映画が始まって画面にすぐ出てくるテーゼがある。
「自己とは、それ自身、抽象概念であり、フィクションにすぎないのだ。」
ダニエル・デネット
まず、寡聞にして、「ダニエル・デネット」とは誰なのか、恥ずかしながら分からなかった。それで、それが誰であるか調べると、Daniel Dennettとは、USAの哲学者、認知科学者であると言う。その認知科学に関しての彼の発言が、上のテーゼと関わるのであろう。それぞれの人間が持っている、或いは、持っていると思っている「自己」とは、本来は存在しない、ただの「虚構」なのであるとここでは解釈すべきなのか?彼は言う:
意識をつかさどる中央処理装置「カルテジアン劇場」(Cartesian Theater)などというものは、存在せず、意識とは、空間的・時間的に並列した複数のプロセスから織り出され、構成されるものである。(ウィキペディアによる)
この立場から、さらには、複数のプロセスから織り出される「意識」は、進化が可能なのであり、デネットは、AI、人工知能が何れは意識を持つことも不可能ではないと主張する。ここまで来ると、監督の阪本順治が、なぜ、デネットの上述のテーゼを挙げたのかは、題名に「アンドロイド」があるので、分からなくもないが、 本作のストーリーを突き詰めていくと、デネットの、このテーゼは、本作のメッセージとは殆んど関係がない。
なぜなら、本作では、自らの人間としての存在を体感できない人間が、自分自身をアンドロイドと認識し、その自己認識から、自分のDoppelgängerドッペルゲンガーを「創造」する。しかも、その創造されたアンドロイドの動力源が、死んだ鳥や生きたミミズであるとなると、そこには、人間対ヒューマノイドというSF的問題をテーマ化する気が、阪本監督にはないことが明らかとなるからである。阪本監督にとっては、それは、むしろ、非合理的人間実存の問題なのである。
主人公は、桐生薫という、ある大学の「機械工学ユニット長」である。「長」ではあるが、部下はいないようであり、学生に講義はするが、黒板にチョークで何やらの数式を何面も、それも両手で書くのであるが、学生とは目も合わせずでの講義である。
右足を制御する脳の部位が不正常なので、この男は、びっこを曳いて歩く。それもあるのか、大学への通いには自転車を彼は使う。しかも、雨が降ってでもある。と言うか、本作は、全編が雨が降ったままなのである。異常な気象現象であるが、これは、桐生の本人の内面をも反映しているようである。
大学から自宅への道を自転車で走ると、途中には、自動車は通れないような狭い、洞窟のような自然石のトンネルがあり、そこを抜けるとすぐに、桐生の自宅がある。元々は、戦前からの由緒ある個人病院宅である。時々はSF映画に相応しくメタリックな色調を採るカメラは、建物内では色調が暖かいものとなり、これにより、建物やその内装の大正的、少なくとも戦前的レトロ感覚が誇張される。
建物の中に置かれた調度品の内で、気になるものがある。あの、足を乗せるために両脇に突き出た部分がある、産婦人科に備え付けてある診察台である。この寝にくい診察台の上で桐生は寝る。それが、何を意味するか。恐らくは、自分を産んだ母への想いであろうか。なぜなら、桐生は、両親に、物心が着くか着かないうちに「捨てられた」からである。
想像するに、父親が桐生家に婿として入ったのではないだろうか。父親は、その内に、他に、日活ロマンポルノ女優風祭ゆきが扮する愛人を作り、桐生家を出ていく。桐生家の娘であった母親は、そのことに耐えられずに衝撃的に自殺して、薫を「見捨てる」。それが、薫にはトラウマになっているのである。
こうした、心に傷を負った薫を慰めてくれたのが、ひょっとして、Isaac AsimovのSF小説であったのかもしれない。建物の中を検分するように見渡すカメラは、ある、古びた本を映し出す。『われはロボット』という題名である。翻訳者は、小尾芙佐(おび ふさ)である。
『われはロボット』とは、I.アシモフが1950年に発表した、初期のロボットものSFの短編集であり、本書において有名なロボット工学三原則が示され、アシモフはロボットSFの第一人者としての地位を確立することになるのであるが、小尾は、早川書房の女性翻訳者として、このアシモフの古典的作品を共同翻訳し、1963年に上梓している。つまり、今(2022年)からほぼ60年前の本である。薫は何歳の時にこの本を読んだのであろうか。
さて、以上を読んで、本作は何と「暗い」ストーリーであろうか、と思われる方がいるかもしれないのであるが、本作には、何とはなしではあるが、ある種のHumorフモールがある。
「異常」とは、常とは異なることである。常とは、普通のことであり、その普通と異なると、そこには、二重の意味での「可笑しみ」が生まれる。可笑しいから、変であり、可笑しいから、笑えるのである。この笑える部分が、滑稽なのであり、脚本も書いている阪本監督は、その可笑しみを、意図してか、或いは意図せずにか、よく出している。
そして、この「可笑しみ」をよく体現しているのが、大阪人俳優豊川 悦司(とよかわ えつし)である。本作で、豊川は、阪本監督と5本以上目の共作となる。1958年に大阪府で生まれた阪本 順治監督は、基本的には脚本も書く監督であり、筆者は、その代表作であるという『大鹿村騒動記』(2011年作)や『北のカナリアたち』(2012年作)などは観ていないが、本作での「滑稽味」は、数ある阪本作品でも独特のものかもしれない。
撮影監督は、儀間眞悟で、阪本監督とは、『団地』(2016年作)他、数本で共作している。一方、美術監督は、「阪本組」の一員と言える原田満生で、彼は、1998年以降、阪本監督の15本の作品で共作しており、阪本監督の『顔』(2000年作)を以って、第55回毎日映画コンクールで、美術賞を、同じく阪本監督の『亡国のイージス』(2005年作)を以って、第29回日本アカデミー賞で、優秀美術賞を受賞している。
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