2026年2月4日水曜日

ゴジラ(日本、1954年作)監督:本多 猪四郎

「呉爾羅」、大都を襲う!

 このゴジラ映画シリーズの第一作目を記念する東宝特撮映画は、「水爆大怪獣映画」とポスターに銘打たれた。

 まず、ここでは、「原爆怪獣」ではなく、「水爆怪獣」となっていることに気を付けたい。冷戦は、遅くとも1950年代に入ると共に、原爆よりも何倍も破壊力がある水爆による「熱戦」の可能性が現実味を帯びていたのである。既に、通常兵器による東西冷戦の代理戦争、つまり、朝鮮戦争は1950年に勃発しており、この日本の近隣での戦争の中で、日本は、西側だけとの一方的平和条約を1951年に締結し、朝鮮戦争による「特需」で、「奇蹟的経済復興」の端緒を掴むことになる。そして、朝鮮戦争が停戦協定により取り敢えず休戦したのが、1953年の七月下旬である。こうした国際環境の中、翌年三月一日に起こったのが、第五福竜丸被曝事件である。これは、USAのビキニ環礁での初の水爆実験で、予想外の爆発力の結果、危険水域外であると言われていた水域にいた数多くの漁船(一説によると1400隻以上)が被曝し、その内の一隻であった遠洋マグロ漁船・第五福竜丸でも、その乗組員23名が水爆爆発後の「死の灰」を浴びた。第五福竜丸は、被曝したものの救難連絡はせずに、三月中旬に自力で静岡県焼津港に帰還する。この事件は新聞にスクープされ、日本は、原爆のみならず、水爆の被害にも曝された国として、また、被曝したマグロは、本作でも言及された通り、「原爆マグロ」と呼ばれて廃棄されたのであった。こうして、第五福竜丸被曝事件は、54年四月以降、日本全国で知られるところとなる。

 さて、東宝製作による本作のプロデューサーとなった田中友幸は、これに先立つ1953年八月以降、日本とインドネシアとの合作映画『栄光のかげに』の制作のために奔走し、監督に谷口千吉を、主演に山口淑子、池辺良を招いて、敗戦後も日本に帰還せず、インドネシア独立のために対オランダ独立闘争を闘った元日本兵をテーマとした映画を制作する目的で動いていた。第五福竜丸被曝事件と同月の54年三月には、東宝側はインドネシアに撮影機材を送って、四月からのクランクインに備えていた程であった。しかし、未だ日本とインドネシアの間での国交が回復されておらず、戦後の賠償問題も解決していない中、自国の占領軍であった大日本帝国軍の一員が解放運動の「英雄」となる「虫のよい」話しがインドネシア政府に気に入るはずもなく、三月下旬に急に合作制作の契約が解除となる事態となる。田中は、急遽、代替え案を出さざる得なくなる。まずは、監督の谷口には、文芸作品として当時ベストセラーとなっていた三島由紀夫作品『潮騒』の映画化に回ってもらう。そして、二本の戦争もの『太平洋の嵐』(1953年作)と『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で、戦中からのプロパガンダ用の特撮映画が戦後もその可能性が大きいことに改めて気付いていた田中は、ウィキペディアによると、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の代替え企画を、ジャカルタから東京への帰路、立てたと言う。

 東京の東宝本社の企画会議で上述の企画に関して一応の了承を取り付けると、田中は文芸部と大まかな方向性を54年五月には決めるが、水爆大怪獣の名称はこの時には既に「呉爾羅」となっていたようである。田中は同月、自らもファンである怪奇幻想・冒険ものの作家である香山滋に原作を依頼し、「G作品検討用台本」が同月末には出来上がった。

 既に、田中はプロデューサーとして、『さらばラバウル』(初上映は54年二月)で円谷英二と一緒の仕事をしており、「G作品」の特撮は円谷が担当することは早くから決まっていたが、池辺良主演の『さらばラバウル』の監督が本多猪四郎であったこともあり、田中は本多を「G作品」監督に連投で担当させ、脚本家・村田武雄を、生活感の薄い香山原作の「G作品検討用台本」により人間味を与える目的で選び出し、彼に本多と共同で「G作品準備稿」の作成に当たらせた。本作に漂う平和を願う雰囲気や女子高校生が平和を祈る斉唱のシーンなどはクリスチャンであった村田の存在なしでは考えられないと一部では評されている。こうして、「撮影台本決定稿」が出来上がっていくが、撮影監督には、正攻法で撮るヴェテランカメラマンであった玉井正夫を起用した。玉井は、東宝の女性ものの名監督・成瀬巳喜男の作品を何本も撮った、言わば、成瀬組撮影監督であり、本作本編のしっかりした撮影に相応しい人物であったと言える。本作の制作年の54年には、成瀬監督の下、『山の音』(川端康成原作)、『晩菊』(林芙美子原作)などの文芸作品を撮っている。

 本作制作には、東宝は、本多組の本篇A班、円谷組の特技B班、そして、本編映像と特撮映像の合成加工を担当する合成C班(チーフ:向山宏)の三班体制で取り掛かり、本篇A班は54年八月上旬に、特技B班は同月下旬に撮影入りした。A班は、九月下旬に、B班は、撮影準備に時間が掛かったところから、ようやく十月下旬に撮了した。予定の初上映日の11月3日にようやく間に合った訳である。

