2024年9月27日金曜日

名刀美女丸(日本、1945年作)監督:溝口健二

 「長回し」の映画監督、溝口健二は、1935年に無声映画『折鶴お千』を撮っている。この作品の主演は、本作のヒロインでもある山田五十鈴であったが、その翌年の36年には、同じく山田を主演に起用して、『浪華悲歌』をトーキーで撮っている。日本映画史の特異な点は、無声映画が1930年代半ばまで撮られていたことであるが、その背景には「弁士」を愛でる日本の観衆の好みが存在していた。

 さて、『浪華悲歌』が公開された36年と言えば、皇道派青年将校による軍事クーデター「二・二六事件」があり、その翌年には日中戦争が勃発する。日中戦争が長期化する様相を見せると、38年には、日本国内の生活全般に及ぶ日本社会の再編成を目指す「国家総動員法」が帝国議会を通過する。このように戦争の影が次第に強く日本社会に射してくる中、溝口は、39年からいわゆる「芸道もの三部作」を撮る。39年の『残菊物語』、40年の『浪花女』(田中絹代主演)、41年の『芸道一代男』(川口松太郎作の同名小説を原作とし、初代中村扇雀が主演)の三作である。

 『残菊物語』以外、遺失してしまっているが、『残菊物語』は、本作の制作陣の顔ぶれから見て興味深い。ストーリー構成に川口松太郎が協力し、二代目尾上菊之助を演じたのが元々女形で新劇界で名を馳せていた花柳章太郎であるからである。

 戦争遂行のために日本社会が再編成されていく中、溝口の「芸道もの」へののめり込みには、一種の「内的亡命」の心的態度を予想させるのであるが、果たして、前編が41年に、後編が42年に公開された『元禄忠臣蔵』は、大衆受けがするような派手な場面をわざと避けたような脚本の取りようで、そこに「芸道もの」に通じる自己鍛錬を目指す一種の精神主義的な態度が感じられる。

 しかし、日本映画界の重鎮の一人として溝口が会長になっていた日本映画監督協会は、42年に戦時統合で解散し、国策団体たる大日本映画協会に合流する。溝口はこの協会の理事に就任し、その立場で自分の映画作りの構想を練ることになるが、それは難航し、数年が過ぎてしまう。そうこうする内に、太平洋戦争の戦局は悪くなり、物資窮乏のために劇映画制作用のフィルムの使用制限がされる中、仕方がなく、中編映画の尺で、44年には『団十郎三代』と『宮本武蔵』を、そして、終戦の年に当たる45年に本作を撮っている。

 遺失している『団十郎三代』は別として、『宮本武蔵』は現在筆者は未見であるので、評価できないが、本作は、主役を演じる花柳が名刀を鍛えようと努力するストーリー展開(脚本は川口)では「芸道もの」に通じる一面を持ちながら、尊王攘夷思想の水戸学派を言及したり、後醍醐天皇の建武の親政を終わらせた足利氏を「賊」と見る史観に立ったりして、その意味で、はっきりとプロパガンダ映画となっている。この意味で、溝口の戦時中における「内的亡命」という、筆者の従来の見方は、若干修正しなけらばならないようにも思われる。

 とは言え、刀鍛冶としての花柳の技量が鍛錬により上達し、それによって出来上がった名刀を振るって、ヒロインの山田五十鈴が無事に仇討ちを果たすパッピー・エンドは何か終戦前の緊迫した時勢に合わないような気がする。人足に曳かれた船に乗って、流れのない運河の堀をゆっくりと進む花柳と、花柳に「お嬢さん」と呼ばれる山田の二人の、ラストシーンの姿は、谷崎潤一郎の『春琴抄』の世界を思わせ、何か耽美主義的な雰囲気を醸しだしており、正に、映画創作のこの方向性は、戦後の溝口が撮ることになる名作の数々につながるものとも言える。

 以上、タイトルロールに登場した「新生新派」という言葉に興味を持ったのと、本作の主役花柳章太郎が新派の花形俳優でもあったことから、以下、新派の歴史をかいつまんで述べてみようと思う。

