イスラス教圏国の地域であった。古代ギリシャ文化を中世まで温存し、それをヨーロッパに伝えたのが、イスラム教圏国であり、そのことがあってこそ、ヨーロッパを「近代」へ発展させることになるルネサンス(「古典復興」)もまた、ヨーロッパであり得た訳である。この歴史的絡みを、本作は、中東的「ウォーム」の存在を以ってして、さりげなく、ストーリーに織り込んでいるのではなかろうか。

 しかも、ウォームの政治的・社会的理想は、ゴールド・ラッシュに象徴される利益競走に害されない民主的な共同体の建設である。時折しも、ヨーロッパでは1848年の民主化革命が失敗し、その失敗の中で、旧守権力に弾圧されて、ヨーロッパからアメリカ大陸に逃れてきた西ヨーロッパの民主主義者も少なからずいたのである。故に、ウォームは、ヨーロッパ人が多くいるテキサスのダラスに理想とする共同体が作れるのではないかと希望している。この思いに衝き動かされたのか、本作における「語り部」とでも言える、ジェイク・ギレンホール演ずるところのジョン・モリスJohn Morrisは、謎の化学方程式を奪うべく、密かにウォームを追尾する依頼を裏切り、逆に、ウォームの希望を叶えるために一財を投げ打って、ウォームに同行する。

 しかしである。本作が制作された2018年は、第一次トランプ政権が成立して二年目の年である。当時は、第二次トランプ政権が成立した25年以降の政治状況に較べれば、それ程明らさまではなかったにしても、明らかに、それは、USA民主主義の低下をもたらしていたのであり、そのトランプ政権を支える基盤の一つに、テキサス州があったのであった。テキサスこそは、正に、ウォームが抱いていた希望の地である。しかも、結局、ウォームとモリスが、 ホアキン・フェニックス演ずるところのチャーリー・シスターズの強欲により、死んでしまうことは、彼等の民主主義の夢もまた、あえなく潰えたことを意味してはいないか。

 本作のラストシーンで示される「癒し」は、慈母の許に戻ることでしか得られなかったのであり、本作の、この救いのないメッセージは、つまりは、政治的諦観としか言いようがないのではあるが、この2018年の諦観は、詰まるところは、七年後にトランプ第二次政権が成立する帰結を見れば、本作の調和的なラストシーンは、2026年の現時点から見て、如何に欺瞞に満ちたものであったかも明らかになったと言える。この意味でも、機会があれば、この点を是非一度、脚本も共同作成した監督J.オディアールに質したいものである。

 最後に苦言を一言。つまり、本作の邦題『ゴールデン・リバー』の芸のなささ加減である。これは、原作の題名を受けて、本作の原題も『The Sisters Brothers』とした、原作者並びに制作者の意図を全く解していない邦題の付け方である。その原題の言葉の洒落と、その洒落が、その背後にある、キリスト教信徒を「ブラザー、シスター」と呼ぶ宗教的精神と関わっていることを、この無邪気な邦題は、全く考慮していない点である。英語原題をそのままカタカナ書きにしてしまう悪習に筆者も組するものではないが、「シスター」も「ブラザー」もほぼ日本語化している中、何故に、「ザ・シスターズ・ブラザーズ」では行けなかったのか、日本の配給業者のセンスのなさに唖然とするばかりである。

2026年10月12日月曜日

狂つた一頁(日本、1926年作)監督:衣笠 貞之助

 1917年に起こったロシア革命、18年に終わった第一次世界大戦、それを受けた旧世界の崩壊、その世界が変わる激動の中で、ダダイズム、ロシア構成主義、イタリア未来主義(フトゥリズモ)、ドイツ表現主義(Expressionismusエクスプレスィオニスムス)などのモダニズム芸術運動がヨーロッパでは興隆していた。

 日本の映画界においても、1918年に純映画劇運動が起こる。この運動では、1.舞台脚本から映画シナリオへの、2.女形から女優への、そして、3.活動弁士から字幕への、変革が主張され、キネマトグラフィーは、「活動写真」から「映画」へと、映画独自の表現言語を獲得していくようになる。それは、映画が歌舞伎劇から独立していくことを意味し、1920年に、松竹は、映画製作会社の中では最初に「女優」を本格的に養成し始める。これはまた、演劇界で新劇が登場したことに対応する、松竹映画における現代劇ジャンルの登場を意味する。

 しかし、1923年の関東大震災により東京にあった映画スタジオが焼失してしまうと、撮影の本拠を一時京都に移さざるを得なくなり、こうして、京都は時代劇の本拠であったことから、時代劇が再び勢いを取り戻し、新派・女形映画が引き続き撮られることになる。

 このような中、自らも女形として日活の新派劇映画にスターとして出演していた衣笠貞之助は、女優の進出という事態から女形としての可能性に見切りを付けて、自らメガホンを取ることに決める。こうして1920年以降、自らも女形の役を演じながら、映画を撮り始める。監督としての力量を認められ、マキノ・プロダクションに所属していた衣笠は、25年に、横光利一が書いた小説を基にした映画『日輪』を発表する。卑弥呼を題材としたこの映画は、当時は、卑弥呼が天照大御神であったという説があったことから、不敬罪ということで、右翼の批判するところとなり、牧野省三がこの作品の上映中止を一人で決めたことから、それを不満に思った衣笠は、自立することに決める。彼が弱冠29歳の時のことである。

 こうして、『日輪』の制作で知り合った横光と意気投合していた衣笠は、川端康成らを含む新感覚派の文学者達と、1926年4月10日に「新感覚派映画連盟」を結成し、これらの文学者からアイディアを貰いながら、本作『狂つた一頁』を撮ることになる。

 撮影のためのカメラは、知り合いのドイツ人青年Aldenborgアルデンボルクを上海に行かせて、フランス製撮影機 Parvo Modell K(パルヴォK型;レンズを四種類装着することが可能であり、一本122mの長さの通常フィルムをカセットに入れられる)を購入してもらう。このような経緯があったことからか、Aldenborgは、精神病院の外国人医師の役で本作に二箇所で出演している。撮影には、松竹が協力して、京都の下加茂撮影所が使えることになり、クルー約70名で、5月6日から撮影を開始する。主演の井上正夫が五月一杯しかスケジュールが空いていなかったため、撮影にはチームが不眠不休で当たり、5月31日までに撮影を終える。故に、撮影期間は、25日間程であった。衣笠が六月初旬に完成した本作を持って東京に行くが、個人試写会で本作を観た横光が字幕なしを提案すると、それを受けて、衣笠が字幕を割愛した。自主映画製作会社の作品であることから、上映館が中々見つからなかったのであるが、ある試写会で本作を観た映画人・岩崎昶などの推薦を受けて、洋画上映の専門館「武蔵野館」での上映が決まって、映画完成から約四ヶ月経った9月24日から一週間公開された。当時人気弁士であった徳川夢声が本作の解説を担当した。

 東京以外でも幾つかの洋画専門館で本作は上映されたが、心ある映画人には評価はされたにも関わらず、アヴァンギャルド映画の典型的な運命を辿って、本作も興行的には失敗したことより、「新感覚派映画連盟」は本作の一本を以って解散する。

2026年9月28日月曜日

Fatherland(ポーランド/独/伊/仏、2026年作)監督:パヴェウ・パヴリコフスキ

 USAに亡命していたドイツの文豪トーマス・マンが戦後の1949年に東西両ドイツを訪れた歴史的事実を上手く脚本化して撮った本作は、戦後ドイツの歴史を考える上でも最良の作品であり、その白黒の映像美も併せて、静謐な佳作である

 ノーベル文学賞受賞者Thomas Mannトーマス・マンが祖国(ドイツ語でVaterlandファーター・ラント=「父国」)から亡命したのは、ナチスが政権を掌握した1933年と同年である。ナチス政権誕生と共に、「非アーリア的文学書」が公衆の面前で焚書にされる。それには、Th.マンの著作自体は含まれていなかったのではあるが、ナチスの暴虐性を早くも見抜いていたのか、マン一家は早々にドイツから亡命した。

 ナチスの「千年王国」が僅か12年で崩壊し、敗戦後の四年が経った1949年に、16年振りに祖国を訪れたTh.マンに対して、著名な全国紙『南ドイツ新聞』の記者は、もっと国内に残って同胞を支援すべきではなかったのか、あのように早期に国外亡命したのは、祖国に対する裏切りではなかったのかという意見があるがどう考えるのかと、意地の悪い質問をする。それに対して、Th.マンは、「残っていたら、こうして、貴方の質問に答えることは出来なかったでしょう。」と、Th.マンらしい皮肉を込めた返答をしている。こうして、1949年の夏に祖国を再訪したTh.マンは、西ドイツのフランクフルトと東ドイツのヴァイマールで、それぞれ、Goetheゲーテの生誕二百年を記念してのゲーテ賞を受けるために、黒塗りの大型高級車Buickビュイックの、恐らくは、Roadmaster型に乗って、戦争で荒廃したドイツを移動して歩いたのである。ビュイック車を運転するのは、Thomasのお気に入りの娘Erikaエリカで、彼女は嘗てはレーシング・カーも運転していたこともある、車の操作には長けた運転手でもあったのである。

 このTh.マンのドイツ再訪に随行したのは、実は、エリカではなく、Thomasの妻・Katiaカティアであった。故に、当然に運転手もエリカではなく、ある化学会社の若い社員で、Th.マン文学の熱烈な崇拝者であったGeorges Motschanという人物であった。脚本の内容を、史実とこれ程までに変えてよいものかという議論も起こり得るが、実は、映画の冒頭に登場する、Thomasの息子Klausがフランスのカンヌで睡眠薬の大量服薬で亡くなったのは、Th.マンがドイツに入る前の、49年5月21日のことである。この訃報がエリカを含めた旅行中のマン一家に届いたのは、Th.マンが講演旅行中のストックホルムであり、映画とは異なり、エリカも賛成して、今回のヨーロッパ旅行を中断しないことを家族で決めたのであった。つまり、映画内でのクラウス・マンの死亡の時点も、史実と異なるのであるが、以上の二点の改変により、ストーリー自体がそのドラマトゥルギーがより高まり、また、エリカを演じるドイツの名女優Sandra Hüllerザンドラ・ヒュラーの演技力をより求めるものとなっていることから、これらの改変は本作を成功させている一因であると筆者には思われる。

  マン一家がニュー・ヨークからヨーロッパに向けて船出したのは、49年5月10日であった。ヨーロッパ大陸に到着してからは、スイスに長く滞在し、ゲーテの生誕地フランクフルトに入ったのは、同年7月25日となる。ここでの記者会見で上述の『南ドイツ新聞』の記者の意地悪な質問がTh.マンに向けられたのである。1848年の三月革命で民主主義的憲法が起草されたことから、特徴的な楕円形型の建物をしたフランクフルトのパウルス教会はドイツの民主主義の発祥のシンボル的な場所である。そこで、ゲーテ賞の受賞の講演が行なわれ、別の場所で記念の晩餐会なども催されたのであろう。このフランクフルトでの滞在に関してそれを回想してTh.マンは、次のように書いている:

 「どれだけの血が、今日握手をしなければならなかった手のすべてにこびり付いていたのか、どれだけが?」

 連合国による非ナチ化政策が冷戦により逆コースを取るようになり、嘗てのナチスが次第にまた西ドイツ社会の中枢に入り込んでいることを上のTh.マンの言葉が的確に指摘している。現在も存在する、ドイツの憲法に当たる「基本法」が49年5月23日、即ちクラウス・マンが亡くなった二日後には、発効することを以って、ドイツ連邦共和国が一般的には成立したとされているが、この西ドイツの成立は、冷戦構造下のドイツの東西分裂を確定的なものにしたと言える。尚、西ドイツが自らの司法の手で嘗てのナチスを取り締まっていくのは、1960年代に入ってからである。

 さて、映画では、Th.マンが、恰も、西ドイツのフランクフルトから車で直接に東ドイツのヴァイマールに行ったかのように見えるが、史実では、彼は、まず、南ドイツのシュトゥットガルト、ミュンヘン、そこから北東に向かって、ニュルンベルクとバイロイトを経由して、それから、ヴァイマールに到着している。映画では、フランクフルトで、ナチス体制の順応者であったヴィーラントとヴォルフガング・ヴァーグナー兄弟が図々しくもバイロイト音楽祭が再開されることに、ヴァグネリアンであったTh.マンも協力して欲しいと頼む場面があるが、もし、そのようなことがあったとしたら、それは、バイロイトでのことであったであろうと想像される。頼まれたTh.マンは、かなりどぎつい反応を示して、二人の母親コジマ・ヴァーグナーに早く裁判が起こされればいいと捨て台詞を残して、二人を後にする。

 Th.マンがヴァイマールに到着したのは、49年7月31日のことである。それは、ゲーテの生誕二百年を記念する行事であったが、Th.マンは、ナチス・ドイツから亡命する数ヶ月前にも、1932年のゲーテ没後百周年を記念してヴァーマールを訪れており、17年振りのヴァイマール再訪は彼にとっても感慨深いものであったことであろう。

 監督Paweł Pawlikowski(パヴェウ・パヴリコフスキ)は、ポーランドのワルシャワ生まれの映画監督兼脚本家である。1970年代の初めに英文学の講師をしていた母と共に共産主義国のポーランドからドイツに移住した。その後イギリスに渡り、オックスフォード大学では、文学と哲学を専攻したが、そこでドイツ文学の研究プロジェクトにも関わることになる。それ故に、彼は、発音には癖があるが、ドイツ語をある程度よく話せる。また、あるインターヴューでは、Th.マン文学に関しても全てではないが、ある程度は読んでいると答えている。

 1980年代にBBCのドキュメンタリー映画を制作するようになり、1990年にドキュメンタリー映画監督として自立する。1998年には劇映画部門にも進出し、2004年の三作目の『マイ・サマー・オブ・ラブ』で英国アカデミー賞作品賞を、2013年の『イーダ』でポーランド映画としては初めてのUSアカデミー賞外国映画賞を、2018年の『Cold Warあの歌、2つの心』でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞している。

2026年9月24日木曜日

0線の女狼群(日本、1960年作)監督:三輪 彰

ホテル酔月
御休息 お一人様 一〇〇円(一時間)
御泊り お一人様 六〇〇円
御食事 お一人様 一五〇円より

 これは、本作に登場する一場面であるが、「ホテル酔月」は、現代であれば、「ラブホテル」と言うべき場所であろう。「ホテル」とすれば、聞こえはいいであろうが、本作が制作された年1960年ということであれば、「連れ込み宿」と言える所である。料金を見れば、約60年後の現在と較べて、何と物価が違うことかと驚かされる。この点は、本作の中では、映画の冒頭の上野駅とその駅前の風景を含めて、歴史的価値がある部分であろう。タイトル・ロールの背景となる蒸気機関車の力強い走りや、この場面の白黒を反転させて見せる意匠も中々である(撮影監督:岡田公直)。ドキュメンタリー性を強調し、フィルム・ノワールの臭いを出すためにも、意図的に白黒映画にした点も納得は行くが、何せ、ストーリーは二束三文ぐらいの価値しかない低劣なものである。映画の終盤、どこから現れるのか、「女狼群」が登場するのもご都合主義である。

 東北の田舎から列車で東京に出てきた無辜の若い娘を暴力的に「囲い」、連れ込み宿で強制売春をさせるストーリーは、猟奇的で煽情的である。この手の映画を「Exploitation エクスプロイテーション」映画といい、時事問題や社会的にタブーとされるテーマを「exploit搾取する」して煽情的に味付けし、それで以って、好奇心を煽られた下劣な観客を映画館に呼び込もうとする、偽善的な映画である。本作もこのジャンルの作品臭がプンプンとする。

 こんな映画にあの丹波哲郎が出演していることに意外さを覚えるのであるが、丹波は、1951年に「新東宝」に採用されて映画俳優となり、本作が制作された1960年の前年に新東宝を退社して、フリーランスとなっていたのである。故に、本作は、丹波が新東宝の作品に登場した最後期の作品の一本となる。丹波が新東宝を退社するに際しては、ウィキペディアよると次のようなエピソードがある:

 「...1959年、丹波の『新東宝の作品のレベルが落ちている』との発言が記事となり、社長の大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社」したと言う。

 むべなるかなである。映画製作会社「新東宝」は、1947年に創業された。
それは、「東宝争議」の中で、組合側にも経営側にも付かずに映画製作を続けたいという表向きの理由で創立されたのであるが、事実上はスト破りの形で、東宝に製作した映画を提供する会社であった。倒産する1961年までの14年間に800本以上の映画を製作したと言われているが、1955年に大蔵貢が社長・プロデューサーになると、「安く早く面白く」のモットーの下、それまでの文芸路線(溝口の『西鶴一代女』)などを離れて、「エログロ」とでも言える徹底した娯楽・大衆路線にシフトした。これは、USAのエクスプロイテーション映画ジャンルそのものであり、新東宝こそは、この方面で、他の映画会社に先駆けていたのである。同じく丹波が助演している新東宝作品『女真珠王の復讐』(1957年作)は、邦画史上初めての主演女優の後ろ姿のオール・ヌード・シーンが撮られて話題となった作品である。ヤクザ映画の東映が「東映ポルノ」を製作し始めるのが、1968年、日活が、「日活ロマンポルノ」を製作・配給し始めるのが、1971年であるのを考えると、新東宝の「先見性」がよく理解できるであろう。新東宝は、1958年に、この年に廃止された、いわゆる「赤線地帯」をテーマとした『女の防波堤』(プロの売春婦が米兵を相手にして、日本の淑女を守る「防波堤」になる)を製作しているが、同じ年には、『白線秘密地帯』なる作品を出している。

 「パイセン」と読む「白線」とは、もぐりの売春行為をいい、この作品は、この売春行為の組織を暴く警察活動をテーマしたものである。宇津井健、天知茂、菅原文太などが出演したこの作品を撮ったのが、早撮りの監督として有名な石井輝男である。この「〇〇線地帯」はシリーズ化されて、石井監督の下、1960年に『黒線地帯』と『黄線地帯』が公開されている。「黒線」とは、暴力団が組織するもぐりの売春行為を、「横線(イエロー・ライン)」とは、電話コールによる売春行為を指すと言う。本作の題名「0線(ゼロせん)」も、この「ライン・シリーズ」に掛けた、駅のホームの番線から外れた番線ということで付けたものであろう。

 US進駐軍が日本に入って公娼制度が禁止される。これを受けて、売春防止法が1956年に公布され、「移行期間」を経て、58年に罰則が施行されることになると、売春行為は地下に潜ることになるが、新東宝は、正に、このプロセスをエクスプロイテーションしたことになる。

 本作の制作された1960年は、日本映画史上最高製作本数となる547本が製作された年で、それは、今は存在しない大映を含む大手六社によるプログラム・ピクチャー作品群であった。観客動員数は、1958年に11億人強で史上最高であったものが、61年には八億人台に既に落ちており、日本の映画産業の衰退の兆しが早くも現れることになる。新東宝は、この61年に、大映は、その十年後の71年に倒産することになる。

2026年9月23日水曜日

ホンド―(USA、1953年作)監督:ジョン・ファロー

 タイトル名の「Hondo」の名前を持つ主人公(ジョン・ウェイン)は、George Crookジョージ・クルック将軍麾下の第八US騎兵隊の、経験あるScout(斥候)である。クルック将軍は、他の将軍と異なり、北米先住民に対しては若干理解を示そうとする良心的態度を持った将軍である。時代は、1870年代初めである。アメリカ独立戦争は、実は、東部が対英戦線であったとすると、西部戦線があり、これは、イギリスと同盟する北米先住民諸部族との戦いであった。独立戦争が1783年に終わって、イギリスを北米大陸から追い出したUSAは、とりわけイギリス側に味方した北米先住民を追い詰める形で、対「インディアン戦争」の戦線を徐々に北米大陸西部・南西部へと進めることになる。

 19世紀に入ると、北米先住民の形勢は更に悪くなり、アンドリュー・ジャクソン大統領が署名した「インディアン移住法」が1830年に成立する。「インディアン移住法」とは、ウィキペディアによると、「インディアンを白人のいない西部のインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住させ、連邦政府が信託保留 (reserve) した土地 (Reservation) に住まわせ、そこで白人の社会システムを構築し、白人社会に同化させる」という政策である。「これに従わない場合、そのインディアン部族は絶滅させる」とまで、ジャクソン大統領は宣言しており、これは、正に、暴力的な民族浄化政策である。このことは、人権宣言を高らかに謳ったUSAで、その人権が「白人」にのみ当て嵌まるとするダブル・スタンダードであることを図らずも露呈させている。この段階になると、「インディアン戦争」の趨勢はほぼ決着が付いたと言え、遅くとも1870年代には、誇りある北米先住民の運命は、既に、その挽歌が歌われていたと言える。

 本作の原作となっているのが、大衆娯楽小説作家Louis D'Amourルイ・ダムールが書いた『The Gift of Cochise』(「コチーズの贈り物」)である。コーチーズは、アパッチ部族の六つある支族の一つChiricahuaチリカウア族の、支族の尊敬を集めた戦士であった。彼にまつわる話しとしては以下のものがあるので、少々長いがウィキペディアより引用する:

 「アパッチ峠の西の新設のブキャナン砦のそばに、メキシコ女のヘイスーサ・マルチネスを愛人とするジョン・ウォードというならず者が、怪しげな牧場を開いていた。ここにはマルチネスの息子のフェリックスという10歳か11歳の少年がいたが、この少年の父親はアパッチ族だった。

 1860年の夏にピネル・アパッチの一団がこの牧場にやってきて、牛数頭とフェリックスをさらった。ウォードはブキャナン砦に訴えたが、米軍は手いっぱいで何カ月もこの訴えは放置された。そのうちに、ウォードは根拠もなく、この襲撃はチリカウア・アパッチの有名なコーチーズの仕業だと妄想するようになった。現在では、このウォードの考えは根も葉もない妄言と断定されているが、米軍は彼のこの考えに賛成した。

 翌年1月に、ようやく米軍のジョージ・N・バスコム少尉が派遣されてきた。バスコムは西部に来たばかりで、名を挙げることしか考えていない青年将校だった。バスコムは部下54名とともにアパッチ峠に向かい、ジョン・ウォードもその部隊と同行した。バスコムはバターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所で、チリカウア族と親しい御者のジェームズ・ウォレスに、『我々はリオグランデ川に定例の巡察に行くところだ』と嘘を教え、そのまま峡谷に野営を張った。

 ほどなくしてコーチーズが中継所に来て、なぜ大勢の軍人が来たのか尋ねた。ウォレスは聞いたままを答えたので、コーチーズは安心し、弟のネレテナ、妻のナレカディア、息子ナチーズ、甥二人を連れてバスコムの野営を表敬訪問した。コーチーズは礼儀正しく挨拶をし、テントの中に座ったが、バスコムはこっそりと兵士たちにテントを包囲させた。

 バスコムはいきなりコーチーズに、例の一件を詰問した。コーチーズは寝耳に水のこの話に驚いたが、この犯人を捜そうと言った。コーチーズはチリカウア・アパッチの沈着冷静な戦士で、白人も一目置く人物だった。コーチーズはあくまでもチリカウア族であるから、他のアパッチ支族に対してなんらの責任もない。それでも努力を約束したのであるから、ただでも理不尽なこの要求に、これ以上の返答などあり得ない。

 しかしバスコムはこれを偽りと思い込んで満足せず、『コーチーズ自らが事件に関与した』と非難し、コーチーズの家族を人質にすると脅迫した。コーチーズは非難されたことと拘束されたことに怒り、テントをナイフで切り裂いて逃亡した。コーチーズはウォレスにだまされたと思い込み、中継所に戦士たちと押しかけ、出てきたウォレスと所長のカルバー、馬丁のウォルシュを取り押さえた。カルバーとウォルシュは逃げたが、カルバーはアパッチに射殺され、ウォルシュはインディアンと間違えられて米兵に射殺された。コーチーズはウォレスを人質にした。

 バスコムは人質交換を行うことには気乗りしないままであり、コーチーズたちは通りかかった幌馬車隊を襲い、アメリカ白人を二人捕虜にし、メキシコ人家畜商人を馬車ごと焼き殺した。その後バターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所での人質交換は、バスコムの拒否によって成立しなかった。バスコムとコーチーズの間の交渉は行き詰まりとなっており、その間にバスコムは援軍を要請する伝令を送った。コーチーズは怒り狂い、三人の捕虜を惨殺した。バスコムは軍医のバーナード・アーウィン博士の助言を容れ、コーチーズの弟と二人の甥を樫の木に吊るして縛り首にした。

