この二人が兄・妹なのであるが、実は、このスチール写真のシーンは本作には出てこないので、本作を観おわって、若干、裏切られたような気もしないのではないが、この二人の京・森が、筆者にはミスマッチのキャスティングであったので、余計に残念な感じが強くなったのである。
まず、本人二人が与える年齢と演技上の年齢が合わないように見える。室生犀星の同名原作によると、兄・伊之助は、28歳で、妹・もんは、23歳であると言う。演じている森は40歳代に、京は、少なくとも30歳代初めに見える。更に、演じている職業柄からして、京はまあまあ納得できても、森に関しては、墓石を彫る石工職人という感じではない。どっかのホワイトカラーの人間が、無理やりブルーカラーの人間をわざと「べらんめえ調」に演じている感じが滲み出てくるからである。
そして、何よりも、室生犀星の同名原作を読んでいないので、何とも判断が付きかねるのであるが、本作の脚本を書いている女性脚本家水木洋子の手になる脚本における「あにいもうと」の「確執」の度合いに何かすっきりと来ないのである。
川(ロケ地は多摩川)を越えて東京に働きに出たもんが、いいところの家のある坊ちゃん・大学生(堀越英二)に孕まされて里に戻ってくる。それに対して、父親でもない兄の伊之助が過剰反応する。兄自体、どこかの女給と関係があるようであり、仕事をやらせれば、いい仕事をするタイプの職人であるが、普段からまともに仕事をしているようには見えないタイプなのである。そんな彼が、妊娠して戻ってきた妹に「ふしだら」であるとは言える立場ではない。
「いもうと」が「女」として戻ってきたことへの心理的屈折が「あに」の方にあるとすれば、親がいない家庭環境とか、親がいても兄・妹を強く結び付ける出来事とかがあったなどの、とりわけ、兄側の心理的な前提条件が本作で描かれていないと説得力がない。それ故、この兄の妹に対する過剰反応が不可解過ぎるのである。
とは言え、他の配役はよい。伊之助ともんの父親たる赤座(山本礼三郎)は、嘗ては川仕事の人夫頭で鳴らした男ではあったが、今は、コンクリートを使って護岸工事をやる会社に仕事を取られて、近くの飲み屋で嘗てを懐かしんでくだを巻くだけである。であるから、妊娠して戻ってきた娘に説教する意気もなくなっている。ここは、この現代を描いて、それが家族に与える影響を描いて秀逸である成瀬監督の得意技であろう。
この夫にかしずく妻・りき(浦辺粂子がいつものように好演)は、川沿いの茶店を切り回し、冬はおでんを、夏はかき氷を川沿いを歩く人々に提供し、物の仕入れには、嘗て自分の子供を育てた時に使った乳母車を使用するといった具合である。その、人生の荒波にも何か飄々とそれを受け流す、雑草のような生命力を秘めた、りきの生活力に、尊敬の念さえ起きる存在である。
もんとは対照的な、もんの妹のさん(久我美子)は、東京で看護学校に通っており、着実に生活設計を立てて、自分の目的に邁進するタイプの「やり手」である。このもんとさんの二人の姉妹の性格の対照も本作の面白いところである。
さて、本作の同名原作小説であるが、こちらの方は、室生犀星が1934年に書いて『文芸春秋』に発表したものである。ウィキペディアによると、主人公の赤座もんは、室生犀星の養母・赤井ハツをモデルにしていると言う。筆者には、養母ハツの姿が伊之助の妹もんに投影されていることに、意外感を持つ。投影の対象が、伊之助の母りきではないのである。
そこで、室生犀星の複雑な父母関係をここで照らし出してみようと思う。
室生は、1889年に金沢市で生まれた。金沢市内には犀川が流れており、その西側に住んでいたところから、また、国府犀東という漢詩人がおり、それへの対抗心もあってか、「犀西」に、これを更に書き換えて、「犀星」とメルヘンチックにしたと言う。犀星の生まれと生立ちは、ウィキペディアに上手くまとめられているので、それを以下に引用する:
「加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。」
つまり、犀星は、女中の私生児として生まれ、すぐに里子に出され、養母・赤井ハツの私生児として育ち、更には七歳の時に、ハツの内縁の夫である寺の住職の養子に入ったという生立ちである。インターネットの「青空文庫」で適切な作品を見つけたので、その一部を更に引用する:
...母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
「二日に一ぺんよ。」
私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった...