 日本における、ヨーロッパの演劇を手本とする演劇運動は、1906年に坪内逍遥と島村抱月によって創設された「文芸協会」の活動を嚆矢とするが、1924年に創立された築地小劇場での上演活動を以って本格的に確立されたと言ってよい。このような、翻訳・翻案劇や創作劇を上演する演劇運動を「新劇」という。それは、江戸時代以来の「旧劇」たる大衆演劇・歌舞伎と対比する意味を込めて付けられた名称であるが、明治に入ってからは、既に1880年代末から「改良演劇」を目指す運動が別に生まれていた。不平士族の政治的不満を背景とする壮士芝居や、自由民権運動と連結する書生芝居がこれである。この流れの延長として、より演劇の芸術性を、また、「旧派」たる歌舞伎に対して、より演目の現代性を求めようとして「新派」が形成されることになる。

 「新派」は、「改良演劇」の動きが始まって約15年経った1905年になると、書生芝居の流れを汲む川上音二郎を座長とする川上一座、「男女合同改良演劇」を唱導した伊井蓉峰(ようほう)を座長とする伊井一座、そして、女形として名を成した(初代)喜多村緑郎(ろくろう)らが立った本郷座の、相互の競争と協力の「鼎立」時代に入る。1908年、新派の代表的演目の一つとなる『婦系図』は、泉鏡花の『湯島の境内』を原作とし、喜多村がお蔦役で伊井と組んで、初演したものである。

 この鼎立時代は、1911年に川上音二郎が死去したことなどにより、1910年代末には、伊井蓉峰、喜多村緑郎、それに嘗ての喜多村の同僚で同じく女形で鳴らした河合武雄の「三頭目」時代に入るが、その数年前の1915年に、喜多村の愛弟子であった花柳章太郎は、泉鏡花作『日本橋』の主役お千世として舞台に立ち、これが彼の出世作となって、一躍新派の人気女形となっていた。

 1932年に伊井蓉峰が死去したことにより、残った喜多村と河合が「本流新派」として新派の屋台骨を背負うことになるが、この頃から、新派のために台本を書くようになったのが、大衆小説作家川口松太郎であった。1934年に発表した明治時代の芸人世界を舞台にした人情噺し『鶴八鶴次郎』で以って、川口は翌年に第一回直木賞を授賞している。

 1939年、本作の主役を演ずることになる花柳章太郎、本作の脇役を演ずることになる伊志井寛らが、「本流新派」に対して、劇団「新生新派」を結成すると、翌年、本作の脚本を書くことになる川口もこれの主事となる。1942年に河合が亡くなると、この年以降、本流新派は事実上、その存在意義を失うことになるが、それは、日本が太平洋戦争に突入し、翼賛・総動員体制の再強化の必要性に迫られたからなのであろう。残った「新生新派」が本作の制作に参加し、45年1月に、タイトルバックにあるように、本作は完成した。それは、太平洋戦争の終盤となる、所謂「本土決戦」の前哨戦たる沖縄戦が始まる約二ヶ月前のことであった。

 戦後の新派の再生を担うのは、この「新生新派」と花柳章太郎となる。1951年末に新派大同団結を成し遂げ、現在に至る「劇団新派」を作り上げたのは、他でもないこの花柳であり、この劇団の座長として、初代水谷八重子とのコンビで、戦後次々と代表作を世に問うことになる。

2024年9月14日土曜日

男の争い(フランス、1955年作)監督:ジュールズ・ダッシン

 「film noir」自体がフランス語であるのに、どうして、ここでわざわざ、「フレンチ・フィルム・ノワール」と言うのであろうか。なぜなら、「film noir」という言葉は、最初は、1940年代から1960年代までに掛けて製作されたアメリカの犯罪映画の一サブ・ジャンルに命名されて出来た映画批評の概念であるからである。

 第二次世界大戦中に製作されていたアメリカの犯罪映画が、戦後になってフランスでも一度に上映されるようになると、それを観たフランス人映画批評家Nino Frankニーノ・フランクは、『マルタの鷹』(1941年作)などのアメリカ犯罪映画にある種の共通性を見出し、それを「film noir」と呼んだのである。

 その映像美学的な特質としては、ドイツ表現主義の映像美を模範として、光と陰のコントラストを強調する、映画史的に言うと、白黒映画史の最終章を飾る形で、正に白黒映画の映像美を出している点が挙げられる。カラー映画作品がまもなく常態化する直前であるから、当然と言えば、それは、当然であったが、斜め撮りをしたりという画面構成にも大胆な試みが見られるのである。