 バスコムはコーチーズの妻と息子は返したが、コーチーズの怒りは収まらなかった。この一件は『バスコム事件』と呼ばれるようになり、小さな事件であったにも拘らず、その後11年間におよぶアメリカ白人入植者および米軍と、コーチーズたちチリカウア・アパッチとの戦いのきっかけとなった。」

 原作におけるコーチーズの「贈り物」が何であったのかは分からないが、コーチーズに関しての上述の話しは、確かに、本作のストーリーと似ているところがある。ジョン・ウォードというならず者の存在と彼が持っている牧場、そこにいる少年のフェリックス、新米のUS陸軍少尉バスコムなどである。そして、この「バスコム事件」がその後の11年間にも及ぶチリカウア・アパッチのゲリラ的闘争の切っ掛けとなったことである。

 このコーチーズにまつわる話しは、1860年代のことになるが、丁度、この時期は、南北戦争の時期(1861年から64年まで)に当たり、対「インディアン戦争」は、この南北アメリカの内戦中も戦われていたことに注意したい。

 ジョン・ウェイン演じるホンド―・レインの人物像も興味深い。未だ、いわゆる「正統派ウェスタン映画」が蔓延っている1950年代の時期に(本作の制作は、1953年)、ホンド―・レインは、その血の一部にインディアンの血が混じっており、本人が言うところでは、五年間アパッチの一支族であるMescaleroメスカレロ支族と共に生活し、Squawスクウォー(アメリカ東海岸北部にいた北米先住民の言葉が英語に入ったもので、「インディアン女性」を意味する)と同棲していたのである。

 また、ホンド―が自分に付いて言う、「嘘が付けない男」という点では、コーチーズに関わる、次のエピソードも興味深い。USポストの配達人は、アパッチの土地(現ニュー・メキシコ州を中心とする地域)を横切らざるを得ないので、1871年までに14人もの配達人がアパッチによって殺されていた。そこで、トーマス・ジェフォーズという男は、単身でコーチーズに直談判に出掛けた。彼は、武器を預けて、アパッチの言葉でコーチーズに直接に申し入れを行ない、アパッチ族から、郵便通行の安全を保証させたのである。ジェフォーズとコーチーズとは、この時以来、終生の友情を結んだと言う。このジェフォーズの人物像もホンド―の人柄に反映されていると思って差し支えないであろう。ジェフォーズはコーチーズについて言う:  「彼は生まれながらの極めて優秀な男だと思う。鷲のような目を持ち、申し分のない男らしい身体つきをしていた。私たちは互いを尊敬した。彼は嘘をつかない男だった。」(ウィキペディアより)

  このコーチーズに当たる本作の登場人物が「Vittorioヴィットリオ」である。但し、このヴィットリオは、「Victorioヴィクトリオ」の名称を変えたものであり、Victorioは、実在した人物で、コーチーズと同様に、チリカウア支族の出身のヴェテランの戦士である。彼は、元々は和平派であったが、1877年に、自分の生まれた、現ニュー・メキシコ州から西にあるアリゾナ州の保留地に移住されらたことから、1878年に抗戦派に変わり、他のアパッチの支族の戦士も加えて、約200名の軍団を組織して、山岳地帯を根城にしてゲリラ戦を展開し、ニュー・メキシコ州南部、テキサス州西部、メキシコ領も跨いで、約14ヶ月間抵抗を続けたが、1880年10月、メキシコ軍に取り囲まれて、戦死する。彼に同行していた女性と子供はメキシコに連れて行かれて、そこで奴隷として売られたと言う。このUS白人側が言う「アパッチ戦争」は、Victorioの後を継ぐ形で、同じくチリカウア支族出身の著名な戦士ジェロニモによって戦われる。この最後の抵抗者ジェロニモが1886年にUS陸軍に投降したことを以って、1851年以来の「アパッチ戦争」は、事実上、終わりを告げたのであった。

2026年9月14日月曜日

リヴェンジャー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー

 21世紀の初年に起こった9.11.(ナイン・イレヴン)は、世界を変え、今年2026年は、あれから四半世紀が経った年となる。現在のトランプ現象も、この世界の変化と関連するものと見ることも出来るが、9.11.こそは、USAが対アフガニスタン戦争を遂行することになった原因であった。そして、USAとNATO「有志国」は、結局、敗退してアフガニスタンの地を去り、2021年に、USA軍に追い出されていたタリバン政権がカプールに再復帰する。

 20世紀のアフガニスタン戦争は、1979年にアフガニスタンに侵攻したソ軍軍と、USAなどが支援した、アフガニスタンの部族社会に根差すジハード戦士ムジャヒディーンとの戦争であった。十年後の1989年、ソ連はアフガニスタンから撤退するが、その後のソ連の崩壊は、確かに、このソ連の対アフガニスタン戦争での敗退がその遠因であった。

 アフガニスタンから追い出された大国は、実は、もう一つある。19世紀の大英帝国である。それは、ロシアの南下政策を恐れて、アフガニスタンをその影響下に置こうとして、インドに駐留していたイギリス軍と東インド会社軍が、アフガニスタン国内の紛争に乗じて、1838年にアフガニスタンに侵攻したことから始まる。このアングロ・アフガン戦争は、三次に及び、1919年にイギリスが、第二次アングロ・アフガン戦争でイギリスの保護国としていたアフガニスタンに独立を認めることになるが、第一次アングロ・アフガン戦争は、1838年から1842年まで続き、イギリス軍の敗退・撤退で終わる。

 この戦いに加わっていた大英帝国陸軍軽歩兵連隊の一つが、本作の主人公Martin Feeneyマーティン・フィーニーが所属していた第88歩兵連隊Connaught Rangersコノート・レインジャーであった。この連隊は、1793年、即ち、フランス大革命中に創設されたもので、Connaughtは、アイルランドの北西部にある地域である。つまり、アイルランド人が徴用されて大英帝国のために海外遠征したことになり、アイルランド人にとっては、イギリスのために戦うことは、自分達がイングランドに支配されている存在でもあり、いくら金のためとは言え、アンビヴァレントな行為であった。1842年に命からがらアフガニスタンから撤退したMartin Feeney達は、インドに戻り、Martin Feeneyは、約五年間外地にいたのか、何れにしても、その後に連隊から脱走して、自分の故郷の地であるConnemaraコネマラに1847年に戻ってくる。しかし、自分の故郷は数年来の大飢饉で荒れ果てており、Martin Feeneyの母や弟は亡くなっていた。戻って間もなく、彼の目の前で甥っ子も銃殺され、義理の妹も姪も、住む家から追い出されて凍死する。こうして、Martin Feeneyの復讐劇が始まる。

 アイルランドの地には、既に、12世紀以来、ブリテン島からの侵攻が相次いでいたが、清教徒革命時代のクロムウェル軍が本格的に侵攻して、宗教対立をこの地に招く。クロムウェル軍の目的は清教徒革命に反抗するカトリック教勢力の掃討であった。その後はアイルランド議会もあり、一応の自治も存在してはいたが、1801年には、アイルランド議会は閉鎖されて、アイルランドは同君連合国の形態で完全に英国の支配下に置かれる。そして、イギリス議会には、アイルランドからの議員が一定枠送られることが制度化される。しかし、イギリス議会に席を持っている議員の大部分は、もはや、アイルランドの地を踏んだこともない、アイルランド系貴族であり、アイルランドには領地があっても、そこの管理は、現地にいる領地管理代理人に任せていた。その代理人の下には、小作人と直接関わり合う仲介人がおり、収穫された穀物や地代の取り立ては、この仲介人が処理していた訳である。穀物は徴収され、地代も払わされる小作人に生きるために残っている食糧はジャガイモだけしかなかった。しかし、恐らく北アメリカからもたらされた病原菌が原因でジャガイモが腐って食べられるなくなる状況が現出した。このような事態は既に何度もヨーロッパを襲っていたが、1845年からアイルランドで起こったジャガイモ飢饉は、1847年に最悪の事態に至り、アイルランドでは、この年を、原題の通り、『Black '47』と呼んでいる。本作は、この大飢饉で亡くなった、当時のアイルランドの人口の12%に当たる約百万人と言われるアイルランド人と、糧をUSAに求めて移民となってアイルランドの地を去った人々を想う作品である。故に、本作の邦題は、たとえ、主人公がランボーを思わせ、音楽の一部がウェスタン映画を連想させる味付けがされているとしても、その追悼の想いをないがしろにする下品な題名の付け方である。 

 復讐劇は、まず、アイルランドの支配のシステムの下から始まる。故に、小作仲介人Beartlaから始まり、次に領地代理管理人Croninへ、そして、Lord Kilmichaelsキルマイケル卿へとシステムの上層に上っていく。とりわけ、Beartlaへの復讐はとりわけ凄惨であるが、それは、彼が同じアイルランド人でありながら、同胞を裏切って、逆に同胞を搾取する存在であったからである。

 このアイルランド人収奪のシステムを暴力装置として支えるのが、まずは、大英帝国軍の、現地に駐屯する陸軍歩兵連隊である。本作では、それは、第68軽歩兵連隊となっている。この連隊は、1758年に創立された連隊で、本作に登場する若い将校は、恐らくは、イングランド出身の貴族の子息であろう。人を人とも思わない、とりわけ、アイルランド人は家畜同様と見做している彼の傲慢さは、観る者の神経を逆撫でする。

 暴力装置のもう一つが、Royal Irish Constabularyコンスタビュラリー(RIC:王立アイルランド警察隊)で、その黒い制服は、ナチスのSSを思わせる。この警察隊は、19世紀の初めに治安維持の目的のために創設され、1822年のアイルランド警察隊法により、各Countyカウンティ―に配置される警察組織となる。この「警察」組織の第一の役割は、英国国教会教会区に納める十分の一税の強制的取り立てである。統計によると、1841年には、約8.600名の警察官がおり、その多くは、カトリック系であったが、本作の主人公の一人Hannahハナは、Feeneyの軍隊時代の上官であり、恐らく、軍役後にイギリスに戻ってきて、Irish Constabularyに勤めていた人間であった。RICは、実は、最初は、ICのみの名称であったが、19世紀後半にアイルランド人の対イングランド抵抗運動の鎮圧に「功績」があったことから、ヴィクトリア女王から、「Royal」の名称を与えられて、RICとなった警察組織である。

 本作の監督Lance Dalyランス・デイリ―は、ダブリン生まれの映画作家で、2001年に、自らが書いた脚本をプロデュースし、その監督を務めて発表した『Last Days in Dublin』でデビューした。2008年制作の『Kisses』で、アイルランド・アカデミー賞の最優秀監督賞を受賞する。本作は、批評上も商業上も成功した作品と評価されており、本作で歌われるアイリッシュ・ゲール語の歌曲も、作詞を彼自身が共作している。2025年制作の作品『Trad』では、各地を巡業して歩き回る音楽グループを描いた音楽映画を制作しており、彼は、音楽的にも興味が高いようであり、この作品『Trad』には、本作で主人公の義理の妹役で登場し、アイリッシュ・ゲール語の歌を歌うSarah Greeneが脇役で出ている。

 アイリッシュ・ゲール語とは、印欧語族のケルト語派に属する言語である。ケルト諸語の中では、ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語がp-Celticに分類されるのに対して、スコットランド・ゲール語、アイリッシュ・ゲール語、マン語は、q-Celticに分類される。この区別は、語頭の[qu]音が、p-Celticでは、[p]音に変わったのに対して、q-Celticでは、それがそのままで残ったことによる。ゲール語は、アイルランド語では、「Gaelige」と綴られ、「ゲールグ」乃至「ゲールゲ」と発音される。ゲール語は、印欧語族の言語ではあるが、同じ印欧語族の英語を話す人間にはそのままでは通じない。その英語を話すインランド人が、ゲール語を話すアイルランド人を蔑む、文化的差別も本作にはしっかり描かれており、本作では、そのゲール語をたっぷり聞けるのも、本作の魅力であろう。ゲール語で、アイルランドは、「Éire(エーラ)」、イングランドは、「Sasana(ササナ)」と、そして、因みに、日本は、「An tSeapáin(アン・チャパーン)」と言うそうである。「アン」は、定冠詞である。

 最後に、言わば、アイルランド人の視点に立った「語り部」という存在が、これまた、イギリス人将校と「原住民」との間の通訳としての役割も演じるConneely コネ―リーである。この役を演じているのが、Stephen Reaスティーヴン・レイで、彼は、北アイルランドのベルファスト出身である。元々舞台俳優であった彼は、その後、映画界にも進出し、アイルランド人映画監督Neil Jordanニール・ジョーダンが制作した『クライング・ゲーム』(1992年作)で、IRA暫定派のメンバーを演じてUSAアカデミー賞にノミネートされて世界的に注目された俳優である。以来、ジョーダン組俳優として活躍している。Stephen Reaが本作で歌うゲール語の歌は、子供が発音される音を意味もなく並べて作ったような、大人の童謡のような趣きがあり、印象的である。本作のエンディング・ロールで、作中で歌われたゲール語の歌が繰り返されるので、ゆっくりとこれらの歌を聞きながら、本作のストーリーの余韻を味わいたいものである。

2026年9月13日日曜日

ガンヒルの決斗(USA、1959年作)監督:ジョン・スタージェス

 監督のジョン・スタージェスは、男同士の友情を描くのが好きな監督である。1957年には『OK牧場の決斗』を撮り、ワイアット・アープ(バート・ランカスター)とドク・ホリデー(カーク・ダグラス)の奇妙な関わり方を描く。この時のスタッフが、脚本家以外は殆んどそのまま本作制作には動員されている。音楽担当のディミトリ―・ティオムキンしかり、編集担当のウォーレン・ロウもしかりである。撮影監督のチャールズ・ラングは、今回も冴えた腕を示して、本作が描く19世紀末のUSA西部の世界を映像化している。アリゾナ州やカルフォルニア州の西部劇に特徴的な荒野を、人物は黒点にしながら、パノラマ的展望で見せる映像は、パラマント社が1950年代に開発したワイド・スクリーン「VistaVision」と、野外撮影では輝度の高い色彩を持つTechnicolorとが相まって、流石はウェスタン映画の映像的醍醐味を満喫させてくる。(尚、今作での室内撮影では、Technicolorでありながらも、色調が重厚になっており、興味深い。)

 ある原作を基にした本作の脚本は、残念ながら、ストーリー展開に説得性が足りないのであるが、K.ダグラス演じる主人公が北米原住民の女性と結婚しているという最初の設定が特徴的である。しかも自分の妻を殺された主人公は、Marshalであり、治安の保全者が正義の回復のために行動を起こす。しかし、世は19世紀末であり、暴力よりは法の支配が貫徹している時代である。主人公は、リンチをしたくてならないところを、それを押さえて、妻を殺した殺人犯を法の手に委ねようとするのであるが、犯人の絞首刑を望む主人公は、捕まえた犯人に向かって、裁判から判決、更に、判決執行に及んで、絞首刑の縄にぶら下がった犯人の死の孤独を、まるで、ホラー小説の残忍なクライマックスを読み上げるように、語るのである。この迫力あるシーンをK.ダグラスは好演しており、このシーンを観るだけでも本作を観た甲斐があったと言うものである。

 西部劇には紅一点とでも言えるヒロインが必要である。本作の不幸のヒロイン役を演ずるのが、Carolyn Jonesキャロリン・ジョーンズである。少々平板な丸顔で、両眼が少々離れている顔立ちでは、本作のTechnicolorの色彩なのか、少々緑色した青い目をしているように見え、極めて印象的である。どこかで見たことがある顔立ちと思いながら本作を観終わって、調べてみると、彼女は、テレビ映画シリーズ『The Addams Family』(1964 – 1966)で、一家の母親で、美しく異様に瘦せこけた魔女モーティシア役を演じていた、あの女優であった。

 1930年にテキサス州で生まれたC.ジョーンズは、15歳である劇団に入団し、スカウトされてパラマウント映画社と契約し、1952年に映画デビューを飾る。ビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』(1955年作)やA.ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』(1956年作)などに端役として登場していたが、1957年作の『The Bachelor Party(独身お別れパーティー)』で、主人公に言い寄る女性実存主義者としての演技で注目され、USアカデミー助演女優賞にノミネートされた。こうして、本作で、主演男優二人K.ダグラスとアンソニー・クインの間を揺れる元酒場の女を演じる。

2026年9月2日水曜日

ムーラン(USA、1998年作)監督:バリー・クック他

 ムーランを漢字で書くと、「木蘭」となる。これを日本語読みにすれば、「もくらん」で、何か「モクレン」と似ている。流石は、漢字文化圏にある日本語である。「モクレン」を漢字で書くと、「木蓮」となり、実は、「木蘭」は、中国語の「モクレン」で、植物学の学名で言うと、「マグノリア」である。何か華々しい花で、さて、この花は、本作のヒロインに相応しいであろうか。


 ムーランは、名前であり、その姓は、京劇などでは、「花:Huaフア」であると言い、名前の「木蘭」と上手く似合っているが、長く中国で口承で伝えられてきた、この女傑には、その姓に「朱」や「魏」などもあると言う。「魏」と言えば、中国史の三国時代の「魏」があるが、更には、「北魏」という国もあり、これが紀元後五世紀前半に華北を統一した国であった。これを以って、中国の南北朝時代が始まる訳であるが、華北の北朝の国ということで、「北魏」である。この北魏時代のものとして採録された歌謡(楽符)で、『木蘭詩』という名称のものがあり、これが、「木蘭」の口誦・伝承物語りが記述された最古のものであると言う。しかも、この北魏を建国した民族は、鮮卑族であり、紀元前三世紀以降、中国の北部・東北部に存在したこの遊牧騎馬民族においては、21世紀に入ってからの考古・民族学研究によると、鮮卑族の女性は、男性と同じく騎乗し、必要とあらば、騎兵として戦闘に参加していたのではないかと推測されている。この推測が正しければ、正に、北魏時代には、「ムーラン」は、多数存在していたことになる。

 この「木蘭」の伝承が、漢民族の王朝にも伝えられると、今度は、恐らく、儒教の教えによる家父長制的なイデオロギーが入れ込まれたのか、中国の歴史上に存在する女傑として、「忠孝節義、勇武仁愛」の精神を体現する者として、中国の歴史の中で、語り継がれていく。鮮卑と同じく遊牧民族たるモンゴル族が中国に13世紀後半に建国した元朝の時代には、以下のようなムーランについての物語りが取り上げられている:

 「将軍魏氏、本名は木蘭といい、亳州譙県の出である。世に伝えるところによれば、可汗が兵を募った際、孝烈(木蘭)は父が老いて衰弱し、弟妹も皆幼いのを哀れみ、慨然として身代わりで従軍した。甲冑を身にまとうと、弓袋を背負い矛を手に、馬を駆って神のごとく疾走し、艱苦に耐え武器を研ぎ、戦場で胆力少しも衰えず、誰も彼女が男でないと看破できなかった。十二年という歳月を経て、十八度の戦闘に交鋒し、数々の勲功を立てて朝廷に参内した。天子はその武勇と功績を喜び、尚書の官職を授けようとしたが、彼女は厚遇を辞退し、故郷へ帰省することを懇願した。兵を率いて譙に戻ると、父の家を訪れ、戎服を脱ぎ捨てて再び閨房の装いに復した。人々は皆驚き、『生まれてこの方、このようなことは未だ見たことがない』と口々に言った。魏の兵が軍を返した後、この異聞は朝廷に伝わり、再び宮中に召し出されて后妃に迎えられようとしたが、将軍は『臣たる者が君主と婚礼を結ぶ礼制はありません』と言い、死をもって誓って拒絶した。圧力が強まる中、遂に自害した。これが『孝烈』という諡号が追贈された所以である。」(ウィキペディアからの引用)

 ここでは、「木蘭」の姓は、「魏」となっており、時代も「北魏」のこととなっているようである。故に、王は、皇帝ではなく、「可汗:カン」(あのチンギス・カンの「カン」)となっている。そして、「木蘭」は、「将軍」の位階を得る程までに活躍することになるが、「木蘭」が女性であることが世間に知られることになると、自分の名誉を守って、自害するという運命を選ばざるを得なくなるという説話になっている。

 因みに、本作の時代設定は、前漢時代(紀元前206年から紀元後8年まで)のことになっているようで、それからすると、北方からの前漢皇帝にとっての脅威は、匈奴(きょうど;ピン音:ションヌゥ)であるはずであるが、それが本作ではフン族になっているのは、歴史的には正しくなく、匈奴とフン族との繋がりも歴史的には証明されていない。前漢時代に中国北方から中央アジアまで大きな版図を広げた匈奴は、紀元後一世紀に北匈奴と南匈奴に分裂して、南匈奴は後漢に取り込まれ、南匈奴に追われた北匈奴は歴史の舞台から姿を消すことになる。その後、この匈奴の版図と同じ地域に、鮮卑族が乗り出してくることになるが、一方、フン族は、現ロシア領のヴォルガ川辺りから西に移動してきた民族と言われ、バルカン半島北部やポーランドに侵攻してくる騎馬民族として、むしろヨーロッパ史に登場する存在である。

 話しが少々ずれたが、紀元後五世紀に北魏時代に採録された「木蘭」の伝承が、漢民族の王朝たる明代になって、ある雑劇短編の戯曲として翻案されると、次のようなストーリーに変わる:

 「物語は北魏の時代に起こります。黒山の賊の首領・豹子皮が徒党を組んで反乱を起こしたため、朝廷は緊急に兵士を徴集し、軍令の文書が頻繁に下され、その中に木蘭の父・花弧の名前もあった。父親が年老いて体が弱く、弟はまだ幼いことを考慮し、17歳の花木蘭は決然と、女扮男装して父に代わり従軍することを決意する。彼女は駿馬と装備を購入し、纏足による不便を克服するため、足を放ち靴に履き替え、武芸を練習した。その後、家族に別れを告げ、征途につく。戦場では、木蘭は知勇を頼りに数々の手柄を立てます。最終的に、彼女は伏兵を設け、自ら賊首の豹子皮を捕らえ、大きな戦功を立てた。凱旋後、朝廷は彼女に官位を与えて表彰しようとするが、木蘭は官職を辞退し、ただ故郷に帰って家族と再会することを願う。故郷に戻ると、彼女は女性の姿に戻り、同郷の王郎と結婚し、良縁を成就させることで、『忠孝両全』を実現した。」(ウィキペディアからの引用)

 紀元後13世紀の元朝時代のストーリーとは異なって、結婚というハッピー・エンドで終わるこの戯曲は、本作の一部脚本の原作になっているようにも思われる。話しは、北魏の時代のことではあるが、遊牧民族の女性には考えられない「纏足」のプロットが入っており、このことを以って、如何にこの話しが漢民族化されているかが象徴されているであろう。ムーランが知勇を発揮することも、本作のストーリーに酷似しており、そうであれば、彼女が結婚することになる同郷の「王郎」とは、本作における隊長リー・シャング(李翔)となる。

 このような、儒教的道徳話しや家族主義的イデオロギーを背景とした「忠孝両全」で終わるハッピー・エンドに比較すると、本稿の一番最初に言及した北魏時代に採録されたという『木蘭詩』は、むしろ、ユーモアを以ってして、ストーリーを完結する。

 この「バラード」は、木蘭が男装して出征し、戦功を立てて、兵を連れて故郷に戻るところまでは、他のストーリー展開と同じであるが、最後は、ある種のユーモアを以って、話しを終える。女装して戦友の前に立ち現れた木蘭に対して、戦友達は、「この12年間いっしょに行軍していてもお前が女であることに気が付かなった。雄兎であれば、あちこちと歩き回る。雌兎であれば、目はどんよりとしていて、ガラス玉のようである。」と言う。それに対して、木蘭は、取って返して言ってのけた。「雄兎と雌兎が並んで走っていて、貴様らは、どっちが雄で、どっちが雌か、見分けられるのか。」と。

 さて、20世紀も終わろうとする1998年に本作は公開された。時代は、USAが未だ自己の覇権にとって中国が脅威になろうとは思っても見なかった頃である。そして、性的志向の違いを尊重することを「Woke」と、未だなじらなかった頃である。トランプ政権が二期目を迎えて、USAの民主主義を破壊しようとしている2026年、果たして、ウォルト・ディズニー・カンパニーは、本作のような作品を製作したのであろうか、自問せざるを得ない。

 最後に、「木蘭」をテーマとした映画作品のフィルモグラフィーを見てみよう。これだけの民族的伝承とさえなっている「木蘭」を映画にしない手はないであろう。という訳で、1927年の中華民国で早速、『木蘭従軍』というタイトルで中国映画が撮られれている。1939年にも同名の作品が発表されている。もちろん、日中戦争が始まっており、日本軍の占領下にあった上海の映画会社が撮った作品であり、異民族と戦った木蘭の英雄的行為を、対日抗戦の文脈で捉えて制作されたことは明らかであった。

