2025年8月12日火曜日

泣け!日本国民 最後の戦斗機(日本、1956年作)監督:野口 博志

 まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。

 すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには見劣りする。)

 続けて、次の挿入文が流れる:
「沖縄敗れ 日本の空と海は 米機動部隊に征圧された」
「終戦近く」
(つまり、沖縄戦が終わった45年6月下旬以降のことになる。)

 こうして、タイトルロールは、『最後の戦斗機』という題名から始まる。背景は、雲の上の風景で、最初の「雲の彼方に散った若人」に合わせたようであり、BGMは、ハミングによる、まるで鎮魂歌を聞いているかのようである(音楽:牧野由多可)。(作中では多くの軍歌、例えば、「定番」である『同期の桜』や、学徒動員による飛行予備学生が多い訳であるから、当然に学生歌『デカンショ節』などが作中歌われ、聞こえる。)

 本作の原作は、谷本敏雄作の『黒い河』により、脚本は三人掛かりである。タイトルロールは、監督名「野口博志」で締めくくられるが、背景は、雲上を飛ぶ五機編隊(先頭を一機が要となり、後方に扇状に開く形)の戦闘機になっている。(BGMは、『海行かば』である。)

 太い機体からそれは、零戦ではないことはすぐに分かったが、シーンが変わって、それは二人乗りの日本の飛行機(二人乗りであるところから、戦時中の艦上爆撃機「彗星」たり得るが、戦後は破壊されているであろうから、これは、米軍のお払い箱のプロペラ機であろう)であることが分かる。一機は、機体が故障したのであろう、次第に戦列から離れて、高度を低めていく。他の四機は、更に、前進して、雲間から米機動部隊を発見すると、右に旋回して、突っ込んでいく。実写場面となり、日本機が米空母などに体当たりする場面が映し出されたり、稚拙な特撮場面が見られたりする。

 故障機からは故障の連絡が本部の航空基地に入るが、司令官・関根少佐(西村晃:自身に特攻隊員であった実体験あり)は、「特攻は、必死必殺であり、帰還はあり得ない」と言って、故障機の帰還を拒んだところから、故障機は自爆せざるを得ないことになり、犬死は無駄であると考える分隊士・白井中尉(葉山良二演じる、本作の主人公)は、少佐に抗議していたのである。武士道の古典『葉隠』にも、犬死はするなと書いてある。

 「国民精神総動員」と書かれた全体主義国家のスローガンが街中に見られる中、恐らく南九州(鹿児島か?)にある海軍航空基地がある町には、海軍士官倶楽部「ちよもと」があり、この日は、新司令官関根少佐の着任を祝しての宴会が催される。関根は、フィリッピン戦線から「転戦」してきた佐官級将校で、断末魔に喘ぐ帝国海軍の最後のあがきである「特別攻撃」で、「必死必殺」の標語を以って「海軍飛行予備学生」を特攻隊員として死地に送り出す軍人である。彼の配下に、第二〇三海軍航空隊があった。

 この頃には不沈艦大和も撃沈されており、連合艦隊なるものは帝国海軍には最早存在しておらなかった。故に、母艦海軍航空隊なるものも存在しておらず、陸上基地航空隊のみしかあり得なかったのである。第二〇三海軍航空隊は、元々は、戦闘機乗りを養成する「厚木航空隊」が44年二月に改編されて出来た航空隊で、それ以降、戦闘航空部隊として各地を転戦していた。翌年の二月に編成された宇垣纒中将率いる第五航空艦隊に、第二〇三海軍航空隊も編入されるが、それまで黙認という形で行なわれていた「特攻」が、艦隊編成の基本方針としてここにはっきり謳われることとなった訳で、宇垣は長官訓示で全員に特攻の決意を全艦隊に徹底させていた。

 海軍航空隊は、航空「艦隊」を構成する航空「戦隊」を形作る一つの単位である。そして、一海軍航空隊は、幾つかの航空「分隊」で編成されており、一航空分隊は、普通は、九機で成り立っている。更に、一航空分隊は、三つの班に分かれ、それぞれを中尉または少尉、更には、他国の航空部隊では余り見られないのではあるが、兵曹長が指揮するのである。映画によると、鹿児島の鹿屋にある航空基地には五航艦の司令部があるようであり、そこから、補充の戦闘機が五機、送られてくる。こうして、五航艦の参謀も特攻作戦の督励に移動してくる中、敵艦載機の基地攻撃で、「同期の桜」たる戦友が機銃で撃たれて戦死すると、負傷により特攻隊員から一時外されて情報係りとなっていた白井中尉は志願して、特攻出撃隊員となる。

