シリーズ2がシリーズ1よりいい場合が偶にある。『ターミネーター2』がそうであったように、本作も同様である。何故か?
『エクスペンダブルズ1』は、主役を演じたスタローンが、脚本も書き、監督も兼ねた、言わば、自己顕示欲作品であった。本作でも、スタローンが共同脚本家とはなっているが、監督は別人のSimon Westになっており、前作では自嘲の自の字もなかった、真面目過ぎるアクション映画であったものが、今回では、ウィンクをしながら、ちょっと皮肉ってみる遊び心がちらちら見えて、単純な殺戮のアクション映画に終わらない、作品に面白味が持たせられている点を筆者は評価したい。
前回の悪役は元CIA局員で比較的印象が薄い感じであったが、今回は、ベルギー人で空手家のJean-Claude van Dammeが敵役でもあり、また、悪役である。彼の、本作での役名が、「Jean Vilain」であり、Jeanは本人の芸名から、苗字のVilainは、l字が一つ多い、アメコミのスーパーヴィランのVillainから採っているのであろう。この遊び心もニクイ。
そして、本作にはヴァン・ダムだけではなく、チャック・ノリスも登場している。ヴァン・ダムの経歴をウィキペディアで読むと、USAに映画俳優になるべくして渡ったヴァン・ダムが下積み生活をしていた時代に世話になっていたのは、ノリスであったと言う。その意味でも、ヴァン・ダムとノリスの共演は、言わば、因縁のあるものである。
役として一匹狼たるノリスはどこからか現れては、どこかへと去っていく。こうして、映画中盤でのノリスの登場は印象的である。アルバニアにある、USAの1950年代かを模した廃墟の町で、ヴァン・ダムの手下共に囲まれ、戦車で追いつめられたExpendables一行は、突然に登場したノリスに助けられる。あっという間に敵をなぎ倒し、戦車を一発で仕留めたのである。何が起こったか、スタローン達が呆気にとられていると、『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲がBGMで流れ、颯爽とノリスが登場する。
ここの場面を監督ウェストが説明している箇所がウィキペディアにあるので、それを引用しよう:
「エクスペンタブルズに対抗するなら戦車しかないと思った。シーンの終わらせ方にも悩んだ。まもなく、あの大物も登場する。彼をどう登場させるかが課題だった、そこで思いついたのが、これだ」「なぜか悪党どもが全滅。彼らは、機動部隊か殺人集団が関与したのだと考える。そこに姿を現すのがチャック・ノリスさ、伝説の男らしい登場シーンにした」「ただバーに現れるぐらいじゃダメだ、堂々たる大げさなシーンでないとね。これなら彼に、ふさわしい。一人で集団を葬った男が硝煙の中から姿を現す、チャック・ノリスなら可能だ」
そして、ノリスが登場するということであれば、当然、「チャック・ノリス・ファクト」がなければならない。そこで監督は、ノリスに頼んだ。頼まれたノリスは有名な「ファクト」を一つ挙げる。それが、スタローンとのやり取りで映画上に実際に登場する:(以下、ウィキペディアからの引用)
Stallone: "I heard another rumor that you were bitten by a King Cobra?" (スタローン:「キングコブラに噛まれたと噂で聞いたが?」
Norris: "yeah I was, but after 5 days of agonizing pain...the cobra died" (ノリス:「ああ、その通りだ、5日間もがき苦しんだ後に...コブラは死んだ」)
この場に居合わせたExpendables達は、一様に微笑み、笑いあったスタローンとノリスはハグしたのであった。(映画の55分台から56分に掛けてのシーン)
このように、本作ではハードなアクションの合間に遊び心が垣間見られて、中々よろしい。この点、シュワちゃんとウィリスとの間の、若干自嘲がこもったやり取りも筆者が本作を好ましく思う理由の一つである。
2025年9月12日金曜日
2025年9月10日水曜日
西住戦車長傳(日本、1940年作)監督:吉村 公三郎