 戦後になると、1950年代に香港映画作品として二本が、中国本土製として、1960年代に一本が撮られている。こうして、世界映画史的には、約30年の空白を破って、本作がUSA製アニメーション映画として1998年に発表される。更に、『ムーラン2』が2005年に本作の続編として制作される。中国映画としては、『花木蘭』の題名で2009年に一本出されると、本作の実写版と言える作品『Mulan』が2020年にUSAで制作される。これに刺激を受けたのか、今度は中国側でも同じ年に、木蘭をテーマとした作品が四本も撮られていることが興味深い。こう考えると、木蘭を巡っては、既に2020年には、米中争奪戦が戦われていたことになる。

2026年8月31日月曜日

シンデレラ(USA、1950年作)監督:ウィルフレッド・ジャクソン他

 ディズニー・アニメーションの長編劇映画第一作目『白雪姫』は、同時に世界初の長編アニメーション映画であり、1937年に公開された。日中戦争が始まった年である。テクニカラー作品で、その鮮やかな色彩には目を見張るものがある。アニメーションに短編作品しかなかった時代に数年の月日と巨費を掛け、その作画枚数は、約25万枚に上る。スタジオの存否を賭けた大作は、幸運なことに大ヒットする。この作品を以って、ウォルト・ディズニーはUSアカデミー名誉賞を受賞する。

 1940年二月に、長編劇映画第二作目の『ピノキオ』が、同年11月には、長編劇映画第三作目の『ファンタジア』が公開される。しかし、世界情勢は、第二次世界大戦が欧州ではその前年に既に勃発しており、日米の外交関係も険悪化する中、世相は、アニメーション・ファンタジー映画どころではなかったのか、ディズニー・スタジオは、この二作で大赤字を計上せざるを得なくなる。

 とりわけ、『ファンタジア』は、高度の芸術性を持っており、ほとんど台詞のない中、バッハ、ベートーベン、ストラヴィンスキーなどのクラシック音楽を八つの物語りに分けて描こうというものであり、上映の際には、音響のステレオ効果を利用している。しかも、その音響効果は、サラウンドの原型とでも言える音響再生方式を世界で初めて導入したものであり、音響技術の発展においても、本作は、画期的で、歴史的な作品であった。制作には、11人の監督、120人以上のアニメーター、103人編成のオーケストラ(「音の魔術師」と異名を取ったイギリス人指揮者レオポルド・ストコフスキーの下、フィラデルフィア管弦楽団が演奏)など、ウィキペディアによると、投入されたスタッフは、延べ千人、作画枚数は、約百万枚になるという、前例のないスケールでの製作となっていたのである。(因みに、日米開戦により、『ピノキオ』も『ファンタジア』も、日本での公開は、戦後復興後の1955年のことになる。)

 こうした経営的な苦境を戦中、終戦直後と何とかやりくりして、『白雪姫』のヒットをもう一度呼び起こそうとしてウォルト・ディズニーが社運を賭けて製作したのが、本作『シンデレラ』である。スタッフは約750名、作画数は、150万枚となり、『白雪姫』の約二倍の製作費を掛けたもので、この賭けにW.ディズニーは勝つことになり、現在の「ディズニー王国」の基礎をこの作品からの利益を基にして築けることなる。本作も、テクニカラー作品であり、『白雪姫』に較べるとパステル調である、その色彩を楽しみたいものである。

 本作の上映は1950年のことであり、USAでの当時の批評も大体芳しいものであった。しかし、一部には次のような批評も見られた:

 「この映画は中心人物であるシンデレラよりも動物を描写することに成功している。シンデレラはチャーミング王子と同様に、無表情で人形のような顔をしている」(ウィキペディアからの引用)

 なるほど、金髪で青い目をしたシンデレラは、確かに、美形ではあるが、個性的ではない。本作の悪玉Lady Tremaineレイディー トレメーヌが飼っている、同じく性格が悪いネコ・ルーシファーと、ジャックやガスらネズミ共とのやり合いは、『トムとジェリー』を思わせて、如何にもアニメーションらしい。

 本作の日本での公開は、『ファンタジア』(1940年作)などよりも早い1952年のことで、ウィキペディアによると、漫画家の藤子不二雄Aは、同年に本作について以下のように批評している:

 「一般的でオーソドックスな童話を借りて再び『白雪姫』の世界へ帰ろうと正攻法で描いたものだけに安定感に満ちている」が、その一方では、「登場人物の正邪、美醜をはっきり割り切ったことが、内容の理解に容易さを増した反面、生き生きとした活躍を見せる小動物に比し、人間の方を様式化し平版化している...」

 筆者もこれと意見を同じくするものであるが、この「様式化し平板化している」の謗りを免れているキャラクターが本作には一人いる。Lady Tremaineレイディー・トレメーヌである。シンデレラの継母であることの体裁を一応は取りながらも、亡くなった夫の連れ子であるシンデレラを事ある毎に陰湿に虐めぬこうとしているその陰険さは、「シンデレラ物語り」のポジティブな上昇志向とは真逆の性向であろう。

 『白雪姫』の嫉妬深い「女王」、本作の「レイディー・トレメーヌ」、更には、『眠りの森の美女』(1959年作)の「マレフィセント」などには、何か「悪」の系譜とでも言えるものがあり、「ディズニー・ヴィランズ」として彼女等はその名を連ねている。ウィキペディアには、以下の引用があるのでここに挙げておく:

 「トレメイン卿が病気で亡くなった後、トレメイン夫人はシンデレラの父であるリチャード卿 [ウィキペディアの英語版では「Sir」であり、そうであれば、男爵か騎士の位階] と結婚した。彼女は、自分の娘たちを手に負えなくなってきたため、彼の助けを必要としていた。しかし、シャトーでは、トレメイン夫人とその娘たちは、リチャード卿とシンデレラのもとで奉公することを余儀なくされる。そして、リチャード卿が貧困に陥り、王室に対して借金を抱えていたことが明らかになる。トレメイン夫人と結婚することだけが、[サー・リチャードにとって] その借金を緩和する唯一の方法であり、彼女は自分の名義では一文無しの状態にされてしまった。リチャード卿が亡くなると、トレメイン夫人は家の主導権を握り、復讐としてシンデレラを召使いにし、彼の娘を下層の使用人にさせることで最後の笑いを取ることにした。

 アニメ映画の出来事から数年後、シャトーは完全に荒廃している。トレメイン夫人は今や一文無しとなり、狂気に囚われ、家事を娘たちに押し付けるだけでなく、[実の娘達] ドリゼラとアナスタシアにも虐待を始めた。そこで、フェアリー・ゴッドマザー [映画の邦訳では「妖精のおばさん」] が現れ、シンデレラの願いに応じて義理の姉妹たちに再びチャンスを与えようとする。しかし、トレメイン夫人はフェアリー・ゴッドマザーを攻撃しようとし、彼女によって石の像に変えられてしまう。」( [  ]内は、筆者の注)

 このような、恐らくは後付けで考え出された「シンデレラの継母」の後日談は、本作を改めて観る上で、この悪役の魅力を更に高めてくれることであろう。

2026年8月27日木曜日

皆殺しのシンフォニー(仏・伊合作、1963年作)監督:ジャック・ドレ―

 本作のフランス語原題を直訳すると、『ある虐殺のための交響曲』である。交響曲ということであれば、クラシック音楽が頻繁に使われてもいいのであるが、そうではないのが意外である。むしろ、気の抜けたようなポップ音楽が背景に流れて、敢えて、これは皮肉なのかと勘ぐりたくなる。

  本作の制作年は1963年ということであり、むしろ、カラー映画作品が一般的である時代に、敢えて、白黒映画で撮ってあるのは、フィルム・ノワールへのオマージュということであろう。撮影監督は、Claude Renoirクロード・ルノワールである。「ルノワール」と言えば、フランス印象派の画家Pierre-Auguste Renoirが有名であるが、実は、このClaudeは、その孫に当たる人物である。同じ名前の叔父もいて、この叔父は、プロデューサー兼映画監督として活躍しているが、別の叔父でJean Renoirは、偉大なフランス映画の監督して名を成しており、この叔父とは、甥のClaudeは、その撮影監督として、1936年に白黒作品たる『Partie de campagne;邦題:ピクニック』を撮っている。約30年後に撮られた本作においては、外光での撮影としては、私見ではそれ程印象的なものが見られないが、室内撮影では、白黒のコントラストを上手く使って良質な画面を見せてくれている。

 本作にはフランス語の原作があるそうであるが、筆者には読めないので、本作のストーリー内容とは比較できないが、脚本には、三人の名だたる名前が挙がっている。

 まず、一人目は監督自身のJacques Derayジャック・ドゥレーである。彼は、日本では、1970年作の映画『ボルサリーノ』の監督としてよく知られているであろう。この映画は、1930年代のマルセイユを舞台として、ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドゥロンのチンピラが裏社会の大物になろうとする姿を描く。J.ドゥレーは、「フランス映画界のヒッチコック」と言われ、主に犯罪映画を手掛けた監督であった。

 二人目は、Claude Sautetクロード・ソテーである。彼は、1970年代以降は、フランス社会のブルジョワ中間上層階層の姿に焦点を当てて、フランス映画らしい人間の心理の機微を繊細に描いた監督して名を成すことになる。また、1970年代には、西ドイツからフランスに移住して性格俳優となったRomy Schneiderローミー・シュナイダーと共作して、五本の作品を撮っている。『過ぎ去りし日の・・・』(1970年作)、『夕なぎ』(1972年)、『ありふれた愛のストーリー』(1978年)などである。しかし、1970年以前は、むしろ、犯罪映画ジャンルに関わって、脚本を書いたり、監督したりしていた映画人である。本作も、この関連で、監督J.ドゥレーに協力したものと思われる。

 そして、三人目が、むしろ脚本化の主役を担った人物たるJosé Giovanniジョゼ・ジョヴァンニである。彼は、基本的には小説家であり、それに、脚本家も兼ね、場合によっては、監督としても活動した人物である。2004年に享年80歳で亡くなるまで、ウィキペディアによると、小説20冊、回想録二冊、脚本33本、映画15本を発表するという多作家であった。アラン・ドゥロンとリーノ・ヴァンテュラ主演の映画『冒険者たち』(1967年作)の同名の原作を提供しているのも、このJ.ジョヴァンニである。

 1923年にパリで生まれたJ.ジョヴァンニは、ウィキペディアの記述が正しければ、実は、以下のような人生の前半を歩んだ人物である:

「戦時中から犯罪組織と関係し、かつファシスト政党フランス人民党に所属、ゲシュタポ協力者であった。誘拐や盗みなどを犯す。終戦直後、少なくとも3件の強盗殺人に関与し、死刑を宣告されるが、大統領恩赦を受けてまぬがれる。1956年に出所。」

 つまり、彼の作品には自分の犯罪者としての体験が、色濃く反映されており、そう考えると、本作における「虐殺」のストーリーにも、一人一人と仲間を冷血に殺害していく人物像に何か実感が籠ってくるであろう。尚、本作では、現金の運び役のMoreauモローとしても一役を演じている。

 フランス製の犯罪映画によくあるように、本作のFinも、因果応報的に終わるのであるが、本作の中盤から終盤に掛けては、偶然とそれぞれの人物の思い込みで、次々と殺人が行なわれていくサスペンスが秀逸である。そして、本作の初盤は、良き推理小説にように、緻密に計画が実行に移されて小気味が良い。犯行実施の段階で、パリ出発のリオン経由マルセイユ行きの夜行列車が登場する。それだけではなく、流石はヨーロッパである。パリとブリュッセル間の列車移動が主人公のアリバイ作りに使われる。そして、オールドタイマー・ファンには垂涎の的であろうJaguar XK150が本作には登場する。筆者は車には詳しくないのであるが、フラン語版のウィキペディアにこのことが出ており、ちょっと調べてみると、このイギリスの車は、1957年から61年まで生産されたスポーツ・カーで、XKとは、ジャガー社が開発したガソリン・エンジンのシリーズであるそうである。XKシリーズには、120、140、150とがあり、それぞれ、mph時速何マイルかを示すそうであり、150は、最高時速約240kmである。リオンとパリ間の走行距離が約460kmあるとすると、Jaguar XK150で走ると、約二時間が掛かる計算である。当時は、道路事情が今よりはかなり悪かったとしても、三時間もあれば、リオンからパリに着けるはずであり、成程、実行可能であろう。

 最後に、本作の俳優陣の中に、Charles Vanelシャルル・ヴァネルがいることも嬉しい点である。Jean Gabinジャン・ギャバンと共に、フランス映画界を無声映画時代から代表する一人である彼の顔は、一度見たら忘れられない特徴のある顔である。日本では、1953年作の『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルゾー監督)で、恐らく、知られており、この作品で彼はカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞している。

2026年8月26日水曜日

ロード・ハウス/孤独の街(USA、2024年作)監督:ダグ・リーマン

 「Shane!! カムバック!!」と、少年ジョーイは、馬に跨ってワイオミングの山へ去って行く早撃ちガンマンに必死に呼び掛けた。撃ち合いで脇腹を撃たれながらも最後の敵を片付けたシェーンには、「人を殺してしまえば、もう元には戻れない」と分かっていた。彼は、脇腹の傷が致命傷でなければ、自分にはさすらいの運命しかないのであると覚悟していたのである。


 ワイオミング州の、ある開拓地に流れてきたシェーンは、急ぐ旅をしている訳でもなく、偶然なことで開拓農民のStarrettスターレット家に世話を受けることになる。言わば、一宿一飯の恩義を受けたのである。スターレット家の息子ジョーイとは、シェーンはすぐに仲がよくなり、日を過ごす内に、彼は、一家の主人ジョーとも親しくなる。そして、ジョーの妻のマリアンもシェーンも、口には出さないが、お互いに淡い好意を抱くようになっていたのである。しかし、この地には大牧畜業者たるRykerライカー一家がおり、開拓民達を不法占拠者として、この地から追い出しにかかっていた。ライカー一家と、ジョーを中心とする開拓民の争いは次第に激しさを増し、遂に、ライカー一家は、殺し屋ウィルソン(ジャック・パランス)を雇って、開拓民を強引に追い出しにかかる。事情が事情でガンマンたることを隠していたシェーンは、ジョー達のために、死地に赴き、ウィルソンとライカー一家を、その早業で撃ち殺した次第であった。

 以上が、1953年制作の、「股旅もの」ウェスタンの傑作『シェーンShane』を簡単にまとめたものであるが、何故、これをここに挙げたかと言うと、このストーリーの構造は、本作のストーリーのそれと、基本的には、軌を一にするからである。

 本作でShaneに当たるのが、Mixed Martial Artsの元選手で、脛にリング状での疵がある身であることから、ストーリー上の現時点では、しがない居酒屋のドアマンをしているElwood(Jake Gyllenhaalジェイク・ジレンホール)である。彼は、雇われではあるが、流れ者として、Florida Keysフロリダ・キーズにやって来ていた。フロリダ・キーズとは、フロリダ半島南端部の沖に、北東から南西方向に約290kmの長さで延びている列島のことで、映画にも登場するようにここをハイウエーとバス路線が走っている。Elwoodは、このハイウエー沿いにあるバー「Road House」の、女性の持ち主フランキーに雇われたのであった。

 映画『シェーン』でのスターレット家は、本作では、残念ながら、はっきりとこれに該当するものが出てこないのであるが、有色人種のタフなフランキーを中心とした、バーに雇われている連中や、バーの近くにある本屋の、同じく有色人種の男性主人スティーヴンとその娘チャーリーが、流れ者Elwoodと関わる。このチャーリーがElwoodと親交を結んでおり、彼女がスターレット家のジョーイに当たり、その父親ジョーに当たるのが、チャーリーの父親のスティーヴンと言えないことはない。本作のラストシーンでは、長距離バスに乗って立ち去っていくElwoodを呼び止めようとするのが、このスティーヴンなのであり、このシーンで筆者は、「おお、これはShaneだ!」という連想を得たのである。

 とすると、スターレット家のジョーの妻マリアンは、本作では、悪徳シェリフ・ブラックの娘Ellieということに出来ないか。積極的なEllieに誘われて、控え目なElwoodもまんざらな気分ではないようではあったが、結局は、彼が去ることで、二人の関係は淡いものに終わったと言え、正に、これは、マリアンとシェーンの関係であろう。実は、本作は、1989年制作の同名作品のリメイク版であるが、元祖『ロード・ハウス』は、要するには、主人公ジェームズ・ダルトン(パトリック・スウェイジ)と女医エリザベスとの熱い恋愛をテーマとした映画である。

 そして、シェーンの敵役の大牧畜業者ライカー一家に当たるのが、本作では、ブラント一家であり、彼等は、「ロード・ハウス」のフランキーに嫌がらせを働いて、追い出しに掛かっていたのである。追い出した後には、その地に大リゾート施設を建設する予定であった。(トランプ一家が、ガザのパレスティナ人を追い出して、そのガザの地に大リゾート地を建設しようとするのと同様のやり口である。) そして、この追い出し工作を早めるために、シェーンの対抗馬たる殺し屋ウィルソンならぬ、格闘家ノックス(コナー・マクレガー;地をそのまま演じているのか、印象的な映画出演)が差し向けられたのであった。

 という訳で、本作とウェスタン『シェーン』のストーリーの構造上の類似点を述べてみたのであるが、オーソドックスな西部劇の要素は、さすらいのヒーローということであり、本作のテイストとは、その類似性が強いのである。とは言え、本作で最も特筆すべきは、主人公Elwoodの処世観であり、それを体現した俳優J.ジレンホールの演技力であろう。その過去の影を引きずって、シニカルな中に、何かメランコリー感を漂わせるElwoodの存在は、本作を単なる格闘家映画に終わらせない、人間的な魅力を醸し出していると言える。

2026年8月24日月曜日

ホラー・エクスプレス/ゾンビ特急地獄行き(スペイン、大英帝国合作、1972年作)監督:ユージニオ・マーティン

 日本の戯作の歴史において、「黄表紙」とは、18世紀後半の、政治風刺に重きを置いた知的な読みものであった。USAの1890年代からの、「イエロー・ペイパー」、即ち「黄色新聞」は、大衆の受けを狙って、煽情的な記事を掲載した低俗な新聞であった。同じ黄色でも、古今東西、随分と違うものである。この後者の「黄色の伝統」を受け継いだのが、1960年代のイタリア映画の一ジャンルである。この時期に、Gialloジャッㇽロ(「黄色」の意味で、その複数形は、Gialli)と呼ばれる一群の映画作品が製作される。Gialloの言葉自体は、文学的には、既に1930年代から存在し、USAのパルプ・フィクションを模倣した作品群がイタリアでも増産されていたのである。これらをイタリア映画界が映画化し出したのが、1960年代であった。イタリア絵画を思わせる色彩性と、イタリア・オペラを思わせる演劇性も絡み合った、スタイリッシュに映像化された、とりわけ、猟奇(連続)殺人事件がそのテーマとなる。しかも、その映像の背景には、流麗な音楽が流れるのである。あのエンニオ・モリコーネも、このジャンルの幾つもの映画作品に映画音楽を提供している。


 一方、同じ1960年代のイタリア映画界が「創造」したもう一つのジャンルは、和製英語で言うところの「マカロニ・ウェスタン」である。イタリア人男性を揶揄するために、欧米では、「スタゲッティ―喰い野郎」という言葉が使われるが、欧米では、それ故、「マカロニ・ウエスタン」のことを、「スパゲッティ・ウェスタン」と言う。であれば、USAの正統のウェスタンを、「ホットドッグ・ウェスタン」と言えるとしたら、スペイン製のウェスタンは、「パエーリア・ウェスタン」とでも言えようか。実は、「スパゲッティ・ウェスタン」のロケ地は、スペインが多く、スペイン人監督も、そのようなウェスタンを撮っていたのである。本作の監督Eugenio Martinも、このジャンルのウェスタンを60年代から撮っており、71年には、リー・ヴァン・クリーフ主演の作品を、その翌年には、本作には何故か登場するテリー・サヴァラスが主演する『Viva Sancho Villa』なる作品を撮っている。

 つまり、本作は、「パエーリア・ウェスタン」を撮っている監督が、エンニオ・モリコーネ張りのメロディアスな曲をテーマ音楽として流し、しかし、そのストーリーは、イギリス風のゴシック・ホラーとSFを混ぜ合わせたものにするという、正に、超ごった煮のシベリア横断鉄道物語りである。

 しかも、物語りは、1906年の四川省から始まり、まずは、上海を中継地点として、何やら、いかがわしい東洋人達が登場する。映画に出てくる、漢字で書かれた「上海」が、現代書道的にアレンジされていて、中々である。蒸気機関車ファンにとっても、垂涎ものの蒸気機関車が、その型式は筆者には分からないが、登場するところも見ものであろう。こうして、一行は、シベリア横断鉄道に乗り継ぎ、モスクワを目指すことになるが、その一行の前には、目から赤い光線を発するモンスターが現れる。この凍結していた、約二百万年前の猿人がモンスターとして蘇るというナンセンスに、ピーター・カッシング演ずる医者が被害者の頭蓋骨を開けてみるというグロテスクが邂逅する。であれば、日本の1930年代の「エロ・グロ・ナンセンス」ではないが、当然、「エロ」を体現する女優が出てこなければならないであろう。

 そのような女優一人が、本作でポーランドの伯爵夫人を演じるSilvia Tortosaである。バルセロナ生まれの彼女は、元々は舞台女優として出発したが、1960年代の半ば以降、映画界にも進出し、本作でも、クリストファー・リー演じる人類学者に、人妻であるにもかかわらず、「興味」を示す役を演じる。彼女は、列車の豪華コンパートメントに置かれたピアノで、映画の冒頭に流れるテーマ曲を演奏する。

 もう一人の女優は、女スパイ・ナターシャを演じるHelga Linéである。彼女の本名は、Helga Lina Sternシュテルンといい、1932年にベルリンで生まれたユダヤ系ドイツ人である。彼女が生まれた翌年にナチス政権が誕生すると、彼女は、両親と共にポルトガルに亡命する。そこで育ったHelgaは、40年代の頭から映画界にデビューにするものの、その後は、ダンサー、サーカス芸人、ファッション・モデルとして働いて生計を立てる。1961年には、本作の監督でもあるEugenio Martinの下、カリブ海を舞台とする海賊映画に登場する女海賊を演じる。こうして、イタリア映画界への道が開かれたのか、これ以降、もう一つのイタリア映画が得意とするジャンル、古代ギリシャ・ローマをテーマとした「サンダル映画」や「スパゲッティ・ウェスタン」に出るようになり、1972年に本作での役を得ることになる。後年、スペイン映画界の鬼才ペドロ・アルモドバル監督に敬意を払われる存在となり、Helga Linéは、1982年に公開された映画『セクシリア』に助演している。

 さて、この愛すべき、レトロ感があるホラー映画は、クリストファー・リーとピータ・カッシングの両イギリス俳優のゴシック・ホラーのアウラが香気高く漂って、筆者には、好みの作品である。それに、スペインの宗教性が絡み、イタリア風のGialloジャッㇽロ映画感もまた出ており、高校の文化祭にある、お化け屋敷を思い出させ、怖がらないと申し訳ない気分が満載で、実に、楽しい。しかも、本作には、正確にはSFではないのであるが、異星物体が絡むという点で更に面白くなる。

 氷結した「物体」、赤い目、そして、何らかの力によって人間に乗り移る能力、この三点の特徴を挙げてみると、SF好きの方には、ハタと思い付くSF短編作品があるであろう。そうである。『Wo Goes There?』、邦題は、『影が行く』である。1938年発表のこの作品の作者は、SF雑誌の編集長として辣腕を揮ったJohn W. Campbell Jr.ジョン W. キャンベル Jr.である。この作品は、1951年に映画化されており、『遊星よりの物体X』が撮られているが、現代では、1982年作の『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、カート・ラッセル主演)の方が有名であろう。という訳で、本作は、そのストーリーの一部は、SFホラー映画の翻案ものであるという、楽しいおまけ付きでもある訳である。

2026年8月21日金曜日

死海殺人事件(USA、1988年作)監督:マイケル・ウィナー

 まず、本作のジャンル分けが、「ミステリー映画」というのは、納得が行かない。「ミステリー」とは、何か不可解なもの、人間の理性では説明の付かないものと関係する。本作は、犯罪推理小説を原作としており、故に、「推理もの」と言うべき映画である。主人公の名探偵Hercule Poirotエルキュール・ポワロ―の口癖である、「灰色の脳細胞(gray braincells)」とは、神経線維ばかりの部位(白質)に対して、神経細胞体が存在している部位(灰白質)で、大脳皮質と呼ばれる大脳の表面に拡がる薄い層のことを言う。ここが、脳の高次機能を司るのである。つまり、知覚、記憶、思考などの機能であり、当然、これが、名探偵の活動、「推理」にも関わるものである。故に、推理によって鮮やかに謎を解くのであれば、それは、ポワローが実地で示す通り、説明不可能なものではなく、以って、それは、ミステリーではないと言うことになる。

