意欲作ではあるが、残念ながら中途で頓挫
Andy Warholの有名な「格言」„In 15 minutes everybody will be famous.” から本作の題名『15ミニッツ』は採られているのであるが、本作は、謂わば劇中劇、「映画の中の映画」を見せることでストーリー構造のメタ・レベルを示す。そのことで、制作、創作のレベルが、作品の鑑賞のレベルに取り込まれるのである。そのことは、確かに、作品の構造を深めるためには、いい手ではあるのであるが、これは、既にやりつくされている感のある手法なので、創作の「作戦」としては、今ではもう「二番煎じ」であり、それ自体としては新鮮味が余り無くなっているのもまた実態であろう。それでもなお、この手を使うのであれば、そこには、「新趣向」を試みることが要求されるが、さて、本作ではそれができているか。
本作は、ストーリー的には三つの層から出来ている。一つは、N.Y.警察の殺人課の、ベテランで老獪な刑事エディ・フレミング(ロベルト・デ・ニーロがいつものようにこの役を上手くこなしている)と、消防署管轄の刑事捜査担当である、若き捜査官ジョーディ・ウォーソーとの、ほとんど父子的な関係の展開である。
第二の層は、犯罪とメディアの関係である。とりわけ、特ダネ・キャスターであるロバート・ホーキンス(Kelsey Grammerケルシー・グラマーがその役を見事に体現)が、如何に視聴率確保のために倫理的境界をたやすく乗り越えていくか、その巧言令色な「したたかさ」に焦点が当てられているレベルである。
第三層目が、ロシア人出身の犯罪者Emilエミールとそのチェコ人の相棒Olegオレグが巻き起こす犯罪の数々である。そして、映画好きのオレグが万引きしたカムコーダーで撮る映像が、更にストーリーのメタ・レベルを形成しているのである。オレグは、自分が見た、1946年制作のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』に感動を受けたと映画の冒頭で語り、ことあるごとに自分をその監督である「フランク・キャプラ」と名乗るのである。ここに本作の監督John Herzfeldジョン・ハーツフェルドに隠された意図があるのであろうか。
監督ハーツフェルドは、本作ではプロデューサーの一人でもあり、また脚本も書いている。という訳で、上述の四重構造のストーリーは、監督自身の意図を強く反映していると見て差し支えないが、観ていて、よく言えば重層的と言えるものが、その取り扱いの浅薄さで、集中力のない、焦点の定まっていない作りになっているともまた言えるのである。
この作品の浅薄感は、ラスト直前のショー・ダウンで、帰責能力なしということで、フレミング殺害の懲罰を逃れようとするエミールを、ウォーソーがほとんどリンチ的に射殺し、その後は、颯爽として現場を去るという、ウエスタン的パッピー・エンドでさらに強まるのである。
さて、最初の質問に戻って、本作において、「映画の中の映画」による新趣向が提示されたか、であるが、本作、惜しい哉、そこまでには踏み切れなかったと言えるだろう。
本ストーリーの映画の画像に、ソラリゼーション、白黒などの効果も含めて、カムコーダーで撮られた映像を上手く取り入れた、フランス出身のキャメラマン、Jean-Yves Escoffierジャン=イヴ・エスコフィエ、そして、編集のSteven Cohenスティーヴン・コーエンの力量は買うものの、ストーリー的には、犯罪者がヴィデオで映像を撮影するという、ストーリーのメタ・レベルが、映画の後半から、ストーリーの他の層に食い込んでいくのであるが、結局は食い破れずにメタ・レベルに押し込まれてしまう。個人的には、寡聞にしてその他の例を観たことがないのであるが、メタ・レベルと他のストーリーとの関係が逆転するところまで行けば、そこに新趣向が出たと思うのである。が、さて、そこまで「映画作家」性を、元々俳優上がりの監督J.ハーツフェルド(1947年生まれ)に求めるのは、少々酷いのかもしれない。
2022年11月24日木曜日
2022年11月23日水曜日
ディア ドクター(日本、2009年作) 監督:西川 美和
ラスト・シーンの、女優八千草薫の、大いなる笑みが光る
無医村という現代日本の社会問題をコメディー・タッチとして描くのは、重い問題を重いものとして物語る気合が無くなった現代では、その商業主義的方策にも合致した手であり、また、人間的悲劇を「喜劇」として見るA.チェホフ的立場から言えば、なくもない。
