2024年8月26日月曜日

オーシャンズ8(USA、2018年作)監督:ゲイリー・ロス

『Ocean's 8』は、実は、「Ocean's 7+1(+1)」

 本作のストーリーは、三段構えである。一段目は、Cartierの首飾りを「掠め取る」作戦の展開で、ここでは、7人組がスクラムを組む。第二段目は、復讐劇で、この段階で、もう一人の女性が絡んできて、女性チームは、女性八人組になる。第三段目が、言わば、どんでん返しの段で、これには、上述の「(+1)」の中国人男性が加わる。(+1)は、「オーシャンズ」・シリーズで、『イレヴン』の最初から、本作の主人公Debbieが愛するDannyの仲間達の一人であった人物である。故に、本作は正しくは「オーシャンの9人」である。

 第一段目の「窃盗」ストーリーは、盗まれる側が「難攻不落」でなければ、面白味が半減する。その点、本作における「難易度」は、『スパイ大作戦』や『ミッション・インポッシブル』と比較すると、その程度は低く、しかも、罠を掛ける対象の女優との絡みで「人間的要素」が大きすぎて、説得力が欠ける。

 更に、この手のストーリーでは、「難易度」に応じて、それに対する準備の過程がしっかりと描かれなければならない。この点は、本作はある程度しっかりとその「地固め」がなされていたが、何せ「難易度」が低いので、その準備も「ああ、こういう手もあるか。」と納得させるインパクトが少ない。

 しかも、作戦実行が、確かにそうはならないようにはいくつかの「障壁」が挿入はされていたが、全体的にはスムーズに行き過ぎて、緊張感が薄いのは、本作の脚本上の瑕疵である。監督Gary Rossは、脚本も共同で手掛けている。

 一方、「Ocean's」もののいいところの一つは、その仲間達の顔ぶれが多彩であり、それぞれに個性がある所であろう。『七人の侍』ではないが、本作の「七人の強者」の顔ぶれは、インド系あり、中国系あり、はたまた、ラテン・黒人系ありで、国際色豊かである。登場人物としては、Cate Blanchetが、七人の中では、出色であろう。主人公Debbieとは同性愛的な関係を匂わせながら、男役的なパートを演じ、カッコ良く単車を乗り回す。キャラクター的には、負債を抱えるモード・ディザイナーRoseが興味深く、彼女は、とんでもポップアート的な服装を「こなして」歩く。このRose役を演じたのが、Helena Bonham Carterである。どこかで見た顔で、どこで見たかを思い出せず、ウィキペディアでその経歴を調べて思い出した。David Fincher監督の『Fight Club』(1999年作)でである。1999年と言うと、本作の制作が2018年であるから、ほぼ20年前のことであるから、H.B.カーターももう随分お年なのであるが、『Fight Club』での彼女の演技は鮮烈であり、筆者は未だによく記憶している。

 H.B.カーターは、フランス語がペラペラなそうで、その語学の達者さは、本作でも強調されていたが、主演のSandra Bullockも本作ではドイツ語が上手いところを見せている。と言うのは、彼女は、ドイツ人のオペラ歌手Helga Meyerヘルガ・マイヤーの娘として、南東ドイツの、バイエルン州の東にあるNürnbergニュルンベルクで生まれ、12歳までここに住んでいたからである。父親はアメリカ軍属で声楽を指導していたアメリカ人であった。学校は、ドイツではルドルフ・シュタイナー校に通い、高校はアメリカのハイスクールに行って、チアリーディング部の部長として活躍したと言う。アメリカ語訛りのドイツ語ではなく、しっかりしたドイツ語での発音である。という訳で、本作は是非オリジナルで観たい作品であろう。

 本作の最後、Debbieは兄の墓石の前に座るが、この墓石の横には、Helga Meyerの名前が見える墓石がある。S.ブロックの実の母親の名前である。Ross監督も中々「粋な」取り計らいをしたものである。