 次に、本作の原題名は、『Appointment with Death』である。原作題名の邦訳としては、『死との約束』というのがあるようであるが、何か違うような気がしてならない。当時は、「アポイントメント」がそれ程カタカナ語化していなかったから、そうなのであろうが、2020年代の現代では、むしろ、「死とのアポイントメント」とした方がしっくりくる。それでも、何でもカタカナ語にしてしまう現代の風潮を嫌う筆者としては、「死者との待ち合わせ時間」とでも訳したいところである。

 ところで、本作の邦題が『死海殺人事件』となっているのは、殺人が起こるのが、死海の西側にあるQumranクムランという発掘場所であるからである。上手い邦題である。実は、この地Qumranは、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の写本が発掘された場所として有名になるのであるが、それは、1947年以降のことであり、本格的な発掘調査が行なわれたのは、1951年になってからである。つまり、本作の時間設定が1937年のことであり、所謂「死海文書(写本)」なるものは、未だ発見されていない時期のことである。

 何故にこのような「間違い、乃至は、思い違い」が起こったのかと言うと、Agatha Christieアガサ・クリスティーの原作では、殺人が起こる場所は、現ヨルダン領にあるPetraペトラという、赤砂岩で出来た廃墟都市である。しかし、であるからと言っても、ペトラではロケ撮影が出来なかったのである。と言うのは、本作の撮影に関わったイスラエルの撮影ティームがヨルダンに入国することは、政治・外交上、無理であったからである。本作の撮影が行なわれたのは、1987年のことで、この年の12月には、イスラエル国内にいるパレスティナ人による暴力・非暴力の抵抗運動、第一次Intifadaインティファーダ運動が始まるような状況であったからである。筆者も、この年の翌年の1988年春にイスラエルに偶然に滞在したことがあり、イェルサレムの旧市街地は、抗議のストライキのせいで、パレスティナ人が経営している店は、軒並み閉まったままであったのを今でも記憶している次第である。(因みに、筆者は、1994年にももう一度イスラエルに行っているが、その時には、ペトラにもイスラエルから行っている。但し、二重のパスポートを用意して、イスラエル入国には一つ目のパスポートを使って、これにイスラエル入管のスタンプを付けさせ、ヨルダンに入国する際には、二つ目の、イスラエル入管のスタンプが付いていないものを使って、ヨルダンに入国したという「策」を使った次第であった。)

 さて、創作者A.クリスティー自身からは内心では余り好かれてはいなかった、小説上で設定された人物H.ポワローは、ベルギー人で元警察官であった探偵である。少々気障な口髭を蓄え、自身の推理力にかなりの自身を持っている、人間としては随分癖のある、この、自他ともに名探偵と認める人物をよく体現した俳優は、劇映画、TV映画史上、蓋し、二人いる。一人は、イギリス人俳優David Suchetデイヴィット・スーシェイ(「スーシェ」の表記もあるが、アクセントは何れにしても「スー」)である。彼は、TV映画版シリーズの『名探偵ポワロ』で、本作上映の翌年の1989年から2013年まで「ポワロー」役を演じた、ポワロ―第一人者である。

 もう一人が、本作でもポワロ―役を演じている、イギリス人名優Peter Ustinovピーター・ユスティノフである。

 A.クリスティーの作品で、ポワロ―が探偵として登場する作品は、数多くあるが、その中で劇映画化されたものは、ウィキペディアのまとめが正しければ、1974年までは、1930年代に三本、戦後の1965年に一本であった。それが、1974年にシドニー・ルメット監督が豪華キャストで撮った『オリエント急行殺人事件』(ポワロ―役は、アルベート・フィニー)がヒットし、USアカデミー賞で六部門ノミネートされると、今度は、ポワロ―役をP.ユスティノフに替えて、1978年に『ナイル殺人事件』が、そして、1982年に『地中海殺人事件』が発表された。

 本作は、P.ユスティノフをまたぞろポワロ―役に据えて、三匹目の「ドジョウ」を狙って、撮られたものであるが、B級映画を製作する三流の製作会社が製作に当たり、Michael Winnerマイケル・ウィナーという、チャールズ・ブロンソンを主演とする私刑もので名前が売れた監督が担当した作品である。M.ウィナーは、本作のプロデューサーの一人でもあり、脚本作成にも参加し、更には、別名義で編集もこなすという働きぶりではあるが、やはり、本作の質の低さは、P.ユスティノフの演技力を以ってしても救いようがなかったと言える。という訳で、本作を以って、劇映画としては、ポワロ―・ブームは下火となり、再び、名探偵ポワロ―が銀幕に登場するまでには、ほぼ三十年の時が経なければならないことになる。2017年、イギリス人ケネス・ブラナーが、監督としてメガホンを握り、ポワロ―役も演じる。それが、2017年版『オリエント急行殺人事件』であるが、筆者は未見であるので、残念ながら、K.ブラナーによるポワロ―の役作りも評価できないところである。

 1974年版『オリエント急行殺人事件』では、その演技で、イングリッド・バーグマンがUSアカデミー助演女優賞を獲得しているが、本作に登場するローレン・バコールは、この作品にも、本作同様な、おしゃべり好きで騒がしいUSアメリカ人女性を演じている。恐らく、本作でのセット撮影であろうが、イェルサレムにある「嘆きの壁」で、女性立ち入り禁止なのにも関わらず、つかつか近寄って、「嘆いている」ユダヤ人男性に睨まれても、それを気にせずに、自分を記念撮影させる場面は、本作における彼女の役柄を物語って余りあるものであろう。

 とは言え、L.バコールが体現する英国下院議員たるウェストホルム卿夫人も、また、殺されるボイントン未亡人(パイパー・ローリー)も、如何にして社会的底辺から、社会的名声を得る地位にまで這い上がって来られたのかが、本作ではその説得性に欠け、ストーリーの欠陥の重要な一点ともなっている。

2026年8月8日土曜日

鬼婆(日本、1964年作)監督:新藤 兼人

 『鬼婆』という題名から、すぐに「安達ヶ原の鬼婆」がイメージされる。まずは、この伝説を知っておくことが本作の理解に役立つはずである。故に、これについて、ウィキペディアからその一部を引用する:

 「神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。そこには一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。

しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。鬼婆は祐慶のすぐ後ろまで迫り、絶体絶命の中で彼は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。」(以下、省略)

 726年ということは、奈良時代であり、奈良の都の権力は、現在の東北には余り及んでいない時期である。そして、「安達ヶ原」とは、他の説もあるのではあるが、現在の福島県二本松市にある地名で、市内東部を流れる阿武隈川が東へ屈曲する東岸に位置する台地状の地域を指すものであると言う。そして、ストーリーは、高僧によって、鬼神となった人食いの老婆が観世音菩薩のご利益により調伏されるという話しである。

 ついでなので、何故この鬼婆が人食いになったか、青森県に伝わる、ストーリーの前段があり、これもここに引用しておく:
 「白河天皇の時代。源頼義の家来の安達という武士が、頼義に敵地である陸奥への潜入を命じられ、いわという名の妻を連れ、幼い娘を乳母に預けて陸奥へ赴いたが、敵に討たれて命を落とした。いわは夫の霊を異郷に残して故郷へ戻るのはしのびなく、そのまま陸奥に留まった。数十年後、いわの住む庵に、旅の若夫婦が宿を求めた。女のほうは身重だった。故郷に帰りたくても帰れない身のいわは、仲睦まじい上にもうすぐ子宝に恵まれる幸せそうな夫婦に殺意を覚え、ついに包丁で女の命を奪った。しかしその女は、他ならぬ彼女の娘だとわかり、いわは7日7晩泣き明かした挙句に心を病み、旅人を襲う鬼婆となった。」

 武家の女が鬼婆になったというこの話しは、白河天皇の時代、つまり、11世紀後半のこととされており、それでは、元々の八世紀の話しと時間的に辻褄が合わないのではあるが、この前段の話しは、なぜそのような鬼婆が生まれたのか、その理由を知りたい人情を反映したものであると理解できる。何れにしても、鬼婆には、実は、実の娘がおり、無慈悲な運命のなせる業からか、自ら自分の娘を殺めてしまう悲劇がここで語られている。

 この鬼になった女の話しは、当然、能や歌舞伎の題材として採られ、能では、『黒塚』として、歌舞伎・浄瑠璃では、『奥州安達原』として存在する。能の「鬼女もの」の演目『黒塚』は、上に挙げたストーリーにほぼ則るものであるが、ワキが熊野・那智の山伏であり、シテが、最初は、粗末な小屋に棲む老媼で、老媼は、その正体を見破られると、後段には般若面を被った鬼女となる。最後は、山伏に調伏された鬼女は、己の姿に恥じ入って、舞台を去るところで演目は終わる。

 それでは、以上の「鬼婆」を巡る伝説を本作のストーリー展開と比較してみよう。まず、時代は、南北朝時代が始まる直前の14世紀前半、場所は、東北ではなく、現在の神戸市の中を流れる湊川の川沿いである。作中、湊川の戦いの話しが出てきて、楠木正成と足利尊氏の名前も登場する。湊川の戦いは、1336年に起こった合戦で、南朝の後醍醐天皇方の楠木正成が、北朝の天皇を擁立することになる足利尊氏軍に敗北して、戦死した戦いであった。

 この戦いのために、主人公の女二人は、男手である、中年の女の息子、つまり、若い女の夫が侍に徴発されて戦争に取られる。二人は、姑と嫁の関係であったが、畑仕事が出来ない中、それでは生きてはいけず、生きるために、葦原(すすき野ではない)に落ち延びた落人を殺しては、その武具を道具屋に売って、辛うじて生活を営んでいた、正に、戦争によって、「鬼婆」的鬼畜の生活を強いられた存在であった。姑と嫁は生き延びるためには、お互いを必要としていたが、息子乃至は夫と共に徴用された「八(はち)」が、帰郷する途中で殴り殺した坊主の衣装を纏って自分の住んでいた隣小屋に逃げ戻って来たことで、姑と嫁の関係に亀裂が入る。と言うのは、八が嫁にちょっかいを出し、それに乗った嫁は、八と自分から肉体関係を持つようになったからである。こうなると、姑は、嫁を取られるのではないかと、疑心暗鬼を起こし、何とか嫁を自分の許に置こうと、不貞を働く者は、地獄に堕ちると嫁を脅す。それでも、八の許に行こうとする嫁を止めるために、姑は、自分の小屋に偶然に立ち寄った、身分の高い落人が付けていた般若の面を付けて、嫁を脅す。元々既に「鬼婆」であった姑は、本当に、能の演目『黒塚』と同様に、般若の面を被った、本物の「鬼婆」になるが、姑、嫁、八の三人の運命は如何なる結末を辿ることになるか。

 監督は、本作の脚本も書いた、広島生まれの新藤兼人である。元々は、戦前から脚本家として映画界で活動していた彼は、吉村公三郎監督の戦後作品『安城家の舞踏会』(1947年作)の脚本を書いて、それがキネマ旬報ベストテン一位になると、早速売れっ子の脚本家となり、主に松竹作品の脚本を何本も書くようになる。1950年代は、吉村公三郎監督作品の多くの脚本を書いていたのが、新藤であった。

 監督として新藤がデビューするのは、もちろん自ら脚本も書いた作品『愛妻物語』(1951年作)で、この作品で新藤は自らの下積み時代を自伝的に描いた。妻役に、本作の中年の女役を演じる乙羽信子が、夫役に、本作で般若面を付けて登場する武将役の宇野重吉が、演じている。

 実は、この『愛妻物語』は、新藤がその前年の1950年に、松竹の会社首脳と制作上の対立が浮き上がって来たことで、新藤が松竹を辞めていたことに関わる。新藤は松竹を辞めて早速、独立のプロダクション「近代映画協会」を創立し、この製作会社が、大映からの仕事を請け負った形で製作した、近代映画協会第三回目作品がこの作品であった。近代映画協会第一、第二回目作品は、吉村公三郎監督、新藤脚本で協会設立年の1950年に撮られており、協会設立の発起人は、吉村監督、そして、本作で道具屋・牛を演じている俳優・殿山泰司(たいじ)であった。

 近代映画協会製作、新藤監督の1950年代作品としては、1952年作の、国際映画祭でも平和賞などが送られた『原爆の子』や、1959年作の『第五福竜丸』など、広島出身である新藤の個人的な思いが込められている作品が発表されている。

 1960年に同協会製作、監督・脚本が新藤である作品『裸の島』が、経済的に経営が難しくなっていた近代映画協会の最後の作品として発表されるはずであったが、その反響は大きく、この作品は、各種国際映画賞を受賞して、同協会が今日まで生き延びる切っ掛けになった作品である。モスクワ国際映画祭グランプリ、同作曲賞(林光)、メルボルン国際映画祭グランプリ、ドイツ・マンハイム映画祭グランプリ、リスボン映画祭銀賞、ベルリン国際映画祭セルズニック銀賞などなどである。

 この映画の製作は、本作同様に、少人数の俳優とスタッフが合宿して、低予算で作品を制作したもので、ある孤島で農業を営む四人家族の生活が、台詞も少なく淡々と描かれる。モノクロ、シネマスコープで撮られたこの作品は、その映像美において「傑作」と言われる作品である。この撮影を担当したのが、本作の撮影監督・黒沢清巳(きよみ)である。

 東京国立近代美術館によると、黒田清巳は、1922年7月14日に京都に生まれた。日活、大映での活動を経て、その後、フリーとなる。1960年制作の『裸の島』で、監督の新藤兼人と共作して以来、言わば、「新藤組」の撮影監督となり、1977年制作の『竹山ひとり旅』までの新藤監督作品の撮影を担当し、78年に黒田は死去していると言う。

 また、この作品で、孤島に生きる農家の妻・母を演じるのが、本作でも中年の女を演じる乙羽信子、農家の夫・父を演じるのが、殿山泰司である。また、音楽担当は、本作同様の林光である。

 本作の『鬼婆』は、戦争により鬼畜の生活を余儀なくされ、更には、人殺しまでも犯している存在を描いたという点で、反戦映画である。一方、吉村実子が演じる嫁が奔放に性を享受するメッセージは性の解放への賛歌でもある。吉村は、全裸で葦原を駆け抜ける。そして、般若の面を無理やり剝がされた乙羽の顔が、何故か焼け爛れたような顔になっていて、自分はそれでも人間であると乙羽が叫ぶ場面は、広島の原爆で焼け爛れた被曝者への連帯の表明であるように筆者には思われる。戦後の長い間、広島の被曝者達は、日本人同胞から差別を受ける存在を生きなければならなかったのである。

2026年7月31日金曜日

ユリシーズ(イタリア、1954年作)監督:マリオ・カメリーニ

 『オデュッセイア』は、古代ギリシャ神話の英雄で、知略の人オデュッセウスの冒険譚を詠った韻文の叙事詩で、24の「歌」から成っている。時系列的にはトロイア戦争が終わって、トロイアから故郷のイタケーに戻る行程が描かれるのであるが、文学的には、『オデュッセイア』では、初めの方で、オデュッセウスの息子のテーレマコス(「遠くで戦う者」の意)が父を探して父の戦友を訪ね歩く遊歴が語られたり、『オデュッセイア』の後段では、オデュッセウスがイタケーに戻って再び王位に就いてからの後日談が付け足されたり、更には、オデュッセウスの冒険譚自体が本人が回想しながら話すという具合に、文学的技巧が加えられて語られる、元々は口承・伝承されて徐々に形成された作品である。

 という訳で、『オデュッセイア』の第一歌では、オデュッセウスは既に幾多の冒険を乗り切って、海のニュンフ・カリュプソー(「覆い隠す者」の意)の島で、心地よく七年の時を過ごしている場面が描かれる。これに続くのが、テーレマコスの遊歴譚で、ようやく第六歌になって、オデュッセウスと王女ナウシカアーとの邂逅が語られる。最初12艘でトロイアを出発した自分の船団が途中で全ての船が失われ、航海を同じくする船乗り達も本人以外全員が、怪物に食べられたり、海の藻屑に消えてしまったりして、オデュッセウスは、結局、一人素っ裸のまま、ある島の浜辺に打ち上げられているところを偶然に王女ナウシカアーに見付けられて、彼女の父の王宮に連れて行かれる。因みに、宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』の主人公名は、この王女の名前から採られている。

 本映画の冒頭は、この第六歌のところから始まる。つまり、第一歌から第五歌までをカットして、その代わりに、トロイア戦争での「木馬」のプロットや、故郷イタケーに女王として一人留守を守るペーネロペーの「窮状」が描かれる。

 制作スタッフのリストには監督Mario Cameriniマリオ・カメリーニを含めた七名の名前が挙がっている脚本家グループのよい思い付きであるのであるが、映画の初盤でのオデュッセウスは、嵐で頭をどこかで打ったのか、記憶喪失になっており、最初は、自分が誰であるかが分からない中、次第に記憶を取り戻しながら、映画内での物語りを進行させていく。

 映画では幾つかの冒険は省かれるが、原作の第九歌から第十二歌は冒険譚の回想で、一つ目の巨人キュクロープス、魔女キルケ―、冥府での母やアキレスとの邂逅、セイレーネス(セイレーン達)との試練などが語られる。映画もほぼこの流れでストーリーが展開する。

 『オデュッセイア』の第十二歌の終わりに、オデュッセウスはカリュプソーが棲む島に着くことになるが、映画では、ここはカットされて、オデュッセウスは、オデュッセウスを愛する王女ナウシカアーの理解を受けて、近くの島イタケーに向かう。

 オデュッセウスがイタケーに着いてからの映画のストーリー展開は、原作とほぼ同じで、原作の第二十二歌で語られる、オデュッセウスが、ペーネロペーに対して傍若無人な「求婚者達」を殺戮して回るシーンが、映画でのクライマックスとなる。こうして、映画は、20年間貞節を守ったペーネロペーと、途中幾つもの恋愛関係を持ったオデュッセウスが、永遠の愛を誓い合う大団円で「Fine」となる。

 「Fine」で終わるということは、本作はイタリア映画作品であるということになり、原題名も、イタリア語形の「Ulyssesユリシーズ」を意味する「Ulisseウリッセ」である。という訳で、本作の製作は、イタリア人のやり手のプロデューサー二人Dino De Laurentiis ディーノ・デ・ラウレンティースとCarlo Pontiカルロ・ポンティが担当している。本作が制作された年には、二人のプロデュースで『道』(監督F.フェリーニ)も製作されており、この作品は、57年にUSアカデミー・外国映画賞を獲得することになる。

 制作国はイタリアであるが、映画内で話されている言葉は、英語である。カーク・ダグラスが主演であるから、英語が話されているのであろうが、もちろん、本作のUSAでの興行を目論んでのことであろう。監督は、ローマ人で冒険映画を主に撮ったMario Camerini マリオ・カメリーニで、スタッフの多くもイタリア人であるが、撮影監督は、ニュー・ヨーク生まれのHarold Rossonハロルド・ロッソンである。H.ロッソンは、無声映画時代からのキャメラマンで、1936年制作の『沙漠の花園』(The Garden of Allah)のカラー撮影をW.ハワード・グリーンと共同で担当し、この作品の撮影に当たっては、当時未だ珍しかった三色法によるTechnicolorを使用したことを以って、38年にUSアカデミー技術栄誉賞を授与されている。また、『オズの魔法使い』(1939年作)を始め、1940年度、44年度、50年度と、本作撮影前にUSアカデミー撮影賞にノミネートされていた撮影監督であった。本作も、Technicolorで撮影されている。

 本作での色彩としては、普通のTechnicolorの色合いよりも、イタリア絵画的な油絵の濃厚さがあり、意外であるが、イギリス人Joan Bridgeジョアン・ブリッジがカラー・コンサルタントとして助言している。とりわけ、王女ナウシカアーを装った明るい紫と黄色のコンビネーションのドレスは、Technicolorの、さすがに輝度の高い色調で、印象的である。

 この王女ナウシカアーを演じているのが、1951年にデビューしたばかりの、未だ初々しいイタリア人女優Rossana Podestàロッサナ・ポデスタである。それに対して、女王ペーネロペーを演じているのが、Silvana Manganoスィルヴァーナ・マンガーノである。彼女は、 ローマ生まれで、元々は写真モデルなどをしていたのであるが、1946年に「ミス・ローマ」となり、早速、映画界でデビューを飾ることになる。三年後には、『にがい米』(ジュゼッペ・デ・サンティス監督)で演じた助演級の、農業労働者の役で有名になり、50年代に入って、Gina Lollobrigidaジーナ・ロロブリジダなどと並ぶイタリア映画界のディーヴァとなった存在である。実は、彼女は、『にがい米』を製作したディーノ・デ・ラウレンティースと49年に結婚しており、彼の後ろ盾もあってか、本作では、キルケー役も演じており、オデュッセウスに恋する魔女として、貞節を通そうとする女王ペーネロペーとの好対照をなす、より魅力的な役を演じている。

 本作に関しては以上なのであるが、今回、『オデュッセイア』のことを調べていて、この叙事詩の後日談があることが分かったので、これもまた面白い話しでもあり、ここに記しておく。その後日談とは、『テーレゴノス(「遠くで生まれた者」の意)』という。実は、『テーレゴノス』自体は今はもう散逸してしまっているのであるが、それを言及する他の書物や作品から、『テーレゴノス』の内容は、大体、次のようであると言う。以下、ウィキペディアの該当部分を引用する:

 「テーレゴノスはオデュッセウスがアイアイエー島を去ったのち、キルケーからオデュッセウスの息子として生まれた。テーレゴノスは島でキルケーによって育てられ、ヘーパイストスが制作した毒があるアカエイの棘を穂先に付けた槍を授けられた。テーレゴノスは成長するとオデュッセウスに会いに行ったが、イタケーに漂着したテーレゴノスはそこがどこであるか分からず、空腹に耐えかねて家畜を襲い、家畜を守るために現れた老人を父オデュッセウスとは気づかずに[毒槍で]殺してしまった。殺した男が自分の父親だと知ったテーレゴノスは、オデュッセウスの遺体と、異母兄テーレマコス、その母ペーネロペーを伴ってアイアイエー島に戻った。オデュッセウスを島に埋葬すると、キルケーは3人に不死を与え、キルケーはテーレマコスと、テーレゴノスはペーネロペーと結婚した。」

 この話しを読んで、筆者がすぐに連想したのは、テーバイ伝説のラーイオスとオイディプ―スの件であり、オイディプ―スも、父とは知らずにラーイオスを殺し、母親とは知らずにラーイオスの妻と結婚するという、あの「オイディプス・コンプレックス」で有名なオイディプースの話しである。

 『テーレゴノス』では、テーレゴノスは、オデュッセウスの息子ではあるが、キルケ―が母親であり、ペーネロペーとは、世代の違いはあるとは言え、直接の血の繋がりがない訳であるから、テーレゴノスがペーネロペーと結婚したとしても、これを「オイディプス・コンプレックス」とは言えないであろう。一方、テーレマコスがキルケ―と結婚する動機が何であるかは測りがたいが、キルケ―にしてみれば、テーレマコスは自分が愛したオデュッセウスの面影を宿した存在でもあり、テーレマコスに魔法を掛けてでも、自分の傍に置きたいのは山々であったのではないか。とすると、英雄オデュッセウスの悲劇の最期を受けて、異母兄弟という間接的な血の繋がりを背景にして、しかも女性側が年上という世代が違った二組のペアの婚姻は、正に、本作と同様の大団円ではなかろうか。

 キルケーとテーレマコス(「離れて戦う者」)からは、「ラティーノス」が生まれ、ペーネロペーとテーレゴノス(「離れて生まれた者」)からは、「イタロス」が生まれた。ラティーノスは「ラテン語」に、イタロスは「イタリア半島」にその名前を残したというのも、興味深い「落とし胤」と言えようか。

2026年7月29日水曜日

グレイハウンド(スペイン、2017年作)監督:アドルフォ=マルティネス・ぺリッツ

 本作は、スペイン映画で、同名のUSA映画『グレイハウンド』(2020年作、トム・ハンクス主演)とは全く別物であるので、ご注意下さい。


 まず、本作を観て思うことは、スペインまでもが「アフガニスタン紛争」に関わっていたことの事実である。それで、もう一度、「アフガニスタン紛争」の歴史を調べてみると、この国際法違反の他国介入は、既に2001年10月上旬にUSAによって始められ、21年8月15日まで続いたということである。

