自分の誕生日にあんなバースデー・ケーキを作ってもらってうれしいと思うであろうか:恐らくはチョコレートがたっぷり入った黒に近い焦げ茶色のケーキ、それに、飾りとして円形のケーキの縁取りにホイップ・クリームが載せられてあるのであるが、その色が濃い青色なのである。筆者には合わない色彩感覚である。
このケーキを幼い息子のリッチーと一緒に作ったのは、1951年のロスアンジェルスに住んでいる中流家庭の主婦Mrs. Brownであった。蜂蜜色のフィルターを掛けて撮られているこの1950年代初頭のUSA社会は、第二次世界大戦が終わって六年が経ち、物質的には恵まれているはずである。第二次世界大戦から復員して再び職に就いたMr. Brownは、恐らく高校時代に知り合ったMrs. Brownに、他の女の子とは異なった雰囲気の彼女に惹かれていて、復員してすぐに求婚したのであろう。息子のリッチーは五歳位の年齢である。そして、Mrs. Brownは、二人目の子供を妊娠中である。つわりが強いのか、やさしい夫Danが仕事で出掛けようとしている時も寝室にいる。どういう訳か手にしている本は、イギリスの女流作家Verginia Woolfの作品『Mrs. Dalloway』で、Mrs. Brownは、この小説の一行目を読み始めた: "Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself."
こうして、1951年のロスアンジェルスと、1923年の、ロンドン市街から南東に15km程離れた嘗ての宮殿都市リッチモンドとに時間的架け橋が掛けられたのである。1923年のある朝、Verginia Woolfは、目が覚めて思い付いた上述の第一文をペンで書き留めた。こうして書き始められたV. Woolfの新作は1925年に、彼女自身とユダヤ人の夫Leonardが1917年以来経営している出版社「Hogarth Press」から出されることになる。装丁の表紙絵(装画)は、V. Woolfより三歳年上の姉Vanessaが描いており、VerginiaとVanessaが如何に緊密な関係にあったかが想像される。作家Clive Bell(クライヴ・ベル)と結婚したところからBellと名乗るVanessaは、Cliveとの間に、本作にも登場する長男と次男を儲けるが、本作にも登場する娘Angelicaは、Cliveが同性愛関係にあった画家Duncan Grantとの間の子供である。(この点、興味のある方は、「Bloomsberries」と呼ばれた知識人グループのことを調べてみるとよいであろう。)
小説『Mrs. Dalloway』は、James Joyceジェームズ・ジョイスが『ユリシーズ』(1922年発表)で使った手法、即ち、「意識の流れ」を基底においた叙述法を早速用いた実験小説であり、主人公の51歳のMrs. Dalloway夫人がその日の晩に催す社交会を準備するためにウエストミンスター界隈の花屋に出掛ける、1923年6月のある水曜日の朝からの一日を描くものである。ウエストミンスターにはBig Benがあり、ここから定刻に鐘の音が刻まれていく。(このBig Benが刻む時の鐘の音から、本作の題名「The Hours」が出てくるのであり、V. Woolfも自分の作品をそのように名付けようと思っていた。)
こうして、Mrs. Dallowayが外界から受ける印象が更に彼女の連想や思い出を呼び起こす。それがまた他の登場人物の意識の流れとも混ざりあっていく。こうして、Mrs. Dallowayの一日が描かれるのである。彼女は、信頼がおけ、社会的にも成功はしているが、知的にはつまらない夫Richardと結婚しており、この日の夜会には、自分に嘗てプロポーズしたことのある、そして、今インドから一時帰国しているPeterも来ることになっていた。(Peterは、映画中のLouisのように、予定の時間より早く夜会に現れる。)そして、嘗て一度熱い接吻を交わしたことがある女友達のSally(映画中に同名の役あり)も今晩来る予定である。
このMrs. Dallowayの日常の生活に対して、ほぼ並行して別のストーリーの筋が描かれる。第一次世界大戦からの復員兵Smithが、戦争で受けたトラウマを解消できずに、神経症を患っている筋である。1923年6月のある水曜日、とうとうこの神経症に耐えられなくなったSmithは、ある精神病院を訪れるのであるが、即同日、入院しなければならないとされ、それに絶望した彼は病院の窓から身を投げて自殺をする。
このSmithの運命をMrs. Dallowayの夜会に招かれた精神科医が夜会で話題にすることで、Mrs. Dallowayも知ることになり、こうして、それまで、並行して流れていた二本のストーリーの筋が繋がるという展開で、『Mrs. Dalloway』の物語りは終わるのである。
さて、Mrs. Dallowayの名前は、Clarissaというが、1951年から半世紀経った2001年のニュー・ヨークで出版社に勤めるClarissa Vaughan(クラリッサ・ヴォーン)は、Sallyという恋人と同棲をしている。テレビ局の仕事か何かで朝帰りしてきたSallyに起こされたClarissaは、自分で花屋に花を買いに行くと言う。と言うのは、この日、自分の嘗ての恋人で詩人のRichard(小説『Mrs. Dalloway』ではMrs. Dallowayの夫の名前)が名のある文学賞を取ったので、自分のアパートで授賞パーティーを催そうというのである。花を買ったついでにエイズにかかっているRichardのロフトに行く。この日の晩にパーティーがあることをRichardに告げて、彼に心の準備をさせるためである。文学者であるRichardには、Clarissaの名前と、夜会ということで、『Mrs. Dalloway』が思い出されたのであろう。早速、Richardは、Clarissaのことを「Mrs. Dalloway」と呼ぶのである。
こうして、1923年にV. Woolfが描くMrs. Dalloway、1951年のMrs. Brown、そして、2001年のClarissaが、時代と空間を越えて重層的に繋がり、本作のストーリーは展開していく。
この三層の時代を技巧豊かに組み合わせた、流れるように澱みもなく構築されたストーリー展開の妙は、アカデミー賞ものである。脚本は、イングランド出身の劇作家David Hare(ヘアー)による。彼は、映画『Wetherby(ウェザビ―)』(1985年作)という作品で監督も務め、この作品でベルリン国際映画祭銀熊賞を授賞している。本作では、米・英アカデミー脚本賞でノミネートはされたが、授賞しなかったものの、全米脚本家組合賞を授賞しており、このことは、如何にこの脚本がよいものであるかの証左であろう。
本作には原作があり、原作がV. Woolfの『Mrs. Dalloway』をどのように使って、ストーリーを構築しているのか、更に、脚本家のHareがその原作を映画にアダプトするためにどのように改変したのかは誠に興味あるところである。原作者Michael Cunningham マイケル・カニングムは、自作の題名を『The Hours』として、V. Woolfが『Mrs. Dalloway』に元々付けようとした題名を採る。そして、その時間層を1923年、1949年、1999年とする。原作の発表が、1998年であるから、ニュー・ヨークでの時間層を一年だけ先送りし、その半世紀前ということで、ロスアンジェルスの時間層が1949年となった訳である。1923年の時間層は移動のさせようがないのは当然である。映画脚本では、今度は本作の上映が2002年であるので、一年だけ早めて2001年とする。何れにしても、そうすることによりニュー・ヨークの時間層は、21世紀のものとなる。その50年前は1951年であり、21世紀において、それを20世紀の半ばの世相と較べてみると、如何に性的志向の問題で21世紀初頭のUSA社会が解放されているかが分かるであろう。(その約四半世紀後の2025年のUSAの状況を鑑みると、USAの現況が政治も含めて如何に後退したものであるかが肯ける。)
1923年のMrs. Dallowayは、上層階層の婦人であり、少なくとも家事からは自由な存在である。これは、Mrs. Dallowayを描く作者V. Woolfの存在形態とも同様のものである。彼女達は、一般庶民と比較すれば、「恵まれた」存在である。それに対して、1949年乃至は1951年のMrs. Brownは、中流家庭の存在で、主婦として完全に夫に経済的に依存している。とすれば、主婦としてだけの存在に空虚感を感ずる女性にとっての「閉塞感」は、如何ばかりであったか。筆者としては、V. Woolfを演じたニコール・キッドマンよりも、Mrs. Brownを演じたジュリアン・ムーアにアカデミー賞主演女優賞を授与したいところである。そして、Mrs. Brownの隣人として急に彼女を訪れ、自分の子宮腫瘍の悩みを打ち明けるKittyの存在も興味深い。子供を産めなくなることで、自己の妻たる存在意義を否定されるかもしれないと慄くKittyに感情を動かされたMrs. Brownは、自然の成り行きで思わずKittyの唇に自分の唇をやさしく重ねたのであった。しかし、Kittyは、自分の問題にのみ関心が振り向けられているから、Mrs. Brownの口付けが何の意味を持つのか理解できずに、その場を去ってしまう。この何気ない役であるKittyを演じたToni Colletteには注目すべきであろう。尚、「Mrs. Brown」という名前は、V. Woolfが1924年にある文学評論で使った名前であり、彼女によれば、「Mrs. Brown」とは、普通の庶民の女性一般を代表させた名前であると言う。
最後に、本作の音楽を担当したPhilip Glassである。ユダヤ系アメリカ人の作曲家である彼は、クラシック音楽のみならず映画音楽にも関わっており、本作における、ある程度水量の嵩んだ渓流の流れのような、連続的に動的な背景音楽を作曲している。彼の音楽が、特徴的で印象的であるところから調べてみると、Paul Schraderが監督した『ミシマ:4章からなる伝記』(1984年作)の音楽を担当していた人物である。同じ日本人として興味ある情報であると思う。
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