2025年7月27日日曜日

亡国のイージス(日本、2005年作)監督:阪本 順治

「亡國神盾艦」

 苦しかった。この「傑作」を最後(或いは「最期」)まで観るのが。筆者は、駄作映画でも、何かそこに駄作なりの面白さを見つけて、その作品を最後まで観ることをモットーとしているが、本作は、ただただ詰まらなく、当時の防衛庁(!)海上自衛隊の最新鋭兵器のデモンストレーションが入る、二時間以上の長丁場は、マラソン並みの苦しさであった。

 とは言え、筆者は本作の監督阪本順治を「かっている」者である。と言うのは、2022年作の『弟とアンドロイドと僕』やその翌年の作品『せかいのおきく』で見せる、彼独特の知的滑稽さが好きであるからである。この最近作と比べると、本作におけるド真面目さは自分には意外であった。本作が2005年作で、阪本のフィルモグラフィーを見てみると、その三年前に『KT』を彼はものにしている。この金大中事件を扱った作品で、阪本は本作を撮るべき監督として製作者側の選考に入ったのかもしれない。何故なら、本作では、どう言う訳か、「某国工作員」ということで、「朝鮮民主主義人民共和国」と名付けられている「北朝鮮金王朝」の工作員が「我が美しき委奴国」の最新鋭イージス艦を自称「愛国自衛官」の先導によって乗っ取るからである。これは、つまり、日朝合作工作なである。(艦上での「紅一点」で、「浸透員」たる崔静姫チェ・ジョンヒの「活躍」は、「櫻花」の見ものであろうか?)

 阪本は元々自分で脚本を書く監督であるが、本作では彼は脚本を書いてはいない。監督なりに脚本作成にはタッチしたのではあろうが、長編小説の原作を二時間の尺にまとめ上げるには脚本家諸氏には荷が重かったようである。映画の「神様」と言われるヒッチコックが言っている:一に脚本、二に脚本、三・四がなくて、五に脚本、と。「愛国自衛官」が大和国に対する叛乱に至る動機の「真実性」が本作のストーリー展開にとって最も大きな要であるはずであるが、仮にフィクションであれ、これに真実性を付与する「物語りの手続き」が本作には、残念ながら、欠けている。そして、そもそも隠密行動をとる「某国工作員」が、公然と表に出て、東京にUSAアメリカ製毒ガスで攻撃をし掛けようとする客観的必然性はどこにあるのか。ここら辺も上手く説明されているとは言えない。

 さて、Aigisアイギスとは、ギリシャ神話に登場するもので、ウィキペディアによると、それは「猛烈な暴風」を意味し、主神ゼウスのものとも、ゼウスが娘の女神アテーナーに貸し与えたものともされる防具である。ありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされ、その起源についても諸説があるが、鍛冶神へーパイストスによって作られたとされるものが多く、形状は盾形であるとも、胸当てであるとも伝えられいる。このAigisが英語読みにされると、ラテン語の「Aegis」を経て、Aegisイージスと呼ばれる。更に、これが、現代戦闘艦に艦載された対空防護システム(AWS)の呼称となり、このAWSを持った戦闘艦を「イージス艦」と呼ぶ訳である。後のAWSの開発により、それは、対空のみならず対潜、対艦、対地戦闘能力を含むものとなり、「ACS:イージス・コンバット・システム」となって今日に至っている。

 そこで、イージス=盾=楯であるとすると、筆者には「楯の会」という言葉が思い出される。これは、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、自衛隊によるクーデターを扇動しようするも果たせず割腹自殺を遂げた反米民族主義者の作家・三島由紀夫が創立した民兵組織である。三島は、左翼学生運動の渦の中、これに対抗する右翼学生運動として、学生民兵組織を創立し、これを以って、左翼革命から日本国を防御しようとする「楯」を立てようとした訳である。護るべきは、日本の「国体」たるべき日本文化、つまり、日本人の同一性を確保するとする、幻想の共同体文化なのであった。

 つまり、「日本」という民族共同体とは幻想でしか過ぎないのであって、日本に対する所謂「愛国心」なるものもまた、日本国を支配する者達の支配構造を隠蔽するための「まやかし」にしか過ぎないのである。故に、イージス艦「いそかぜ」の副長・宮津の息子が定立した疑問:国民がそれに対する愛国心を失っている国、つまり「亡国」となっている国を護る意味があるのかという疑義もまた仮想の疑問なのである。日本の国土は、その存在自体として護るべきものなのであり、この国土に住む人間がどうであろうとこれとは関係なく護られるべきものなのである。そして、「自衛官」とは、自らの国土の防衛のための軍事的・技術的専門官であって、そこには、政治的意思が入り込む余地があってはならないのである。

 最後に、一言:叛乱の首謀者・宮津海軍中佐を演じた寺尾聡には、部下たる幹部将校を導き、彼等を叛乱に至らしめるためのカリスマ性がなければならないはずであるが、残念ながら、その「カ」の字もなく、ストーリーのまずさに、キャスティングのまずさが加わって、本作は、その息子を思う父親が情に竿さして、益々もって筋が情に流されたのである。このことが、本作のストーリーの弱さをより顕著にさせている。

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