アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが黒船で日本に来航した時、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたと言う。「上喜撰(じょうきせん:上物の緑茶喜撰)」とは、蒸気船をもじったものであり、「四杯」とは、四艘のことである。こうして始まった開国論争は、まもなく幕府の威信を揺るがし、1860年以降の幕末へと、250年の「泰平の眠り」を謳歌した江戸時代は、その最終段階へと突入する。
さて、その幕末の政治状況を理解する一つの指標としては、「佐幕」か「倒幕・討幕」かという二項対立の軸がある。
一方、「鎖国」か「開国」かという軸もありそうではあるが、これは1854年以降、開国が実施され、その実害が物価上昇という形で一般庶民にまで及んでいたことを鑑みれば、日本人の誰しもが開国反対であった筈である。問題はそこから、水戸学派的、或いは平田国学的な民族主義としての「攘夷」にまで過激になれるかどうかであっただろう。攘夷論を説く孝明天皇自体が「敬幕」であったことを鑑みれば、攘夷即ち倒幕とは簡単には割り切れないのである。
そして、この「攘夷論」は、薩英戦争の時点(1863年)までに、現実的な国際政治力学上、実現が無理であることが判明する。これに対して、「尊王・勤王」において、「王」とは、武力の覇道を以ってする支配する覇者に対して、徳を具える王道を以って支配する王者を意味し、幕末の政治文脈では「王」が大王(おおきみ)たる天皇となって「尊皇」となるすれば、「尊王」たることは、一義的には「反幕」とはならないのである。
「尊王(皇)・佐幕」という立場、朝廷からの大命により征夷大将軍として「大政」を預かっている公儀、即ち幕府があってこそ、「尊王攘夷」も成り立つという考え方もありえたのであった。この立場からは、所謂「公武合体論」への立場も遠くないのであり、「尊皇」が「討幕」に結びつくのは、幕藩体制を批判する社会革命的要素、つまり武士階層の下層にあった、百姓より貧しい郷士層出身の知識人・武士が政治革命を志向することによって可能になったのである。
本作の主人公、庄内藩郷士・清河八郎(1830-1865)は、正にこの郷士層の出身である、尊皇派であった。文武両道に秀で、江戸で清河塾を経営したが、彼は、尊攘運動を唱道するも、自らの才に溺れた策士でもあった。
本作でも言及される、約250名の浪士組の手勢で京都で「清河幕府」樹立を夢想するなど、悪く言えば、はったりを利かせた「詐欺師」とも言えなくはない人物である。ここに「佐幕」と「討幕」の間を綱渡りした清河の「不可解さ」があったと言えるだろうし、「奇妙なり八郎」という異名も頷けるものである。
本作は、この清河の「奇妙さ」を、彼と関わった人間たちに証言させることで、ストーリーを展開する、実に語り口の上手い仕上がりになっている。清河という毒をもって「毒」、つまり反幕の「勤皇志士」を制しようとする松平主税介(名優岡田英次)、清河の妾お蓮(岩下志麻)、幕臣で同志の山岡鉄舟、その妻英子(彼女が暗殺後刎ねられ、奪還した清河の首級を保管した)、清河の弟子たち、そして坂本龍馬などがそれぞれの清河像を語っていく。白黒で、陰影のコントラストを上手く使った映像、映像のぶれることを嫌わないカメラワーク、さらには、一人称の語り口も入れたカメラ・アングル(撮影:小杉正雄)など、本作では、視覚的にも十分耐えうるものを、松竹ヌヴェル・ヴァーグの「三銃士」の一人・篠田正浩監督はものにしている。
惜しむらくは、坂本龍馬をも後に暗殺したとされる佐々木唯三郎(木村功が好演)が、本作ストーリーにおいて、確かに重要な役割を本作では演ずるものの、しかしながら、ストーリー自体の眼目は、俳優丹波哲郎がその大時代の演技でうまく体現した、清河の「不可解さ」であり、この点、タイトル名とストーリーの主題がずれているということであろうか。
さて、その幕末の政治状況を理解する一つの指標としては、「佐幕」か「倒幕・討幕」かという二項対立の軸がある。
一方、「鎖国」か「開国」かという軸もありそうではあるが、これは1854年以降、開国が実施され、その実害が物価上昇という形で一般庶民にまで及んでいたことを鑑みれば、日本人の誰しもが開国反対であった筈である。問題はそこから、水戸学派的、或いは平田国学的な民族主義としての「攘夷」にまで過激になれるかどうかであっただろう。攘夷論を説く孝明天皇自体が「敬幕」であったことを鑑みれば、攘夷即ち倒幕とは簡単には割り切れないのである。
そして、この「攘夷論」は、薩英戦争の時点(1863年)までに、現実的な国際政治力学上、実現が無理であることが判明する。これに対して、「尊王・勤王」において、「王」とは、武力の覇道を以ってする支配する覇者に対して、徳を具える王道を以って支配する王者を意味し、幕末の政治文脈では「王」が大王(おおきみ)たる天皇となって「尊皇」となるすれば、「尊王」たることは、一義的には「反幕」とはならないのである。
「尊王(皇)・佐幕」という立場、朝廷からの大命により征夷大将軍として「大政」を預かっている公儀、即ち幕府があってこそ、「尊王攘夷」も成り立つという考え方もありえたのであった。この立場からは、所謂「公武合体論」への立場も遠くないのであり、「尊皇」が「討幕」に結びつくのは、幕藩体制を批判する社会革命的要素、つまり武士階層の下層にあった、百姓より貧しい郷士層出身の知識人・武士が政治革命を志向することによって可能になったのである。
本作の主人公、庄内藩郷士・清河八郎(1830-1865)は、正にこの郷士層の出身である、尊皇派であった。文武両道に秀で、江戸で清河塾を経営したが、彼は、尊攘運動を唱道するも、自らの才に溺れた策士でもあった。
本作でも言及される、約250名の浪士組の手勢で京都で「清河幕府」樹立を夢想するなど、悪く言えば、はったりを利かせた「詐欺師」とも言えなくはない人物である。ここに「佐幕」と「討幕」の間を綱渡りした清河の「不可解さ」があったと言えるだろうし、「奇妙なり八郎」という異名も頷けるものである。
本作は、この清河の「奇妙さ」を、彼と関わった人間たちに証言させることで、ストーリーを展開する、実に語り口の上手い仕上がりになっている。清河という毒をもって「毒」、つまり反幕の「勤皇志士」を制しようとする松平主税介(名優岡田英次)、清河の妾お蓮(岩下志麻)、幕臣で同志の山岡鉄舟、その妻英子(彼女が暗殺後刎ねられ、奪還した清河の首級を保管した)、清河の弟子たち、そして坂本龍馬などがそれぞれの清河像を語っていく。白黒で、陰影のコントラストを上手く使った映像、映像のぶれることを嫌わないカメラワーク、さらには、一人称の語り口も入れたカメラ・アングル(撮影:小杉正雄)など、本作では、視覚的にも十分耐えうるものを、松竹ヌヴェル・ヴァーグの「三銃士」の一人・篠田正浩監督はものにしている。
惜しむらくは、坂本龍馬をも後に暗殺したとされる佐々木唯三郎(木村功が好演)が、本作ストーリーにおいて、確かに重要な役割を本作では演ずるものの、しかしながら、ストーリー自体の眼目は、俳優丹波哲郎がその大時代の演技でうまく体現した、清河の「不可解さ」であり、この点、タイトル名とストーリーの主題がずれているということであろうか。
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