 しかし、搭乗していた戦闘機が故障して戦列を離脱した白井(頭に締めた鉢巻きには「八紘一宇」の文字が見える)は、海上に不時着して、同乗していた二兵曹は溺死したのにも関わらず、白井は救助されて出撃後の一週間後に、基地に帰還する。白井は、特攻の理由を以って、二階級特進の「軍神」となっていたのである。「必死必殺」を豪語する関根少佐は、元々「犬死はしない」と誓っている白井中尉を謹慎処分にする。早速、次の出撃命令を受けるものの、今回も搭乗機の故障で帰還した白井には、航艦司令部も知るところとなり、銃殺の刑が科せられるのではないかというところまで、事態はエスカレートする。

 このように錯綜する中、結局、白井は、自分の大学の先輩で航空隊の副官をやっている戦友・遠藤中尉(大坂志郎が、後輩と上官の間に立つ者の苦悩を好演)の「介添え」を受けて、二人で最後に残っていた戦斗機に乗って、笑顔で(!)雲の彼方に飛んでいったのである。

 さて、このように「男の戦時世界」が描かれる一方で、それに関わる「女の戦時世界」も描かれる。海軍士官倶楽部「ちよもと」は、その名の通り、海軍士官が訪れる、商売上手な女将(北林谷栄)が営む料亭であるが、ここには住み込みの芸者が五人ほどおり、その中の一人にあき子(渡辺美佐子が好演)がいた。彼女は、気が強くて粋のある芸者で、「ちよもと」に来る特攻隊員とは枕を一緒にして、出撃前の特攻隊員に「筋金」を入れてあげる、言わば、内地の「慰安婦」であった。ふとしたことで白井中尉と知り合った彼女は、誘惑しても乗ってこない白井の潔癖さに、普通の男にはない魅力を感じ、白井を好きになってしまう。そして、最後には、銃殺になるかもしれない白井を思い、彼のために命を落としてしまう哀しい存在である。

 他方には、「身体は汚れているが、心は清い」あき子に対して、「身体は病気で冒されているが、心は愛に貫かれた」女性、則子(芦川いづみ)がいる。彼女は、白井が学生時代に知り合った高等女学校の生徒で、二人は愛を誓い合い、白井が軍隊に招集された後も、お互いがそれぞれ記念の対の鈴を持っていることで、遠く離れていても、思っている心ではお互いがすぐ側にいる存在として、愛によって結ばれていたのである。結核で弱っている身体であったが、則子は、虫が知らせたのか、東京から鹿児島まで白井に会いにくる。実は、二人が再会したのは、白井が最初に特攻に出撃する前日で、白井は、そのことを則子に告げることを躊躇したのである。翌日、白井が出撃したことを回りから聞いて知った則子は、そのまま海岸に向かう。そして、あるそりたった岩の上にきりっと立ったままの則子は、じっと海を見つめたままで、シーンはカットされる。(58分台)その後、帰還した白井が、遠藤副官の好意で、則子が書き上げた、以下のような遺書を読む機会がある:

 「静かな海原です。則子は、この海のどこかで死んでいった白井さんと同じように海に身を沈めます。もう別れなくてもいい。そして、永遠に別れることのない平和な国で、白井さんと誓った通り、二人で一つの美しい命を生きるのです。ただ、心残りは、貴方のお母様を一人ぼっちにしたことです。お可哀そうなお母様。則子は、遠い海の向こうから白井さんとご一緒にお護り致します。白井さんにお会いしてから、短いけれど、楽しかった数々の思い出、これが則子の美しい人生の花でした。則子は、この美しい花を咲かせるために生まれてきました。そして、その花が散った時、則子の命は燃え尽きてしまうのです。今は何も思い残すことなく、則子は海に入っていきます。海の向こうにいる貴方の所へ。」(78分台から約二分間)

 この美しい純愛を引き裂いたのは、戦争である。民族共同体の仮想の中、国家のために死ねと言われ、死ぬには拘泥しないが、犬死はしないという、最後の線での抵抗を示した白井中尉と、彼が自分を思いながら死地に向かい、死んでいったと思い込んだ則子は、白井へのこの世での愛を貫くために、彼が英霊として生きているはずの海の世界へと投身自殺したのであった。

 先の「環」太平洋戦争では、この白黒の反戦映画が描いたような悲劇がいくらあったことであろうか。それは、日本人だけではない。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、そして、中国人、東南アジア人にも、戦争による多くの悲劇が起こったのである。そして、この「環」太平洋戦争を引き起こしたのが日本であったことも我々日本人は忘れてはならない。(八十周年目の八月十五日を迎えるに当たって筆者は強く思う。)