2024年8月14日水曜日

オッペンハイマー(USA、英国、2023年作)監督:クリストファー・ノーラン

 反ユダヤ主義者のヒトラーが手にするかも知れないという危惧から、ユダヤ人たるOppenheimerは、核爆弾製造に実践的に着手することにするが、それは、Oppenheimerが既に1920年代に注目していた量子力学の研究を犠牲にすることによって可能であった。あの天才科学者A.アインシュタインが50年代にOppenheimerとプリンストン高等研究所の庭にある池の端で明かした疑問は、同時に、科学の進歩の先端を行った者、行く者の「悲哀」を感じさせる。

 さて、原子力委員会の査問によりOppenheimerの過去があからさまに暴かれることで改めて気が付くことが、1930年代のアメリカにおいて多くの知識人が共産主義に少なくシンパシーを持っていたことである。アメリカ合衆国共産党(CPUSA)の創立は、ロシア革命の二年後の1919年のことであるが、この党がスターリン主義に凝り固まって支持者を次第に失っていく中で、とりわけ、人民戦線路線を採った30年代半ばは支持層を広めていた時期があり、ちょうどこの時期にOppenheimerも左翼に関わる。そして、彼の周りの多くの人間が共産党員だったのである。ウィキペディアによると、「妻キティ、[同じく物理学者であった]弟フランク、フランクの妻ジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン・タットロックは、アメリカ共産党員であり、また自身も党員では無かったものの、共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。」とある。

 そして、以下の後日譚は本作では述べられていないが、原子力委員会(AEC)の後身となる連邦エネルギー省(DOE)の女性大臣を務めるJennifer Mulhern Granholmは、2022年12月に、上述のOppenheimerに対する1954年の「処分」を「偏見に基づく不公正な手続き」とし、68年の時を経ての名誉回復については、「歴史の記録を正す責任がある」と説明したと言う。Chr.ノーランがOppenheimerについての伝記を映画化しようという意図を明らかにしたのは、21年9月のことであるので、Oppenheimerの名誉回復のニュースを聞いて、彼は、改めて、自身の決断が正しかったものと確信したことであろう。

 撮影監督は、Chr.ノーラン組のキャメラマンと言っていいオランダ人Hoyte van Hoytemaで、本作で米国アカデミー賞を受賞している。同賞の監督賞を今回初めて受賞したChr.ノーランは、本作にはいつものことながらIMAXキャメラを用いているが、上述したように、『Memento』(2000年作)と同様に、カラーと白黒を取り交ぜることで、映画の時間構造を明らかにしている。しかし、IMAXキャメラでは、彼自身が望む質の白黒の映像を撮ることが出来ないことから、映画素材としてKodak社に特注して65㎜白黒アナログ・フィルムを製造してもらったと言う。さすがに映像にこだわるChr.ノーランについての逸話であるが、彼ほどの大御所となると、一流会社も動かせるのは、さすがであるとしか言いようがない。

2024年8月10日土曜日

ジャッキー・コーガン(USA、2012年作)監督:アンドリュー・ドミニク

 本作の邦題『ジャッキー・コーガン』を見る限り、うん、これは、あの『ジャッキー・ブラウン』(1997年作)の「兄弟編」かと思う。しかし、内容的に見ると、『パルプ・フィクション』(1994年作)をブラッド・ピット版にしたものかとも思う。(B.ピットは、本作の製作者の一人でもある。)

 『ジャッキー・ブラウン』も『パルプ・フィクション』も監督はQ.タランティーノで、オーストラリア人監督Andrew Dominikは、タランティーノ「信者」に思える。本作の原作は、George V. Higginsの小説『Cogan' Trade』(1974年作)で、本作のストーリー展開はほぼ原作に則っているのであるが、脚本も書いているA.Dominikは、時代背景を2008年に持ってきているところが本作のストーリー上の「ミソ」なのである。