しかしながら、本作冒頭のシーン、偽医者が逃亡してからの村人のドタバタと、このシーンに直後に続く、研修医と偽医者の、交通事故一歩手前の「邂逅」とは、如何にも笑いを誘おうというわざとらしさが何となく感じられて、いただけない。
しかしながら、本作冒頭のシーン、偽医者が逃亡してからの村人のドタバタと、このシーンに直後に続く、研修医と偽医者の、交通事故一歩手前の「邂逅」とは、如何にも笑いを誘おうというわざとらしさが何となく感じられて、いただけない。
とは言え、コメディー・タッチ路線のその一貫性ということでは、本作の主人公を演じる役者を落語家にしたことは、当然と言えば当然と言う感も無きにしも非ずである。この意味で、作中に落語の話が出てくるのも頷けるし、ラスト・シーンは、これまた落語必須の「オチ」と見なすことも可能であろう。
但し、主役を演じている笑福亭鶴瓶の個性に監督が呑まれて、果たして監督自身の演出が効いているのか、キャスティングの妙と言えば、それはそれで収まるかもしれないが、監督が本来的には脚本家出であることを勘案すると、疑問とする面も多々ありである。
しかし、である。ストーリー全体を人間喜劇として一括りにし、冒頭の事件ばりの描き出しで物語の現在軸を出し、これに回想場面を適宜入れていき、この展開を以って、「偽医者」の人間像を描こうとする、この女流監督の、原作者・脚本家としての手腕は並々ではないものを感じさせる。
とりわけ、無くてもよかったのではないかと巷で取り沙汰されているというラスト・シーンは、蓋し、偽医者が、村で関わった病人八千草に、失踪後もう一度関わっていくということで、偽医者が持つ人間性の深みを強調するものであり、ストーリーの全体像に真実味を持たせる上で絶好のエピソードである。
また、このラスト・シーンでの八千草の演技は、絶妙である。最初は、気が付かずにいたものが、不意に気が付き、事の次第に驚く。しかし、すぐに事情を察知し、これに笑顔で応える。この笑顔がまた複雑な笑いを込めており、わずか10秒にも満たない演技でありながら、それまでの90分前からのストーリー展開を凝縮させる力を持っているのである。
自分の娘に知らせたくない病いを持ち、それでも自分の病気がどう進行しているのか、不安で知りたくて、結局は、偽医者に診察させる八千草。そして、その病状を偽る嘘を偽医者にも頼む八千草。元々嘘の身分の偽医者が、患者に嘘を頼まれるという、謂わば人生の「皮肉」である。そして、この事情を頭に入れてラスト・シーンの八千草の笑みを読むと、そこに、嘘がバレないようにという遊び心の「共犯者」の笑みが紛れ込んでいるのではないか。この複雑なる笑みを体現した八千草薫という女優の演技力に筆者は脱帽するものである。
但し、主役を演じている笑福亭鶴瓶の個性に監督が呑まれて、果たして監督自身の演出が効いているのか、キャスティングの妙と言えば、それはそれで収まるかもしれないが、監督が本来的には脚本家出であることを勘案すると、疑問とする面も多々ありである。
しかし、である。ストーリー全体を人間喜劇として一括りにし、冒頭の事件ばりの描き出しで物語の現在軸を出し、これに回想場面を適宜入れていき、この展開を以って、「偽医者」の人間像を描こうとする、この女流監督の、原作者・脚本家としての手腕は並々ではないものを感じさせる。
とりわけ、無くてもよかったのではないかと巷で取り沙汰されているというラスト・シーンは、蓋し、偽医者が、村で関わった病人八千草に、失踪後もう一度関わっていくということで、偽医者が持つ人間性の深みを強調するものであり、ストーリーの全体像に真実味を持たせる上で絶好のエピソードである。
また、このラスト・シーンでの八千草の演技は、絶妙である。最初は、気が付かずにいたものが、不意に気が付き、事の次第に驚く。しかし、すぐに事情を察知し、これに笑顔で応える。この笑顔がまた複雑な笑いを込めており、わずか10秒にも満たない演技でありながら、それまでの90分前からのストーリー展開を凝縮させる力を持っているのである。
自分の娘に知らせたくない病いを持ち、それでも自分の病気がどう進行しているのか、不安で知りたくて、結局は、偽医者に診察させる八千草。そして、その病状を偽る嘘を偽医者にも頼む八千草。元々嘘の身分の偽医者が、患者に嘘を頼まれるという、謂わば人生の「皮肉」である。そして、この事情を頭に入れてラスト・シーンの八千草の笑みを読むと、そこに、嘘がバレないようにという遊び心の「共犯者」の笑みが紛れ込んでいるのではないか。この複雑なる笑みを体現した八千草薫という女優の演技力に筆者は脱帽するものである。
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