 このような東宝側の動きに対して、第五福竜丸被曝事件を巡る動静は、水爆大怪獣映画を撮る方向性が決まった五月上旬に新たな運動へと発展した。この時期、東京都杉並区の婦人団体(本作に登場する、菅井きん演ずるところの女性国会議員の態度に見られる日本人女性の行動力を思わせる)、福祉協議会、PTA、労働組合などが音頭を取って、約40人の代表人が、「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成し、「杉並アピール」なる声明を発表する。この署名運動は、またたく間に全国に拡がり、その三ヶ月後の八月上旬、つまり本多A班の撮影入りの時期には、「全国協議会」の結成大会が東京都で開催されることになる。これが一年後には55年八月六日に広島で開催された「第一回原水爆禁止世界大会」に繋がる訳である。

 A班の撮影が終了するのは、上述したように、九月下旬であったが、同月の中旬の9月24日に本作でも重要な場面となる女子高校生斉唱の撮影が行われた。実は、その前日、第五福竜丸の船員の一人あった久保山愛吉が、当時の東大の医師の診断によれば、「放射能症」が原因で亡くなっていた。久保山の病死は、日本人被曝者の内、半年以内で亡くなった唯一のケースとなったが、このことが日本での原水爆禁止運動の展開に具体的な動機を与えたことは間違いない。

 こうして、「水爆大怪獣映画 ゴジラ」は、初上映日の11月3日を迎え、怪獣ものという「ゲテモノ作品」であるのにも関わらず、これがヒット作となった社会的背景には、第五福竜丸被曝という現実の事件、社会的な運動に発展しつつあった原水爆禁止署名運動の存在を抜きにしては考えられないのではないか。

 とは言え、もう一方では、科学技術への未来主義的信仰も本作にあることは、見逃せない。本作のキャッチコピーが次のように言っている:

 「ゴジラか化学兵器か 驚異と戦慄の一大攻防戦!放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!」

 水爆という、地球をも破壊し兼ねない「科学技術の結晶」によって、解き放たれたジュラ紀の恐竜ゴジラに、人類はやはり化学兵器を以って対抗しようと言う。その化学兵器が、オキシジェン・デストロイヤーである。どうも、戦時中からドイツと共同開発をしていたらしいものを、天才科学者芹沢(平田昭彦)が極秘裏に戦後の日本で開発していたのである。右目に黒の眼帯を掛け、自宅の邸宅の地下にある実験室で新兵器を完成させた芹沢は、映画の78分台、ゴジラの大都での暴威を抑え込むために彼が開発した新兵器を使用するように頼みに来た主人公の尾形(宝田明)に次のように言う:

 「尾形、若しも一旦このオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後、世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ... 必ずこれを武器として使用するに決まっている。原爆対原爆、水爆対水爆、その上さらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは科学者として、いや、一個の人間として許す訳にはいかない。そうだろう。」

 これに対して若い尾形は、現前としてある不幸を見逃せないし、新兵器の存在は公表しなければいいのではないかと反論する。すると、自己の立場に懊悩する芹沢は言う:

 「尾形、人間というものは弱いもんで、一切の書類を焼いたとしても、俺の頭の中には残っている... 俺が死なない限り、どんなことで再び使用する立場に追い込まれないと誰が断言できる... ああ、こんなものさえ作らなきゃ。」

 芹沢は両手で頭を抱えて側にあった机の上に崩れ落ちる。BGMには葬送曲のような重々しいメロディーが既に流れている。オフから声が聞こえてくる:

「安らぎよ、光よ、とくかえれかし、本日全国一斉に行なわれました平和への祈り。これは東京からお送りするその一コマであります。暫くは命込めて祈る乙女達の歌声をお聞きください。」

 どういう訳かスイッチが入っていた、日本国産初のテレビ「ユタカ テレビ」は、まずは東京の廃墟を写し、続けて、看護婦達に看護される被災者、怪我人を捉える。未だ十年も経っていない東京大空襲後の帝都東京を思わせる画面が変わると、ある講堂に一杯に整列した女子生徒達が歌を斉唱している:

『平和への祈り』
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
命こめて 祈る我らの この一ふしの 哀れにめでて
やすらぎよ、光よ とく かえれかし
嗚呼

 この曲の作詞は、原作者の香山滋が書いたものであり、作曲は、本作の音楽を担当した伊福部昭である。この女子高生が斉唱する場面は、上述の通り、54年9月24日に撮られたものである。撮影場所は、当時女子中学校・高等学校であった桐朋学園の大講堂であった。撮影時には、女子高校生のみ、約570名を大講堂床面並びにギャラリーにも整列させ、その彼女達の前の講壇に伊福部が自ら立って指揮をしたと言う。映画で聞こえてくる声は、本職の合唱グループが歌ったものをプレスコで場面に合わせて被せたものであるが、台風一五号が近づいていたところから、「うだるような暑さ」の中で、女子高校生達は、暗記した歌詞を真摯に歌っていたと言う。この場面について考察しているある投稿記事(『桐朋教育』第56号;筆者:飯島望)によると、撮影時間は午後一時からの二・三時間のことであり、女子生徒達の多くがその前日に久保山愛吉が死亡したことを知っていたのではないかと推測している。何れにしても、清純な乙女達が真摯に平和への祈りを斉唱するシーンは、本作を単なる怪獣映画に終わらせない、本作の社会的な深みを感じさせる名場面である。

 この歌に聴き入っていた芹沢は、ある決心をして、おもむろにテレビのスイッチを切ったのである。

ゴジラ(日本、1954年作)監督:本多 猪四郎

「呉爾羅」、大都を襲う!  このゴジラ映画シリーズの第一作目を記念する東宝特撮映画は、「水爆大怪獣映画」とポスターに銘打たれた。  まず、ここでは、「原爆怪獣」ではなく、「水爆怪獣」となっていることに気を付けたい。冷戦は、遅くとも1950年代に入ると共に、原爆よりも何倍も破壊力が...