 USAの2008年というと、民主党のB.オバマと共和党のJ.マッケインとの間の大統領選挙の選挙戦の最中である。映画中に出てくるテレビ中継で演説するB.オバマの崇高な論理と、B.ピット演じるJ.コーガンが「処理する」下世話の「仕事」との間に存在する、隔絶的な距離感こそが本作の眼目であろう。J.コーガンに言わせれば、アメリカとは、その内容が何であれ、「ビジネス」の国なのであり、民主主義の理想などはどうでもいいのである。

 となれば、この批評を書いている2024年には、C.ハリスとD.トランプとの間の大統領選挙戦が行なわる予定であるが、B.オバマからC.ハリスにつながる民主党の連続性に対して、J.マッケインからD.トランプに変わる、共和党の政治的方針の変化には目を見張るものがある。

 話しが若干逸れたが、本作の英語原題は『Killing them softly』という。この原題から連想するのは、『Killing me softly with his song』というポップ・ソングである。こちらの歌の邦題は、『やさしく歌って』となっているが、この曲は、Roberta Flackという黒人女性歌手が1973年に歌って世界的にもヒットした作品であり、これにより、彼女は、グラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀楽曲、最優秀女性ヴォーカルで受賞したのである。当時はこれ程、知名度の高かった曲である。

 この曲の原題『Killing me softly with his song』が邦題でなぜに『やさしく歌って』となったかは筆者の知るところではないが、「やさしく殺して」としては、憚られるものを日本の音楽会社は感じたのであろうか。しかも、Killingは現在進行形であるから、命令形とは異なる形である。故に、意味的にも異なってくる。何れにしても、「殺す」と「やさしく」が殆んど逆説的に結び付いているところにこの曲の歌詞の秀逸さがあるのである。一方、本作の原題『Killing them softly』では、killは正にそのものずばりであり、そこには詩的誇張は全くないのである。

 尚、R.Flackが歌って有名になった曲は、実は、Lori Liebermanという女性のユダヤ系シンガーソングライターが自分の音楽体験を基にして既に1972年に発表していたものである。ギターの弾き語りで静かに歌うL.Liebermanのプレゼンテーションは、控え目過ぎたということであろうか、ヒットにはつながらなかった。

 この「控え目さ」と呼応するが如く、本作のストーリーの内容は、些末で、矮小である。つまり、「パルプ・フィクション」なのであり、その意味で、本作の「山場」は、ジャッキー・コーガンが、自分が顔を知られていることから、わざわざニューヨークから呼んだ、知り合いの殺し屋ミッキーとのやり取りであろう。この、アル中の、売春婦と寝ることしか頭にない殺し屋ミッキーを、James Gandolfiniが秀逸に演じている。同じく秀逸なのは、本作における撮影で、スローモーション撮影と光を上手く使ったキャメラは、印象的である。調べると、撮影監督のオーストラリア人Greig Fraserは、『Dune』(2021年作)でアカデミー賞撮影賞を受賞している。さもありなんというところであろうか。

2024年8月4日日曜日

イコライザー The Final(USA、2023年作)監督:アントワーン・フークワ

 本作は、三部作のシリーズもののファイナル版である。シリーズの一作目は、原案が英語の原題では同名の『The Equalizer』という、1980年代にUSAで放映されたテレビ映画シリーズである。このテレビ映画シリーズは、日本では『ザ・シークレット・ハンター』という邦題名で放映されたということをウィキペディアで知って、筆者は早速、ある日本のテレビ映画シリーズを思い出した。『必殺シリーズ』である。