...母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
「二日に一ぺんよ。」
私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった...
生母ハルは、相方が亡くなると、結局、小畠家から追い出され、その行方が分からなくなってしまう。故に、犀星は、母ハルには永遠の憧憬を持ち続けたようである。これに対して、養母の赤井ハツについては、同じ作品『幼年時代』(大正八年:1919年発表)で以下のように犀星は記している:
...私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家(さと)へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐つくもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家(ここんち)へ来たら此処(ここ)の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家(うち)においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。
母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった...
つまり、犀星は、ここで、養母ハツに対して「しっくりこない」心のしこりがあったことを告白している。このことを本作に当てはめると、もんがこの心のしこりを起こさせる存在として、もんに養母ハツを投影したのではないか。そこには、あくまでも憧憬の対象としての生母ハルをもんの母りつに重ねていた心理的機微もあったのではないか。そうして、犀星自身はもんの兄の視点を取って、その自らの心のしこりを、もんの妊娠を契機として、もんの兄・伊之助の心のしこりとして発現させたのではないか。このように、伊之助のもんに対する「過剰反応」が解釈できるかもしれない。何れにしても、犀星の原作『あにいもうと』を筆者は一度読んでみたいと思う。
原作の雑誌上での発表は1934年で、単行本に所収されたのはその翌年である。36年には、木村荘十二監督下、『兄いもうと』という題名で原作の最初の映画化がなされる。故に、本作は、劇映画化の二回目(53年作)に当たり、監督は、溝口健二とは別の意味での「女性映画」監督である成瀬巳喜男である。尚、二回目の映画化の前年の52年には水谷八重子らが大阪歌舞伎で原作を上演している。
成瀬は、私見、1951年作の『めし』で、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立している。本作では、この「方程式」からは若干外れて、男性の犀星が書いた原作を、女性脚本家水木洋子に脚本化させ、兄と妹とを主人公にしている。但し、もんとさんとの絡み、さんが体現する現代女性としての、より自立的な生活設計への志向を描いているところは、本作がさすがは「女性映画監督」成瀬の手によるものであることを肯けさせてくれる。
...私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家(さと)へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐つくもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家(ここんち)へ来たら此処(ここ)の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家(うち)においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。
母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった...
つまり、犀星は、ここで、養母ハツに対して「しっくりこない」心のしこりがあったことを告白している。このことを本作に当てはめると、もんがこの心のしこりを起こさせる存在として、もんに養母ハツを投影したのではないか。そこには、あくまでも憧憬の対象としての生母ハルをもんの母りつに重ねていた心理的機微もあったのではないか。そうして、犀星自身はもんの兄の視点を取って、その自らの心のしこりを、もんの妊娠を契機として、もんの兄・伊之助の心のしこりとして発現させたのではないか。このように、伊之助のもんに対する「過剰反応」が解釈できるかもしれない。何れにしても、犀星の原作『あにいもうと』を筆者は一度読んでみたいと思う。
原作の雑誌上での発表は1934年で、単行本に所収されたのはその翌年である。36年には、木村荘十二監督下、『兄いもうと』という題名で原作の最初の映画化がなされる。故に、本作は、劇映画化の二回目(53年作)に当たり、監督は、溝口健二とは別の意味での「女性映画」監督である成瀬巳喜男である。尚、二回目の映画化の前年の52年には水谷八重子らが大阪歌舞伎で原作を上演している。
成瀬は、私見、1951年作の『めし』で、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立している。本作では、この「方程式」からは若干外れて、男性の犀星が書いた原作を、女性脚本家水木洋子に脚本化させ、兄と妹とを主人公にしている。但し、もんとさんとの絡み、さんが体現する現代女性としての、より自立的な生活設計への志向を描いているところは、本作がさすがは「女性映画監督」成瀬の手によるものであることを肯けさせてくれる。
0 件のコメント:
コメントを投稿