本作の題名が『西住戦車長傳』となっているところから、映画は、第一場面を白煙を舞い上げる阿蘇山の近景から始め、カメラを展望させて、熊本城を写して、西住の生まれと、育った環境を手短かに語る。オフからの声は即物的であり、原作の評伝の写実性を保つかのようである。このオフからの同じ声は、映画が終わるまで聞こえ、本作はまるで映画館で観る時事ニュースのような体裁で終わる。正に、陸軍省推薦の国策プロパガンダ映画に相応しいセティングであろう。
西住の生立ちが語られると、映画はすぐに上海戦の話しに展開し、戦車部隊の恐らくは久留米からの出動が描かれるが、現地の上海戦ではまず実写場面が映し出される。海軍陸戦隊が上海での市街戦を戦う場面が見られる。第二次上海事変には、陸軍のみならず海軍も関わる陸・海共同の作戦であったが、戦闘が内陸に進行するに従い、より多くの陸軍部隊の投入が必要になる。更に、国民党軍は、ドイツ国防軍の装備を中国からの軍需物資と交換で受け取っており、また、ドイツ軍の軍事顧問団を入れて自軍を訓練していたことから、国民党軍は、揚子江沿いにトーチカ壕を作って、頑強に日本軍に抵抗した。故に、日本軍は予想外に中国軍に苦戦していた。そう言う歴史的背景を頭に置きながら、本作の前半は観るべきであろう。つまり、苦戦している日本軍歩兵部隊は、西部劇で言えば、「開拓民」であり、その窮地を救うべく騎兵隊が登場する如く、「鉄牛部隊」たる戦車隊が戦場に「駆け付け」、歩兵部隊を救うことになる。出動を要請された戦車部隊に絡んで、吾等が主人公西住中尉自身は、本作の17分台になってようやく登場する。部下と共に、自分の「愛車」の整備を行なう、人徳のある将校という描き方である。
今は上海市の北部に位置する宝山城地区にある、戦術上重要な場所・大場鎮(だいじょうちん)の占領(37年10月26日のことで、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンが上がる)により上海戦はほぼ決着が付き、当初の作戦予定を覆して、戦線が内陸へと更に拡大すると、日本軍は国民党軍の周到に用意された第二、第三戦線に遭遇する(本作50分前後台から57分台まで、セット撮影による、戦車・歩兵の共同による戦闘場面)。ナチス・ドイツにより軍事物資供与を受けている蒋介石軍は、ドイツ軍風の鉄兜(シュタール・ヘルム)、ドイツ軍に特徴的な柄の長い手榴弾を使用し、機関銃隊も二四式重機関銃(1935年の民国暦24年に制式採用されたことにより「二四式」と命名されたが、元々はドイツのMG08重機関銃をライセンス生産したもので、「カタカタ」という機銃音が特徴)を構えて、日本軍を待ち構えていた。
ウィキペディアによると、プロイセン・ドイツは、既に18世紀半ばより、中国との交易に興味を示して、商船を中国に送っており、1870年・80年代のビスマルク時代に、後の「中独合作」となる礎は築かれた言える。1890年代以降のヴィルヘルム二世時代の帝国主義的政策は、一時、中独関係を冷却させることになり、19世紀末には、日清戦争に敗北した清の弱みにつけ込んで、ドイツは山東省青島などに租借地を得る。それを第一次世界大戦中に日本に取られると、植民地を持たない工業国ドイツは、帝国主義・植民地主義に悩まされていた中国にとっては格好の取引相手となる。こうして、1920年代の後半以降、ドイツに中国統一の見本を見る蒋介石の思惑もあり、中国にドイツの軍事顧問団が来る程の、中独の「蜜月関係」が始まる。33年にナチス政権が誕生すると、軍需資源の確保を求めるドイツ側の利害が更に大きくなり、ドイツ側の対中国の軍事物資の供与がより促進され、これが国民党軍の近代化に大きく貢献することになった訳である。しかし、ナチス・ドイツが反共政策の旗印の下、日本と同盟を結ぶ政策に舵を切ったことにより、40年の日独伊三国軍事同盟の締結を以って、「中独合作」は、その終焉を告げる。以上の中独合作の歴史を見ると、第二次上海事変での日中の対立は、中国国民党軍の姿を借りた「ドイツ国防軍」と日本軍が戦った戦いであったとも言えなくもないものであった。
映画は続けて、戦死した戦車銃手の兵隊の弟からの手紙のエピソードがお涙頂戴調で語られた後、次の重要なプロットへと展開する。