 この『必殺シリーズ』は、1970年代の初めに第一シリーズが放映されたが、その時は、『必殺仕掛人』という題名であった。その後、何シリーズもテレビ用、劇場用に映画化されたが、その中には、『必殺仕事人』、『必殺仕置人』、『必殺仕留人』などという題名があった。この『必殺シリーズ』の基本的なストーリー構造は、ある悪人に痛めつけられた被害者、或いは、その関係者が、「裏稼業」の必殺のプロに頼んで、その復讐のために仇を取ってもらう。そのためには依頼人は依頼金を支払わなければならないという仕組みである。この依頼金の要素を除くと、本作のストーリー構造も『必殺シリーズ』のそれと似ており、それで、筆者は、この日本のテレビ映画シリーズを思い出した次第である。

 ところで、「仕事人」、或いは、「仕掛人」が「仕事」を引き受ける場合、観ている者に道徳的・倫理的「反感」が出ないように、ストーリー上の「仕掛け」があった。ここが「ミソ」であり、本作の倫理的前提と比較するためにも、この「ミソ」を一言述べておこう。まず、単なる勧善懲悪の行為にしない。この大前提の下、「1.晴らせぬ恨みを晴らす」、「2.世のため、人のためにならない殺しはやらない」、「3.合法的には裁くことができない悪人のみを殺める」、「4.殺しに当たり、万が一にも間違いがないように調べ上げる」、「5.あくまで正義の味方ではないので、殺しの代償として依頼金を取る」などの「裏稼業の掟」がある。

 これらの「掟」の内、5番以外は、本作にも当てはまっていると言えよう。4番の事前調査は本作でもはっきりは出ていないが、ストーリーが展開する中で、R.マッコールの行為の対象者が当然の「報復」を受けて妥当である気持ちが高められる。とりわけ、3番の観点が本シリーズでは強いのではなかろうか。悪の行為によって、均衡が失われた状態を「報復」という行為、事実上は私的制裁なのであるが、この行為によって、正義の均衡が取り戻される。この均衡を取り戻す行為、乃至は人間のことをEqualizerイコライザーというのである。あの算数の記号「=」、つまり、「イコール」状態にすることである。

 ところで、「イコライザー」は、音響機器としてもあり、この機器は、ウィキペディアによると、以下のように定義されている:

 『イコライザーの原義は「均一化(equalize)器」で、録音再生環境(例: マイクロフォン・レコーダー・録音スタジオ、スピーカー・再生会場)がもつ周波数特性の歪み補正や、マスタリングにおける曲ごとの音質的差異の平均化などを意図している。』

 という訳で、『The Equalizer』という英語原題を邦訳した場合、『必殺仕掛人』のタイトルにもじって、訳してみると、「必殺均一人」となるであろうが、これでは駄洒落が過ぎるので、「必殺報復人」としてみては如何であろうか。

2024年8月2日金曜日

バカ塗りの娘(日本、2023年作)監督:鶴岡 慧子

 「コスパ」や「タイパ」の観点から物事が測られる現代日本では、「伝統工芸」とは、これらの基準のどちらも「悪い」、正に、真逆の存在で、美術工芸の国フランスならまだしも、現代日本では、これらが廃れるのも無理はないのであろう。そういう、現代日本社会で「分の悪い」伝統工芸の中でも、更に「割が合わない」のが、津軽塗である。なぜなら、*「塗っては研ぐという大変手間のかかる技法は、40数回の工程と2ヶ月以上の日数を費やして仕上げ」られるからである。こういう「バカ丁寧」に作られる津軽塗であるからこそ、この漆塗製品を作る工程「漆工」は、「バカ塗り」と呼ばれる。本作の表題の一部にこれが出ている理由である。(*印の引用は、青森県漆器協同組合連合会のインターネットのサイトより)

 青森県の西部にある、弘前市を中心都市とする津軽郡の伝統産業の一つが津軽塗であるが、津軽塗職人の青木清史郎は、津軽塗の将来を悲観している。経済的に苦しい家計に耐えられずに妻は家から出ていった。長男は美容師になって、家は継がないと言う。娘の美也子はその器ではないと見ている父親は、なぜか津軽塗をやってみたいという娘を信じられない。こうして、本作のストーリーが展開するのであるが、やはり、美也子の心境や意欲に説得性がないので、映画を観ていて、「本当なのか?」と疑問符が何度も湧いてきていたのは、筆者だけではないのではなかろうか。

