2024年9月14日土曜日

男の争い(フランス、1955年作)監督:ジュールズ・ダッシン

 「film noir」自体がフランス語であるのに、どうして、ここでわざわざ、「フレンチ・フィルム・ノワール」と言うのであろうか。なぜなら、「film noir」という言葉は、最初は、1940年代から1960年代までに掛けて製作されたアメリカの犯罪映画の一サブ・ジャンルに命名されて出来た映画批評の概念であるからである。

 第二次世界大戦中に製作されていたアメリカの犯罪映画が、戦後になってフランスでも一度に上映されるようになると、それを観たフランス人映画批評家Nino Frankニーノ・フランクは、『マルタの鷹』(1941年作)などのアメリカ犯罪映画にある種の共通性を見出し、それを「film noir」と呼んだのである。

 その映像美学的な特質としては、ドイツ表現主義の映像美を模範として、光と陰のコントラストを強調する、映画史的に言うと、白黒映画史の最終章を飾る形で、正に白黒映画の映像美を出している点が挙げられる。カラー映画作品がまもなく常態化する直前であるから、当然と言えば、それは、当然であったが、斜め撮りをしたりという画面構成にも大胆な試みが見られるのである。

 ストーリー的には、1920年代、30年代の、例えばD.ハミットなどの、「コンクリート・ジャングル」たる都市を舞台とした「ハードボイルド小説」が基調になっており、この傾向は、確かに、犯罪映画に大きく括られうるサブ・ジャンルの中では、テーストとしては、いわゆる「ギャング映画」とはまた異なるものを持っている。それは、ストーリーが悲観的な展開をすることにより、このテーストはより強くなるのであるが、この悲観性を保証しているのは、主人公の視点で物語りが冷笑的に語られ、それ故に、主人公がOffでストーリーを独白する手法が使われる点に特に見出せる。そして、このストーリーの悲劇的展開には、あるFemme fatalファム・ファタール、「運命的な女」が関わるのである。こういう訳で、当のUSA側は、該当の作品群を「psychological melodrama、或いは、psychological thriller」と呼んでいたのも肯ける。

 こういう、人間の暗い側面を描く「film noir」は、その暗い側面が社会の暗い部分から生まれてくる点に注目するような作品制作にもつながり、言わば、「社会派暗黒映画」が撮られることになる。この系統の「film noir」を撮った監督には、Edward DmytrikやJoseph Loseyなどがいるが、本作を撮ったJules Dassinもこの系統に入ると言える。米下院・非米活動調査委員会での証言を拒んだハリウッドの10人の脚本家や監督、プロデューサー達を呼んで、「ハリウッド・テン」というが、その中の一人に入ったのが、E.Dmytrikで、彼が投獄され、「転向」して、J. Dassinの名前を出したことから、彼は、ヨーロッパに、事実上「亡命する」ことになる。J.Roseyも同じ出国の運命を選び、1951年に米下院・非米活動調査委員会での証言を嫌って、ヨーロッパに移住したのである。

 J. Dassinは、1911年にUSAで生まれた映画監督であるが、父親は、ユダヤ系ウクライナ人の移民であった。ニューヨーク市はハーレム地区で育つが、政治的には左派の、イディシュ語を話す劇団に加わり、1930年代にアメリカ共産党員になる。しかし、スターリンが独ソ不可侵条約を結んだことに失望して、党を脱退する。1940年にブロードウェイで初めて舞台監督を務め、ラジオ放送用の台本も書くようになるが、翌年には、映画監督としてもデビューし、戦後の47年に撮った、監獄もの映画『真昼の暴動』(B.ランカスター主演)で知名度を高め、48年に撮った、セミ・ドキュメンタリータッチの警察もの映画『裸の町』で、アカデミー賞の撮影賞と編集賞を獲得する。49年には、運送屋同士の抗争を描く『Thieves’ Highway』を撮り、本格的に映画監督としてハリウッドで活躍しようとしていた矢先に、マッカーシズムの「赤狩りの狂気」のせいでヨーロッパに移住しなければならないことになる。50年制作の『街の野獣』(R.ウィドマーク主演)は、USAではなく、イギリスに撮影場所を移さなければならなくなる。更に、J. Dassinは、イギリスからフランスに渡るのであるが、それは、逆にフランス映画界にとっては「幸運なこと」になることになる。ただ、J. Dassinにとっては、本作を撮るまでの数年間は、USA側の政治的圧力などもあり、「下積み」生活を余儀なくされたのではあるが。

 という訳で、J. Dassinが本作の制作を引き受けた際には、彼は、まずは、フランス語の原作を英語に訳させ、それを受けて、英語で脚本の草稿を書いたのである。それが今度はフランス語に逆翻訳されて、原作者のAugust Le Bretonや共同脚本家のRené Wheelerがこれに協力して草稿に手を入れるという形で脚本の作成が進められたのである。こうして出来上がった本作は、J. Dassinがヨーロッパで撮った最初の作品となった訳であるが、本作が彼にヨーロッパ映画界における成功をもたらし、カンヌ国際映画祭における監督賞授賞となる。

 本作の成功を受けて、J. Dassinは、57年と59年に二本の作品を撮り、60年に発表された『日曜はダメよ』(ギリシャ人メリナ・メルクーリ主演)で世界的なヒット作品を生み出すことになるが、この作品は、ロマンティック・コメディー作品であり、J. Dassin自身にとってもフィルム・ノワールの創作時期は1960年の年を以って終わったものと言える。

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