初冬の雪が降る宿営の場面からそれは始まる(本作70分台から)。赤ん坊を生んでいる「土民の女」がいることを兵が西住に報告しに来ると、西住はどれ赤ん坊を見ようと言う。場面が変わると、画面中央に一兵士が赤ん坊をにこやかに抱えている。そのすぐ左隣に、点した蠟燭を持っている兵隊が立っており、赤ん坊を抱えた兵士を真ん中に、蝋燭を持った兵士も含めて、七人の兵士達が画面前面から赤ん坊が見えるように、つまり、太い竹を刀で斜めに切ったような陣形でぐるりを巻いている。そのぐるりからちょっと離れるようにして、九人目の兵士が画面右側に立っている。「日本人の赤ん坊と変わらんのう。」と兵士達が話しているところに西住が入ってくる。すぐ隣の部屋にいる土民の女(役:桑野通子)は、左の上腕に銃創があるようである。西住は、中国語で女に話しかけると、それには答えずに女は泣き伏す。すると、西住は女に流暢な中国語で次のように話しかける。(ここで、日本語の字幕が入る。)
「心配するな。日本兵は何も害を加へやせん。」
しかし、女は泣きじゃくるだけで、西住もどうしようもなく、赤ん坊を女に返してやるように指示する。少し間が経ってから、部隊に同行している軍医が小屋にやってくる。貫通銃創を手当してくれる日本人軍医に少し心が和んだのか、女は、「おまえはここの村の者か。」という西住の質問に、「支那兵の略奪があって逃げおくれました。」と答える。西住の「亭主はどうした。」という重ねての質問に、女は、「はぐれてしまひました。」と返す。西住は、「不人情な亭主だな。おまへをすてて逃げるとは。」とコメントすると、それに対して、女は、「捨てたのではありません。はぐれたのであります。」と言い返すと、西住は、「これは俺の云ひ方が悪かった。」と素直に謝ったのであった。
傷の手当をしながら、このやりとりを聞いていた軍医にその言葉の達者さを褒められると、西住は、それは自分が一年程満州にいたせいであると謙遜する。手当も済み、部下が毛布と貴重なミルクを持ってきたので、西住は、女に、「心配しないでゆっくり休め。赤ん坊にミルクを呑ませてやれよ。」と言う。その西住の言葉に女は心から感動したようであった。そうして、西住は小屋を去って、自分の部屋に戻るが、そこでは、彼の陸士時代の同期で、北支より南下してきた大隅大尉(笠智衆;後に松竹・小津映画で有名になる笠智衆の名前は、本作のオープニング・ロールでは可成り後になってから出てくる)が待っていた。陸士時代を懐かしみ、陸士卒業直前に亡くなった同期生の写真を二人は持っており、三人でいっしょに南京入城を果たそうと二人は誓い合う。そうして、夜は過ぎ、翌朝を迎える。
朝を迎えた村の路地を走る兵隊達がいる。何かあったのであろうと不安に思いながら見ていると、兵隊達が一つの家に入っていく。すると、部下の一人がちょうど朝食を摂っている西住のところに駆け込んでくる。女がいなくなっており、凍え死んだ赤ん坊は置き去りにされたままで、部下は、夜中に亭主が戻ってきて、女を連れて行ったものと推測する。西住の好意を無駄にした女に怒る部下に対して、西住は、事態を不思議に思いつつ、情けは情けであり、何れにしても死んだ赤ん坊が可哀そうであるから、赤ん坊のために墓を作ってやろうと言いだす。周りに雪が積もり、恐らくは凍って固くなった土をつるはしで掘り起こし、木箱に入れた赤ん坊を埋めてやると、墓標に何と書こうかと兵隊達が迷っているところに、西住は、早速、筆で、「無名子之墓」と達筆に書く。兵隊の一人が、それを「むめいし...」と読むと、西住は、これは、「ムナコ」と読むと言い添える。この光景の後ろには、左から右に向かう兵隊達の列があった。南京に向かっているのである。(ここまでで、74分台となり、土民の女を巡るプロットには、大隅大尉との再会なども挟まれるが、約4分が掛けられている。)
こうして、南京入城のプロットが比較的簡単に過ぎた後は、その後の叙州会戦のプロットに進み、上述したような西住戦死の出来事を描き、ラストシーンは、西住の遺志を汲むかのように、戦車部隊が列を成して、次の戦線へと向かう場面で本作は終わる。
さて、本作には菊池寛が書いた原作『昭和の軍神西住戦車長伝』がある。これは、西住が戦死してから約十ヶ月経った39年三月から八月に掛けて新聞連載されたものである。この連載に当たっては、菊池自身が中国に渡って取材しており、それを基に書いた「評伝」である。流石に当時既に名声があった菊池は、単なる御用作家の「伝記」ではなく、あくまでも「評伝」という形式で、一定の客観性を担保しつつ原作を書いているようである。同じ時期には、西住顕彰出版物が児童図書も含めて続々と刊行されており、西條八十、北原白秋、サトウハチローらなどが作詞した戦意高揚歌謡が発売されていた。一例に西條八十が作詞した歌詞の一つをここに挙げると、次のような「凱歌」となる:
「鉄牛ひとたび血に吼えて/『西住』の名を呼ばふとき/
浙江・江蘇の敵勢は/旌旗を忘れ武具を棄て/
西住の生立ちが語られると、映画はすぐに上海戦の話しに展開し、戦車部隊の恐らくは久留米からの出動が描かれるが、現地の上海戦ではまず実写場面が映し出される。海軍陸戦隊が上海での市街戦を戦う場面が見られる。第二次上海事変には、陸軍のみならず海軍も関わる陸・海共同の作戦であったが、戦闘が内陸に進行するに従い、より多くの陸軍部隊の投入が必要になる。更に、国民党軍は、ドイツ国防軍の装備を中国からの軍需物資と交換で受け取っており、また、ドイツ軍の軍事顧問団を入れて自軍を訓練していたことから、国民党軍は、揚子江沿いにトーチカ壕を作って、頑強に日本軍に抵抗した。故に、日本軍は予想外に中国軍に苦戦していた。そう言う歴史的背景を頭に置きながら、本作の前半は観るべきであろう。つまり、苦戦している日本軍歩兵部隊は、西部劇で言えば、「開拓民」であり、その窮地を救うべく騎兵隊が登場する如く、「鉄牛部隊」たる戦車隊が戦場に「駆け付け」、歩兵部隊を救うことになる。出動を要請された戦車部隊に絡んで、吾等が主人公西住中尉自身は、本作の17分台になってようやく登場する。部下と共に、自分の「愛車」の整備を行なう、人徳のある将校という描き方である。
今は上海市の北部に位置する宝山城地区にある、戦術上重要な場所・大場鎮(だいじょうちん)の占領(37年10月26日のことで、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンが上がる)により上海戦はほぼ決着が付き、当初の作戦予定を覆して、戦線が内陸へと更に拡大すると、日本軍は国民党軍の周到に用意された第二、第三戦線に遭遇する(本作50分前後台から57分台まで、セット撮影による、戦車・歩兵の共同による戦闘場面)。ナチス・ドイツにより軍事物資供与を受けている蒋介石軍は、ドイツ軍風の鉄兜(シュタール・ヘルム)、ドイツ軍に特徴的な柄の長い手榴弾を使用し、機関銃隊も二四式重機関銃(1935年の民国暦24年に制式採用されたことにより「二四式」と命名されたが、元々はドイツのMG08重機関銃をライセンス生産したもので、「カタカタ」という機銃音が特徴)を構えて、日本軍を待ち構えていた。
ウィキペディアによると、プロイセン・ドイツは、既に18世紀半ばより、中国との交易に興味を示して、商船を中国に送っており、1870年・80年代のビスマルク時代に、後の「中独合作」となる礎は築かれた言える。1890年代以降のヴィルヘルム二世時代の帝国主義的政策は、一時、中独関係を冷却させることになり、19世紀末には、日清戦争に敗北した清の弱みにつけ込んで、ドイツは山東省青島などに租借地を得る。それを第一次世界大戦中に日本に取られると、植民地を持たない工業国ドイツは、帝国主義・植民地主義に悩まされていた中国にとっては格好の取引相手となる。こうして、1920年代の後半以降、ドイツに中国統一の見本を見る蒋介石の思惑もあり、中国にドイツの軍事顧問団が来る程の、中独の「蜜月関係」が始まる。33年にナチス政権が誕生すると、軍需資源の確保を求めるドイツ側の利害が更に大きくなり、ドイツ側の対中国の軍事物資の供与がより促進され、これが国民党軍の近代化に大きく貢献することになった訳である。しかし、ナチス・ドイツが反共政策の旗印の下、日本と同盟を結ぶ政策に舵を切ったことにより、40年の日独伊三国軍事同盟の締結を以って、「中独合作」は、その終焉を告げる。以上の中独合作の歴史を見ると、第二次上海事変での日中の対立は、中国国民党軍の姿を借りた「ドイツ国防軍」と日本軍が戦った戦いであったとも言えなくもないものであった。
映画は続けて、戦死した戦車銃手の兵隊の弟からの手紙のエピソードがお涙頂戴調で語られた後、次の重要なプロットへと展開する。