2025年8月7日木曜日

空爆特攻隊(USA、1969年作)監督:ボリス・セイガル

 大英帝国の空軍RAF(Royal Air Force)が対ナチス・ドイツ帝国に空からの反攻を本格的に始めるのは、ようやく、1941年になってからである。何故なら、大英帝国は、1940年夏以降、「イングランド航空戦」を戦わなくてはならず、それが、長くて41年春まで掛かる。そして、北アフリカ戦線で英米連合軍が北アフリカ上陸後にロンメル軍団に優位を築くのは、42年夏であるから、この北アフリカ戦線へも爆撃機が割かれてもいたのである。

 このRAFに加わることになるのが、USA「陸軍」航空部隊United States Army Air Forces(USAAF)であり、対独戦略爆撃を担当することになるのは、USA陸軍第八Air Forceであった。因みに、対イタリア戦略爆撃を担当したのは、第九Air Forceであった。

 1941年12月7日(USA側の時間)の真珠湾攻撃により、USAは対日交戦状態となるが、日独伊三国同盟により、ナチス・ドイツもまた対USAへの宣戦布告を行なう。USA陸軍第八Air Forceがイギリス本土に移駐するのは、42年7月であるから、既に約半年でイギリスに移駐していたことになり、その翌月から対独戦略爆撃が始まる。このことは、USA軍の兵站力の強さを思わせる。

 この1942年段階での対独戦略爆撃について、あるUSA爆撃部隊・准将(グレゴリー・ペック)の作戦遂行上の苦悩を描いた作品が名作『頭上の敵機Twelve O'Clock High』(1949年作、ヘンリー・キング監督)である。「Twelve O'Clock High」とは、ドイツ空軍戦闘機がUSA爆撃機B-17を攻撃する際、防備の比較的薄い爆撃機の「船首」を目がけて、爆撃機から見て、12時方向真上から攻撃を仕掛けてくることを言う。

 「Flying Fortress(空飛ぶ要塞)」とは、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、クルーには、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれていたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーの時点は『頭上の敵機』より後で、本作と同じ1943年のことである。

 時は、1943年ともなると、RAFのランカスター四発爆撃機が行なう夜間絨毯爆撃に対して(ドイツ空軍のイギリス空襲への報復措置)、USA第八Air Force軍が担当する昼間「精密」爆撃も軌道に乗りつつあり、本作がストーリーを盛り上げるために述べ立てる「危険性」は、確かに、P-51マスタングの護衛戦闘機がドイツ上空まで付き添って来られる44年以降よりは高いはずであるが、42年の状況よりは低かったはずである。故に、本作冒頭の爆撃機18機を駆ったフランス東部のMetzメッツ市に対する空爆作戦は何も「秘密」にする程のものではなかったのである。(故に、本作の邦題『空爆特攻隊』は、可成りの誇大表示である。)

 しかも、本作の原作となるRalph Barkerが書いた『The Thousand Plane Raid』(本作の原題でもあり、Raidとは「急襲」の意味)は、実は、RAFが1942年五月に敢行したケルン爆撃の史実に基づくものであって、千機以上の爆撃機を投入しての爆撃作戦は、何もUSA陸軍航空部隊の独創的な作戦ではないのである。更に言えば、本作でクライマックスとされる、ベルリンより南にあるMerseburgメルゼブルクへの空爆も、実は、対象とされる、Bf109 メッサーシュミット機と並ぶドイツ名戦闘機Focke-Wulf 190フォッケ・ヴルフ190の製作工場(本社はブレーメン)は、筆者が調べたところでは、この地Merseburgにはなかったと思われるのである。Merseburgの近郊には、Leunaロイナという場所にドイツの軍需産業にとって重要な化学工場、とりわけ、石炭から燃料を製造する工場があり、この地に対する大規模空襲が行なわれるようになるのは、1944年五月からである。何れにしても、以上のように、本作のストーリーは可成りいい加減なものであることが想像できる。

 さて、「爆撃機千機投入作戦」は、RAFのBomber Commandを指揮することになったArthur Harrisアーサー・ハリス空軍元帥が、対独戦略爆撃の効用を大々的に宣伝するために考えついた作戦であった。こうして、未だ十分に爆撃機が足りていない状況であったにもかかわらず、北ドイツのハンブルクを攻撃地と定めて、英軍の各所に当たって、爆撃機を探し求め、1.047機をかき集めることが出来たのである。天候に大きく左右される夜間攻撃は、結局、1942年五月30日の夜に、二次目標であった、西部ドイツにあるケルン市に向けられた。