 そもそもの始まりは、2001年9月11日の「同時多発テロ事件」を受けて、当時のUSA大統領ジョージ・W・ブッシュが対国際テロリズムとの戦いを「War戦争」と、解釈のマウント取りをしたことであったが、本来、「戦争」とは、国と国との闘争であり、ある国とテロリスト集団との戦いではない。故に、十分な証拠が仮にあっても、アフガニスタン国にテロリストの引き渡しを要求し、これに従わないからと言って、他国に侵攻すること自体が国際法違反なのである。しかも、テロリズムは犯罪行為なのであって、警察行為で取り締まるべき問題であることもここで言い添えておこう。

 そして、この国際法違反の行為の結果、タリバン政権が政治権力を放棄して、地下に潜り、それを、レジーム・チェンジとして、USAの庇護の下、暫定政権を擁立したこと自体もまた、国際法上、問題がある。2026年に生きている我々は、ヴェネゼイラやイランでのケースで、そのことを知っている。(ある国の内戦の勢力の一つに加担して、ある外国の軍隊がその国に侵攻することは、誰の目にも国際法違反と理解できる。)

 しかし、民主主義と人権を擁護するという、もう一つの大義名分の名の下に、既成事実としてUSA軍によって擁立された、アフガニスタンの暫定政権は、国際連合から「支援」を受けることになる。ここでも、国際政治の、国際法遵守と人権擁護のディレンマがぶつかり合うことになる。

 こうして、国連は、2001年12月20日の安保理決議1386号により、国際治安支援部隊International Security Assistance Force(略称:ISAFアイサフ)をアフガニスタンに派遣することになる。この部隊は、国連憲章第一章に基づく、国連平和維持軍(所謂、「ブルー・ヘルメット」)ではなく、国連憲章第七章の発動の下で行なわれる軍事的強制措置(憲章第43条)としての、有志国による多国籍軍であった。

 国連からの「お墨付き」を得たISAFではあるが、アフガニスタン「正統」政府が成立し、この「正統」政府が、各国との軍事技術協定を再調印したとしても、この政府と国連との協定が成立した訳でもなく、更に、ISAFの「多国籍軍」は、2003年8月以降は、事実上、「NATO」軍に置き換えられ、ISAFの統合最高司令本部もオランダに置かれる。

 遅くとも2009年までにはNATOを構成する全28ヵ国が、派遣する兵隊の数の違いはあれ、ISAFに兵員を提供しており、それだけではなく、NATOに加盟していない欧州諸国(当時のスェーデンなど)、そして、欧州以外、例えば、アジア州やオセアニア州の国々(韓国、シンガポール、オーストラリアなど)も参加して、2012年には50ヵ国、合計約13万人のISAF要員がアフガニスタンに派遣された。(アフガニスタン政府の治安維持能力が十分に養成されたということで、ISAFの任務は2014年末に終了する。)

 本作で登場するスペイン軍は、NATO軍の一部としてのものと理解されるが、スペイン軍自体は、既に2002年初頭にASPFOR (Afghanistan SPanish FORce)として約480名規模で、アフガニスタンの首都カブールに入っていた。それ以来、兵員数は、2012年段階では約1.500名(USAは、約9万名)に増えており、2005年以降は、イタリア軍の傘下に、アフガニスタン西部の、トルクメニスタンに国境を接する州Badghisバードギースの州都Qala-i-Nawカラエナウにも駐屯していた。(アフガニスタン東部は、USA軍の、アフガニスタン北部は、ドイツ軍の、そして、アフガニスタン南部は、オランダ軍の上級指揮下にあった。)

 本作は、2012年に起こった実話を基にして脚本が書かれているようであり、基本的には、上述の枠組みでISAFに参加したスペイン軍兵士、とりわけ、戦死したり、任務中事故死したりしたスペイン軍兵士へのオマージュと考えてよい作品である。故に、ストーリーを盛り上げるための事実の「改竄」は倫理上、最小限に留められていると見てよく、戦闘場面での銃の撃ち合いよりも、戦闘任務中に直面した困難を如何に乗り越えるかの、一人一人の兵士、将校の決断こそがここに描かれることが、脚本の本筋であると思っていよい。そして、女性蔑視のタリバン政権に対する、ヨーロッパの価値観を体現するためにも、このアフガニスタン西部で任務に就いたスペイン軍女性兵士・女性将校の活躍も特にプロットとして描かれることになる。

 尚、筆者はミリタリーマニアではないので、本作に登場した軍用ヘリコプターが何であるか分からなかったが、他の方のコメントを見て、それが、救護ヘリに特化されたフランス製ヘリコプター「AS 332B、通称:Super Pumaスュペール・ピュマ」、USA製タンデムローター式大型ヘリコプター「CH-47 Chinookチヌーク」、そして、仏・独・西により共同開発された攻撃型ヘリコプター「EC665、愛称:Tigre/Tiger」であることが分かり、調べてみた。「EC665、愛称:Tigre/Tiger」は、開発国はもちろん、オーストラリア軍もこの機種を導入している。

 「Tigerティーガー」と読むと、これは、ドイツ語の愛称となり、「Tigre」がフランス語とスペイン語の愛称である。フランス語読みでは「ティグル」と、スペイン語読みでは、「ティグレ」となるそうである。本作撮影で登場した本機種は、スペイン軍が保有している、数少ない同型機のもので、恐らくは、スペイン軍の特別の許可を受けて撮影したものであろう。

2026年7月20日月曜日

Casshern(日本、2004年作)監督:紀里谷 和明

 1973年のTVアニメ・シリーズでは、冒頭の、何か講談調を思わせる、納谷悟朗のナレーションを、耳障りもよく、歯切れもよくて、好んで聴いたものである:

 「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身のからだ。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる!」

 その切ない覚悟を持って、東博士の息子・鉄也は、人間の身体には戻れないことを知りながら、新造人間キャシャーンとなった。なぜなら、「鉄の悪魔」たるロボット軍団が人間を亡ぼそうとしているからで、その不死身の身体を以ってのみ、鉄也は「アンドロ軍団」に対抗できるのである。ナチス的な統制を思わせ、大量に製造される各種のロボット軍団に、「錐揉みしつつ、体当たりでロボットを破壊するフライングドリル」の技で、対峙するキャシャーンは、しかし、孤立しており、優勢な敵と孤独に戦う、その悲壮感は、火曜日晩七時からのテレビ番組枠のアニメとしては、稀有のものであった。

  しかも、「アンドロ軍団」が人間を亡ぼそうとする動機は、人間こそが環境を破壊して地球を亡ぼそうとしている存在であるから、地球を救うためには、人間を亡ぼさなければならないと、ロボット軍の総帥ブライキング・ボスが論理的に結論付けたからであった。

 1973年と言えば、石油危機の年である。それまでの高度経済成長政策により、経済成長率が10%程度を記録していた日本経済は、このエネルギー危機で、一挙にスタグフレーションの段階に入る。そして、1960年代には、公害による環境破壊が国民の意識に根付き、世界でも最も厳しいと当時言われた環境法制が整いつつあった時期である。

 この経済成長一本槍の政策を見直す雰囲気を敏感に感じ取ったストーリー内容は、単なる「子供のアニメ」で終わらすことが出来ない内容を含んでいた。キャシャーンのエネルギー供給源は、太陽光であり、キャシャーンが被るヘルメット(「ソーラーメット」)に付いた三日月形の鍬形が受光部となっているという具合である。1970年代の前半に「ソーラー発電」の考えがどれほど日本社会に浸透していたであろうか。その意味でも、このTVアニメシリーズのSF性は高かったと言える。

 さて、本作の制作年は、2004年である。原作とも言える1973年TVアニメシリーズの放映が終わったのが、1974年6月であったから、30年振りのリメイクである。さすがに30年も経っているから、今更「ソーラー・エネルギー」でもないであろう。環境破壊は、50年も続いたヨーロッパとの戦争がその理由となっており、原作での問題意識とはかけ離れているように思える。そのせいもあるのか、プロダクション・ディザインは、スティーム・パンク的な、レトロSFのルックである。SFの未来志向であるはずなのに、レトロという伝統回帰は、その矛盾性が好みである筆者ではあるが、やはり、環境問題が喫緊な課題でもあることから、この点でもっと環境破壊の問題を深掘りして欲しかったと個人的には思う。

  原作での「新造人間」という用語の使い方には、今から思うと、腑に落ちない点である。ロボットは機械であり、それがいくらアンドロイドの形態をしていようと、人間ではない。サイボーグは、あくまでも人間であり、ロボットではない、それ故、サイボーグでもないはずのキャシャーンは、新造の「人間」ではないはずである。この用語上の問題は、本作では、すっきりと解決されており、遺伝子工学の発達に関わる「新造細胞」による人間の再生はそれなりに説得力を持つが、キューブリックの『2001年』のあの黒い石板を思わせる、稲妻状の巨大な構造物は、原作との関連があるとは言え、都合がよ過ぎるプロットである。しかも、これにより、ブライキング・ボス達もまた「新造人間」になってしまい、Casshernとの対立の構図が不明確になってしまっている。そして、同じ「新造人間」同士であるからなのか、ブライキング・ボス対Casshernの対立が、極めて感情的にウェットで、パトスが強調されたドラマになっていて、141分の上映時間は、かなり冗長なものと感じられたのは、筆者のみではないであろう。残念である。

2026年7月13日月曜日

猿の惑星: 聖戦記(USA、2017年作)監督:マット・リーヴス

 前作の監督であったマット・リーヴスが、本作の監督を続投し、しかも、脚本も共同で担当しているのは、何か嫌な予感がする。元々の脚本家夫婦リック・ジャッファとアマンダ・シルヴァーは、今回は抜け、前作で共同脚本家であったマーク・ボンバックがM.リーヴスと脚本を共同執筆している。

 さて、本作の二人の共同脚本家にはかなり難しい課題が課せられていた。まずは、前作の結末が本作の始まりであり、本作の結末が、1968年の元々の第一作のストーリーにつながらなければならないからである。つまり、スタートとゴールが決まっていて、その間をどう「盛り付ける」かである。そして、本作での「盛り付け」は、余り成功していないように見える。

 本作の始まりは、サルとヒトとの闘争である。サルの武力のレベルは、騎兵と石槍のレベルである。それに対するヒトの武装は、20世紀のエリート部隊のレベルであり、火力の点では、シーザーには勝ち目はない。

 一方、本作の結末は、1968年作品のストーリーの状態につながらなければならない。即ち、サルがヒトを支配し、ヒトは言語を持たずにサルより知能が低い状態に成らなければならない。

 この二つの前提をどう「料理する」か。結末に関しては、説得ある理由が提示できており、納得できる。しかし、ラストシーンは、余りに調和主義的ではないか。或いは、白人の北米原住民の征服の端緒を模しているのであろうか。

 一方、映画の始まりから登場するエリート部隊の存在とその在り方は、映画の中盤になって、筆者にはある映画を思い出させた。『地獄の黙示録』(1979年作)である。この映画にも、マーロン・ブランドーが演じる「大佐」が登場する。USA陸軍特殊部隊に所属していた彼は、上官の許可を得ずに独自の行動を取り、カンボジア東部のジャングルの中に前哨基地を築いて、そこを独立王国として、地元民兵からは半神と崇められていた存在である。本作の、狂気を内に秘めた人物を演じさせると一品のWoody Harrelsonが演じる「大佐」も、本隊から離反して、独立の大隊を率いて拠点を構えて、軍事独裁者として振舞っている。彼は、自らに課した、信念とでも言えるある「任務」を遂行していたのであり、それ故に、彼は、本隊から離反していたのである。

 本作では、もう一人、否、もう一匹、ある映画を思い出させる存在がいる。Bad Apeである。他人の物を盗み、人間のように衣類を纏っている。何故なら、体毛が抜け落ちているからである。しかも、手話は出来ないが、動物園で育ったことから、英語は流暢に話せる存在である。ひょうきん者で、憎めないとも思えるが、こちらが油断をしたら、何をされるか分からないところもある。この性格の二重性が、筆者にはある映画に登場するキャラクターを思い出させたのである。『ロード・オブ・ザ・リング』の、とりわけ、第二作目『二つの塔』(2002年作)で重要な役を演じるGollumゴラムである。ウィキペディアの記述によると、Gollumは、「骨と皮ばかりに痩せており、目ばかりがぎょろりとした姿で頭髪・体毛はほとんど失われ」ていると言う。Bad Apeに外見が似ている。Gollumの本来の名前はSméagolスメアゴルで、元来は邪悪な存在ではなかったが、「指輪」の持つ魔力に侵されて狡猾さと残忍さを身に付けたが、「指輪」の魔力が弱くなると、スメアゴルの良心が一時的に復活するという二重人格の存在である。

 という訳で、「大佐」と「Bad Ape」という、余りオリジナリティがないキャラクターが本作の「キー・パーソン」の一部になっている点で、「盛り付け」が上手く盛り付けられていないように感じざるを得なかったのが
残念な次第であった。

地底探険(USA、1959年作)監督:ヘンリー・レヴィン

 本作の原作は、SF冒険小説の生みの親の一人であるフランス人のジュール・ヴェルヌJules Verneの小説『地底旅行』(1864年作)である。この邦訳の『地底旅行』を原題にすると、『Voyage au centre de la terre』であり、意訳すると、『テラのセンターへのヴォアヤージュ』ということになろうか。本作に合わせて言うと、つまり、「地球の中心への旅」(『Journey to the Center of the Earth』)である。とは言え、どんどん地球の核に降りていく訳ではなく、アイスランドの死火山から地球の中に入った探検隊一行は、結局最後には、シチリア島の近くにある活火山Stromboliストロンボリから噴き出されて、地表に戻ってくることになるので、つまりは、地の底を旅して地中海まで辿り着いたことになり、この意味で、邦訳の『地底旅行』は適訳と言えよう。

 原作では、主人公は、ドイツのハンブルクに住む鉱物学者・地学者である、年齢は50代後半のOtto Lidenbrockオットー・リーデンブロックである。彼が丁度手に入れたルーン文字で手書きされた古書の中に、リーデンブロック教授は、16世紀のアイスランドの錬金術師Arne Saknussemm アルネ・サクヌセムの秘密のメッセージが隠されていると確信し、それを、甥っ子でもあり、また、彼の信頼の置ける助手でもあるAlexアーレックス(19歳)と共に解読する。こうして、二人は、コペンハーゲン経由でアイスランドのレイキャビックに渡航し、そこで現地の案内人としてHansハンスを雇って、上述の地底旅行を1863年の夏から始める。原作の語りは、一人称型式で、物語りは、Alexを語り手として語られる。

 原作が、初期のSF作品と言われる所以は、様々な科学的な叙述が比較的長く作中で綴られているからであるが、これを映画化するに当たっては、男三人の地底旅行をAlexのモノローグで淡々と辿る訳には行かない。という訳で、脚本家のWalter Reisch(ヴァルター・ライシュ;オーストリア系のUSA脚本家で、兼作詞家、兼映画監督)とCharles Brackettチャールズ・ブラケットが、脚本作りの経験を生かして、脚本化に取り掛かる。とりわけ、言わば「ビリー・ワイルダー組」の脚本家と言えるニューヨーカー・Ch.ブラケットは、B.ワイルダーのために十本以上の脚本を書いており、1950年作の『サンセット大通り』では、USアカデミー賞脚本賞を受賞している存在である。しかも、彼は、製作も担当しており、映画製作のツボも押えている人物である。

 まずは、時代を1863年から1880年に移し、主人公Otto Lidenbrockは、スコットランドはエジンバラ大学の教授Oliver Lindenbrookオリヴァー・リンデンブルックとする。その甥っ子であるはずのAlexは、リンデンブルック教授の下で地学を学ぶスコットランド人学生Alecアレックとなる。錬金術師Arne Saknussemmは、同じくアイスランド人の著名な地学者とし、新たに、その子孫であるサクヌッセム伯爵が本作の悪玉として登場して、彼が、リンデンブルック探検隊の邪魔をするのである。しかも、この悪玉が、リンデンブルック教授が協力を求めたストックホルム大学のゲータボルク教授を殺すという犯罪映画の要素もストーリーに加わる。SF冒険譚に犯罪事件が加われば、もちろん、色恋沙汰が出てこなければ「嘘」になる。という訳で、リンデンブルック教授には年頃の姪っ子のジェニーがいることになり、彼女とアレックは熱々の恋仲の関係である。このアレック役を、しかもコミカルに演じるのが、USA歌手のPat Booneパット・ブーンで、彼は、ジェニーに恋の歌をピアノの弾き語りで捧げるという趣向などを含めて、劇中所々で、その喉の魅力を披露することになる。更に、男三人のむさ苦しい地底旅行には、ゲータボルク教授未亡人Carlaカルラ(赤毛のブロンド女優Arlene Dahlアーレン・ダール)が、女丈夫よろしく、同行するのであった。こうして、探検隊隊長であるリンデンブルック教授(名優ジェームズ・メイスン)と、赤毛のカルラとの絡み合いも「色」の一つを添えることになるのである。

 1960年開催のUSアカデミー賞は、『ベン・ハー』が12部門でノミネートされ、11部門で受賞した、言わば、『ベン・ハー』の年であるが、この際、本作も三部門でノミネートされた。カラー映画部門美術・セット装飾賞(五名)、音響賞(Carlton W. Faulkner;1954年にシネマスコープ技術の開発に絡んでUSアカデミー賞技術賞を共同受賞している) 、そして、特殊効果賞の三部門である。とりわけ、特殊効果賞でノミネートされたのは、二作だけであり、もう一作の『ベン・ハー』がこの賞を受賞している。本作での特殊効果の担当は、L.B. Abbott(撮影監督並びに特殊効果ディザイナーとして活動し、1968年には『ドリトル先生の不思議な旅』、1971年に『トラ、トラ、トラ!』でUSアカデミー賞視覚効果賞を受賞している)、James B. Gordon(1951年開催のUSアカデミー賞で科学・技術賞を受賞している)、そして、Emil Kosa Jr.の三名である。但し、Emil Kosa Jr.は、USアカデミー賞でのノミネートでは挙げられておらず、代わりに、特撮における音響録音に関係したと思われるCarlton W. Faulknerの名前が再度挙げられている。

 特殊効果ということであると、本作の前年に発表された冒険ファンタジー映画『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』がある。CGが導入される前の、特殊効果の王道は、特撮の名匠と言われたRay Harryhausenレイ・ハリーハウゼンが開発した特殊効果撮影システム(ダイナメ―ション方式)で、ストップモーション撮影と写真合成技術をカラー撮影用に組み合わせたものである。この「特殊撮影の神様」が、『The 7th Voyage of Sinbad シンバット七回目の航海』で、画面の中で怪物や怪獣を動かしたり、人間と骸骨とを剣を持って戦わせたりしたのである。

 本作では、ストップモーション撮影は使われていないようであるが、いわゆる「トカゲ撮影」での写真合成技術は使われた。古代巨大生物を撮影するために、本物のトカゲやワニに作り物の鰭や角を付けさせてそれらしく見せるトリック撮影である。動物愛護の観点から今では考えられないトリック撮影技法である。

 尚、言語としては、本作はUSA映画でもあり、英語がこの映画では基本であるが、アイスランドでガイド役になるハンスには、本当のアイスランド人Pétur Rögnvaldssonがなっている。熱烈な陸上競技選手で、アイスランドの陸上競技代表チームには、十種競技の選手として参加しているほどである。彼は、USAの大学から奨学金を得たことからUSAに渡って、Peter Ronsonと名乗ることになるが、渡ってまもなく、本作に、その193㎝の身長の高さを買われて、Hans役で登場する。一方、Carla役のArlene Dahlは、USA生まれの女優ではあるが、彼女の両親は、ノールウェー出身の移民であることから、恐らくは、ノールウェー語が出来たのであろう。本作中では、アイスランド語しか話さないハンスと、スコットランド人であるリンデンブルック教授との間のスェーデン人通訳として、その仲介の役割を演じる。デンマーク語も含めたスカンディナヴィア諸語がそれぞれどれだけ異なるのか、筆者には測りかねるが、ハンスとCarlaとの間のスカンディナヴィア語のやりとりは聞いていて興味深い。

 本作は、CinemaScope作品として撮られている。CinemaScopeは、二十世紀フォックス社が開発したワイドスクリーン技術で、上述のCarlton W. Faulknerなどがその開発に携わっったものである。1953年制作の聖書物語『聖衣』(ヘンリー・コスタ監督、リチャード・バートン主演)が、初のCinemaScope作品となる。

 また、未だ白黒作品が撮られていた1950年代末で、本作はカラー映画作品として映画のカラー化の方向を一歩進めた作品として、DeLuxe Colorによるカラー化が行なわれている。筆者の個人的な印象であるが、Technicolorが彩度の高い総天然色であるのに対し、Eastmancolorは、油絵のような濃度の濃い色合いを特徴としており、特に、黄色の再現力に強い。DeLuxe Colorは、このEastmancolorを基に、特に初上映向けに使われるプリントに施された現像技術であった。しかも、Technicolorでは三色撮りであるのに対して、DeLuxe Colorは、「single strip color」と言われるように、一本の撮影で済むことから、安上りでもあった訳である。

 本作の中で、色彩関連で、とりわけ印象的なシーンを幾つか挙げれば、一つ目は、映画の序盤での、アレックの恋人ジェニーが着ているドレスである。シルクの光沢が感じられる薄い桜色のドレスは、それを纏った若いジェニーによく似合っている。日本で言えば、振り袖姿の二十歳のお嬢さんという感じである。二つ目は、夫によりアイスランドのレイキャビックに呼び寄せられたゲータボルク教授夫人Carlaが着ているドレスである。赤毛の髪を見せながら、赤色の補色である緑色の帽子を被り、それにコーディネートさせた、ビロードの素材を感じさせる若干くすんだ色の緑色のドレスである。そして、ドレスと言うことであれば、映画の終盤に、エディンバラに戻ってきた探検隊一行を讃える観衆の前で演説するリンデンブルック教授の隣に立つCarlaの着ているドレスである。明るい光沢を放つ薄い紫色の、華やかなドレスで、それにコーディネートされたように同じ色の日傘を差したCarlaの姿は、本作の大団円に相応しい一幅の絵であろう。
(因みに、本作のタイトルロールでは、初期のカラー映画作品でよくあるように、「Color Consultant」の担当者の名前が挙げられており、本作では、Leonard Dossが担当している。)

 そして、本作の極めつけは、探検隊が地底に着いて、初めて狂喜する、様々な奇石に散りばめられた、地下水が流れ込む洞穴の場面である。ここでは、特殊撮影は必要がなく、ただ美術監督の裁量の下、セット装飾が存分に腕を揮ったところである。正に、カラー映画作品でなければ、楽しめない場面であり、USアカデミー賞の美術部門で本作がノミネートされたのも然りという仕事振りである。改めて、担当したJeseph KishとWalter M. Scottに敬意を表するものである。

2026年7月7日火曜日

ザ・コア(USA、2003年作)監督:ジョン・アミエル

 地球の中心へ向かう使命ということであると、SF冒険小説の生みの親の一人であるフランス人のジュール・ヴェルヌJules Verneの小説『地底旅行』(1864年作)が思い出される。『地底旅行』を原題にすると、『Voyage au centre de la terre』であり、意訳すると、『テラのセンターへのヴォアヤージュ』ということになろうか。本作に合わせて言うと、つまり、「地球の核への旅」である。

 この原作を少々ファンタジー映画的に1959年に映画化したものが、USA映画『Journey to the Center of the Earth 地底探検』(Henry Levin監督、ジェームズ・ジェイソン主演)であり、これは、SF映画と言うよりは、冒険映画と言うべきストーリー設定であった。この映画を、よりSF的に引き戻し、更に、現代風のストーリー展開にしたものが、本作であると言えようか。『The Core』とは、「地球の核」のことである。

 地球物理学の専門家から見る本作のストーリーは、「人を馬鹿だと思っているような映画物理学」を以ってするものであり、「映画史上最悪の物理学映画」の「栄誉賞」を与えられていると、ウィキペディアには書いてある。しかし、地球物理学に疎い筆者には、「なるほど、これもあり」という感じで、それ程、違和感もなく最後まで見られたのである。次から次へと「危機」が訪れるストーリー展開で、人類を救おうという意気込みの、アストロナウトならぬ、Terranaut テラナウトが一人一人と亡くなっていくのにも伴なって、本作は、展開のスピード感を以って、飽かずに最後まで観られた次第である。

