1939年九月にナチス・ドイツがポーランド西部を侵攻したことで、第二次世界大戦は勃発した。ファシズム・イタリアは、同じ全体主義のナチスの動向を注視していたが、ドイツが40年の対仏戦で圧勝すると、この年の六月十日に対英・仏に宣戦を布告する。
これを受けて、翌日の六月11日、早速イギリスを飛び立ったRAFの爆撃隊は、途中で燃料を補給しつつ、イタリアのトリノにあったフィアット工場を爆撃し、また、未だ南仏に駐留していたイギリスの航空派遣部隊が、六月中旬に北イタリアの工業地帯、即ち、ジェノヴァ、トリノ、ミラノなどを戦略的に爆撃した。フランスのヴィシー政権が誕生すると、もちろん、この動きは止まり、イギリスは、対ナチス・ドイツとの「イングランド航空戦」に引き込まれる。
大英帝国のRAFの対枢軸国への反攻が始まるのは、ようやく、1941年になってからであり、対イタリアへの本格的反攻も翌年の10月下旬になってからであった。北アフリカのロンメル軍団を北アフリカから追い出す見通しが付いたからである。こうして、北アフリカに駐留していたRAFの爆撃部隊は、1940年と同様に、北イタリアの工業地帯への戦略爆撃を開始する。42年12月に、北アフリカのチュニジアやアルジェリアなどに本拠を置くUSA陸軍第九Air Forceが戦略爆撃に参加し(対独戦略爆撃を担当したのは、第八Air Force)、南イタリアのナポリを攻撃する。このナポリ及びシチリア島にある町々への攻撃は1943年半ばまで続く。43年七月に連合軍のシチリア島侵攻が行なわれると、これ以降、連合国による、人口の多いイタリア諸都市に対する絨毯爆撃が連続して行われ、戦略爆撃の本来的目的である、インフラの破壊と住民の反ファシズム政権への動員が本格化する。同年七月12日には、イタリアで行なわれた空爆でそれまで最も大きな被害が出たトリノ空襲が遂行され、この空襲により、約800名の一般市民が死亡した。そして、この作戦に連動したものとして、本作でそのクライマックスとされる、最初のローマ大空襲は、米英爆撃隊の共同作戦「クロスポイント」として七月19日に実行される。これには約500機の爆撃機が参加することになる。この中の一機が、本作の主役たるB-17爆撃機Lucky Lass(「幸せを呼ぶ娘っ子」)号となる。
約500機の米英連合爆撃隊は昼頃を中心にして約三時間、三波に分かれて爆撃を敢行し、とりわけ、ローマ市の東部にあるSan Lorenzo地区(貨物駅と製鉄所)を爆撃した。爆弾量は、合計一千トンに及ぶ。この攻撃により、約1.500人が死亡し、約1.600人が負傷した。多数の建物も破壊され、その内の一つが教皇バジリカ教会であるSan Lorenzo教会であった。
時の教皇ピウスXII世はSan Lorenzo地区に早速赴き、住民に慰めの言葉を掛けたが、教皇庁は、連合国側に抗議の声明を出し、USA大統領F.ルーズヴェルトに対し、ローマのキリスト教世界の「首都」としての性格を尊重し、今後このような爆撃が聖都に行なわれないように要請し、また、イタリアの政権に対しては、軍事司令部をローマから移動させて、連合国側にローマ空襲の口実を与えないように呼び掛け、ローマを「開城都市」として宣言した。(映画では、連合国側がヴァティカンに連絡を取り、また、事前に爆撃地域を告知してあり、ビラで地域住民が爆撃地域から避難するように呼び掛けてあるという設定である。本当であろうか?)
この作戦の六日後、ムッソリーニ政権は倒れ(つまり、今日でいう「レジーム・チェインジ」)、戦略爆撃の本来の目的が達成された、歴史上最初の事例となる。九月八日、イタリアと連合国との休戦協定が成立する。
しかし、43年九月以降、イタリアを占領しているドイツ軍に対する地上攻撃支援の意味を持つ、今度は戦術爆撃を米英連合爆撃隊は、とりわけ、中部イタリアに対して敢行する。その空爆が持つ戦争犯罪に繋がる側面が最悪に出たケースが、ローマから南にあるモンテカシーノ修道院に対する爆撃で、ここにドイツ軍の監視所が置かれると誤認した連合軍は、約400機の爆撃機を動員して、この修道院を建物の土台が分からなくなるまで爆撃したと言う。こうして続けられた、イタリアにおける対独戦の結果、連合軍は、聖都ローマを占領することとなるが、それは、1944年六月四日、対ローマの最初の大空襲から約11ヶ月が経ってからのことであった。(ウィキペディアによると、この期間のローマ爆撃「キャンペーン」で約600機の連合国爆撃機が失われ、約3.600人の連合国航空兵が戦死したと言われている。)
本作の題名『Flying Fortress』(「空飛ぶ要塞」)は、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったところから、偵察機や対潜哨戒機にも使われた機種であるが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、乗組員には、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーは本作と同じ1943年のことで、ある対独戦略爆撃飛行を描く。一方、本作は、同じ1943年でありながら、対イタリア戦略爆撃飛行を描き、Lucky Lass号の渾名が称する如く、損傷を受けながらも、自陣の航空基地近くまで到達し、砂漠上に乗組員がパラシュートで降下し、機体は失われるものの、乗組員の一部が無事に基地に帰還するストーリーである。『Memphis Belleメンフィス・ベル』での護衛戦闘機がP-51マスタングであったのに対し、本作では、戦闘機としてCurtiss P-40トマホーク/キティ―ホークが護衛して、ドイツ軍戦闘機メッサーシュミット機とドッグファイトを展開するのも、興味深い点であろう。(P-40は、大戦初期においては、Bf109 メッサーシュミット機には対抗できる戦闘機ではなかったと言われており、本作に登場するP-40は改良型のキティホークIV型であるらしい。)
同じく地中海乃至イタリアでの航空戦を描いた『キャッチ22』(1970年作、M.ニコルズ監督)では、登場する爆撃機は、双発中型爆撃機B-25ミッチェルであり、この作品では、戦略爆撃の問題性が風刺的に描かれている点、本作の無批判なストーリー展開に一つの視点を示すものとして、併せてご覧になることをお勧めする。
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