 しかも、映画の終盤が、美也子がグランド・ピアノの外装の塗りをあれほどカラフルに仕上げたことで、それが評価されてパリに呼ばれていくという成功譚になっていることに更に違和感が隠せないのである。今では、塗った面の光沢や強度を高めるために漆にセルロースナノファイバー(CNF)を混ぜる技術が開発されていると言うし、素地(「きじ」)に木地ではなく合成樹脂を使ったり、天然の漆の代わりに合成塗料を用いた「合成漆器」も存在している。美也子が、もしそのようなものを使ったとしたら、これでは、津軽塗の本来の独自性を逆に失わせることになってはいないかと思われるからである。

 それでは、「津軽塗の本来の独自性」とは何か?木地には、伝統工芸であるから、青森県産のヒバが使われる。これは、津軽の伝統工芸である限り、当然である。生漆(きうるし)に、セルロースナノファイバーを混入させることは、たとえそれが「伝統工芸」であるとしても、あり得る。例えば、輪島塗では、下地塗の行程で、生漆に米糊、そして焼成珪藻土を混ぜて何層にも厚く塗る。大体、漆自体が、その多くを中国から輸入している状態である。国産の上質の漆は、岩手県二戸(にのへ)市浄法寺町で採れる漆で、その生産量は、日本での漆の総使用量44トン(2016年度)の5%にも満たない2トン以下であると言う。

 こう見てくると、津軽塗を津軽塗たらしめているのは何かと言うと、模様の出し方にあるのである。漆器の代表格は、京都の公家を相手とした京漆器であろうが、京漆器は、京都の洗練された公家文化に合わせるように、木地を薄くし、上質の漆を塗った上に、加飾として蒔絵を施すことがその特質である。これに対して、津軽塗では、その技法の一つとして「唐塗」というものがあり、この技法では、蒔絵を施さずに、仕掛けベラを使って凹凸を付けながら漆を盛り上げて塗り、更にその上に別色の色漆(朱漆、黄漆、実は緑色の「青漆」)を何層にも亘って塗っては、その表面を砥石や炭で研いでいき、この四十八の工程の中で、言わば、漆の中から斑点模様を研ぎ出すのである。この技法が「研ぎ出し変わり塗」の技法の一つであると言われ、これこそが、津軽塗を津軽塗たらしめている技法なのである。この津軽塗の特異性が、映画では、はっきりと出されていなかったことを残念に思う。

 仮にもっと津軽塗の特異性を強調しようとするのであれば、青森県漆器協同組合連合会がそのサイト上で説明している、唐塗と並ぶ三つの技法、「七々子塗」(或いは、菜種を蒔いて仮飾とするので、「菜々子塗」とも言う)、七々子塗を更に豪奢に加飾した「錦塗」、そして「紋紗塗(もんしゃぬり)」の、三つの技法の内、紋紗塗を使うべきである。なぜなら、この紋紗塗こそが、津軽塗の技法の中では最も独特なものであると言われているからである。黒漆と炭粉を主体とした黒一色の渋い仕上がりは、映画に出てくるピアノの外装の塗装に似合っているのではないか。黒漆で塗り上げた後に、更に黒漆で線描を主とした総模様を描き、それに、津軽地方で「紗」と呼ばれるもみ殻の炭粉を蒔いて塗装する。その上で、更にこれを研いで模様を出し、磨き上げるのが「紋紗塗」の技法である。しかも、この技法に関しては、明治維新以後の作例は少ないと言われている。であれば、美也子はこの技法を現代に復活させるべきではなかったのか。正に、これこそが伝統を守るということであろう。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...