初冬の雪が降る宿営の場面からそれは始まる(本作70分台から)。赤ん坊を生んでいる「土民の女」がいることを兵が西住に報告しに来ると、西住はどれ赤ん坊を見ようと言う。場面が変わると、画面中央に一兵士が赤ん坊をにこやかに抱えている。そのすぐ左隣に、点した蠟燭を持っている兵隊が立っており、赤ん坊を抱えた兵士を真ん中に、蝋燭を持った兵士も含めて、七人の兵士達が画面前面から赤ん坊が見えるように、つまり、太い竹を刀で斜めに切ったような陣形でぐるりを巻いている。そのぐるりからちょっと離れるようにして、九人目の兵士が画面右側に立っている。「日本人の赤ん坊と変わらんのう。」と兵士達が話しているところに西住が入ってくる。すぐ隣の部屋にいる土民の女(役:桑野通子)は、左の上腕に銃創があるようである。西住は、中国語で女に話しかけると、それには答えずに女は泣き伏す。すると、西住は女に流暢な中国語で次のように話しかける。(ここで、日本語の字幕が入る。)
「心配するな。日本兵は何も害を加へやせん。」
しかし、女は泣きじゃくるだけで、西住もどうしようもなく、赤ん坊を女に返してやるように指示する。少し間が経ってから、部隊に同行している軍医が小屋にやってくる。貫通銃創を手当してくれる日本人軍医に少し心が和んだのか、女は、「おまえはここの村の者か。」という西住の質問に、「支那兵の略奪があって逃げおくれました。」と答える。西住の「亭主はどうした。」という重ねての質問に、女は、「はぐれてしまひました。」と返す。西住は、「不人情な亭主だな。おまへをすてて逃げるとは。」とコメントすると、それに対して、女は、「捨てたのではありません。はぐれたのであります。」と言い返すと、西住は、「これは俺の云ひ方が悪かった。」と素直に謝ったのであった。
傷の手当をしながら、このやりとりを聞いていた軍医にその言葉の達者さを褒められると、西住は、それは自分が一年程満州にいたせいであると謙遜する。手当も済み、部下が毛布と貴重なミルクを持ってきたので、西住は、女に、「心配しないでゆっくり休め。赤ん坊にミルクを呑ませてやれよ。」と言う。その西住の言葉に女は心から感動したようであった。そうして、西住は小屋を去って、自分の部屋に戻るが、そこでは、彼の陸士時代の同期で、北支より南下してきた大隅大尉(笠智衆;後に松竹・小津映画で有名になる笠智衆の名前は、本作のオープニング・ロールでは可成り後になってから出てくる)が待っていた。陸士時代を懐かしみ、陸士卒業直前に亡くなった同期生の写真を二人は持っており、三人でいっしょに南京入城を果たそうと二人は誓い合う。そうして、夜は過ぎ、翌朝を迎える。
朝を迎えた村の路地を走る兵隊達がいる。何かあったのであろうと不安に思いながら見ていると、兵隊達が一つの家に入っていく。すると、部下の一人がちょうど朝食を摂っている西住のところに駆け込んでくる。女がいなくなっており、凍え死んだ赤ん坊は置き去りにされたままで、部下は、夜中に亭主が戻ってきて、女を連れて行ったものと推測する。西住の好意を無駄にした女に怒る部下に対して、西住は、事態を不思議に思いつつ、情けは情けであり、何れにしても死んだ赤ん坊が可哀そうであるから、赤ん坊のために墓を作ってやろうと言いだす。周りに雪が積もり、恐らくは凍って固くなった土をつるはしで掘り起こし、木箱に入れた赤ん坊を埋めてやると、墓標に何と書こうかと兵隊達が迷っているところに、西住は、早速、筆で、「無名子之墓」と達筆に書く。兵隊の一人が、それを「むめいし...」と読むと、西住は、これは、「ムナコ」と読むと言い添える。この光景の後ろには、左から右に向かう兵隊達の列があった。南京に向かっているのである。(ここまでで、74分台となり、土民の女を巡るプロットには、大隅大尉との再会なども挟まれるが、約4分が掛けられている。)
こうして、南京入城のプロットが比較的簡単に過ぎた後は、その後の叙州会戦のプロットに進み、上述したような西住戦死の出来事を描き、ラストシーンは、西住の遺志を汲むかのように、戦車部隊が列を成して、次の戦線へと向かう場面で本作は終わる。
さて、本作には菊池寛が書いた原作『昭和の軍神西住戦車長伝』がある。これは、西住が戦死してから約十ヶ月経った39年三月から八月に掛けて新聞連載されたものである。この連載に当たっては、菊池自身が中国に渡って取材しており、それを基に書いた「評伝」である。流石に当時既に名声があった菊池は、単なる御用作家の「伝記」ではなく、あくまでも「評伝」という形式で、一定の客観性を担保しつつ原作を書いているようである。同じ時期には、西住顕彰出版物が児童図書も含めて続々と刊行されており、西條八十、北原白秋、サトウハチローらなどが作詞した戦意高揚歌謡が発売されていた。一例に西條八十が作詞した歌詞の一つをここに挙げると、次のような「凱歌」となる:
「鉄牛ひとたび血に吼えて/『西住』の名を呼ばふとき/
浙江・江蘇の敵勢は/旌旗を忘れ武具を棄て/
色蒼白(あをざ)めて潰走す」
このような、言わば「西住ブーム」は、実は、38年12月に、映画では「細木部隊長(役:佐分利信)」として登場していた細見大佐が陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に呼び、「故西住大尉に就て」と題した講演を行ない、記者にその軍人精神を全国民に知らしめて欲しいと要請したことによる。こうして、まず、東京朝日新聞が「偉勲鉄牛部隊の若武者」と西住のことを報ずると、年末には、西住が座乗した、敵弾を千発以上も受けたという戦車が公開されて、細見は西住についてのラジオ講演まで行なう。これを受けて新聞各社もこれを一斉に書き立てると、西住は、一挙に「軍神」第一号に祀り上げられることになる。こうして、西住顕彰出版物が続々と出版される中、菊池寛もその「評伝」を書くことになる訳である。
菊池寛は、更に、1940年三月開演の「東西合同大歌舞伎」公演の演目の一つに『西住戦車長』という作品の脚本も書いている。こちらは、評伝という客観的な立場を取ることが出来ないことから、そのストーリー展開の内容がどうなるかという点が注目点になる。興味深いのは、この三場で構成される演目は、あの「土民の女」が生んだ赤ん坊についてのプロットで二場が、そして、当然と言えば当然なのであるが、第三場目が西住が戦死する場一つが採られていることである。他の演目との内容的な釣り合いもあったのであろうが、この「英雄譚」は、土民の女とその女が生んだ赤子の運命という人情噺しに重点が置かれている。
この歌舞伎の演目が上演された後の、40年11月末に本作は初上映されているが、撮影は、既に40年の二月に始まっている。つまり、脚本化はそれより前に終わっているはずで、それは菊池の演目が上演される前であり、原作の連載が終わった39年八月以降、映画化の企画がまもなく始まっていたことを考えると、映画の脚本化と演目の脚本化は時期的にほぼ並行していたと言える。そして、この映画版の脚本家は、野田佳悟であった。野田と言えば、松竹の小津安二郎組の脚本家とでも言える、あの野田である。
その野田に、菊池寛が野田のシナリオを読んで、ある手紙の中で、次のように依頼したと言う:
「無名子のところで、西住大尉の言葉『昨夜は、たしかに感謝してゐたんだ云々』は、ぜひ入れて下さい。いゝ言葉だとおもいますから。」
菊池は、自分の原作では、該当の部分では、西住の部下の兵隊で、同じ戦車に操縦手として搭乗していた井手上伍長の文章を引用していた:
「戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。」(ウィキペディアからの引用)
これに対する菊池のコメントは、中国人とは自分が生き延びるためには、自分が生んだ乳飲み子までも見捨てる民族であるというような民族蔑視的なものであったのであるが、野田への手紙の中では、そこまでは断定的な言いようを西住にさせようとは菊池は思わなかったのであろう。映画の中での西住も、正に菊池が野田に依頼した如く発言している。更に言えば、敵対する国の言葉を話し、敵対する国民である土民の女でも民間人であれば、これを庇護するという西住の行為は、この同じ時期の同じ場所で「皇軍」による「南京事件」が起こっている事態を考えると、単なるプロパガンダ映画の役割を越えて、それ以上の戦場における人道主義への賛歌であるとさえ言えなくはないか。
確かに、映画は冒頭で右書きで次のような説明がなされる:
このような、言わば「西住ブーム」は、実は、38年12月に、映画では「細木部隊長(役:佐分利信)」として登場していた細見大佐が陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に呼び、「故西住大尉に就て」と題した講演を行ない、記者にその軍人精神を全国民に知らしめて欲しいと要請したことによる。こうして、まず、東京朝日新聞が「偉勲鉄牛部隊の若武者」と西住のことを報ずると、年末には、西住が座乗した、敵弾を千発以上も受けたという戦車が公開されて、細見は西住についてのラジオ講演まで行なう。これを受けて新聞各社もこれを一斉に書き立てると、西住は、一挙に「軍神」第一号に祀り上げられることになる。こうして、西住顕彰出版物が続々と出版される中、菊池寛もその「評伝」を書くことになる訳である。
菊池寛は、更に、1940年三月開演の「東西合同大歌舞伎」公演の演目の一つに『西住戦車長』という作品の脚本も書いている。こちらは、評伝という客観的な立場を取ることが出来ないことから、そのストーリー展開の内容がどうなるかという点が注目点になる。興味深いのは、この三場で構成される演目は、あの「土民の女」が生んだ赤ん坊についてのプロットで二場が、そして、当然と言えば当然なのであるが、第三場目が西住が戦死する場一つが採られていることである。他の演目との内容的な釣り合いもあったのであろうが、この「英雄譚」は、土民の女とその女が生んだ赤子の運命という人情噺しに重点が置かれている。
この歌舞伎の演目が上演された後の、40年11月末に本作は初上映されているが、撮影は、既に40年の二月に始まっている。つまり、脚本化はそれより前に終わっているはずで、それは菊池の演目が上演される前であり、原作の連載が終わった39年八月以降、映画化の企画がまもなく始まっていたことを考えると、映画の脚本化と演目の脚本化は時期的にほぼ並行していたと言える。そして、この映画版の脚本家は、野田佳悟であった。野田と言えば、松竹の小津安二郎組の脚本家とでも言える、あの野田である。
その野田に、菊池寛が野田のシナリオを読んで、ある手紙の中で、次のように依頼したと言う:
「無名子のところで、西住大尉の言葉『昨夜は、たしかに感謝してゐたんだ云々』は、ぜひ入れて下さい。いゝ言葉だとおもいますから。」
菊池は、自分の原作では、該当の部分では、西住の部下の兵隊で、同じ戦車に操縦手として搭乗していた井手上伍長の文章を引用していた:
「戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。」(ウィキペディアからの引用)
これに対する菊池のコメントは、中国人とは自分が生き延びるためには、自分が生んだ乳飲み子までも見捨てる民族であるというような民族蔑視的なものであったのであるが、野田への手紙の中では、そこまでは断定的な言いようを西住にさせようとは菊池は思わなかったのであろう。映画の中での西住も、正に菊池が野田に依頼した如く発言している。更に言えば、敵対する国の言葉を話し、敵対する国民である土民の女でも民間人であれば、これを庇護するという西住の行為は、この同じ時期の同じ場所で「皇軍」による「南京事件」が起こっている事態を考えると、単なるプロパガンダ映画の役割を越えて、それ以上の戦場における人道主義への賛歌であるとさえ言えなくはないか。
確かに、映画は冒頭で右書きで次のような説明がなされる:
日本文化中央聯盟主催
皇紀二千六百年奉祝
藝能祭作品
続けて、監督の吉村公三郎の言葉が引用されるが、要点を述べると、自分はこの作品を以って、「戦車戦闘の実相」を示し、「軍機械化の重要性」を強調したいのであると、如何にも国策プロパガンダ映画に相応しい言を並び立て、ラストシーンは、戦車戦闘の歌をBGMにしながら(土橋式松竹フォーン・システム)、戦車部隊が列をなして行進していく場面で終わるのである。
実際、40年二月に現地撮影班が上海でカメラを回し始め、南京・漢口での現地撮影(撮影:生方敏夫、他数名)を終えて、同年四月に帰国すると、今度は、下志津練兵場に大掛かりなオープンセットを作り(美術:脇田世根一、浜田辰雄)、戦車学校の全面的な協力の下、戦車六台、兵150名の応援を受けて本作は完成された(助監督の一人は、後に有名になる木下恵介)。
藝能祭作品
続けて、監督の吉村公三郎の言葉が引用されるが、要点を述べると、自分はこの作品を以って、「戦車戦闘の実相」を示し、「軍機械化の重要性」を強調したいのであると、如何にも国策プロパガンダ映画に相応しい言を並び立て、ラストシーンは、戦車戦闘の歌をBGMにしながら(土橋式松竹フォーン・システム)、戦車部隊が列をなして行進していく場面で終わるのである。
