2024年2月10日土曜日

忍びの者(日本、1962年作)監督:山本 薩夫

 石川五右衛門が「忍者」であった、この意外な取り合わせに少々メンと食らった。あの「天下の大泥棒」がどうして忍者であったのか。そのことを調べてみる必要があると思った。

 一方、原作を書いたのが、村上知義である。筆者が思っていたのは、この「大衆作家」の作品、ただの「娯楽」小説と思っていたのであるが、こちらを調べてみると、本作の原作が1960年の作品で、しかも、これが、新聞連載小説として、日本共産党の機関紙『赤旗』の日曜版に1960年から62年まで載せられていたものであると言う。単なる「娯楽」小説が、どうして共産党の機関紙の連載小説になり得たのか。そこから、本作の「不思議」を紐解いてみる必要があろう。

 ウィキペディアによると、村上知義は、こんな人物である:

「村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。」と、非常に多才な人物である。

 彼は、1920年代にベルリンに留学し、ドイツの表現主義や、「構成主義」芸術に心酔し、日本に帰国して、前衛芸術集団「Mavo」を結成して、当時の日本の前衛芸術集団を牽引する。美術からの関係から、まず演劇の舞台装置制作に関わるようになり、20年代半ばには表現主義的舞台作品の監督をするようになる。前衛芸術という観点から次第にマルクス主義に接近するようになり、左翼的演劇集団に関わり、また、この時期に最初の小説集『人間機械』を発刊する。こうして、彼は、労農芸術家連盟のプロレタリア芸術運動と、前衛芸術家同盟のアヴァンギャルド芸術の間を揺れ動く。20年代末には、結局、左翼芸術運動により関わることとなり、1930年、治安維持法で検挙される。その後は、再度、日本プロレタリア文化連盟設立などにコミットすることで、33年年末に再度検挙され、転向する。転向して翌年の5月に「転向文学」のはしりと言われる『白夜』を発表する。転向したとは言え、戦時中における「良心的」な演劇運動の一翼を担ったのが、村山であった。同時に、この時期に大衆小説的な作品『新選組』を上梓しており、この「路線」が、のちの「忍びの者」シリーズの発表に繋がっていくのである。

 こうして見ていくと、なるほど、村山作品が共産党の機関紙『赤旗』に連載されるのは何も可笑しくないように見えるが、それでも、「天下の大泥棒」五右衛門と『赤旗』の結び付きに「整合性」はあるのであろうか。

 さて、日本映画の父と言われる牧野省三が1926年に撮った作品に『快傑夜叉王』という、のちに『旗本退屈男』シリーズで有名になる市川右太衛門が主演した映画がある。元々は、この作品は、「石川や浜のまさごは尽きるとも。世にぬす人のたねや尽きまじ」という辞世の句を詠んだという『石川五右衛門』と命名されるはずであった。しかし、これに検閲が入って、現在あるような題名になったのであるが、この検閲に入った理由が「面白い」:

 「当初『石川五右衛門』のタイトルで製作するが、義賊ということで、検閲官から題名変更を要求され、『怪傑夜叉王』となった。

 1926(大正15)年の『キネマ旬報』3月号(220号)では、『…石川五右衛門は共産主義者であると云うその筋の見地から題名及び役名から内容まで制限されて漸く許可された所謂問題の映画である…』と記されている。」(2019年の京都国際映画祭のサイトからの引用)

 「石川五右衛門が共産主義者である」という、検閲当局の判断が意外ではあるが、それ程、戦前・当時における検閲が厳しかったことの証左でもある。「義賊であれば共産主義者」と、当局がそう判断する程までに、体制内における「異端者」に「危険な臭い」を嗅ぎ取っていたのである。となれば、本作における、石川五右衛門と呼ばれる忍者が、当時の権力構造に抗して、最後には、自らの幸福を求めて、妻の許に走って行く、嬉々とした姿が、なるほど、忍者-石川五右衛門-民衆的存在-赤旗日曜版、というラインに繋がるのである。こう見ると、織田信長が単なる暴力的で残虐な権力者と描かれるのも無理はなく、この点でも「筋」が通っている。

  さらに、五右衛門と忍者の絡みでは、「怪優」伊藤雄之助が二役を演じた一方である百地三太夫の存在が、その絡みをつなぐ。百地三太夫は、伊賀国の郷士で、五右衛門に忍術を伝授したということになっている。ウィキペディアから引用すると、

 「三太夫は安土桃山時代ころの人物で、孤児であった五右衛門に忍術を授けたが、後に悪心を起こした五右衛門に謀られて愛妾と妻を殺害されたうえ、大金を奪われて出奔」されたと言うことになっている。

 つまり、三太夫とは架空の人物であり、今日、往々にして、百地丹波という実在の人物と混同されていると言う。この丹波こそが、第一次天正伊賀の乱で、信長ではなく、その次男である信雄(のぶかつ)と1578/79年に戦って、織田軍を退けた人物なのである。

 以上、史実と虚構をないまぜにしてストーリーを構築するのが、歴史小説家が小説を書く上での「醍醐味」であるとすれば、映画においては、その「醍醐味」は、脚本家によってさらに高められると言えるであろう。この「醍醐味」に加えて、子供の忍術ごっこの荒唐無稽性を飛び越して、忍法の技をリアリスティックに描こうとする、「大人の映画」への脱皮が、本作が大ヒットした要因となる。こうして、本作は、永田雅一・大映が放つ「忍者もの」シリーズ『忍びの者』の第一弾となり、石川五右衛門は、さらに、霧隠才蔵一世・二世、霞小次郎と生き延びて、第八弾(1966年作)まで続くことになるのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...