 このような「爆撃機千機投入作戦」は、その後、エッセン、ブレーメン、ベルリン、ミュンヘンに対して敢行されたが、これ程の大量投入とまでは行かなくとも、ドイツでの空襲でドイツ国民を大きく動揺させたものとしては、1943年夏のハンブルク空襲と1945年二月のドレースデン空襲である。

 エルベ川沿いの「ヴェネツィア」と呼ばれた文化都市ドレースデンに、休戦条約締結の五月八日まであと三ヶ月もない時期に大空襲を掛ける戦略的意味は殆んどなかったのであるが、それは、日本で言えば、東京大空襲の後の45年五月か六月に京都に空襲することと同様な意味合いを持ったのがこのドレースデン空襲であった。(この記事を書いている2025年八月六日、広島への原爆投下80周年の日に、ドイツの地のドレースデンでは、第二次世界大戦中に投下された不発爆弾が三個が発見され、無事に処理されたと言う。先日にはケルンでも同じ不発弾処理が同じ年の25年にニュースになっている。処理されたのは、あの最初の「爆撃機千機投入作戦」で投下された爆弾であったのであろうか。ドイツでは、「あの先の大戦」が終わって80年経っても未だに戦時中に投下された連合国軍の投下爆弾が発見されるのである。)

 一方、43年七月下旬からのハンブルク空襲はその死者が約三万四千人にも上った大惨事であった。ナチス・ドイツがソヴィエト連邦への侵攻を始めたのが、42年六月であったが、これを受けた、スターリン側の連合国へのヨーロッパ第二次戦線の構築の要求を宥めようとして、イギリス側は、戦略爆撃の方法を変えることにする。即ち、それまで、軍需施設や鉄道網の破壊に集中した爆撃攻撃を、無差別絨毯爆撃攻撃に転換し、とりわけ、工場労働者が住む住宅地域に焼夷弾を集中的に落とし、以って、住居を焼き払い、ドイツ産業の生産力を低下させるのみならず、ドイツ国民の士気を挫くことを目指すことにしたのである。このような文脈で、上述の42年五月の最初の「千機爆撃機投入作戦」が続行され、翌年七月下旬に、ユダヤ教の神が道徳的に堕落したGomorrahゴモラの市民の上に「硫黄と火の雨」を降らせて罰を与えた如く、ハンブルクに対して、「ゴモラ作戦」が決行される。

2025年8月4日月曜日

フライング・フォートレス(USA、2012年作)監督:マイク・フィリップス

 1939年九月にナチス・ドイツがポーランド西部を侵攻したことで、第二次世界大戦は勃発した。ファシズム・イタリアは、同じ全体主義のナチスの動向を注視していたが、ドイツが40年の対仏戦で圧勝すると、この年の六月十日に対英・仏に宣戦を布告する。

 これを受けて、翌日の六月11日、早速イギリスを飛び立ったRAFの爆撃隊は、途中で燃料を補給しつつ、イタリアのトリノにあったフィアット工場を爆撃し、また、未だ南仏に駐留していたイギリスの航空派遣部隊が、六月中旬に北イタリアの工業地帯、即ち、ジェノヴァ、トリノ、ミラノなどを戦略的に爆撃した。フランスのヴィシー政権が誕生すると、もちろん、この動きは止まり、イギリスは、対ナチス・ドイツとの「イングランド航空戦」に引き込まれる。

 大英帝国のRAFの対枢軸国への反攻が始まるのは、ようやく、1941年になってからであり、対イタリアへの本格的反攻も翌年の10月下旬になってからであった。北アフリカのロンメル軍団を北アフリカから追い出す見通しが付いたからである。こうして、北アフリカに駐留していたRAFの爆撃部隊は、1940年と同様に、北イタリアの工業地帯への戦略爆撃を開始する。42年12月に、北アフリカのチュニジアやアルジェリアなどに本拠を置くUSA陸軍第九Air Forceが戦略爆撃に参加し(対独戦略爆撃を担当したのは、第八Air Force)、南イタリアのナポリを攻撃する。このナポリ及びシチリア島にある町々への攻撃は1943年半ばまで続く。43年七月に連合軍のシチリア島侵攻が行なわれると、これ以降、連合国による、人口の多いイタリア諸都市に対する絨毯爆撃が連続して行われ、戦略爆撃の本来的目的である、インフラの破壊と住民の反ファシズム政権への動員が本格化する。同年七月12日には、イタリアで行なわれた空爆でそれまで最も大きな被害が出たトリノ空襲が遂行され、この空襲により、約800名の一般市民が死亡した。そして、この作戦に連動したものとして、本作でそのクライマックスとされる、最初のローマ大空襲は、米英爆撃隊の共同作戦「クロスポイント」として七月19日に実行される。これには約500機の爆撃機が参加することになる。この中の一機が、本作の主役たるB-17爆撃機Lucky Lass(「幸せを呼ぶ娘っ子」)号となる。

