2025年7月30日水曜日

パピヨン(USA、1973年作)監督:フランクリン・J.・シャフナー

  撮影機材は、世界一流の機材を貸し出すPanavisionのものである。色彩は、世界一流の「総天然色」のTechnicolorで、画面比は、衰退する映画産業がその衰退傾向に歯止めを掛けようとした、2.35:1のワイドスクリーンである。これはもう、是非、劇場公開で楽しみたい作品である。とりわけ、映画の終盤での、島の絶壁から見下ろした時の怒涛のように押し寄せる波の白と、波が引いていって、それが沖に繋がる海(実際は、マウイ島から見える太平洋の海)の青の鮮やかさは、流石はTechnicolorであると言いたい。撮影監督は、本作の監督であるF.J.Schaffnerシャフナーの、シャフナー組の一員であるとも言っていい、ドイツ系アメリカ人であるFred J. Koenekampコーネカンプである。パピヨンが初めて独房に入ったところでの、一人称の視点を採るカメラ・アングルや、パピヨンが夢想する場面での逆立ちのカメラ・アングルなど、本作での撮影上の意匠は各所にある。キャメラマンKoenekampは、本作の三年前の作品『パットン大戦車軍団』(監督:F.J.シャフナー)で、アカデミー賞撮影賞にノミネートされ、本作の翌年の作品『タワーリング・インフェルノ』(監督:ジョン・ギラーミン;主演の一人:St.マックィーン)で、アカデミー賞撮影賞を共同で受賞している。

  原作は、フランス人Henri Charrièreアンリ・シャリエールが書いた、自称「自伝的」と銘打った同名の小説である。この小説は、1969年に発表され、ヒットした作品であるが、当初は、その内容は実話であると信じられていた。筆者には、本作のストーリーを観ただけで、随分と多彩過ぎて「眉唾物」と思われたストーリーではあるが、ウィキペディアで調べると、やはりそうであり、本人がのちに認めているように、少なくとも内容の四分一はフィクションであると言う。

 ウィキペディアによると、H.シャリエールの原作には元本があるのではないかと言われており、その元本の作者が、同じくフランス人のRené Belbenoit ルネ・ベルブノワである。H.シャリエールが1906年生まれであるのに対して、R.ベルブノワは1899年の生まれである。その経歴を読むと、生まれながらの犯罪者と言いたい程の犯罪の経歴があり、『乾いたギロティン』という本を書いて、H.シャリエールと同じような「自伝」を1938年に 出しているのである。つまり、H.シャリエールよりも約30年前のことである。

 R.ベルブノワは、フランス本国で数々の犯罪事件を起こし、1923年にフランス領ギアナ(フランス語で「Guyane:グュイヤンヌ」)への流刑に処せられる。フランス領ギアナとは、南アメリカ大陸のブラジルに、ブラジルの北側で隣接する、フランスの植民地である。元々この地は、いわゆる「ギアナ地域」と呼ばれる地域の一部で、ギアナ高地を南側にし、大西洋を北東側にして囲まれている地域である。現在のヴェネズエラの東部地域がギアナ地域の西部であり、現在のブラジルの最北端の州アンパー州がギアナ地域の南東部を形成する。ブラジルがポルトガルの植民地であったように、このアンパー州の土地もポルトガルが領有するものであった。一方、ヴェネズエラにはスペイン人が入ったことから、ギアナ地域の西部は、スペイン領であった。そこに今度は、ギアナ地域の中央部に、オランダ人、フランス人、イギリス人が割り込んできて、そこが、アンパー州の北西側に隣接するフランス領ギアナとなり、その更に西側にオランダ領ギアナ(現:先住民スリネン人の名称から、「スリナム」共和国)、更にその西側がイギリス領ギアナ(現:ガイアナ協同共和国)となって、ヴェネズエラの東に隣接する形になる。この歴史的背景から、「ギアナ」は、ポルトガル語で「Guiana」と、オランダ語では「Guyana」と、スペイン語では「Guayana」と、そして、フランス語では、「Guyane」と表記する訳である。

 という訳で、R.ベルブノワが全部で五回図った脱走の内、二回目と三回目はオランダ官憲に捕まって収容地に戻されるということになったのである。五回目にはコロンビアにまで辿り着くことが出来、コロンビアから徒歩とカヌーでパナマ・シティーに到着する。時すでに1937年のことであったが、このパナマでR.ベルブノワは、映画でも見られるようなインディオのある部族の許で暮らすことになる。以下、ウィキペディアからその相当部分を引用する:

 「ある人がダリエンで経営していたバナナ農園に滞在することになった。周りのジャングルで蝶を探していたときにクナ族のインディオたちと出会い、カヌーに乗って彼らの首長が住む村を訪れた。その村で若いインディオの女性と結婚し、藁ぶき屋根の家で原始的な生活を始めた。インディオたちと同じように体に模様を描き、森で狩りをし、部族の会議や儀式に参加した。そのまま死ぬまでインディオたちと残りの人生を送ることも考えたが(最終的にその村で七カ月間暮らした)、再びアメリカへ向かうことを決心し、パナマシティに戻った。」

 映画で描かれるようなドラマティックな経緯からインディオの部族と生活することになった訳ではないが、映画のプロットがこのR.ベルブノワの話しと似ていることは興味深い。何れにしても、R.ベルブノワは、船でUSAに辿り着き、この地で『乾いたギロチン』と題する本を1938年、つまり、第二次世界大戦が勃発する前年に出版する。

 さて、背景となる情報を知らずに何年か振りで本作を再び観た筆者は、主演俳優陣がUSアメリカ人であることに違和感を抱きながら観ていたのであるが、ストーリーは19世紀末、遅くとも1900年代初頭と考えていた。が、それは、1930年代のことであると言う。胸に蝶々Papillonの刺青があることからそう呼ばれたH.シャリエールは、1933年に仏領ギアナに流刑される。仏領ギアナの本土にある流刑所から、脱獄常習者のJ.クルジオ、A.マチュレットとの三人組で脱獄したH.シャリエールは、コロンビアまで到達し、そこで官憲に逮捕される。コロンビアの監獄を更に脱獄した彼は、インディオの真珠取りの村に滞在したりしながらも、ある修道女に密告されて再度逮捕され、 コロンビアのあちこちの監獄に収監された後、何度も脱獄を試みるH.シャリエールに手を焼いたコロンビア官憲は彼を仏領ギアナに送還する。クルジオとマチュレットも同じ運命を辿る。送還された彼等は、三人とも仏領ギアナの沖合にある島サン・ジョゼフ島に収監される。ここでは、沈黙Silenceスィラーンスを課される独房生活が強制される。この科刑に耐えられずに自殺者が多数出たと言われているが、H.シャリエールと若いマチュレットはこれを生き延びたものの、クルジオは獄死する。

 サン・ジョゼフ島は、この地域の中心地である都市Cayenneカイエンヌから見て真北の沖合にある島の一つで、サン・ジョセフ島から北西にあるロワヤール島、そして、サン・ジョセフ島から更に真北にあるDiableディアーブル島の三島でSalutサリュー諸島を形成する。Île du Diableイール・デュ・ディアーブルとは、訳して、「悪魔の島」で、ここには、あのドレフュス事件で有名な、ユダヤ人フランス陸軍将校Alfred Dreyfusアルフレド・ドレフュスが無実の罪を科せられて収監されたことで有名になった流刑の島である。

 サン・ジョセフ島の「死の独房」を生き延びたH.シャリエールは、ロワヤール島に送られ、ここで囚人生活を過ごすが、1940年にナチス・ドイツの傀儡政権ヴィシー政府が仏領ギアナの囚人の処刑を決めたことから、H.シャリエールは狂人を装い、精神病棟に収監される。ここから脱獄を試みた彼は、ある囚人と伴に小舟で本土に逃げようとするが、小舟は波で岩に激突し、その囚人は溺死したものの、H.シャリエール自身は助かって、映画にある通り、「悪魔の島」に送られる。この脱獄不可能と言われた島から、H.シャリエールは、映画で描かれる通り、脱獄に成功するのであるが、映画とは異なり、ある囚人と二人で本土に向かう。現ガイアナ協同共和国に辿りつき、そこから舟で更にヴェネズエラに向かったH.シャリエールは、そこで再度逮捕されるものの、1945年に刑期をヴェネズエラで終えて、釈放される。この地で市民権を取得して、現地の女性とも結婚するが、69年にフランスに「凱旋」して、本作の原作を出版するという経緯となるのである。

 以上、H.シャリエールの原作を若干詳しく説明したのは、原作と脚本の違いを明らかにするためで、映画脚本においては、St.マックィーンが俳優として培った自己のキャラクター、自由に憧れ、自由の獲得のためにはあくまでも戦い抜くスピリットを持った一匹狼が、本作でも描かれる。この点では、戦争アクション映画たる『大脱走』(1963年作、J.スタージェス監督)でSt.マックィーンが演じた、通称「独房王」と呼ばれるUSA空軍大尉ヒルツ像に通じるものがある。

 しかし、本作のもう一つのテーマは、男同士の友情であり、これはフランス映画が好むテーマでもある。D.ホフマンが演じるところのLouis Degaルイ・デゥガは、実在の人物であり、H.シャリエールとも実際に既にフランスの監獄で顔見知りの仲となった人物である。映画同様に偽造罪に問われ、流刑地に流され、仏領ギアナに送還された。ウィキペディアによると、彼はH.シャリエールと「親友」になったと書かれてあるが、映画とは異なり、彼は、脱獄しておらず、実際に「悪魔の島」に島流しになったのかも分かっていない。H.シャリエールにしてさえ、彼が本当に「悪魔の島」に移送させられたという公式な記録は残っていないのであるが、この二人を「悪魔の島」で再会させることで、島に残るDegaと、島から脱獄するパピヨンとの性格の違いが上手く対照化されている。

 このように上手く出来ている脚本をそれでは誰が書いたか。それは、娯楽映画の脚本をよく手掛けたLorenzo Semple Jr.ロレンツォ・センプル・ジュニアと共に、あのDulton Trumboダルトン・トランボであった。D.トランボは、既に1930年代から映画脚本家として活動を始めていたが、第二次世界大戦の終了と共にUSAで強まったマッカーシズムと言われる反共運動により反アメリカ主義者として烙印を押されたことで、脚本家としては表立って活動することが出来なくなった。一時はUSA議会での思想検閲に対してこれへの証言を「内心の自由」を理由にして拒んだため、1950年に連邦刑務所入りとなり、その翌年から三年間メキシコに亡命移住していた人物である。

 このような経緯から、今ではUSAにおいてクリスマスに上映される定番映画となっている『素晴らしき哉、人生!』(1946年作、F.キャプラ監督)で既に、初稿脚本の作成に参画しているのにも関わらず、クレジットなしとなっている。この時点から1960年制作の『スパルタカス』(St.キューブリック監督)で彼の実名がクレジットに出るまで、十年以上も、ノンクレジットか他人の名義か架空の名義でD.トランボは「隠密」で活動しなければならなかったのである。他人名義という点では『ローマの休日』(1953年作)が、架空名義という点では『黒い牡牛』(1956年作)があり、この『黒い牡牛』の原案にはこの年度のアカデミー賞が送られた程であった。

 このように国家に迫害されながらも内心の自由を堅持したD.トランボにして本作の自由のためのメッセージも真実性があり得ると筆者は思う。St.マックィーンが体現する、自由の獲得のためにへし折れることもなく戦い抜くPapillonの姿には、D.トランボ自身の自由獲得のための体験と思いが重ねられていたことであろう。

 そのようなD.トランボの個人的な思い入れもあったのであろうか、彼は本作に俳優としても関わっている。映画の序盤である。まるで19世紀のことでもあるかのように、マルセイユの路地(実際は、スペイン・バスク地方のある漁港町)が描かれる。銃を持ったフランス軍兵士に囲まれ、H.シャリエールを含む流刑囚達がこのマルセイユの港から仏領ギアナに送り出される場面である。そこで、言わば「送辞」として、この地の警察所長が流刑囚に次のように訓示するのである:

 「諸君は、もはやフランスにとって存在しない者であり、諸君は、フランスから何一つ期待できないのである。」

 流刑者は、流刑の四年以上の刑期が終わっても、少なくともその刑期分は、仏領ギアナに居残ることを課せられていた。即ち、合計八年以上は流刑者は本国フランスに帰ることを許されなったのである。犯罪を犯していなければ、そうならなかった訳であり、そのような流刑の処罰を受けることは「自業自得」と言えなくもないのであるが、果たして国家がこのような酷い処罰を下せ得るのかは、刑事罰と社会的更生の関係を考える上で問題にされるべき点である。ましてやドレフュス事件の冤罪で「悪魔の島」に流されたA.ドレフュスのケースは言わずもがなであり、更には、「内心の自由」、「思想の自由」を固持してUSA国家から迫害され、国外亡命を余儀なくされたD.トランボにとって、自己の生存権を国家によって否定されたも同然だった訳である。このような文脈でD.トランボの本作での役回りを考えれば、その関係性を逆転させて、D.トランボを今度は国家権力の手先として上述の言を言わせている皮肉に人々は気付くべきであろう。この点でも、映画のラストで、オフの声で、非人道的制裁の場としての「悪魔の島」の流刑場が閉鎖されたことを語らせる意味は大きいのである。

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