 監督は、Jon Amielという、ロンドン生まれのイギリス人であり、本作を単なるアクション冒険ものに終わらせてはおらず、とりわけ、極めて「人間的、余りに人間的な」Dr.ジムスキー(Stanley Tucci スタンリー・トゥッチ)の人物像は、本作のストーリーを平板な冒険映画に終わらせていない。しかも、彼は、USA国防総省ともつながりがあり、「デスティニー計画」にも関わっている人間なのである。本作終盤のストーリー展開でこの計画は暴露されるが、それは、痛快でもあり、また、現在のトランプ政権下でのUSAの政治状況を鑑みると、必要な「市民的抵抗」であるとも思われる。

 さて、地中の奥深くから排出される「ヴァージル」艇を観ていて、1966年作のSF冒険映画『ミクロの決死圏』を思い出した方はいたであろうか。それは、地球ならぬ、人体であった。

猿の惑星:創世記(USA、2011年作)監督:ルパート・ワイアット

 本シリーズの元祖とも言える『猿の惑星』(1968年制作)の、恐らく伝説的なショックは、主人公達が不時着した惑星が実は地球であったということであろう。この作品のヒットを受けて、その二年後の1970年から73年まで、第一回目の『猿の惑星』シリーズが展開し、高度な知性を持つ類人猿に支配される、奴隷的存在としてのヒトという、倒錯した世界が描かれる。とりわけ、ヒトの生存権を守ろうとするチンパンジーの女性科学者Dr. Zira(ジーラ:キム・ハンター)の存在がこのシリーズの初期には印象的であった。73年のシリーズ四作目の作品は、駄作の批評を受けて、本シリーズは中止される。

 ほぼ30年の空白を破って、USA映画界の奇才Tim Burtonが新世紀の最初の年・2001年に発表した『猿の惑星』は、1968年作品を、自称「リ・イマジネーション」した作品であると言う。宇宙での移動に絡む「時差」を上手く使い、主人公(Mark Wahlberg)が「救世主」となるストーリーは、Burtonらしいストーリー展開である。

 この21世紀に入ってからの10年後、福島大災害が起こった年の2011年に発表されたのが、本シリーズの「リブート」とも言える第二回目シリーズの第一弾『猿の惑星:Rise』である。類人猿がどうして知能を高めることが出来たのかの部分を、現代医療の課題たるアルツハイマー病の克服を目指す製薬会社ジェネシスの思惑を絡めながら、SF科学的な説得性を以って描いている。また、知能が比較的高まった類人猿の指導者となるシーザーの生立ちを丁寧に描いている点でも本作は筆者には好感が持てる。

 そのシーザーが使用する手話は、American Sign Languageであるそうで、シーザーが、サーカスで飼われていたオラウータン・モーリスと、その手話で以って会話をするというアイディアは、中々興味深い。この点でも、脚本家アマンダ・シルヴァ―及びリック・ジャファ夫婦の本シリーズでの仕事振りを評価したい。尚、二人はシリーズ三本ともにおいてその製作を担当しており、第二作目でも脚本作成を続投している。

 本シリーズの英語の原題が、2011年の本作では「Rise」、2014年の第二作では「Dawn」、2017年の第三作では「War」となっており、邦題の方が、それぞれ、「創世記」、「新世紀」、「聖戦記」と改題されている。それなりにセンスがある邦題名の付け方と言える。

 さて、第二作目の「新世紀」につながる、人類の地球支配の崩壊を結果する「猿インフルエンザ」の世界へのパンデミック的蔓延は、本作ではエンドロールが一部始まってからもう一度場面となって提示され、USAを発現地として国際航空路線網に沿って暗示される。それは、もちろん、日本にも及ぶ。2011年時におけるこの「暗示」は、2020年のからパンデミックを知っている2020年代後半に生きている我々には、その現実味がひしひしと伝わるものである。

2026年7月1日水曜日

ある神父の希望と絶望の7日間(アイルランド/UK、2014年作)監督:ジョン=マイケル・マクドナー

 カトリック教会の聖職者による性的暴行の問題を主眼に据えながら、アイルランド島の北西、大西洋岸にある、ある村での村人の人間模様をブラック・ユーモアとシニシズムを以って悲喜劇的描く本作は、果たして、佳作であろうか。

 本作では、アイルランドはダブリン出身の人気俳優Brendan Gleesonブレンダン・グリーソンが、神父役であるところからか、髭を蓄えて登場する。その実在感と共に、彼は、村人達のその心の悩みに癒しを与えようと努力するカトリック教会聖職者を説得力を以って好演している。とは言え、村人達の悩みは、次から次へと目まぐるしく描かれ、それもステレオタイプ的な描き方であるところから、何か底の浅さを感じさせる脚本である。

 しかも、背景に映し出されるアイルランド島北西の自然風景は、確かに、印象的ではあるのではあるが、どこか、観光協会のキャンペーン映画を思わせるところもあって、どうもいただけない。海岸でのサーファーの場面、アイルランドの航空会社の航空機が止まっている地方空港の場面、民族舞踊のグループが踊っているパブの場面、主題のテーマに即してストーリーを展開をさせようとするのであれば、入れなくてもよいシーンではないか。

 撮影場所は、アイルランドの北西にあるSligoスライゴ県で、先史時代の巨石文化遺跡で有名であり、また、映画にも再三登場する、大きな台形をしたBenbulbin山は、この県をシンボライズする標識になっている名勝である。そして、日本語版ポスターの背景になっている山はKnocknareaナクナレイ山といい、これまたこの県の名所の一つとなっている山であると言う。という訳で、残念ながら、いささか「胡散臭い」のである。

 監督は、ロンドン生まれながら、アイルランド国籍を持つJohn Michael McDonagh ジョン=マイケル・マクドナーで、本作の脚本も書いている。アイルランドを舞台としたブラックユーモア的な人間劇を描いている点で、また、その名もMcDonaghといえば、どこかで聞いたことがあると思ってよく調べてみると、彼は、Martin McDonaghの兄であると言う。

 マーティン・マクドナーは著名な劇作家であり、彼には、初期の映画作品としては、『ヒットマンズ・レクイエム』(2008年作)がある。この作品では、既に自分の初期短編映画(2004年作)で起用していたB.グリーソンを使って、ある殺し屋達の悲喜劇を描いていた。この意味では、本作のストーリーが与えるタッチが何か似ている。

 更に、ジョン=マイケルの前作が、これまたアイルランドを舞台とした刑事もので、その主役を演じたのが、B.グリーソンであった。『ザ・ガード〜西部の相棒〜』という、2011年の作品である。しかも、この作品の製作総指揮の一人は、弟のマーティンという具合である。その意味でも、監督のジョン=マイケルと主役のB.グリーソンとは、よく知っている仲であると言えよう。

 邦題の『ある神父の希望と絶望の7日間』とは野暮な題名であり、そもそも、主人公の神父に希望はあったのか。絶望しかないところから這い上がったのは、彼に希望があったからであろうか。そして、彼をして「処刑」の地に足を運ばせたのは、神への信仰心ではなかったはずである。英語原題の『Calvary』とは、「髑髏の丘」、つまり、「ゴルゴタの丘」を意味する。しかも、その「処刑」が「神を祝祭する曜日」、つまり日曜日に行なわれたことも意味深と言えば、意味深であろう。

2026年6月30日火曜日

ノスタルジア(イタリア/ソ連合作、1983年作)監督:アンドレイ・タルコフスキー

 白黒写真が年月を重ねると、段々セピア色になっていくように、そのような色の映像で本作は始まる。映像の構図は、画面のこちら側は丘になっているようで、その丘から、画面の奥をゆったりと流れている川を見下ろす構図である。丘の中腹には、人や牛の姿が、17世紀の伝統的な風景画のStaffageスタファージュのように、点景として配置されている。この風景は、恐らくは、ロシア人であるアンドレイ・タルコフスキーが育ったロシアの古里とも言える原風景を映像化したものであろう。画面の奥を流れている川は、彼の生地の近くを流れていたヴォルガ川であるかもしれない。正に、題名通りのノスタルジーの映像である。

 本作の発表が、1983年で、A.タルコフスキーがソ連当局の帰国要請を無視して、西側に事実上亡命したのが1984年であったから、彼が既に望郷の念で以って本作を撮り上げた想いの強さが感じられる。それだけに、本作制作時には彼が内面的には「亡命」を、遅くとも83年段階で決意していたものと想像される。本作の製作は、一応「イタリア・ソ連合作」となってはいるものの、資本はソ連側からは出ていなかったと言われている事実からも、当時の事情の在り様(よう)が推察される。

 モチーフとしての「水」の存在にA.タルコフスキーがどのような意味の象徴性を与えていたかは筆者が詳らかに知るところではないが、水のないところに生命が存在し得ないことからも生命の源泉としての意味を、四大種(仏教用語で、「しだいしゅ」と読む。地、水、火、風の四要素を言う)の元素である「水」が持っていたのではないか。

 であれば、同じく四大種の一要素である「火」もまた「水」の対立項の意味を持つ。こうして考えれば、本作の主人公たるロシア人作家アンドレイ・ゴルチャコフの精神的ドッペルゲンガー・ドメニコが世界の救済を願って焼身自殺をした、その自殺の方法の必然性も理解できる。そして、映画の中盤で、アンドレイ(奇しくも、A.タルコフスキーと同じ名前)が水のひたたる洞穴で望郷の念に駆られて詠みあげた後、持参していたロシア語の詩集の手帳が、彼が泥酔して眠っている間に、自然に焼けたことの神秘も理解できる。尚、詠まれたロシア語の詩は、A.タルコフスキー本人と彼の母親を捨てて別の家庭を築いたウクライナ人の父親Arseni Tarkowskiの作品であることも、これまた、象徴的であろう。

 さて、映画の前半では、イタリア人の女性通訳Eugeniaに連れられてアンドレイは、イタリア・トスカーナ地方で、18世紀にこの地にやって来たロシア人作曲家Pawel Sosnowski の足跡を辿っていた。彼は、イタリアで成功を収めていたのにも関わらず、この作曲家は、望郷の念に駆られて不自由な帝政ロシアに戻り、そこで不幸な恋愛をすることになって自殺を遂げた人物である。アンドレイは、無神論のソ連社会から来ている人物である。その彼が、カトリック教国のイタリアにやってきて、嘗ての同胞の足跡を辿ることの政治・宗教的意味は大きい。同時に、Eugenia(字義的には「優生」の意)の自分への愛を拒むアンドレイの心理の複雑さも深い。この点、Eugeniaのみが、ある教会の地下納骨堂で、イタリア・ルネサンスの代表的な画家の一人ピエトロ・デラ・フランチェスカのMadonna del Parto(「妊婦のマドンナ」)を祀る、無数の蝋燭(元素・火!)に点された祝祭に立ち会う点も、象徴的な意味を持つ。因みに、アンドレイがEugeniaと泊まるホテルで時々、子犬を連れた婦人が登場するが、果たして、これは、A.タルコフスキーがロシアの文豪チェホフに捧げたオマージュであろうか。

 A.タルコフスキーは、「映画作家」ではなくて、「映像作家」である。何故に筆者がそう規定するかと言うと、それは、本作の終盤での映像の構成の仕方から言えるのである。主人公のアンドレイは、恐らく死者として、ある修道院教会の廃墟を訪れているのであろう。廃墟は、何かシトー派修道院の禁欲的な建築構想を思わせる、壁は高いが、装飾は少ない清楚な建築である。(撮影場所は、トスカーナ地方のシエナから南西に35km程行った所にあるSan Galgano修道院教会である。)ゆっくりと動くカメラは、廃墟の建物を舐めるようにして写す。その、静かではあるが、何かの激情を内に秘めた映像は、次第に建物の全体を写すように廃墟からの距離を取っていく。すると、教会堂の回廊の中にあるはずの、今は屋根がないためにただの地面となっている場所に水溜まり(元素・水!)がある。その左脇にはアンドレイが寝そべり、水溜まりの右脇には、ドメニコが飼っていたシェパード犬が腹這いに座っている。そこに何と、小雪が静かに降りそそぐのである。この静謐な映像構成は、正に、冒頭の望郷の念を搔き立てる映像に対応するものであろう。ソ連が生んだ世界的映像作家が初めてソ連以外の地で撮った初めての作品には、誠に相応しいラストシーンである。

 脚本には、A.タルコフスキーの名前に連ねて、イタリアを代表する脚本家Tonino Guerraトニーノ・グェッラの名前が出ている。ミケランジェロ・アントニオーニ、フランチェスコ・ロージー、フェデリコ・フェリーニなど、イタリア映画の代表格的監督の作品を手掛けている彼が、A.タルコフスキーの描いた大筋に沿って、それにイタリアのロケーションで肉付けした脚本と想像される。

 撮影監督は、ローマ人のGuiseppe Lanciジュゼッペ・ランキである。彼は1970年後半以降チーフ・キャメラマンとして活動をし始め、抒情的な場面や詩的で幻想的な場面の撮影において冴えた腕を見せると評価されている撮影監督である。本作は、その評価を裏付ける彼の仕事振りを見事に示している作品であると言える。

2026年6月28日日曜日

グラディエーター(USA、2000年作)監督:リドリー・スコット

 古代ローマの陸軍の軍隊編成の最小単位は、decurioデクリオ(「十人隊長」)に率いられた軍団歩兵八人で構成される分隊である。この分隊が十個集まって、centuriaケントゥリア(「百人隊」)が編成される。この百人隊を統率するのが、centurioケントゥリオ(「百人隊長」)であり、彼等が、言わば、「陸軍小隊長」の役割を担っていたのである。但し、現代では、「小隊」は、50名程度の要員で構成されるので、現代の軍人階級としては、ケントゥリオは、少なくとも中尉級ということになる。

  このケントゥリア二個が合わせられると、manipulusマニプルス(「中隊」、現代の「中隊」も200名程度)と呼ばれた。古代ローマ王政から共和政までは、兵役義務を負う市民が自己負担で重装武装し、自前で対外戦争に従軍したのであり、この時期には、マニプルスが軍事作戦で重要な役割を演じた軍隊編成単位であった。

  しかし、対外戦争の負担が大きくなると、当然に土地所有者兼自営農民でもある中間層市民は、次第に経済的に疲弊することなる。こうした状況に対応して、古代ローマでは、軍制改革が行なわれて、市民兵は次第に傭兵となり、兵役に必要なものは兵隊に支給され、兵役に対価となる給与が彼等に支払われることになる。こうして、軍隊は、支払う金のある富裕層の「私兵」の様相を帯びることになり、この軍団歩兵の在り方の変化が古代ローマ共和政を帝政に移行させる軍事的・社会的背景となった。

  軍事組織的にも、マニプルスを三個合わせたkohorsコホルス(「大隊」)が編成単位としてはより重要になり、一個コホルスには、少なくとも六個ケントゥリアが存在することになる。但し、計算上は一個コホルス600名の計算となるが、帝政初期のアウグストゥスの時代には一個コホルス450名程度が実際であったと言う。

  このコホルスを十個集めると、legioレギオー(軍団)と呼ばれる軍事編成単位となる。つまり、一個コホルスには、三個マニプルスがあり、六個ケントゥリアがあるから、一個レギオーは、十個コルホス、三十個マニプルス、六十個ケントゥリアがあることになる。つまり、軍団兵員は、編成上、六千名いることになる。この数字を現代の陸軍の部隊編成に当てはめると、大体、一旅団規模ということになり、准将ないしは大佐の階級の将校がこれを指揮する関係になる。

  六十個ケントゥリアがあると言うことは、六十人のケントゥリオがいることになり、この六十人の内、精鋭部隊である第一コホルスの最先任ケントゥリオが、primus pilusプリムス・ピルス(一番槍百人隊長)という名称を得て、第一コホルスを統率し、また、軍団長の参謀ともなったのである。また、一個レギオーには、軍団歩兵のみではなく、約200から300騎のequitesエクィテス(「騎兵」、equesが単数形)と呼ばれる騎兵が配備された。騎兵は装備に金が掛かるので、この部署には富裕層が就くことになる。

  古代ローマの「将校」は、共和政期では、元老院議員の中から民会の選挙によって選ばれて、公職を務める者であったが、下級将校であるケントゥリオ(百人隊長)は、部隊内の選挙によって選ばれた。ローマ軍の最高指揮官は、王政であれば、王であったが、共和政であれば、元老院によって選出されるconsulコンスル(「執政官」)であった。しかし、コンスルは、任期が一年でもあり、軍事面での連続性を考慮して、このコンスルを補佐する「参謀職」が設置される。それが、trinubus militumトリヌーブス・ミリートゥム(「軍事上の部族長」)であった。彼等は、実際には、戦闘には参加しなかったようであるが、元老院議員クラスから一レギオー当たり六名が選出された。尚、trinubus plebisという官職もあり、こちらは、平民会から選出されて、平民の利益代表者として、平民の立場を守ったことから、「護民官」という日本語訳が付いている。 

 更に時代が下がると、このtrinubus militumの上位に、legatus legionisレーガートゥス・レギオーニス(「Legio軍団の委任者」)が置かれる。古代ローマが共和政末期になると、レギオー軍団が属州に置かれるようになり、属州で行政を取り仕切るのがproconsulプロコンスル(「属州総督」)であったのに対して、軍事面では、総督から「委任」されたレーガートゥスが軍団を統率したことから、そのように呼ばれるようになった訳である。本作の主人公が、奴隷の身分に落とされる前に保持していた肩書は、本作の英語版では、「general」とされているが、歴史考証から言って、この「総督代理」、「最高軍司令官代理」、「軍団長」とも訳せるレーガートゥスが、古代ローマ時代では正しい呼称ではなかったかと思われる。 

 尚、レギオー軍団が属州配置となる措置を施したのは、帝政初期のアウグストゥスであり、これに伴なって、ローマ皇帝近衛隊のような、皇帝直属の、イタリア本土を管轄する唯一の軍組織が創設される。それが、praetorianiプラエトーリアーニーで、本作では、主人公の僚友として従軍中、新帝Commodusコモドゥスに従って主人公Maximusマクシムスを捕らえたことから、その功績の報償として、近衛隊長となるQuintusクィントゥスに率いられる部隊として登場する。praetorianiプラエトーリアーニーは、「親衛隊」とも訳され、元々は、戦地で軍司令官を護衛するために軍団の中から臨時で選ばれた職務であった。その後、帝政の成立に伴ない、皇帝直属の常設の近衛部隊にこれが成長し、帝政期が進むと、逆に、近衛部隊長が次期の皇帝擁立の鍵を握る存在となっていった。「親衛隊」と言えば、ナチス政権を思い出させ、SSの制服が黒色であったことから、本作に登場するpraetorianiプラエトーリアーニーも黒づくめの出で立ちである。 

 さて、主人公Maximusマクシムスには、そのモデルとなった古代ローマ史からの人物が何人かいると言われている。「剣闘士」ということであれば、当然誰にでも「Spartacusスパルタクス」の人物像が思い浮かべられようが、同じく「格闘家」として皇帝コモドゥスに仕えていたNarcissusナルキッススという人物が史実では重要な役割を演じる。

  皇帝コモドゥスは、父帝でもあり、また、ストア派哲人君主とも言われたMarcus Aureliusマルクス・アウレリウス帝とは異なり、どういう訳か、剣闘士としてコロッセウムの舞台に上がりたがった奇行があったと言う。ナルキッススは、このコモドゥス帝の個人トレーナーとして仕えていたのである。 

 父帝マルクス・アウレリウスが紀元後180年に陣中で、本作のストーリーとは異なり、病死すると、その実子のコモドゥスが即同年に単独の帝位に就く。と言うのは、五賢帝時代の、血縁関係にある養子による帝位継承の慣習とは異なり、実子のコモドゥスが帝位を継ぐのは数年前から明らかになっており、彼は、父帝と共に、177年からローマ帝国を共同統治していたのである。彼の統治の下、ローマ帝国はその黄金期の最後の時期を迎える。実際、コモドゥス帝は、180年代には、ドーナウ川沿いでのゲルマン諸民族との闘争やブリタニアでの軍事的混乱を外交手腕で押え、元老院からは、「Germanicus Maximus」や「Britannicus」の称号を得ているのである。 

 しかし、内政面では、既に182年に姉の一人であるLucillaルキッラが絡む暗殺未遂事件がコモドゥスを疑心暗鬼とし、父帝時代からの賢臣を疎んじ、奸臣を重用したりして、元老院との対立を深め、また、190年のローマでの穀物危機に対する皇帝の対応がまずかったりしてして、次第に専制化が進むことになって、コモドゥス帝は192年にローマで暗殺される。

  それは、192年の大晦日であった。疑心暗鬼からコモドゥス帝は、危険人物の抹殺を計画するリストを作成させていたが、そのリストには、愛妾のMarciaマルキアの名も挙がっており、偶然にそれを見た彼女が、リストに載っている元老議員達や近衛隊長のQuintusなどを集めて、コモドゥス帝の暗殺、廃位を策謀する。 

 マルキアは、この日、コモドゥス帝のワインの杯に毒を盛るのであるが、日頃から「ヘラクレスの化身」として鍛えているコモドゥスには盛られた毒が中々効かない。そこで、陰謀者達は、格闘家ナルキッススを抱き込み、彼に、コモドゥス帝を浴室乃至は寝室で絞殺させたのであった。それは、コモドゥス帝、享年31歳のことであった。こうして、ローマ帝国は、国内政争の激化と帝国分裂への危機の段階に入り込むことになるのである。

  実は、本作は、アンソニー・マン監督の『ローマ帝国の滅亡』(1964年作)を翻案し直した作品とも見られる。この作品でも、マルクス・アウレリウス帝(アレック・ギネス)は暗殺され、暗愚なコモドゥス(クリストファー・プラマー)が、父帝の遺志に反して、帝位に就く。実は、ガイウス・リヴィウス(スティーヴン・ボイド)という、コモドゥスとも親友関係にもある有能な軍団指揮官を先帝が帝位後継者と望んでいたのであった。一方、先帝の娘ルキッラ(ソフィア・ロレーン)は、リヴィウスを愛しているのにも関わらず、政略結婚で、アルメニア王(オマル・シャリーフ)と結婚させられていた。ある時、ローマ帝国軍が東方属領の叛乱を受けてペルシア軍と戦うこととなり、アルメニア王は、結局ペルシア側に付く。これに対して、コモドゥス帝は、今や軍最高指揮官となっていたリヴィウスを鎮圧に派遣し、リヴィウスは見事に戦勝する。実は、ローマ本国からの重税に喘ぐ東方属領の叛乱の背後にはルキッラがおり、愛するリヴィウスに叛乱者側に立つことを願っていたのであった。そのこともあったのか、戦勝したリヴィウスは、コモドゥス帝によりローマ帝国を共同統治してくれるように頼まれるのであるが、彼はこれを拒んで、軍から離れて単身でローマに帰還する。ゲルマン人に対する残虐な仕打ちと、その際に先帝の側近であった哲人ティモニデス(ジェームズ・メイソン)が惨殺されたことに対する怒りから、ルキッラは、暴君たる弟を暗殺しようとする。しかし、ルキッラもリヴィウスも捕らえられて、ゲルマン人と共に焚刑に処せられようとしていたところを、コモドゥス帝はリヴィウスに一騎打ちを望み、結局は、彼はリヴィウスに斃される。ストーリーは、愛し合うリヴィウスとルキッラが、政治的腐敗に汚れたローマを去る場面で終わる。 

 こうして、この前作を本作と比較すると、本作におけるストーリーの重点の置き方の違いがよく分かり、興味深い。前作の恋愛映画的展開は、本作においては後退し、本作では、マクシムスの人間的高潔さが前面に押し出されている。また、前作では単なる悪玉としてコモドゥス帝が描かれていたのに対して、本作では、コモドゥス帝の内面性をよく深く掘り下げており、人間劇として、本作を見応えのあるものとしている。その意味で、そのようなコモドゥス帝を体現したJoaquin Phoenixホアキン・フェニックスの、役者としての力量を筆者は高く評価したい。

2026年6月4日木曜日

他人の顔(日本、1966年作)監督:勅使河原 宏

 本作と同名の原作の作者は、安部公房であり、本作の脚本を担当しているのも原作者本人自身である。と言うことは、脚本の内容に原作者も同意しているということであり、本作が発するメッセージに原作者も異論がないという理解でOKであるということになる。

 筆者は、原作を読んでいないので、断定的なことはここでは言えないが、他の批評を読んだ限り、次のことが言える。まず第一点は、原作においては、仮面を製作するのは本人自身であることである。第二点は、サイドストーリーと言える「ケロイドの女」は、原作にも登場する人物であるという点である。

 「ケロイドの女」については、原作を知らない筆者は、特別に映画用に創意された人物と想像していたのであるが、映画内の彼女は長崎に住んでいたようでもあり、これをケロイドと結び付ければ、女は幼少の時に長崎で核爆弾に被曝して、右顔の半面にケロイドを持つようになったと言えるであろう。つまり、『他人の顔』は、単に、自己同一性という、個人レベルの問題を扱っているのではなく、ケロイドを顔に持つことの歴史性、つまり、戦争との関わりをも問題にしている点で、つまり、テーマを、単なる個人の問題から社会の問題へと地平を広げている点で、本作を筆者は評価したい。

 ケロイド、核爆弾、戦争とつなげてみると、映画内で語られる「ケロイドの女」の戦争への恐怖もまたよく理解でき、ケロイドのせいで、戦後約20年が経った日本で未だに肩身の狭い思いをしなければならない彼女の苦悩もまた想像できるのである。顔の左側だけを見れば「綺麗すぎる」ほどの「美女」であり、顔の右側を見ると、「化け物」になるという彼女には、「非健常者」に対する差別が強い日本社会では、余計に風当りが強かったのではないか。

 しかも、彼女の父親か親戚は、戦闘中の後遺症で精神病を病むようになった元日本兵の一人であるようであり、故に、彼女はある精神病棟に赴く。そこでは、戦時中の心の傷を背負っている「傷痍軍人」が、戦後になっても未だに戦闘を闘っているのであった。このシークエンスの背景音では、二度、ヒトラーと思しき男がドイツ語で激しく演説している声が聞こえる。ナチス・ドイツ、日独伊三国同盟、第二次世界大戦とイメージがつながる。実際、戦闘帽を被り、白い衣服を着て、松葉杖を手にしてひっそりと立っている傷痍軍人が、1960年代の半ばまでは日本の街中でも見受けられたものである。

 本作が発表された1966年という年は、60年安保の政治闘争が終わって六年が経ち、沖縄の日本への返還が未だなされない中、沖縄に基地を持つUSAが次第にヴェトナム戦争の泥沼にのめり込んでいく時期に当たる。日本が高度経済成長に酔い痴れている中、アジアの一角では同じアジア人が戦争で血を流していた。この意味で、「ケロイドの女」の、一見、理由なき戦争への不安は、それなりの根拠があったと言えるのではないか。

 それでは、原作との関わりで気になるもう一点である。原作では仮面作りの製作者が本人自身である。と言うことは、映画での、仮面を巡る、主人公と精神科医との間の対話は、原作では、実は、自己との饒舌なモノローグということになる。映画化において、主人公の中にある「もう一人」を外在化させたことは、映像化という点で、それを可視化させた訳であり、確かにその点で、この「策」は当たっているのではあるが、その分、モノローグの内省性・内密性が減り、ストーリーの緊張度が低くなったのはマイナス点であろう。これは、小説と映画という媒体の違いが生み出した長所・短所の出方の違いと言うべきであろうか。

 ただ、「顔」というものにこれだけ重きを置くことの問題の浅薄さは拭えない。映画の冒頭の方でも言われる点でもあるが、「顔」は、たかだか200㎠の表面に張った「饅頭の皮」である。映画の冒頭でも見せられるように、顔をX線撮影にしてしまえば、そこにはただ骨格だけしか見えない。「饅頭の皮」という皮膚を張った顔は、確かに、ヒトの個体差を見分ける最も有効な標識ではあるが、しかし、であるからと言って、それが、その個体の自己同一性に決定的な要因として働くかと言えば、そうではないであろう。(とは言え、映画の終盤で、駅から溢れ出る通行人が全員、同じようなのっぺらぼうの顔をしていることの「恐怖」もまた否定できないのではあるが...)

