本作は合作映画で、フランス、ベルギーそしてルクセンブルクが資本を出して撮られた作品である。ストーリーがロシア連邦の原子力潜水艦Kurskクルスク沈没がテーマであるから、ロシア連邦も製作に関わってもいい訳ではあるが、ことは、「今は時めく」ウラディミール・プーティンの初めての大統領時代のことでもあり、製作者側は、そのストーリー展開において、「忖度」したようである。本作には、プーティンの「プの字」も出てこない。実は、プーティンは、1999年から2000年まで連邦首相をやった後、2000年5月に彼の履歴では初めての大統領職に就く。その約三ヶ月後にクルスク沈没事件が起きたが、その時の彼の対応の冷たさに一時的にその人気が下がったという、曰く付きの事件であるからである。作中、クルスク乗員の家族を入れた二回目の「説明会」で、この会を取り仕切っていたのはロシア連邦海軍ペトレンコ大将(スェーデンの名優Max von Sydow)ではなく、ウィキペディアによると、プーティン本人であったという。
しかし、問題の本質は、製作者側の「自己検閲」にあるのではなく、国家秘密、とりわけ軍事秘密の秘匿のためには、助けられる23名の人命をも犠牲にする、所謂「国家理性」の冷血さにあると言うべきである。映画の終盤の遭難者の追悼の儀式において、ペトレンコ海軍大将が行なった追悼の辞は、欺瞞に満ちたものであり、それを見逃さないぞと睨めつける、主人公アヴェリン海軍大尉の息子ミーシャの目こそ、本作のクライマックスであると言える。これがあってこそ、同じ場でミーシャが、ペトレンコ海軍大将の握手のために差し出された手を拒む行為に出たことのストーリー上の説得性があるのである。そして、それを受けて、ペトレンコ海軍大将を演じる、スェーデン人の名優Max von Sydowが、欺瞞を見抜かれた者の羞恥心とそれを隠そうとする内面的葛藤を少しの顔の動きで殆んど天才的に表現したことへ、筆者は万雷の拍手を送るものである。von Sydowは、本作を撮った二年後にフランスで亡くなる。享年90歳であった。
さて、この秘匿されなければならなかった軍事秘密とは何であったか。それは、原潜Kurskが、ロシア連邦海軍の現役の最新鋭潜水艦であったことである。ソヴィエト・ロシア或いは単にロシアの潜水艦には、その兵装において、魚雷原潜と有翼ロケット原潜があり、有翼ロケット原潜には弾道ミサイル潜水艦と巡航ミサイル潜水艦の二つの型式がある。この巡行ミサイル潜水艦の内、その第三代原潜に当たるのが、949型(NATO側からは「オスカー型」と呼ばれる)が建造された。この949型式は、多数の巡航ミサイルを一度に発射して仮想敵国の空母打撃群を逆に打撃するための対水上艦打撃潜水艦として特化したものである。949原型型は、一番艦が既に1980年に就役しているが、この型は二隻建造されたのみで、この原型型の改良型「949A」は、1986年から就役が開始され、11隻が竣工した。この11隻の内の一隻がKurskで、その艦番号はK-141である。「K」とは、ロシア海軍では「潜水巡洋艦」たることを示す。
K-141艦は、ソ連崩壊後の1992年に建造が開始され、94年5月に進水、同年12月に就役した。つまり、949A型の10隻目としてロシア海軍北方艦隊に配属された。という訳で、949A型は、ソヴィエト時代に設計・承認された、ソヴィエト連邦の原潜設計技術の極致を体現している潜水艦であり、潜水艦建造の歴史から言っても、全長154m、最大幅18,2mの史上最大の攻撃型潜水艦であった。ここにどうしても守りたいロシア側の軍事機密があったのであり、それは、23名の乗組員を犠牲にしてでも守りたいものであったのである。
本艦の兵装は、巡航ミサイル24発、魚雷24発、艦首にある魚雷発射管六本である。乗員は、士官44名、下士官・兵68名の112名であり、Kurskの遭難時には乗員111名、司令部要員5名、便乗者2名の、合計118名が乗船していた。
就航してから運用された約五年間の間に、Kurskが完遂した任務は、僅かに一度だけであり、それは、1999年にコソボ紛争に対応するためにこの地域に派遣されたUSA第六艦隊の動静を監視するために、同艦がほぼ六ヶ月に亘り監視行動を担ったものであった。それ以外は、乗り組み員は地上勤務が多かったと言い、このことが事故が起きる遠因になっているとも言う。
事故の原因は、映画で描かれている通り、そして、ロシア政府ののちの事故調査報告が述べる通り、過酸化水素を推進燃料とする65㎜魚雷(別の説もあるが、「ウェーキ・ホーミング魚雷」と呼ばれた魚雷)が爆発したことによる。これは、高濃度過酸化水素HTPが不完全な溶接個所から漏れ出たことに因るものであった。この魚雷の爆発が魚雷発射管から外に向かったのではなく、艦内に向かったこと、更に、爆風が換気ダクトを通じて戦闘司令部区画(第二区画)に及び、ここにいた将校達36名を行動不能にしたことで、緊急浮上の措置が全くなされず、また、二分後の更に大きな魚雷数発の誘爆発により、少なくとも第三区画、場合によっては、第四・五区画までが被害を受け、これにより、原子炉発電部が停止し、更に魚雷発射室の真下にあったという非常用バッテリーまでが使えなくなったことにより、艦からの外部への連絡が不能になるという事態が、第二次爆発を辛うじて生き延びて第九区画(艦尾タービン室)に逃げた23名の生き残りには致命的であった。
事故原因をUSA潜水艦との衝突と主張するロシア海軍側は、独自の救助艇を一隻派遣するが、救助は成功せず、8月12日の事故発生後、9日経った8月21日にロシア側の要請に基づき、イギリス・ノールウェーが送った救助艇から潜水夫が緊急脱出用のハッチを開けることに成功して、約110mの海底に沈んだ艦内に入ることが出来たが、時すでに遅し、乗り組員全員の死亡が確認された。(素人考えではあるが、Kurskの全長が約160mであるから、艦体を艦首を頭にして海底から逆さに立てたら、艦尾側は50m水上から出る計算である。)
のちの検証に拠ると、一時的に生き延びた23名は、室内の酸素不足による窒息死であり、溺死ではないことが確認されたと言う。本作が描くような、二酸化炭素を除去し、酸素を発生させるカートリッジの取り扱いの誤りにより、室内に火災が生じ、これにより、室内の酸素が急速に奪われたことによる、窒息死があったと言う。その23名の中にドミトリー・コレスニコフKolesnikow海軍大尉(本作中の主人公アヴェリン海軍大尉)がおり、彼こそが暗闇の中、手探りで23名の名前を書き上げた本人であった。
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