 ストーリー的には、1920年代、30年代の、例えばD.ハミットなどの、「コンクリート・ジャングル」たる都市を舞台とした「ハードボイルド小説」が基調になっており、この傾向は、確かに、犯罪映画に大きく括られうるサブ・ジャンルの中では、テーストとしては、いわゆる「ギャング映画」とはまた異なるものを持っている。それは、ストーリーが悲観的な展開をすることにより、このテーストはより強くなるのであるが、この悲観性を保証しているのは、主人公の視点で物語りが冷笑的に語られ、それ故に、主人公がOffでストーリーを独白する手法が使われる点に特に見出せる。そして、このストーリーの悲劇的展開には、あるFemme fatalファム・ファタール、「運命的な女」が関わるのである。こういう訳で、当のUSA側は、該当の作品群を「psychological melodrama、或いは、psychological thriller」と呼んでいたのも肯ける。

 こういう、人間の暗い側面を描く「film noir」は、その暗い側面が社会の暗い部分から生まれてくる点に注目するような作品制作にもつながり、言わば、「社会派暗黒映画」が撮られることになる。この系統の「film noir」を撮った監督には、Edward DmytrikやJoseph Loseyなどがいるが、本作を撮ったJules Dassinもこの系統に入ると言える。米下院・非米活動調査委員会での証言を拒んだハリウッドの10人の脚本家や監督、プロデューサー達を呼んで、「ハリウッド・テン」というが、その中の一人に入ったのが、E.Dmytrikで、彼が投獄され、「転向」して、J. Dassinの名前を出したことから、彼は、ヨーロッパに、事実上「亡命する」ことになる。J.Roseyも同じ出国の運命を選び、1951年に米下院・非米活動調査委員会での証言を嫌って、ヨーロッパに移住したのである。

 J. Dassinは、1911年にUSAで生まれた映画監督であるが、父親は、ユダヤ系ウクライナ人の移民であった。ニューヨーク市はハーレム地区で育つが、政治的には左派の、イディシュ語を話す劇団に加わり、1930年代にアメリカ共産党員になる。しかし、スターリンが独ソ不可侵条約を結んだことに失望して、党を脱退する。1940年にブロードウェイで初めて舞台監督を務め、ラジオ放送用の台本も書くようになるが、翌年には、映画監督としてもデビューし、戦後の47年に撮った、監獄もの映画『真昼の暴動』(B.ランカスター主演)で知名度を高め、48年に撮った、セミ・ドキュメンタリータッチの警察もの映画『裸の町』で、アカデミー賞の撮影賞と編集賞を獲得する。49年には、運送屋同士の抗争を描く『Thieves’ Highway』を撮り、本格的に映画監督としてハリウッドで活躍しようとしていた矢先に、マッカーシズムの「赤狩りの狂気」のせいでヨーロッパに移住しなければならないことになる。50年制作の『街の野獣』(R.ウィドマーク主演)は、USAではなく、イギリスに撮影場所を移さなければならなくなる。更に、J. Dassinは、イギリスからフランスに渡るのであるが、それは、逆にフランス映画界にとっては「幸運なこと」になることになる。ただ、J. Dassinにとっては、本作を撮るまでの数年間は、USA側の政治的圧力などもあり、「下積み」生活を余儀なくされたのではあるが。

 という訳で、J. Dassinが本作の制作を引き受けた際には、彼は、まずは、フランス語の原作を英語に訳させ、それを受けて、英語で脚本の草稿を書いたのである。それが今度はフランス語に逆翻訳されて、原作者のAugust Le Bretonや共同脚本家のRené Wheelerがこれに協力して草稿に手を入れるという形で脚本の作成が進められたのである。こうして出来上がった本作は、J. Dassinがヨーロッパで撮った最初の作品となった訳であるが、本作が彼にヨーロッパ映画界における成功をもたらし、カンヌ国際映画祭における監督賞授賞となる。

 本作の成功を受けて、J. Dassinは、57年と59年に二本の作品を撮り、60年に発表された『日曜はダメよ』(ギリシャ人メリナ・メルクーリ主演)で世界的なヒット作品を生み出すことになるが、この作品は、ロマンティック・コメディー作品であり、J. Dassin自身にとってもフィルム・ノワールの創作時期は1960年の年を以って終わったものと言える。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...