2026年5月2日土曜日

リバティ・バランスを射った男(USA、1962年作)監督:ジョン・フォード

 西部劇の「古典」をストーリー的に捉えると、北アメリカ大陸の西部を舞台として、ピストルの威力にものを言わせて、無法者や北米「インディアン」と闘って、正義と秩序を維持する構図と言えるであろうか。これを古典的西部劇と名付けるとすると、北米先住民の観点に立って、ストーリーを語ろうとした場合、それは、非古典的西部劇、更に言えば、「アンチ・ウェスタン」とまで言えるであろうか。この「アンチ・ウェスタン」の最も古い例は、ウィキペディアによると、1950年制作の『折れた矢』(デルマー・デイヴィス監督)であると言う。あるアパッチ族の子供を助けたことにより、アパッチ族と親交を結ぶようになり、その中で、アパッチ族の娘と恋仲になった白人が、白人と先住民との架け橋になろうと決心する。この白人の名をTomといい、これを演じたのが、ジェームズ・ステュアートであった。

 この『折れた矢』から二年後に上映された『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、ゲーリー・クーパー主演)について、この映画を、ジョン・ウェインは、「俺の人生のうちで、最も非アメリカ的なやつ」であると評価している。強いはずの保安官が手助けを頼んで町中を歩き回り、結局、最後は、自分の妻に助けてもらって、命拾いする「英雄」はあり得ないということであろうか。

 そのジョン・ウェインが本作で演じるTomは、小牧場主で、拳銃の腕は立ち、男気のある、典型的な西部劇ヒーローである。恋路に晩熟(おくて)で、意中の人Hallieハリー(ヴェラ・マイルズ)には、好きのすの字も言えない。それでも、スィート・ホーム・スィートで、勝手に思い込んで、自分の家の間取りを結婚後のために広めているという、そんな男である。その男が、西部のガンマン同士の慣習的掟を破る。ここに、ジャンル「西部劇」の父たるジョン・フォード監督が、1960年代前半に本作を撮ることにした「ひねり」があるのであろう。

 これに対するジェームズ・ステュアートは、東部出身の弁護士で、無法の西部に法の支配を及ぼそうと考えている理想主義の、場合によっては傲慢な熱血漢である。つまり、時代は、フロンティア時代後期であり、無法状態から法律による治安状態へと移行する、ガンファイターの挽歌の時期である。この点でも、本作は、明らかに古典的西部劇の範疇から外れることになり、同時に、本作は、準州が州として成立し、その州の上院議員Senatorをワシントン市に送るという時期を描く。この初代の上院議員が、J.ステュアート演じるRansom Stoddardである。

 それでは、本作はその時代の法治主義への転換がストーリーの要目であるかと言うと、そうではなく、西部には、伝説が必要なのであるという、映画終盤の言説であると筆者は言いたい。USA映画史の歴史的名台詞となった、作中のあるジャーナリストの次のような物言いが本作の核心的部分ではないか?:

“When the legend becomes fact, print the legend!” 
(「伝説が事実となる時、(それでも)伝説(の方)を活字とせよ!」)

 この台詞は、アメリカの商業主義的なジャーナリズムの一面を突いている名言であろう。これとの対照として、本作に登場する町の新聞屋Peabodyピーボディー(性格俳優Edmond O'Brienが好演)の存在も大きいと言える。悪漢リバティ・ヴァランス(リー・マーヴィン)に対抗する弁護士とジャーナリストの構図である。

 そして、この二人が町民選挙で、大牧場主達の思惑に反して、選ばれ、これが、J.ステュアート演じるStoddardの政治生命の始まりとなる。しかも、町民代表から、州知事、上院議員、更には、その気があれば、副大統領にでもなれるという、彼が政治生命の階梯を上がれたのも、彼が、悪玉リバティ・ヴァランスを撃ち殺したという「伝説」が大いに作用したからであった。上述の名言を吐いたジャーナリストも、このよい「伝説」を壊したくないために言った訳である。

 この名台詞を言い換えれば、しかし、「伝説は事実に勝る」ということにもなり、21世紀を生きる我々には、この言説が、USA政治のみならず、世界政治において如何に大手を振って歩いているか、痛いほど身に染みる言葉もないであろう。事実や真実を無視して、言い放った者がマウントを取って勝ちということであれば、現代は、ピストルを言葉に使い直した、無法者のフロンティア時代になっているとも言えなくはないのである。この意味で、この約六十年前の本白黒作品を、現代的視点で再鑑賞したいものである。

2026年5月1日金曜日

グッドライアー 偽りのゲーム(USA、2019年作)監督:ビル・コンドン

 かなり凶暴な古狸が資産家の未亡人の弱みにつけ込んで、その資産を根こそぎ、投資詐欺で奪い取る。よくある犯罪ケースである。故に、この古狸役にサー・イアン・マッケランを持ってきたことには異存がない。しかし、その相手役に、ヘレン・ミレンを持ってきたことは、両名優の「対決」という点では、それは確かに正解ではあろうが、純真無垢のおばあちゃんが騙されるプロセスで、その罠に嵌まっていく様子を見せるという点では、映画の始めからどんでん返しが予想できることから、その怖いもの見たさのスリル感が半減している。古狸対古女狐ということで、コメディー・タッチで、丁々発止の、どんでん返しに次ぐどんでん返しと言うのであれば、この顔合わせも分かるのであるが、古女狐がどうな罠を張って古狸を陥れようとしているのかが初めから予想される状況からは、本作の前半の展開が冗長過ぎる感じが否めなかったと思うのは、筆者のみではないであろう。

 映画後半の、二人がベルリンに行くという段階になると、ストーリーは、かなり陰惨となり、本作は、実は、復讐劇であったことが分かる次第である。時間軸は、2009年のロンドンから、1948年と1943年のベルリンとなり、再び、2009年に戻る展開となる。主役の二人が、実は、ドイツ人であったという展開であれば、もう少し、ドイツ人らいし俳優を持ってきてもよかったのではないかとも思われる。

 原作は、Nicholas Searleニコラス・サールが2015年に発表した同名の小説『The Good Liar』である。この小説の邦題が『老いたる詐欺師』で、かなり的を外した題名になっている分、映画の題名を「グッドライアー」としたことは、「グッド」を如何に訳すべきかで、邦題に違いが出てくるはずなので、そこを回避した、賢いと言えば賢いやり方であろうか。ただ、英語題名のカタカナ化ということであれば、やはり、定冠詞を付けて、『ザ・グッド・ライアー』としてもらいたいところで
はある。

他人の顔(日本、1966年作)監督:勅使河原 宏

 本作と同名の原作の作者は、安部公房であり、本作の脚本を担当しているのも原作者本人自身である。と言うことは、脚本の内容に原作者も同意しているということであり、本作が発するメッセージに原作者も異論がないという理解でOKであるということになる。  筆者は、原作を読んでいないので、断定...