本作品に登場する、Buffalo BillことWilliam F. Cody (1846-1917), 名優B.ランカスター演じるところの、酒場に入り浸りのジャーナリスト兼作家Ned Buntline(1823-1886), そして、もちろん1866年からの十年間の、北米インディアンの「民族解放闘争」の最大の立役者の一人“Sitting Bull“(1831頃-1890)の、何れも歴史上の実在の人物である。
さて、「Wild West」を売り物にするショー・ビジネスのアイディアは、実はもう一人の「Bill」が既に1870年代の初めに持っていたものである。この「Wild Bill」の本名はJames B. Hickok (1837-1876)といい、アメリカ史上、ヒーロー・ガンマンとして有名となり、また、バッファロー狩りの名手として勇名を馳せた人物である。その名声を、上述のニューヨーク出身のジャーナリストN. Buntlineが聞き及び、彼とのインタビューを売り出そうと考えてBuntlineは西部に出かる。しかし、彼がWild Billに追い返されて、すごすごとニューヨークに戻ろうとしていたところで、彼が、Wild Billとも知り合いであったBuffalo Billに出会い、この人物に惚れ込んだことで、『辺境の王、Buffalo Bill Cody』という三文小説を書くのである。これがまた世間で意外と当たったのである。しかし、1873年には、BuntlineとCodyの仲は悪くなり、二人は袂を分かつこととなる。
それでは、この三文作家Buntlineと別れたCodyの方はどうなったか。Codyもまた、元々はWild Billと同様に南北戦争中とその戦後、故に1860年代にスカウトとして働いていた。その傍ら、バッファロー狩りの名手として鉄道会社の建設作業員にバッファローの肉を供給する仕事をし、ここから、通称となるBuffalo Billの渾名が付くのである。
Buntlineと会う70年代の初めまでは駅馬車の御者として生計を立てていたが、Buntlineとの邂逅が彼の人生を大きく変えることとなり、Buntlineと訣別した後は、下積み時代を過ごした後、1883年に自分のショービジネス「企業」を興すに至る訳である。その「企業戦略」の一環が、例の「悪名高き」Sitting Bullの謂わば「見世物小屋」への呼び込みであったのである。
では、そのSitting Bullであるが、彼はスー族の酋長として白人の西部侵攻に抵抗し、あの有名な、カスター中佐(正式には「将軍」ではない)の指揮する第七騎兵連隊が殲滅される1876年のリトル・ビッグホーンの戦い(先住民族の呼び名では「Battle of the Greasy Grass」)の、精神的指導者であった人物である。戦いの後は、騎兵隊に復讐の対象として執拗に追われる身となり、一時カナダに逃げたりもするものの、結局インディンの生活の基盤となるバイソンが根こそぎ捕獲されたことで、その生活の道を断たれて、1881年にアメリカ政府側に投降するところとなり、インディアンにとっては屈辱的である「居留区」で生活することを余儀なくされていた。
そんな中、彼は、1885年にBuffalo Billに雇われることとなり、そのことを通じて、アメリカ政府側の彼ら先住民に対する違約行為を公にしようとしていたようであった。1890年12月半ば、交霊踊りの祭礼行為から発生したいざこざから、官憲当局に捕らわれる身となり、その直後官憲の手によって射殺される。その遺体は冒涜されたという。
以上、比較的詳しく本作品に登場した人間たちの伝記的関わり具合を書き並べたが、それは、それと映画のストーリーとのギャップを浮かび上がらせることで、確かに元になる演劇作品があるにはせよ、巨匠アルトマンの制作の意図を明らかにしたいからである。
Wild Billは映画では登場してこないが、彼は長髪であったようで、P.ニューマンの演じるダンディーな「Buffalo Bill」の身なりのモデルになっているようである。Buntlineとの訣別は実際には1873年のこと、Sitting Bullの死は1890年のこと、何れもその時点を演劇効果を高めるために後ろと前にずらしている。
しかも、ショービジネスの虚飾性を暴露する、この映画の本旨は、(巨匠アルトマンの同様の意図の、1994年の作品『プレタ・ポルテ』を思い出してもらいたいが)一方では、アメリカ西部の「英雄」伝説を作り上げた知識人の「著作権」の主張(作家Buntlineの立場)を排除し、他方では、カスター「将軍」英雄伝説において、「悪玉」たる先住民族の生存権(北米インディアンSitting Bullの立場)が踏み躙られる、白人側の利己的な自己讃美の傲慢さの暴露であった。
さて、「Wild West」を売り物にするショー・ビジネスのアイディアは、実はもう一人の「Bill」が既に1870年代の初めに持っていたものである。この「Wild Bill」の本名はJames B. Hickok (1837-1876)といい、アメリカ史上、ヒーロー・ガンマンとして有名となり、また、バッファロー狩りの名手として勇名を馳せた人物である。その名声を、上述のニューヨーク出身のジャーナリストN. Buntlineが聞き及び、彼とのインタビューを売り出そうと考えてBuntlineは西部に出かる。しかし、彼がWild Billに追い返されて、すごすごとニューヨークに戻ろうとしていたところで、彼が、Wild Billとも知り合いであったBuffalo Billに出会い、この人物に惚れ込んだことで、『辺境の王、Buffalo Bill Cody』という三文小説を書くのである。これがまた世間で意外と当たったのである。しかし、1873年には、BuntlineとCodyの仲は悪くなり、二人は袂を分かつこととなる。
それでは、この三文作家Buntlineと別れたCodyの方はどうなったか。Codyもまた、元々はWild Billと同様に南北戦争中とその戦後、故に1860年代にスカウトとして働いていた。その傍ら、バッファロー狩りの名手として鉄道会社の建設作業員にバッファローの肉を供給する仕事をし、ここから、通称となるBuffalo Billの渾名が付くのである。
Buntlineと会う70年代の初めまでは駅馬車の御者として生計を立てていたが、Buntlineとの邂逅が彼の人生を大きく変えることとなり、Buntlineと訣別した後は、下積み時代を過ごした後、1883年に自分のショービジネス「企業」を興すに至る訳である。その「企業戦略」の一環が、例の「悪名高き」Sitting Bullの謂わば「見世物小屋」への呼び込みであったのである。
では、そのSitting Bullであるが、彼はスー族の酋長として白人の西部侵攻に抵抗し、あの有名な、カスター中佐(正式には「将軍」ではない)の指揮する第七騎兵連隊が殲滅される1876年のリトル・ビッグホーンの戦い(先住民族の呼び名では「Battle of the Greasy Grass」)の、精神的指導者であった人物である。戦いの後は、騎兵隊に復讐の対象として執拗に追われる身となり、一時カナダに逃げたりもするものの、結局インディンの生活の基盤となるバイソンが根こそぎ捕獲されたことで、その生活の道を断たれて、1881年にアメリカ政府側に投降するところとなり、インディアンにとっては屈辱的である「居留区」で生活することを余儀なくされていた。
そんな中、彼は、1885年にBuffalo Billに雇われることとなり、そのことを通じて、アメリカ政府側の彼ら先住民に対する違約行為を公にしようとしていたようであった。1890年12月半ば、交霊踊りの祭礼行為から発生したいざこざから、官憲当局に捕らわれる身となり、その直後官憲の手によって射殺される。その遺体は冒涜されたという。
以上、比較的詳しく本作品に登場した人間たちの伝記的関わり具合を書き並べたが、それは、それと映画のストーリーとのギャップを浮かび上がらせることで、確かに元になる演劇作品があるにはせよ、巨匠アルトマンの制作の意図を明らかにしたいからである。
Wild Billは映画では登場してこないが、彼は長髪であったようで、P.ニューマンの演じるダンディーな「Buffalo Bill」の身なりのモデルになっているようである。Buntlineとの訣別は実際には1873年のこと、Sitting Bullの死は1890年のこと、何れもその時点を演劇効果を高めるために後ろと前にずらしている。
しかも、ショービジネスの虚飾性を暴露する、この映画の本旨は、(巨匠アルトマンの同様の意図の、1994年の作品『プレタ・ポルテ』を思い出してもらいたいが)一方では、アメリカ西部の「英雄」伝説を作り上げた知識人の「著作権」の主張(作家Buntlineの立場)を排除し、他方では、カスター「将軍」英雄伝説において、「悪玉」たる先住民族の生存権(北米インディアンSitting Bullの立場)が踏み躙られる、白人側の利己的な自己讃美の傲慢さの暴露であった。
映画のラストシーンのBuffalo Billの倣岸な自己讃美は、しかし、この映画が制作された年代1976年を歴史的文脈に入れて考えると、それはベトナム戦争が終わった翌年のことであり、慢心のアメリカが「原住民族」に敗れたその倣岸さへの痛烈な皮肉であったのである。さすがは、「M★A★S★H マッシュ」(1970)を撮った監督の腕の冴えようだと言える。作中の、あの音程がずれた将来のアメリカ国歌の合唱が更にその感を強めている。原題は、Buffalo Bill and the Indians, or Sitting Bull's History Lessonである。
抑圧された者たちから見た、歴史から学び取れる「教訓」を大事にしたいものである。
0 件のコメント:
コメントを投稿