 顔がヒトに与えられた生得の「装い」であるとすれば、それは、機能としては「服」と同じなのであり、「服」であれば、それにファッション性を求めてもよい。つまり、「顔」におけるファッション性とは、「化粧」なのであり、そうであれば、それは、本質的には「仮面」と同じ性質のものである。生得の「顔」に仮面を被せることで、自分の「顔」を異なるものとして他者に見せる。しかし、服や化粧に個性を与えるのは、それを着る個人、化粧をする個人が内面に持っている個性なのではないか。個性が先にあって、その後に、「服」や「化粧」があるはずである。故に、新しい仮面を被るようになったことでその人物に変化が起こったのは、その人物に何も新しい個性ができた訳ではなく、本来の「顔」の下で固定化されていた社会的行動様式が、新しい仮面を身に付けたことで、解放されたと見るべきである。つまり、本作の最終場面での主人公の殺傷行為は、自身の解放のための、自由への「暴挙」であったと言うべきであろう。

2026年5月2日土曜日

リバティ・バランスを射った男(USA、1962年作)監督:ジョン・フォード

 西部劇の「古典」をストーリー的に捉えると、北アメリカ大陸の西部を舞台として、ピストルの威力にものを言わせて、無法者や北米「インディアン」と闘って、正義と秩序を維持する構図と言えるであろうか。これを古典的西部劇と名付けるとすると、北米先住民の観点に立って、ストーリーを語ろうとした場合、それは、非古典的西部劇、更に言えば、「アンチ・ウェスタン」とまで言えるであろうか。この「アンチ・ウェスタン」の最も古い例は、ウィキペディアによると、1950年制作の『折れた矢』(デルマー・デイヴィス監督)であると言う。あるアパッチ族の子供を助けたことにより、アパッチ族と親交を結ぶようになり、その中で、アパッチ族の娘と恋仲になった白人が、白人と先住民との架け橋になろうと決心する。この白人の名をTomといい、これを演じたのが、ジェームズ・ステュアートであった。

 この『折れた矢』から二年後に上映された『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、ゲーリー・クーパー主演)について、この映画を、ジョン・ウェインは、「俺の人生のうちで、最も非アメリカ的なやつ」であると評価している。強いはずの保安官が手助けを頼んで町中を歩き回り、結局、最後は、自分の妻に助けてもらって、命拾いする「英雄」はあり得ないということであろうか。

 そのジョン・ウェインが本作で演じるTomは、小牧場主で、拳銃の腕は立ち、男気のある、典型的な西部劇ヒーローである。恋路に晩熟(おくて)で、意中の人Hallieハリー(ヴェラ・マイルズ)には、好きのすの字も言えない。それでも、スィート・ホーム・スィートで、勝手に思い込んで、自分の家の間取りを結婚後のために広めているという、そんな男である。その男が、西部のガンマン同士の慣習的掟を破る。ここに、ジャンル「西部劇」の父たるジョン・フォード監督が、1960年代前半に本作を撮ることにした「ひねり」があるのであろう。

 これに対するジェームズ・ステュアートは、東部出身の弁護士で、無法の西部に法の支配を及ぼそうと考えている理想主義の、場合によっては傲慢な熱血漢である。つまり、時代は、フロンティア時代後期であり、無法状態から法律による治安状態へと移行する、ガンファイターの挽歌の時期である。この点でも、本作は、明らかに古典的西部劇の範疇から外れることになり、同時に、本作は、準州が州として成立し、その州の上院議員Senatorをワシントン市に送るという時期を描く。この初代の上院議員が、J.ステュアート演じるRansom Stoddardである。

 それでは、本作はその時代の法治主義への転換がストーリーの要目であるかと言うと、そうではなく、西部には、伝説が必要なのであるという、映画終盤の言説であると筆者は言いたい。USA映画史の歴史的名台詞となった、作中のあるジャーナリストの次のような物言いが本作の核心的部分ではないか?:

“When the legend becomes fact, print the legend!” 
(「伝説が事実となる時、(それでも)伝説(の方)を活字とせよ!」)

 この台詞は、アメリカの商業主義的なジャーナリズムの一面を突いている名言であろう。これとの対照として、本作に登場する町の新聞屋Peabodyピーボディー(性格俳優Edmond O'Brienが好演)の存在も大きいと言える。悪漢リバティ・ヴァランス(リー・マーヴィン)に対抗する弁護士とジャーナリストの構図である。

 そして、この二人が町民選挙で、大牧場主達の思惑に反して、選ばれ、これが、J.ステュアート演じるStoddardの政治生命の始まりとなる。しかも、町民代表から、州知事、上院議員、更には、その気があれば、副大統領にでもなれるという、彼が政治生命の階梯を上がれたのも、彼が、悪玉リバティ・ヴァランスを撃ち殺したという「伝説」が大いに作用したからであった。上述の名言を吐いたジャーナリストも、このよい「伝説」を壊したくないために言った訳である。

 この名台詞を言い換えれば、しかし、「伝説は事実に勝る」ということにもなり、21世紀を生きる我々には、この言説が、USA政治のみならず、世界政治において如何に大手を振って歩いているか、痛いほど身に染みる言葉もないであろう。事実や真実を無視して、言い放った者がマウントを取って勝ちということであれば、現代は、ピストルを言葉に使い直した、無法者のフロンティア時代になっているとも言えなくはないのである。この意味で、この約六十年前の本白黒作品を、現代的視点で再鑑賞したいものである。

2026年5月1日金曜日

グッドライアー 偽りのゲーム(USA、2019年作)監督:ビル・コンドン

 かなり凶暴な古狸が資産家の未亡人の弱みにつけ込んで、その資産を根こそぎ、投資詐欺で奪い取る。よくある犯罪ケースである。故に、この古狸役にサー・イアン・マッケランを持ってきたことには異存がない。しかし、その相手役に、ヘレン・ミレンを持ってきたことは、両名優の「対決」という点では、それは確かに正解ではあろうが、純真無垢のおばあちゃんが騙されるプロセスで、その罠に嵌まっていく様子を見せるという点では、映画の始めからどんでん返しが予想できることから、その怖いもの見たさのスリル感が半減している。古狸対古女狐ということで、コメディー・タッチで、丁々発止の、どんでん返しに次ぐどんでん返しと言うのであれば、この顔合わせも分かるのであるが、古女狐がどうな罠を張って古狸を陥れようとしているのかが初めから予想される状況からは、本作の前半の展開が冗長過ぎる感じが否めなかったと思うのは、筆者のみではないであろう。

 映画後半の、二人がベルリンに行くという段階になると、ストーリーは、かなり陰惨となり、本作は、実は、復讐劇であったことが分かる次第である。時間軸は、2009年のロンドンから、1948年と1943年のベルリンとなり、再び、2009年に戻る展開となる。主役の二人が、実は、ドイツ人であったという展開であれば、もう少し、ドイツ人らいし俳優を持ってきてもよかったのではないかとも思われる。

 原作は、Nicholas Searleニコラス・サールが2015年に発表した同名の小説『The Good Liar』である。この小説の邦題が『老いたる詐欺師』で、かなり的を外した題名になっている分、映画の題名を「グッドライアー」としたことは、「グッド」を如何に訳すべきかで、邦題に違いが出てくるはずなので、そこを回避した、賢いと言えば賢いやり方であろうか。ただ、英語題名のカタカナ化ということであれば、やはり、定冠詞を付けて、『ザ・グッド・ライアー』としてもらいたいところで
はある。

2026年4月27日月曜日

西部戦線異状なし(USA、1930年作)監督:ルイス・マイルストーン


映画の最も頭に次のような英文が出てくる:

This story is neither an accusation nor a confession, and least of all an adventure, for death is not an adventure to those who stand face to face with it. It will try simply to tell of a generation of men who, even though they may have escaped its shells, were destroyed by the war...

原作の冒頭にはドイツ語で以下のように書かれてある:

„Dieses Buch soll weder eine Anklage noch ein Bekenntnis sein. Es soll nur den Versuch machen, über eine Generation zu berichten, die vom Kriege zerstört wurde – auch wenn sie seinen Granaten entkam.“

「この本は、(戦争に対する)訴求にも、信仰告白にもなるべきではない。本作は、戦争によって潰された、ある一世代のことを伝えようとする試みとなるべきである。たとえ、その世代(の一部)が榴弾から逃れたとしてでもある。」

(つまり、英語文では、「and least of all an adventure, for death is not an adventure to those who stand face to face with it」の部分が付け足してあり、これは、原文での戦争賛成の「信仰告白」の意味を分かりやすく説明しようとしたものと思われる。原作者のE.M.Remarqueレマルクは、原作の主人公パウルと同様に志願兵として、1917年六月にフランドル地方の西部戦線に投入される。彼の隊は、北西ドイツのヴェストファリア第十五歩兵予備連隊であった。戦況は既に予備連隊が投入される状況であり、レマルクは前線に配置されてから二ヶ月も経たない7月31日に、頸、右腕、左足に傷を負う重症戦傷者として、後方に送り返される。ルール地方の中心都市の一つデュイスブルクの軍病院で、終戦まで療養することになるが、この期間にレマルクは、同じ軍病院にいた戦友に様々な体験を聞き、それを書き留める。原作や本作におけるレアリスティックな戦場での描写は、もちろん、自らの体験もさることながら、軍病院に滞在中に彼が戦友から聞いた生々しい体験の数々から来ている。原作においては、それを読んだ限りでは、必ずしも筆者の反戦の態度は明らかではなく、それ自体は、戦争体験を価値判断せずに客観的に描写しようとしたものとも理解できるが、レマルクが日記を書き始めてからまもなくの18年8月24日に、彼は戦後のことに関して、「青年層の迫りくる軍隊化に対する、そして、その奇形的成長の如何なる形態が取られようともあらゆる軍国主義化に対する戦い」を求めると書き入れている。)

受賞歴:
1930年度USA第三回アカデミー賞:最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞する
1931年キネマ旬報外国映画最優秀作品賞を受賞する
その他

2026年4月22日水曜日

天使のたまご(日本、1985年作)監督:押井 守

少女と女の境界線はいったいどこにあるのだろうか
少女がひとりの少年に出会い
少女であることから解放される日
その日のために用意される
壮大で幻想的な物語
そして現代に蘇えるノアの箱舟伝説
SFハードメルヘン「天使のたまご」は
女の子のためのアニメーションです

―『天使のたまご』企画書・前文より(ウィキペディアからの再引用)

 この企画書を書いたのは、誰か?押井守ではない。そうではなくて、鈴木敏夫である。鈴木敏夫?スタジオジブリに関係のある、あの鈴木敏夫である。鈴木は、スタジオジブリの、カンパニー・プレジデント、事業本部本部長、代表取締役社長、代表取締役議長などを歴任していて、Ghibliジブリ・アニメの製作部門に長年関わり、プロデューサーとして辣腕を揮った人物である。

 その鈴木と押井とどんな関係があるかと言うと、鈴木は、元々は徳間書店の社員として、劇画雑誌の編集部員を経て、1978年にアニメ雑誌の『アニメージュ』の編集部員となり、81年に、彼の担当で、宮崎駿の初特集を組んだ人間であった。鈴木と宮崎の関係はこれ以降続き、鈴木は、『風の谷のナウシカ』の漫画化(82年連載開始)、劇場版アニメ映画化(84年三月初上映)を支える。1985年六月にスタジオジブリが創設され、89年に鈴木自身がスタジオジブリに移籍すると、本スタジオの殆んどの制作作品のプロデューサーを務めることになるが、85年から89年の時期には、本人はジブリ担当として依然として徳間書店に在籍しながら、まずはジブリに通ってそこで仕事を行い、夕方以降になってから徳間書店に行って別の仕事の打ち合わせを行う生活をしていたのであった。正に、この時期の1985年に鈴木は、宮崎の頼みもあって、押井のプロジェクトにも関わることになったが、それが本作であり、同時に彼が押井と組んだ初めての作品であった。85年12月15日に本作は、この時期、最も先鋭的なアニメの発表媒体たるOVAとして発売された。

 さて、押井は上に挙げた企画書に満足したかと言うと、そうではなく、逆に、自分に無断で鈴木が企画書を勝手に書き上げて、徳間書店の上層部に上げたことに激昂したと言う。押井も、もちろん自身の企画書を書いており、作品の題名を「水棲都市」としていた。既に、卵を抱えた少女、方舟というイメージを押井は抱いていたが、方舟というイメージから水、水に「棲む」都市という連想が押井の中で発展していたようである。鈴木は、この「水棲都市」という題名を独断で没にし、「天使のたまご」とする。ここで、天使のイメージを出してきたこと、それがモチーフとして完成作品にも生きながらえている点で、本作の成立に鈴木が大いに貢献していることが分かる。

 また、「SFハードメルヘン」という冠称も言い得て妙であろう。押井自身、プロジェクトの初期には軽めのファンタジーを想定したようであり、この点でも、鈴木は本作の傾向をキャチフレーズ的に言い当てている。しかも、少女が女へと「解放」(実は、強制なのであるが)されるという観点は、100%とまでとは言えないものの、本作に反映されており、必ずしも、本作が「女の子のためのアニメ―ション」ではないにしても、少女が「青年」と邂逅して、彼の精神的「暴力」によって、女となって排卵する展開は、鈴木が本作でのストーリー展開に大きな影響を与えたと言える。因みに、本作での「少女」は、見かけだけのものであり、もう何百年、何千年、否、何万年も生きてきた「女性的なもの」であり、「少女 = 女 = 老女」である。故に、髪は老婆とも思えるようなぼさぼさの髪の毛であり、同じ事は、「青年」にも言え、自分がどこから来てどこに行こうとしているのかも分からなくなった「老人」であるが故に、彼の髪の毛もまた白髪なのである。しかも、彼は、十字架にも似た武器を持っており、十字架を背負う者、つまり、イエスをイメージさせる存在としても考えることが出来る。

 しかし、「箱舟伝説」に関しては、さすがに一夜の付け焼刃で書き上げた企画書であるところなのか、「壮大で幻想的な物語」と「箱舟伝説」とを「そして」という接続詞で結び付けるだけであり、しかも、「箱舟伝説」を、現代に蘇ったものとしか捉えていない、未来への視点がない狭隘な見方で捉えている。正に、この点での押井の憤りは理解できるが、ウィキペディアによると、鈴木は、押井を激昂させる目的でこの企画書を書き上げたのであり、怒った押井がその勢いで徳間書店の幹部を本作制作に説得できるように、気合を掛けたのであったと言う。これが本当であるとすると、鈴木のプロデューサーとしての辣腕ぶりが相当なものであることが想像できる。徳間書店の幹部と押井を手玉に取ったその知略ぶりは実に驚くべきものである。

 こうして、押井は徳間書店の社長も入った重役会議で、原作なしの劇場版アニメを、劇場版アニメ映画作家として撮らせてもらいたい旨、そして、まずは表現があり、その後にストーリーがあることを力説し、その情熱にほだされた重役会も、制作のための資金を出すことに同意したのであった。

 このようにして発表された本・意欲作は、発表当時、しかし、売れなかったのである。それは、押井のアイドルであり、同時にライバルでもある宮崎駿が、自分の劇場版アニメの初監督作品たる『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年作)で、興行的には失敗したのと同じ運命であった。宮崎は、それ故に、アニメ映画作家としては、『風の谷のナウシカ』発表までの五年間、冷や飯を喰うことになるが、押井もまた本作『天使のたまご』が商業的に不発に終わったことで、同じく不遇の時期を迎えることになる。四年後の1989年に公開された劇場版アニメ『機動警察パトレイバーthe Movie』で、日本アニメ大賞を獲得するまでの三・四年間、宮崎と同様、押井もまた生産的な下積み生活を送ることになる。

 本作のキャラクターデザインを、否、それだけではなく、数百名に及ぶイメージボードの制作や色彩設定も含む「アート・ディレクション」を担当したのは、天野喜孝(よしたか)である。繊細で神経質な線描タッチで、ビアズリーをポップアート化したような、装飾的作品を描く天野は、SF関連の賞として名高い「星雲賞」において、1983年から86年まで四年続けてアート部門賞を受賞している。つまり、本作制作の85年に押井は一級のキャラクター・ディザイナーたる天野を自らの傍らに据えた訳である。本作用の原案創作で押井と共作した天野の図案を見て、押井も軽めのファンタジー作品制作の考えを払拭したと言う。

 作画監督は、名倉靖博(やすひろ)である。本作が発表される1985年の前年に、あるオリジナル・テレビアニメシリーズのキャラクター原案と作画監督を務める程になっていた名倉が、鈴木に誘われる形で本作に関わることとなり、押井の独断で作監に抜擢される。職人タイプのアニメーターらしく、天野がディザインした、本作の「少女」の髪の毛一本を丁寧に丁寧に描いていたと言う。ウィキペディアによると、名倉は、「後ろ姿が絵を描いている時も、おにぎりを食べている時も、机にかじりついて背中を伸ばしている。理想的な作監で」、「絵柄で魅せるタイプで、動きに責任をとるタイプの作監ではない」と、名倉のことを押井は評している。適材適所であったと言うべきであろう。

 美術監督は、小林七郎である。1968年に独立して、小林プロダクションを設立すると、翌年から、美術監督を務めるようになり、押井とは、1984年作の劇場版アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で共作している。恐らくはこの絡みで小林に話しが回ったのであろうが、フランスのバロック風の街をモティーフとした重厚で深みのある背景の制作には、ウィキペディアによると、小林は独自の制作方法を導入した。それは、「画用紙で描かれた克明な美術背景の上に、更に油性のサインペンでタッチ・色を描き込んだセル画を1枚重ねることで、建物の壁の荒々しさ等細かい部分を表現する」という方法であり、この方法を全ての背景で採用した。小林はまた、キャラクターの存在が入ることで、背景が二の次になることを嫌って、背景の立場から、色彩設定も併せてレイアウトにも関わったことで、背景美術の表現力がより高まることになったと言う。

 音楽担当は、菅野由弘(かんの・よしひろ)である。日本の伝統音楽にも関わるなど様々なジャンルの現代音楽を作曲する、非常に多作な作曲家である。押井とは、押井が演出した文部省選定・短編アニメ映画『りゅうの目のなみだ』(1981年作)で共作した関係からで、押井から菅野にオファーが行った。ウィキペディアによると、その時、押井は、「ボーカルとピアノを基本に、キリスト教音楽のイメージを取り入れる」、「水の音と音楽だけで作品を作りたい」というコンセプトを提示したと言う。また、最初に動画ありきで、それに劇伴の音楽を付けるという発想ではなく、動画と音楽との双方向の相互作用で制作していく作り方を採用した。尚、風をイメージした音色では、菅野がアイディアを出して、コーラス隊がある台詞をそれぞれ違った声色とスピードで話したものを録音・編集して、音響効果を出したと言う。

 菅野の静謐な音楽は、聴いている者に本作の精神性或いは宗教性さえ感じさせる、本作の内容に叶った音楽である。ラストシーンは、絶望なのか希望なのか、動画だけを観ていては両用にも解釈できるのであるが、随伴の音楽が何か陽性を感じさせるものであり、そのことから、ラストシーンは、希望の表象なのである、と理解できる、否、感じられるのである。そして、映画は、あの有名な鳥瞰構図に入っていき、永遠に呪われている方舟の運命が何であるのかを衝撃的に明かす。

2026年4月19日日曜日

ガンズ・アンド・キラーズ(USA、2023年作)監督:ブレット・ドノフー

 身内を殺された少女とマーシャル(連邦保安官)という関係であれば、すぐに、ジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡』(1969年作)や、この作品のリヴァイバル作品『トゥルー・グリット』(2010年作、ジェフ・ブリッジス主演)が思い出される。

 上記の作品では、殺された身内は父親であり、娘は、マーシャルに父の敵討ちを手伝ってもらうことになるのであるが、本作では、殺されたのは、母親であり、マーシャルは脇役に回って、殺された妻の仇を討つために父親(いつものように、演技が誇張のニコラス・ケージ)が敵討ちの旅に出掛け、娘はそれに同伴するという展開である。

 それで、妻を惨殺された、嘗ての非情な賞金稼ぎのガンファイターが復讐のために旅に出掛けたのが本作の本筋であると思うと、それはそうではなく、実は、この復讐の旅の途上で成長する娘の変貌こそが、本作のメインストーリーなのであり、この意味では、本作もまた、上述の作品をしっかりと踏襲していると言える。父親のことも知っている老練なマーシャル(Nick Searcyニック・サーシー)が、母親の死に対しても無感動で泣くことも出来なかった少女(Ryan Kiera Armstrong)に、その要所要所で重大な人生の忠告を与える二つのシーンに注目したい。

 さて、アパシー(Apathy)に病む少女は、その病から癒えたのであろうか。ラストシーンでの少女の言動から考えると、そうではないらしく、映画の序盤で描かれた、父親が経営する雑貨屋で、娘が、ガラス容器にそれまでごちゃ混ぜになって入っていた飴玉を、色毎に数種類のガラス容器に丁寧に仕分けしていたシーンは、本作では、実は、重要なメッセージを持っていたことになる。