 約500機の米英連合爆撃隊は昼頃を中心にして約三時間、三波に分かれて爆撃を敢行し、とりわけ、ローマ市の東部にあるSan Lorenzo地区(貨物駅と製鉄所)を爆撃した。爆弾量は、合計一千トンに及ぶ。この攻撃により、約1.500人が死亡し、約1.600人が負傷した。多数の建物も破壊され、その内の一つが教皇バジリカ教会であるSan Lorenzo教会であった。

 時の教皇ピウスXII世はSan Lorenzo地区に早速赴き、住民に慰めの言葉を掛けたが、教皇庁は、連合国側に抗議の声明を出し、USA大統領F.ルーズヴェルトに対し、ローマのキリスト教世界の「首都」としての性格を尊重し、今後このような爆撃が聖都に行なわれないように要請し、また、イタリアの政権に対しては、軍事司令部をローマから移動させて、連合国側にローマ空襲の口実を与えないように呼び掛け、ローマを「開城都市」として宣言した。(映画では、連合国側がヴァティカンに連絡を取り、また、事前に爆撃地域を告知してあり、ビラで地域住民が爆撃地域から避難するように呼び掛けてあるという設定である。本当であろうか?)

 この作戦の六日後、ムッソリーニ政権は倒れ(つまり、今日でいう「レジーム・チェインジ」)、戦略爆撃の本来の目的が達成された、歴史上最初の事例となる。九月八日、イタリアと連合国との休戦協定が成立する。

 しかし、43年九月以降、イタリアを占領しているドイツ軍に対する地上攻撃支援の意味を持つ、今度は戦術爆撃を米英連合爆撃隊は、とりわけ、中部イタリアに対して敢行する。その空爆が持つ戦争犯罪に繋がる側面が最悪に出たケースが、ローマから南にあるモンテカシーノ修道院に対する爆撃で、ここにドイツ軍の監視所が置かれると誤認した連合軍は、約400機の爆撃機を動員して、この修道院を建物の土台が分からなくなるまで爆撃したと言う。こうして続けられた、イタリアにおける対独戦の結果、連合軍は、聖都ローマを占領することとなるが、それは、1944年六月四日、対ローマの最初の大空襲から約11ヶ月が経ってからのことであった。(ウィキペディアによると、この期間のローマ爆撃「キャンペーン」で約600機の連合国爆撃機が失われ、約3.600人の連合国航空兵が戦死したと言われている。)

 本作の題名『Flying Fortress』(「空飛ぶ要塞」)は、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったところから、偵察機や対潜哨戒機にも使われた機種であるが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、乗組員には、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーは本作と同じ1943年のことで、ある対独戦略爆撃飛行を描く。一方、本作は、同じ1943年でありながら、対イタリア戦略爆撃飛行を描き、Lucky Lass号の渾名が称する如く、損傷を受けながらも、自陣の航空基地近くまで到達し、砂漠上に乗組員がパラシュートで降下し、機体は失われるものの、乗組員の一部が無事に基地に帰還するストーリーである。『Memphis Belleメンフィス・ベル』での護衛戦闘機がP-51マスタングであったのに対し、本作では、戦闘機としてCurtiss P-40トマホーク/キティ―ホークが護衛して、ドイツ軍戦闘機メッサーシュミット機とドッグファイトを展開するのも、興味深い点であろう。(P-40は、大戦初期においては、Bf109 メッサーシュミット機には対抗できる戦闘機ではなかったと言われており、本作に登場するP-40は改良型のキティホークIV型であるらしい。)

 同じく地中海乃至イタリアでの航空戦を描いた『キャッチ22』(1970年作、M.ニコルズ監督)では、登場する爆撃機は、双発中型爆撃機B-25ミッチェルであり、この作品では、戦略爆撃の問題性が風刺的に描かれている点、本作の無批判なストーリー展開に一つの視点を示すものとして、併せてご覧になることをお勧めする。

泣け!日本国民 最後の戦斗機(日本、1956年作)監督:野口 博志

 まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。  すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには...