2023年3月24日金曜日

デモリションマン(USA、1993年作)監督:マルコ・ブランビア

まずはSF小説の古典的作品『すばらしき新世界』をお読みください。


 出だしの「花火師」の大活躍する場面、映画最後の善玉・悪玉のショーダウンと、本作は、典型的なアクション・SF映画である。S.スタローンが主演であれば、その程度であるのは無理はないであるが、本作と製作同年の1993年には、A.シュワルツェネッガー主演の『ラスト・アクション・ヒーロー』も公開されており、これまた自己諧謔的なタッチは両作に共通していなくもない。実際、本作の中では、シュワルツェネッガーがアメリカ合衆国大統領になったと、元々オーストリア人の「アーニー」に「エール」を送っているのである。更に、作中、その性格適正からS.スタローン演じるところのジョン・スパルタンには編み物がお似合いであるというフモールにも、やはり苦笑いが抑えきれないのも確かである。

 しかし、である。本作では、この映画のストーリーの背景となっている未来社会を描ききるまでの、最初の45分ぐらいまでが意外と興味深い。確かに、『スター・ウォーズ』や『ターミネーター』からのプロットの流用しているような部分もあるものの、完全管理社会体制によって「安定と平和」が維持されているユートピア社会の在り様に、何か古典的なSFの臭いがして、調べてみると、やはりストーリーの背景にはAldous Huxleyオルダス・ハクスリー作のディストピア小説『すばらしい新世界』があるという。(原作では、“Brave New World“だが、これはシェークスピアの『テンペスト』からの引用であるそうで、そうであるとすると、英語のbraveは、「勇敢なる」の意ではなく、「美しい」の意である。とすれば、せめて『すばらしき新世界』と訳したいところである。)

 そこで、オリジナルの『すばらしき新世界』と本映画を比較とすると、意外と面白い一致が出てきた。

 まずは、未だ有名になる前の女優サンドラ・ブロックが演ずるところのサン・アンゼルス市警の警部補「レニーナ・ハクスリー」の名前である。ここに一義的に「ハクスリー」の苗字が出ている。しかも、「Lenina レニーナ」も『すばらしき新世界』に出てくる女性主人公の名前であり、これは実は、Leninレーニンの女性形であるという。そして、『すばらしき新世界』に出てくる「野蛮人」の名前が「ジョン」で、これまた「ジョン・スパルタン」と一致するのである。

 また、本作が設定されている時代は、2032年のアメリカということであるが、『すばらしき新世界』が発表されたのは、1932年であり、小説中の設定年代がフォード年632年と、小説中ではキリスト紀元ではなく、あの自動車王H.フォードが紀元の主になっているのである。さらに、胎児の出産に関しては、映画、小説ともに人工授精が基になったいるのも共通点であろう。

 しかしながら、映画と小説の違いもまた存在する。特に、セックスに関しては、小説がグループ・セックスを取り上げているのに対して、映画ではバーチャル・セックスであり、これは、映画では、エイズを含む感染症を防ぐために身体同士が触れる行為が基本的に全て禁止されているからであった。それで、人は身体接触を避け、握手もせず、挙げた手を空中で接触せずに円を描くように回すという方法が取られている。キスや性行為は、「体液トランスファー」として忌み嫌われているのである。と、如何にも、優生学上、衛生的な世界が未来社会として本作の背景に描かれているのである。

 以上、本作のストーリー構成には中々興味深いものがあり、この点、脚本家達Daniel Waters, Robert Reneau, Peter M. Lenkovらの三人の名前は明記してよいものであろう。まずはSFの古典的原作『すばらしき新世界』をお読みになることを衷心よりお奨めする。

2023年3月14日火曜日

アメイジング スパイダーマン(USA、2012年作)監督:マーク・ウェブ

 筆者は、何故か分からないが、監督Sam Raimeサム・レイミの『スパイダーマン』三部作(2002年–2007年)で、俳優Tobey Maguireトービー・マグワイアーによって体現された「スパイダー・マン」というキャラが好きではない。否、嫌いである。なぜなら、いつも正義が自分の側にあるという傲岸さが鼻に衝くからである。それは、USAが民主主義の旗持ちであることから、いつも正義の側に立てるのと同様であり、さらに別に日本史の文脈で言えば、官軍が、錦の御旗を掲げることで、その政治的正当性をいつも主張できるのと同様である。敢えて言えば、ピーターのメントール、即ち、精神的庇護者、アンクル・ベンがピーターに諭す格言「With great power comes great responsibility.(大いなるパワーには、大いなる責任が伴う)」もまた、USAの政治的道徳感にむしろ当てはまる。スーパー・パワー、超大国には、世界の「警察」としての責任があるとも読み替えることができるのである。因みに、この格言は、古代ギリシャ時代から似た格言があると言われるものであるが、遅くとも、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールが成文化した格言である。

 確かに、いじめられっ子の高校生のティーン・エイジャーが、蜘蛛に刺されたことにより超能力を持つようになり、次第に自分に対して自信を持っていくようになる、いわば、教養小説のプロセスは、それは、それなりに面白いのではあるが、悪に対して戦うことが自明の理であり、自己の持つ超能力を悪事に使おうとする誘惑には駆られることのない、そのような一元的な人間が日の当たる街道ばかりを突っ走る「直情さ」に、筆者は、何か胡散臭さと物足りなさを感じるのである。

 それが、Marc Webbマーク・ウェブ監督の本作『アメイジング・スパイダーマン』(2012年作)で、Andrew Garfieldアンドリュー・ガーフィールが演ずるところPeter Parkerは、「正義の味方」の臭さが大分消えていて、好感が持てる。ここでは、彼は、頭脳明晰な、オタク的なアウトサイダーとして描かれており、「リブート」前の厭らしさもなくなって、意外とすんなりとガールフレンドGwen Stacyもできてしまうのである。(因みに、コミック世界では、Peterが最初に付き合ったのは、Betty Brandで、それに横恋慕して二人目のガールフレンドとなるのが、Liz Allanである。Gwenは、Peterの三人目のガールフレンドとなるが、映画『スパイダーマン』での、Peterの意中の人、MJことMary Janeは、Gwenの恋敵的存在である。)

 最後に、Peterを演じる若い俳優ガーフィールドの脇を固める、二人の名優について述べておこう。まず、アンクル・ベンを演じるMartin Sheenは、知らない人がいないほど有名な俳優で、『地獄の黙示録』で主人公ウィラード大尉を1997年に演じている人物である。一方、メイ叔母さんを演じるところのSally Fieldである。彼女は、1979年の『Norma Raeのーマ・レイ』、1984年の『Places in the Heartプレイス・イン・ザ・ハート』で二度もアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに、ゴールデン・グローブ賞でも二回、エミー賞では三回受賞した経験がある名女優である。

2023年3月8日水曜日

誰も知らない(日本、2004年作)監督:是枝 裕和

大都市東京で生き抜かれた少年時代への、これほどの詩的なオマージュが在り得るだろうか?


 その、さり気無さが観ている者の心を何故か締め付ける。スーツケースをじっくりとさする長男、明の手。一番下の四歳になるゆきの好きなアポロ・チョコレート。或いは、長女の京子が酔っ払った母親にしてもらう紅いマニキュア。これらの、謂わば、演出上の「小道具」が、本作では実に上手く効いている。それは、いかにもそうでございます、と言うようなわざとらしさではない。そんな、是枝監督の、日常への観察眼と、ストーリーの優しい語り口が観る者の心を和ませてくれる。監督の子供たちへの慈しみの情愛が観る物の心を直に伝わってくる。

 現実に起こった事件を題材にしながら、その現実の事件の残酷さを意図的に追及はしなかった是枝監督の「創造性」を、いつもはそんな甘い、調和主義的描写を許せない筆者は、本作を観ている内にいつの間にか許していた。自ら脚本も書き、制作者ともなり、そして撮ったフィルムの編集も行なった是枝監督。15年間も暖めていたという、ストーリーをゆっくりと時間をかけて練っていたことに、監督の本作に対する並々ならぬ、個人的な「こだわり」の強さを推察せずにはいられない。

 この映画の「優しさ」は何処から生まれてくるのであろう。映画のかなり始めの方から、本作を観ながら、この疑問を自らに問いかけていた。そして、映画のほぼ終わり頃に、明が死んだゆきを羽田空港で埋めた後に乗って帰るモノレールが出てくるシーンで思った。川の上の架橋を画面の左下から右方向にモノレールが音もなく滑っていったシーンでである。それは、あたかも水の中を泳ぐ蛇か龍かの如くに。この時、筆者は何故か、こう悟ったのであった:本作は、東京のある下町の風景、完全に護岸工事された川べり、何処にでもありそうなありふれた公園、古そうな黒ずんだコンクリート製の階段、それらの何気ない平凡な日常の風景をすべて含めて、数切れない人間が住んでいながらも、お互い同士は殆どまるで関係のない他人である「都会たるジャングル」東京への、東京出身の是枝監督の、自分の少年時代へのオマージュなんであると。正に、このことからこそ、この作品のあの「優しさ」が滲み出ているのであると。

 「優しさ」のもう一つの源泉は、是枝監督が子供たちに演技を強制していないことにある。ほとんど実際の家庭生活のような撮影環境を作り上げ、特に次男の茂とゆきには殆ど本当の兄や姉や、頼りないが優しい母親といるような錯覚を覚えさせたに違いない。二人の挙動が、実に自然であり、ここに監督の並々ならぬ力量を感じる。そして、母親役のYouは、それが恐らくは地なのであろう、演技ではない演技をしている。地が演技になっている、不思議な存在、それがYouという名前の女優なのであろうか。(このような人間の、いつも外に向けらた内面とは、どんな内面なのであろうか?それを思うと、何か怖い気がしないでもない訳であるが。)

 一方、京子や明の方はどうか。精神年齢の発達の点から言うと、女子は男子より早い。だから、明より若干年下の京子は、一ヶ月留守にしたあと、久しぶりで帰ってきた母親の、偽りの心を素早く感じ取っていた。年上の明もまたそうであったが、母親に妹と弟を頼まれては、むしろ、その責任感に負われていた。そんな、12歳の男の子が、声変わりをし、中学生にもなれる年齢になって、次第に子供から、状況に強制されて早くも「大人」へと成長せざるを得ないところに置かれていく。そんな明の、変化の、揺らぐ機微を、半ば子供のままの無邪気さと半分大人の恥ずかしさをないまぜにした、表情の「カクテル」で描く効果が、観る者の目を明に惹きつける。時に素人風の演技と見えるところがまた、何となく初々しく感じられるのである。これは、ストーリーと、明の性格描写と、キャスティングの妙の、為せる技であったと言うべきであろう。

 こうして、本作で描かれた子供たちの映画的世界。この世界の中で、子供たちは、親がその親権を行使することなしに放置されていた。しかし、「都会のジャングル」の中に放置されたことで、「誰も知らない」うちに、彼らは彼らの「自由」をも享受していたのでもある。これは、実は、そんな「幸福」な存在でもあったとも、言いたげな是枝監督の、この逆説的な語り口の上手さに、筆者は深くこうべを下げるものである。

2023年3月3日金曜日

スターシップ・トゥルーパーズ(USA、1997年作)監督:パウル・ヴェアフヴァン

 オランダ人監督のPaul Verhouvenパウル・ヴェアフヴァンは、あるインターヴューで、原作は詰まらなかったので、最初の二章ぐらいしか読んでない旨、答えている。それ故、本作のストーリーが原作にどれだけ忠実なのかは、比較しても意味がないのであるが、それでも、原作の作者が、Robert A. Heinleinローバート A. ハインラインであれば、1959年に発表された、この軍事SF「二等兵物語」がどんな内容なのかを知っておいて損はないはずである。

 実際に原作を読めばいいのではあるが、手許にないので、ウィキペディアでその粗筋を調べてみると、意外とそれが、時事性を含み、面白い。ウィキペディアの一部を引こう:

 「21世紀初頭、増加する犯罪と政府の非効率に対して寛大すぎた西側諸国は荒廃し、加えて1987年に始まった覇権主義的な中国に対するアメリカ合衆国とイギリスとロシアの連合の大戦争で地上は破壊されたあげく、2130年に中国に敗北した連合国は一方的な捕虜解放など屈辱的な講和条約を締結させられ、終戦後の米英露は無政府状態となって秩序は崩壊した。混乱する地球社会においてスコットランドで自警団を立ち上げた退役兵たちは事態を収拾し、その後、新たに誕生した地球連邦では軍事政権によりユートピア社会が築かれていた。」

 1959年という、冷戦真っただ中の状況で、USAとロシアが同盟するというのは当時は奇想天外な予想であったであろう。今のウクライナ戦争を思えば、ハインラインの予想は確かに外れたの感があるが、1987年と言えば、現実の冷戦時代が終局を迎える2年前であり、ゴルバチョフの下、ロシアのポスト共産主義社会が順調に発展していれば、USAとロシアの協調は、全く予想外な絵空事ではないと言えた段階ではなかったろうか。更に、台湾有事が殊更に強調される、現在の米中対立は、中国建国10年後の1959年の段階では、正に予想だにしなかった事であり、さすがは、SF作家のハインラインの「鋭さ」には、脱帽するものである。

 それでは、そのハインラインが描くところのユートピア社会とはどんな社会であるかと言うと、人種差別、ジェンダー不平等などない平等な社会で、ただ、選挙による参政権について、軍歴があるかないかでの違いがあるだけである。この違いによって、人々は、真正な意味での「有権者市民」と「無選挙権市民」に分かれる。古代ギリシャの「ポリス」を形成した「市民」は、自作農であり、同時に、重装歩兵でもあった。故に、原作には、ポリスを形成する「武装する市民」のイメージが根底にある。この理想を説くのが、フィリピンのタガログ語を母語とする主人公Juan Ricoホワァン=リコの恩師Duboisデュボアで、彼の担当科目が「歴史と道徳哲学」なのである。そして、デュボアは、地球連邦軍機動歩兵部隊退役大佐である。

 このような軍事国家は、宇宙からの外敵に対する「防衛戦争」を戦うという場合は、その正当性を保持できるのであるが、それがなく、単なる支配機構になる時には、このような軍事国家は、全体主義化、ファシズム化、最近の用語としては、「権威主義国家化」する。この危険な傾向は、映画のストーリーで面白可笑しく「茶化されて」、「噴出」している。(その茶化しを茶化しと捉えずに、そのままに捉えて、本作の「ファシズム性」に感動している、一部の人間たちもいないことはないのであるが。)

 一般兵卒Troopersの命を何とも思わない過激なスプラッター描写で風刺化されてはいるのであるが、旧帝国陸軍歩兵の万歳突撃を厭わないようなTroopers小隊に組織されている、Spaceship宇宙戦艦に乗り組んだ「宇宙海兵隊員」たちは、軍国主義体制イデオロギーを不思議とも思わない。ビッグ・ブラザー並みのメディア通信は、ナチスのプロパガンダを思わせて、常に市民にTrooperになることを呼び掛けている。その呼び掛けに応えるように、高校生リコとその友人たちは、軍隊に入隊する。リコの同窓生のカールは、リコが下士官程度で何とかやっているのに比べて、軍事情報部でとんとん拍子に昇進して大佐になっている。その軍事情報部のユニファームが、また、ナチスの、黒皮のロング・コートの、秘密警察ゲシュタポの、あのユニフォームなのである。

 このように、あちこちに風刺と皮肉が入れてある本作のストーリーとプロットは、監督のVerhouvenと、アメリカ人脚本家のEdward Neumeierノイマイヤーの功績であろう。この二人は既に、同じくSFデストピア映画『ロボ・コップ』(1987年作)でチームを組んだ仲であり、この作品『ロボ・コップ』で、翌年のサターン賞で、作品・脚本賞を取っている。因みに、本作と『ロボ・コップ』並びに『トータル・リコール』(1990年作)を以って、監督VerhouvenのSF・B級三部作を形成している。

泣け!日本国民 最後の戦斗機(日本、1956年作)監督:野口 博志

 まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。  すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには...