2022年9月24日土曜日
弟とアンドロイドと僕(2022年作) 監督:阪本 順治
「自己とは、それ自身、抽象概念であり、フィクションにすぎないのだ。」
ダニエル・デネット
まず、寡聞にして、「ダニエル・デネット」とは誰なのか、恥ずかしながら分からなかった。それで、それが誰であるか調べると、Daniel Dennettとは、USAの哲学者、認知科学者であると言う。その認知科学に関しての彼の発言が、上のテーゼと関わるのであろう。それぞれの人間が持っている、或いは、持っていると思っている「自己」とは、本来は存在しない、ただの「虚構」なのであるとここでは解釈すべきなのか?彼は言う:
意識をつかさどる中央処理装置「カルテジアン劇場」(Cartesian Theater)などというものは、存在せず、意識とは、空間的・時間的に並列した複数のプロセスから織り出され、構成されるものである。(ウィキペディアによる)
この立場から、さらには、複数のプロセスから織り出される「意識」は、進化が可能なのであり、デネットは、AI、人工知能が何れは意識を持つことも不可能ではないと主張する。ここまで来ると、監督の阪本順治が、なぜ、デネットの上述のテーゼを挙げたのかは、題名に「アンドロイド」があるので、分からなくもないが、 本作のストーリーを突き詰めていくと、デネットの、このテーゼは、本作のメッセージとは殆んど関係がない。
なぜなら、本作では、自らの人間としての存在を体感できない人間が、自分自身をアンドロイドと認識し、その自己認識から、自分のDoppelgängerドッペルゲンガーを「創造」する。しかも、その創造されたアンドロイドの動力源が、死んだ鳥や生きたミミズであるとなると、そこには、人間対ヒューマノイドというSF的問題をテーマ化する気が、阪本監督にはないことが明らかとなるからである。阪本監督にとっては、それは、むしろ、非合理的人間実存の問題なのである。
主人公は、桐生薫という、ある大学の「機械工学ユニット長」である。「長」ではあるが、部下はいないようであり、学生に講義はするが、黒板にチョークで何やらの数式を何面も、それも両手で書くのであるが、学生とは目も合わせずでの講義である。
右足を制御する脳の部位が不正常なので、この男は、びっこを曳いて歩く。それもあるのか、大学への通いには自転車を彼は使う。しかも、雨が降ってでもある。と言うか、本作は、全編が雨が降ったままなのである。異常な気象現象であるが、これは、桐生の本人の内面をも反映しているようである。
大学から自宅への道を自転車で走ると、途中には、自動車は通れないような狭い、洞窟のような自然石のトンネルがあり、そこを抜けるとすぐに、桐生の自宅がある。元々は、戦前からの由緒ある個人病院宅である。時々はSF映画に相応しくメタリックな色調を採るカメラは、建物内では色調が暖かいものとなり、これにより、建物やその内装の大正的、少なくとも戦前的レトロ感覚が誇張される。
建物の中に置かれた調度品の内で、気になるものがある。あの、足を乗せるために両脇に突き出た部分がある、産婦人科に備え付けてある診察台である。この寝にくい診察台の上で桐生は寝る。それが、何を意味するか。恐らくは、自分を産んだ母への想いであろうか。なぜなら、桐生は、両親に、物心が着くか着かないうちに「捨てられた」からである。
想像するに、父親が桐生家に婿として入ったのではないだろうか。父親は、その内に、他に、日活ロマンポルノ女優風祭ゆきが扮する愛人を作り、桐生家を出ていく。桐生家の娘であった母親は、そのことに耐えられずに衝撃的に自殺して、薫を「見捨てる」。それが、薫にはトラウマになっているのである。
こうした、心に傷を負った薫を慰めてくれたのが、ひょっとして、Isaac AsimovのSF小説であったのかもしれない。建物の中を検分するように見渡すカメラは、ある、古びた本を映し出す。『われはロボット』という題名である。翻訳者は、小尾芙佐(おび ふさ)である。
『われはロボット』とは、I.アシモフが1950年に発表した、初期のロボットものSFの短編集であり、本書において有名なロボット工学三原則が示され、アシモフはロボットSFの第一人者としての地位を確立することになるのであるが、小尾は、早川書房の女性翻訳者として、このアシモフの古典的作品を共同翻訳し、1963年に上梓している。つまり、今(2022年)からほぼ60年前の本である。薫は何歳の時にこの本を読んだのであろうか。
さて、以上を読んで、本作は何と「暗い」ストーリーであろうか、と思われる方がいるかもしれないのであるが、本作には、何とはなしではあるが、ある種のHumorフモールがある。
「異常」とは、常とは異なることである。常とは、普通のことであり、その普通と異なると、そこには、二重の意味での「可笑しみ」が生まれる。可笑しいから、変であり、可笑しいから、笑えるのである。この笑える部分が、滑稽なのであり、脚本も書いている阪本監督は、その可笑しみを、意図してか、或いは意図せずにか、よく出している。
そして、この「可笑しみ」をよく体現しているのが、大阪人俳優豊川 悦司(とよかわ えつし)である。本作で、豊川は、阪本監督と5本以上目の共作となる。1958年に大阪府で生まれた阪本 順治監督は、基本的には脚本も書く監督であり、筆者は、その代表作であるという『大鹿村騒動記』(2011年作)や『北のカナリアたち』(2012年作)などは観ていないが、本作での「滑稽味」は、数ある阪本作品でも独特のものかもしれない。
撮影監督は、儀間眞悟で、阪本監督とは、『団地』(2016年作)他、数本で共作している。一方、美術監督は、「阪本組」の一員と言える原田満生で、彼は、1998年以降、阪本監督の15本の作品で共作しており、阪本監督の『顔』(2000年作)を以って、第55回毎日映画コンクールで、美術賞を、同じく阪本監督の『亡国のイージス』(2005年作)を以って、第29回日本アカデミー賞で、優秀美術賞を受賞している。
2022年9月16日金曜日
プリデスティネーション(オーストラリア、2014年作)監督:ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ兄弟
本作の原作は、USAのSF作家ロバート・A・Heinleinハインラインの『輪廻の蛇』である。この原作は、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』誌の1959年3月号で最初に掲載された。『輪廻の蛇』とは、上手く邦訳したと言えるが、原作の原題は、'—All You Zombies—' で、これは、映画でも台詞の一部として登場するのであるが、こう言われても、日本人には通じないであろうと考えた翻訳者が、蓋し、上手く、要点を衝いて、意訳している。
さて、『輪廻の蛇』となれば、当然、「ウーロボロス (ouroboros)という言葉が浮かび上がってくるが、それは、古代の象徴の一つで、自らの尾を噛んで円環状となったヘビ、或いは、龍を図案化したものである。語源は、「尾を飲み込む(蛇)」の意の古代ギリシア語から来ているが、古代エジプト文明、アステカ文明、北欧神話やヒンドゥー教においても同様のシンボルが見られると言う。
ウーロボロスには、一匹が輪になって自分で自分の尻尾を食むタイプと、二匹がいっしょに輪になって相食むタイプがある。その象徴的な意味は、ヘビが自らの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なもの、更には、「不老不死」としての意味も備わっていると言う。「神は死んだ」という箴言で有名になったドイツの哲学者ニーチェは、「過ぎ去ったものが、すべての将来的なものの尻尾に噛みついている。」と言い、彼の有名なテーゼ「永劫回帰」を、過去と未来の時空間で言い換えている。
では、本作の題名『プリデスティネーション』(Predestination)とは、何であろうか。「プリ」とは、「前もって」の意味であり、「デスティネーション」とは、「到着地、行先」で、併せて、前もって行き先が決まっていること、つまり、キリスト教神学の「予定説」の意味である。世界に出現する一切のことは、神が永遠の昔から事前に予定してあるものであるという説である。そして、本作では、原作同様に、あるバーテンダーが、ヴァイオリンのケースの形をしたポータブル型タイムマシンを使って、この「神」の役を演じる。それは、神学的に言えば、人間の驕り、不遜であり、神の罰を受けるべき行為であろう。
さて、本作はオーストラリア映画であるが、脚本も書いている双子の兄弟監督ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ(Spierig、英語読みでスピエリッグ)は、元々は北ドイツで生まれた映画人である。彼らは、R.A.ハインラインの二匹で一つの円環を形成するウーロボロスのストーリーを、もう一つの円環を加えて、それを8の字にし、これを横倒しにして、さらに、一本の線ではなくて、1枚の細長く切った紙をねじって、表側の紙の一端を裏側の紙の別の一端に貼り付けた時に出来る立体的な8の字円環、つまり、無限ループに書き換えたのであった。実に考え抜かれた、原作を越えるストーリー展開である。JaneとJohnが絡むストーリー展開が、横倒しの8の字の一つの円環を形作るとすると、バーテンダーを巡る運命がもう一つの円環を構成し、この二つの円環が交わるのが、1970年のニューヨークにあるバーである。時空間は、1945年から1985年までの40年間を行ったり来たりする。
ジェーンとジョンのストーリーでは、ジェーンの生い立ちが、時系列を正当に過去から現在に向けて、映画の前半で語られることにより、USAの1945年から1963年までの歴史的雰囲気が再現されるが、ジェーンが、他人とは協調できないタイプであり(それは、ジェーンの赤毛と緑色の補色の色の組み合わせで表現される)、孤独に孤児院時代を過ごし、自分が有能である自負から、宇宙関連の仕事に付きたい夢を抱いて(当時のUSAのアポロ計画を考えよ)、ある組織「Space Corp」の採用試験の試練に耐えるのである。ここで、上手くレトロ感覚の未来主義の雰囲気が出ていて、秀逸である。
しかし、ジェーンがアンドロギュノス、両性具有ということから、それを本人に知らせないまま、採用試験の過程で落とされる。1963年、失望の中で、偶然知り合った男性と恋に落ち、妊娠する。翌年には女の子を産むが、帝王切開の手術の際に、大量出血のために、女性の器官を切除しなくてはならなくなる。こうして、ジェーンがジョンに性転換する、彼女の数奇な運命が展開する。このストーリー展開に、更に、例のバーテンダーの運命と連続爆弾魔Fizzle Bomberの事件が関わってくるのである。
2015年のオーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞(Australian Academy of Cinema and Television Arts Awards, AACTA Awards)では、9部門でノミネートされ、その内、Sarah Snookに、最優秀主演女優賞が、Ben Nottに、撮影賞が、Matt Villaに、編集賞が、そして、Matthew Putlandに、美術賞が、授与された。
青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己
冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる: 「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...
-
主人公・平山の趣味が、1970年代のポップスをカセットテープで聴いたり、アナログ・カメラで白黒写真を撮ったりすることなどであること、また、平山が見る夢が、W.ヴェンダースの妻ドナータ・ヴェンダースの、モノクロのDream Installationsとして、作品に挿入されているこ...
-
中編アニメ『言の葉の庭』(2013年作)で大人のアニメへの展開を予想させた新海アニメ・ワールドは、次の、長編アニメ『君の名は。』(2016年作)以降、『天気の子』(2019年作)を経て、本作(2022年作)へと三年毎に作品が発表され、『言の葉の庭』とは別の歩を辿る。『君の名は。...
-
映画の出だしで、白黒で「東映」と出てくる。もちろん、本作の配給が東映なので、そうなのであるが、しかし、『カツベン!』という題名から言えば、「日活」が出てほしいところである。「日活」とは、 1912 年に成立した、伝統ある映画会社であり、その正式名称が、 「 日本活動冩眞株式...