 邦題の『ガンズ&キラーズ』も、英語原題の『The Old Way』(「いつか来たこの道」)も、本作の核心を突いていない命名である。

2026年4月17日金曜日

ワイルド・スピードX3 Tokyo Drift(USA、2006年作)監督:ジャスティン・リー


 「カーきち」映画は観ないはずが、「Tokyo Drift」の副題でつい観てしまった。トウキョウが舞台であるが、日本人は殆んど登場しないという不思議な映画で、あんな派手なカーチェースを日本の警察が許すはずもなく、その撮影には、カルフォルニア州で、日本の道路の一画を模倣して撮り上げたとのこと。むべなるかな!あとは、ロケ隊が東京で撮影したシーンを上手くカットインして、トウキョウの雰囲気を出している。故に、編集には複数人が担当しており、その一人が、「ケリー・マツモト」という人である。

 さて、「Uwabaki」という日本語の言葉が本作で世界に広まったことは、喜ばしい限りである。一方、「Gaijin」という言葉もこれまた世界に広まったことは、残念な限りである。この言葉が明らかに「日本人村」から村八分にされた人間への排除の思想を雄弁に物語り、本作でのストーリー展開の中で、残念ながら、正しくも使われている。本作は、2006年の制作であるが、Gaijinという言葉ではなく、「外国人」という、一見、非日本人に対する排外性を覆い隠しながらも、本質的にはその排除性を容認している言い回しは、日本のマス・メディアではいつからなされるようになったのであろうか。こんな言語社会学的な問い掛けをするとは、映画を観る前に期待をしていなかっただけ、その分、嬉しく思う。そして、改めて、制作から20年経たのちの「日本人ファースト」の政治的な意味や、「日本国民」という言葉に含まれる、民族性や元々の出自を越えた包摂性に感銘を覚えたのである。

 とは言え、車を「ドリフト」させながらカーブを走行するテクニックは、どれだけのタイヤを消耗する走り方になるのであろうか。他人事ながら、少々そんな心配をしながら本作を観ていた筆者には、雌鶏(めんどり)をめぐっての、盛りのついた雄鶏(おんどり)二羽の脊髄反射的な闘争にはやはり辟易したのである。USAでも日本国でも同様な事情の顛末であり、USAではブロンディーヌをめぐって、我が邦国では黒髪のセニョリータをめぐっての爭いは、女性を自己の所有物と考えるマッチョ的発想の帰結であることには変わりがないであろう。二回とも奪う方だった主人公のSeanショーン君、奪われる時になった時、どんな反応ができるであろうか。

 そして、ショーン君の父親の存在である。USA海軍の将校である彼が、米軍基地内ではなく、東京のみすぼらしい一軒家に住んでいて、彼には日本人の愛人もいるのである。米国軍人が、日米地位協定で、恐らくは滞在許可証もなく、民家に住んでいる。果たして、そんなことは可能なのであろうかと不思議に思った次第であるが、脚本は、Chris Morganクリス・モーガンという、シカゴ生まれの脚本家である。脚本作りには、ある程度は日本のことも調べたことであろうが、どこまでが事実に基づいているのであろうか。何れにしても、本脚本家は、以降、このシリーズ『ワイルド・スピード』の脚本を何本も手掛けることになる。

  因みに、ショーン君の父親のUSA海軍での階級である。日本語のウィキペディアによると、「海軍大尉」と記されている。英語版によると、「Lieutenant」と書いてあり、不思議に思って調べてみると、勉強になった。「Lieutenant」という階級名は、陸軍と海軍では異なるのである。「Lieutenant」は、陸軍であれば、中尉か少尉であるが、海軍であると、「海軍大尉」となるのである。「陸軍大尉」は、Captainである。一方、同じ「Captain」でも、海軍であれば、「海軍大佐」となってしまう。ここら辺の、筆者の「混乱」を自分になりに整理すると、以下、こうなる。

 階級呼称に関しては、陸軍と海軍とでは、別の階級呼称の発展があり、更に、海軍に関して言えば、イギリス海軍の階級呼称の歴史的発展がまずあったということである。民間船舶か軍艦かを問わず、「船長」とは、「航海の長」であり、「Master」と呼ばれた。これに対して、それが大型軍艦であれば、軍事的専門家として「Captain」なる者が配置されて、国王の兵士を率いて軍艦に乗船した。16世紀半ばから17世紀のイギリス・エリザベス朝期には、イギリスはスペイン海軍に対抗して戦っており、その代表的な海戦が1588年のスペイン・アルマダ無敵艦隊に対する海戦であった。当時のイギリス海軍は、強力なスペイン艦隊に対抗するために、民間の私掠船を海軍に招集してその戦力を高めたが、私掠船を軍艦として機能させるために、軍事的助言を「船長」に与える人間が必要になる。これらの「船長」を補佐する人間を「Lieutenant」(英語発音で「レフテナント」で、アクセントは「テ」にある)と呼んだのである。こうして、「Lieutenant」は、将官級、佐官級、尉官級というように、次のより高いレベルの階級位とその下の階級位とをつなぐ階級の名称となる。

 このような「Lieutenant」の中の最先任「将校」が、「船長」すなわち「艦長」を補佐する軍事的指揮権を握る人間として、「Commander」という名称を得る。一方、「Lieutenant」は、現在で言う尉官級の将校の名称に次第に使われるようになり、Commanderと「Lieutenant」級の将校をつなぐ階級名が「Lieutenant Commander」(「Commanderの代理人」)と呼ばれるようになる。こうして、Captainが、大佐に、Commanderが、中佐に、そして、「Lieutenant Commander」が、少佐になり、「Lieutenant」は、尉官級の筆頭となることになり、「海軍大尉」に相当し、「海軍中尉・少尉」は、「Sub-Leuitenant」となるのである。

 一方、USA海軍も基本的にはイギリス海軍の階級呼称を踏襲した訳であるが、米海軍中尉では、「Lieutenant Junior Grade」という、「二等海尉」的な呼称を採用し、「海軍少尉」は、フランス語からの影響で、「Ensignエンスン」と呼ばれる。実は、「Leuitenant」の言葉自体がフランス語から来ており、「代理人」を意味する言葉であった。尚、「Leuitenant」は、米国英語では、「ルーテナント乃至はルテナント 」と発音する。

2026年4月8日水曜日

ガラスの城(フランス・イタリア合作、1950年作)監督:ルネ・クレマン

 女主人公Évelyneエヴリンは、本作の題名たる「ガラスの城」に眠れる、恋に恋する「眠り姫」である。だが、彼女は、既に十歳程の男児を持つ人妻でもある。それでも、彼女は、スイスのベルンから保養に来ていたイタリアのコモ湖での休暇の最中に、夫Laurentロランと一緒に来ていたのにも関わらず、コモ湖の高級ホテルで、パリジャンのRémiレミーと知り合い、彼との恋に恋してそれに酔う。本当のところ、彼でなくてもよかったのであるが。

 一方、男主人公のRémiレミーは、全ての女に恋せるが故に、どの女も本気では愛せない、大人には成りきれていない子供男である。パリにいる一応の愛人のMarionマリオンとは、恋の戯れを遊ぶ関係であり、彼女との「爛れた」関係は今のところ持ってはいるが、それは、レミーにとっては、いくらでも代替え可能な「大人の」関係である。

 そんな恋の駆け引きを愉しむマリオンに焚き付けられたレミーは、ベルンにいるÉvelyneにパリから国際電話を掛ける。そして、彼は彼女にパリに遊びに来ないかと誘惑する。本心ではÉvelyneには来ては欲しくなかったミレーの許を、千々に乱れながらも、結局は訪れるÉvelyneであった。しかし、ベルンからの夜行列車で翌日の午前中にパリに着いたÉvelyneは、日中に見るレミーに違和感を抱き、一旦は彼が居住する同じホテルの一室に赴くものの、恐れを感じて、ベルン行きの帰りの列車に乗り込もうとする。が、彼女はそれに乗り遅れてしまう。

 パリのある郵便局で国際電話を掛けようとしていたÉvelyneを、偶然に電話ボックスで見付けたレミーは、彼女をパリの見物に誘い、ベルン行きの夜行列車が夜九時に出発するまで、パリの散策を楽しもうということにする。この、恋人の街パリを散策するロマンティックな雰囲気の中、Évelyneは、結局は、夜行列車を乗り過ごして、情熱の一夜を過ごすことになるが、さて、この有閑マダムの不倫の結末は如何なる結末を迎えることになるか。

 本作の原作は、Vicki Baumヴィッキー・バウムというウィーン生まれのユダヤ人女性が1935年にUSAで書いた作品である。この原作のストーリーの大枠を、本作の脚本は概ね踏襲してはいるが、原作では愛人がアメリカ人であるところが本作との大きな違いであろうか。本作の脚本は、監督であるRené Clément ルネ・クレマンも共同執筆しているが、間大戦期に心理描写に長けた作家として有名になったPierre Bostピエール・ボストが担当しており、独白部分が劇中の対話部分に巧みに織り込まれており、ストーリーの内面性が強調された、センスのよい展開は彼の文学的手腕に負うところが大きいのであろう。R.クレマンとP.ボストは、二年後に発表される『禁じられた遊び』でも脚本を共作している。

 また、撮影監督は、パリ生まれのRobert Lefebvreロベール・ルフェーヴルで、その職人気質の白黒撮影は、鳥瞰図的に、1950年という年のパリの街々を捉えて、今となっては、歴史的価値さえ持っていると言える。センスのよい白黒の陰影が印象的な画面構成もまた本作では楽しみたい。

 フランス・イタリア合作映画である本作にはイタリア語版とフランス語版があり、イタリア語版では、Évelyneの夫役Laurentをイタリア人の俳優が、フランス語版では、同じ役をベルギー出身の名優Jean Servaisジャン・セルヴェが演じている。ベルンの地方裁判所か州裁判所の長官を務め、勤務に熱心であり、丁度手掛けている刑事事件では、冷徹にその本質を見抜いて、自分の夫の母親殺しの罪を被って裁きを受けようとする女に、如何に真実を裁判中に語らせるかに頭を悩ませている。彼は、妻を愛しているのではあるが、Évelyneが望むほどにはその愛情を示すタイプではなく、その不満がÉvelyneを結局は不倫に走らせることになる。

 そのÉvelyneに、彼女を取り巻く家庭生活内で不満を募らせる、もう一つの理由は、家族ぐるみで付き合っているElenaエレナの存在である。ベルンの近郊に住んでいるようなのであるが、よくベルン市内にあるÉvelyne夫婦の家に遊びに来るElenaは、Évelyneの悩みも理解しているようなのであるが、一方では、Laurentとチェスに興じたり、三人で休暇も伴にする関係でもある。そんな飽き足らない生活感を持つÉvelyneは、チェスで夫を負かすElenaこそが夫に相応しい女性であるとさえ思うほどなのである。この微妙な役柄を、イタリアはトリノ生まれの女優Elisa Ceganiエリーザ・セガーニが好演している。

 同じく脇を固めているのは、Rémiのパリでの愛人Marion役のÉlina Labourdetteエリーナ・ラブルデットである。1919年にパリに生まれた彼女は、最初は、プリマ・バレリーナになることを目指してバレエの練習に励んでいたが、結局、健康上の理由でその夢を諦めざるを得なくなり、女優になることに決心する。彼女が19歳の時の1938年に映画界でのデビューを飾る。第二次世界大戦直後の45年、Robert Bressonロベール・ブレソン監督の『ブローニュの森の貴婦人たち』に、元々踊り子であるが、生活の資を稼ぐために娼婦もしている若い女性役で出演したことで、彼女は、フランスでの女優としての地位を獲得する。本作が撮られた50年には、演劇界にも進出している。本作では、自分のアパルトマンを持っているようであるが、生計はどうやって立てているのか分からない存在で、レミーとの恋の駆け引きは立派にやり遂げる勝気はあるものの、やはり、本当の愛を求めている心境の複雑さを上手く演じ分けていて、本作で筆者の印象に強く残った女優である。

 原作を書いたV.バウムは、1920年代における女性の社会進出のアヴァンギャルドを走った女性の一人である。その彼女が書いた原作を読んでいないので、断定は出来ないが、そのモダン性は、本作で描かれる公共交通網の密度さに表現されているように思われる。まず、冒頭のコモ湖でのハイ・ソサイエティの存在である。そのコモ湖から、Elenaが運転し、Évelyneが同乗する高級自動車でRémiがミラノ駅のプラットフォームまで直接乗り付けると、Rémiは、コンパートメントでÉvelyneと熱い接吻を重ねた後、一人でパリに夜行列車で旅立つ。こうして、ミラノ・パリ間の鉄道の連結が登場すると、今度は、パリ・ベルン間の国際電話の繋がり、更には、スイスの首都ベルンとフランスの首都パリを結ぶ、一日に二回はある鉄道の往復路線が、ストーリーに上手く組み込まれ、その時間が刻まれていることによる主人公達の心の緊張と高揚が観る者に説得性を与える。そして、最後は、意外な展開で、パリ・チューリッヒ間の飛行機による航路が登場する。実に、粋なストーリー展開である。

2026年3月23日月曜日

ベルファスト 71(英国、2014年作)監督:ヤン・ドマンジュ

 北アイルランド「問題」を理解する上では、まず、元々ケルト系民族で、ゲール語を話すゲール人が住んでいたアイルランド島が、長い間、現在のグレート・ブリテン島の中・南部に居住していたケルト系ブリトン人が中心となって建国した「イングランド」の植民地であったことを知っておく必要がある。

 既に中世において一部の植民活動が始まっていたが、イングランドによるアイルランドの植民地化は16世紀半ばになって本格化する。それは、イングランドのテューダーTudor王朝の、文化人でもありながら、権力欲も旺盛なヘンリー八世時代のことであり、彼の下で、名目だけの「アイルランド王国」が1541年に建国される。しかも、ヘンリー八世は、自分が離婚できるように、イングランド国教会をカトリック教会から分離させるような形で成立させたことから、アルプス以北のヨーロッパにいたゲルマン人のキリスト教化の発祥の地とも言えるアイルランドでは、英国教会に対する、宗教的な反発もまた生まれた訳である。

 この宗教的対立に拍車を掛けたのが、プロテスタント系の清教徒革命であり、この宗教革命の最中、イングランド内戦で清教徒派と対立していた王党派(ロイヤリスト)と、アイルランド・カトリック同盟が1649年に同盟を結んだことから、これが、オリヴァー・クロムウェル率いるニュー・モデル軍のアイルランド派遣を招き、この「クロムウェルのアイルランド侵略」と言われる事態を以って、アイルランドは、完全にイングランドの支配下に置かれることになる。こうして、アイルランド人は、イングランドによる抑圧的・差別的な支配を受けるようになり、また、プロテスタント系入植者がアイルランド、とりわけ、島の北東部にあるUlsterアルスター地方に入植してくる状況となる。

 18世紀半ばになると、しかしながら、アイルランドにもナショナリズム運動が起こり、アイルランド愛国党なるものも生まれ、更に、1783年にアイルランド議会に自治権が与えられる。一方、1789年に勃発したフランス大革命の政治思想的な影響を受けて、イギリス王権からの独立を求め、更には、政体も「共和主義」を希求する政治的な動きがアイルランドにも生まれ、1858年には「アイルランド共和主義者同盟(兄弟団):IRB」なる秘密結社も登場する。

 こうした中、1914年に第一次世界大戦が勃発するまでは、大英帝国内に留まって、アイルランドの自治権をより拡大する運動が、アイルランドの完全独立を目指す共和派より強かったのであるが、この自治権拡大運動が大戦の勃発により失速したことから、大戦中の16年四月に共和主義者達による、イースター蜂起が起こる。これが、結局、アイルランド独立戦争に繋がることになり、18年のアイルランド総選挙で、1905年に結党されたシン・フェイン(「我等自身」)党が第一党となったことから、翌年一月にこのナショナリズム政党が第一回国民議会を招集し、アイルランド共和国の独立を宣言するに至るのである。

 21年12月に、妥協の産物である休戦協定・英愛条約が締結され、アイルランド共和国は、大英帝国傘下の他の自治国同様に、「アイルランド自由国」(建国自体は22年12月)となり、アイルランド島北東部のアルスター地方を中心とする北アイルランドは、場合によっては自由国から離脱できるものとされた。そして、アイルランド人の、完全独立が達成できなかったことを不満とする反条約派がアイルランド内戦を起したことから、北アイルランドは自由国から離脱し、これが、後の北アイルランド「問題」に発展することになった訳であるが、それでは、何故に北アイルランドは離脱したのか。

 既に19世紀のアイルランドの自治権拡大の運動に対して、これに反対して、アイルランドをイギリスの同君連合の下に置くことを望む政治勢力があった。それは、君主制のためであるから、これを「ロイヤリスト」と、また、大英帝国内の「連合」のためであるから、これを「ユニオニスト」と、呼称できる。ここに「ロイヤリスト」対「レパブリカン」、「ユニオニスト」対「ナショナリスト」の構図が出来上がるが、これに、宗教的対立の「プロテスタント」対「カトリック」の構図が交差し、この対立が先鋭化していたのが、同じアイルランド島内にありながら、プロテスタント派が住民の多数を占めるアルスター地方なのであった。

 アイルランドにおけるナショナリズムの振興に危機感を抱いていたアルスター地方のプロテスタント派は、第一次世界大戦が始まる直前の1912年に武装組織・アルスター志願兵部隊を結成する。この翌年には、これに対抗するように、アイルランド共和主義者同盟(IRB)がアイルランド志願兵(IV)を、アイルランド労働組合がアイルランド市民軍を設立する。

 反英武装組織は、元々、19世紀中頃からあったと言われるが、上述の「アイルランド志願兵(IV)」を基に、アイルランド共和国の設立宣言と共に、アイルランド共和国軍(Irish Republican Army、略称:IRA)が設立される。しかし、1921年12月の英愛条約での妥協点を巡る路線闘争でIRA自体が分裂し、その多数派はアイルランド国防軍Irish National Armyに吸収されたのであるが、あくまでアイルランド全土の完全独立を希求する武闘派IRA分派は、約一年間に及ぶ凄惨なアイルランド内戦(22年六月から23年五月まで)を展開する。

 この内戦を見た北アイルランドのユニオニスト達は、英愛条約の条項に基づいて、アルスター地方の六つのCountyの、アイルランド自由国からの分離を議決する。と言うのは、既に第一次世界大戦中にイギリス政府側で内々に考えられていた北アイルランド分離案は、20年のアイルランド政府法によって「北アイルランド議会」が設立され、この新たに設立された議会がアルスター地方を管理下に置くということで、北アイルランド分離案の準備が、英愛条約締結前に十分に整えられていたからであった。

 これと同時に、20年以降は、イギリス政府やイギリス軍の援助を受けつつ、北アイルランドには、アルスター特殊警察隊や「ブラック・アンド・タンズ」という治安警察部隊が置かれる。映画で描かれた、カトリック教徒の家に入り込み、暴力を働きながら、家宅捜索を行なっていた警察官は、恐らく、これらの特殊警察部隊員であると思われる。尚、「Black and Tans ブラック・アンド・タンズ(黒色と褐色)」とは、王立アイルランド警察隊(Royal Irish Constabulary、略称:RIC;「Constabulary」とは、一般警察業務を行なう警官を指す)を補強するために、陸軍の復員兵から採用した警察官の通称である。RICの黒っぽい濃緑色(ライフルグリーン色)の制服と、イギリス陸軍の淡い褐色の野戦服を組み合わせて新採用者が制服を着用したことからこの通称が付いたのであった。

 1949年、アイルランド自由国は、イギリス連邦より離脱したことから、北アイルランドがその後の紛争・政争の中心となり、北アイルランドでは、多数派のプロテスタント派が、少数派のカトリック派を抑圧する体制が第二次世界大戦後は続いていた。

 1966年に、「イースター蜂起」が50周年を迎えることから、アイルランドと北アイルランド政府が歩み寄る動きを見せる。これを警戒したプロテスタント派は、66年に、アルスター志願兵部隊を再組織して、Ulster Volunteer Force(UVF)、つまり、アルスター志願兵軍を設立する。

 1964年以降のUSAでの公民権運動の高まり、1968年以降の学生運動の高揚を受けて、北アイルランドでの「プロテスタント派・ユニオニスト派」と「カトリック派・民族統一派」との間の衝突は次第に過激さを増していく。69年12月には、IRA自体が、政治的闘争を重視するオフィシャルIRA(OIRA)と武闘派のプロヴォス(暫定派)IRA(PIRA)とに分裂したことから、アイルランド「問題」は、その紛争度をより強めることになり、遂に、イギリス陸軍が両派の「緩衝役」を現地で担うことになる。しかし、事実上は、イギリス陸軍は、プロテスタント側に立ちながらも、プロテスタント派のカトリック派への暴力の度合いをコントロールするという役割にはまり込んでいた。

 こうして、映画でも描かれたような、IRA暫定派がイギリス陸軍兵士を射殺するという事件が71年二月に起こる。カトリック派住民地域は、IRA暫定派の指導の下、要塞化して抵抗するが、このようなカトリック派の組織化に対しては、様々なプロテスタント系「自衛組織グループ」もまた集まって、「アルスター防衛同盟Ulster Defence Association:UDA 」を組織化し、これが後に最大のロイヤリスト準軍事組織となる。71年12月には、カトリック派地区にあったあるバーで爆弾が爆発し、15人が死亡するという、北アイルランド紛争期に起きた最も悲惨なテロ事件が起こる。本作でも描かれた、あるバーでの爆破事件は、恐らく、このテロ事件を指しているのであろうが、映画は、二月の英国兵士殺害事件と十二月のバー爆破事件をほぼ同じ時期の出来事として描いている。

 本作はカトリック派居住地地区に置き去りにされたある英国人兵士の逃避行を描くものであり、殆んど何も北アイルランド紛争について知らないまま北アイルランドに投入された新兵のナイーヴさが、英国陸軍の「無実さ」加減を暗示しており、問題があるように思われる。既に1970年には、英国陸軍はIRA暫定派と銃撃戦を演じており、71年夏には、英国陸軍は、IRA暫定派と疑われた人物は手当たり次第に逮捕し、彼等を裁判なしで投獄し、各刑務所では、拷問・虐待を行なったと言われている。英国の諜報機関(国内諜報機関MI5か別の公安組織)が裏で非情な活動を行なっていた点は描かれている本作では、しかし、アルスター防衛同盟の活動にははっきりとは触れておらず、確かに、様々な点を描き過ぎることで、観る者の注意を逸らす恐れはありながらも、この点に関してもある程度の暗示があってもよかったのではないか。

 本作は、題名にある通り、1971年の北アイルランドの出来事を描いているのであるが、歴史は、その翌年の72年こそが、北アイルランド紛争の中で最も死者が多かった年であることを知っている。この年に約500人が亡くなったと言われている。そして、その中には14人の死者数を数える、一月の「血の日曜日事件」があった。それは、北アイルランド公民権協会が呼び掛け、OIRAとPIRAもこれに協力して組織された、約二万人も参加した非武装の平和的なデモに対して、英軍の第一パラシュート大隊の兵隊が発砲した事件であった。英国陸軍は、これを以って、国際的な非難に曝されることになる。

 1972年七月には、今度は、IRA暫定派が北アイルランドの首都ベルファストで連続爆弾テロ事件を引き起こす。いわゆる、「血の金曜日事件」である。爆弾が22発も仕掛けられて、80分以内に次々と爆発し、九名が死亡し、約130名が負傷したという悲惨な事件であった。

 1970年代は、正に、中東も含めた、国際テロリズムの時代であり、北アイルランドにおけるIRA暫定派の活動もこれに連動する動きであったが、無差別テロが結局はカトリック系市民の犠牲者を出したことは、一般大衆のIRA暫定派への支持が次第に離れていく過程でもあった。こうして、80年代・90年年代を通じて、IRA暫定派においても、武装闘争から政治闘争への重点の移動が見られ、IRA暫定派の「政治的な腕」と言われた北アイルランド・シン・フェイン党がより重要な役割を演じるようになり、このプロセスは、結局のところ、1998年のベルファスト合意の調印に至る。合意の内容の一つは、北アイルランドにあるすべての武装組織の将来的な武装解除であった。2005年七月、IRA暫定派の軍事協議会は、武装闘争の放棄を宣言し、同年九月には、国際的に構成された武装解除委員会が武器放棄・武器破壊を確認している。

 北アイルランド「問題」は、現実的な妥協の産物として、2005年以降も鎮静化はしているのであるが、IRA過激派は未だ存在しており、また、2020年のイギリスの欧州連合離脱により、北アイルランドとアイルランド共和国との間の「国境」が改めて顕在化したことから、不穏な動きが一部には見られる。本文章を書いているのが、2026年三月であり、来月の四月には、あの「イースター蜂起」が110周年を迎える。アイルランド人、とりわけ、北アイルランドで生きているカトリック教徒は今どんな思いを抱いていることであろうか。

炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えた...