実際、40年二月に現地撮影班が上海でカメラを回し始め、南京・漢口での現地撮影(撮影:生方敏夫、他数名)を終えて、同年四月に帰国すると、今度は、下志津練兵場に大掛かりなオープンセットを作り(美術:脇田世根一、浜田辰雄)、戦車学校の全面的な協力の下、戦車六台、兵150名の応援を受けて本作は完成された(助監督の一人は、後に有名になる木下恵介)。
しかし、戦後の吉村監督の言によると、自身は、「いわゆる戦意高揚の宣伝映画にしたくなかった。大船調のホーム・ドラマ風にしたかった」、「戦場での〝仲良しクラブ〟を描こうと思っていた」と言う。実際、本作の中盤には、雨の中を野営する場面があり、部下を思って野営地内を歩き、傷病兵を見舞い、既に木箱に入った戦死した兵隊に黙礼をする、若き将校は、「大船調のホーム・ドラマ風」の父親のようである。この吉村の言を、戦時中に軍国主義に加担したことへの釈明として理解するかは、本人の他の作品と見比べないと分からないが、同じ松竹の小津が戦時中にほぼ映画制作に関わらずに戦後を迎えた、その「禁欲さ」に比べると、全体主義的体制の中で、体制に同調しないで生きることの難しさを痛感する。
2025年9月2日火曜日
あゝひめゆりの塔(日本、1968年作)監督:舛田 利雄
日活青春映画、タイムスリップして、「先の大戦」の沖縄戦に着地する
このタイム・ギャップを繋げようとしたのか、監督舛田利雄は一計を案じる。舛田は、石原裕次郎主演で計25本も作品を撮っているという、日活アクション映画全盛期(つまり、日活青春映画路線と同時期)に数々の作品を撮り、「日活の舛田天皇」と言われた程にこの時期に「権勢」のあった監督であった。その彼が、同じ時期に「裕次郎二世」と名付けられて、日活アクション・ニュースターとして売り出されていた渡哲也に映画の冒頭で特別出演させ、制作時点の1968年と、沖縄戦当時の1945年とを結び付けることを考える。ほぼ四半世紀の時間的距離を繋ぐ役である。
ディスコで踊り狂う若者達は、18歳前後で、正に戦後に生まれた、戦争を知らない子供達である。彼等は、嘗ての「鬼畜」であった欧米のロック音楽を真似たグループサウンズ(GS)の音楽に合わせて踊る。それをクールに見つめている青年(渡哲也)は、場違いな歌『相思樹の歌』をリクエストして、担当者にインタヴューされる。何故にこの曲をリクエストしたのかと。実は、この歌はひめゆり学徒隊と深く関係のある歌で、こうして、映画は、1944年の沖縄に着地する。
ところで、この映画の冒頭の、戦後の平和な日本と戦中の日本を比べるシークエンスは何を意味するのであろうか。戦後復興、奇蹟の経済発展、高度経済成長政策、1964年の東京オリンピック開催と、戦後日本はその経済的豊かさを順調に作り上げたが、舛田監督は、その土台は大戦末期の若人の犠牲の上にあるとでも言いたいのであろうか。渡が演じる若者は『相思樹の歌』をリクエストした理由をはっきりとは語らないが、それでは、こう言おう:なぜ負けると分っていた対米戦を日本は始めたのかと。始めなければ、これらの若人の犠牲もなかったはずである、と。
何れにしても、ストーリーは戦中の、しかし未だ和やかな運動会の場面に移る。ガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗退に終わる1943年二月以降、日本は守勢に回っており、次第に米軍に追いつめられていく日本軍ではあったが、1944年半ばの沖縄は、戦争の成り行きに不穏な気持ちを持ちながらも、未だ、安穏だったのである。
運動会は、戦後の本土の女子高の運動会を思わせるが、ここは、沖縄県立師範学校女子部の運動会である。師範学校とは、教員養成のための学校で、沖縄全県から優秀な少女たちが将来の教員を目指して、ここで寄宿生活を送りながら、学業に励んでいたのである。女子部があれば、男子部もある訳で、その男子部の生徒の一人西里順一郎(浜田光夫)は、招待状がなければ入り込めない女子部運動会に学友数名と共に潜り込む。その不正入場を咎めたのが、女子部最高学年生で、「南国のシャン(ドイツ語から来た、男子学生の隠語で美人の意味)」与那嶺和子(吉永小百合)であった。こうして、二人は知り合い、日活青春映画よろしく、二人の間には淡い恋心が芽生えることになるが、それを踏みにじるのは戦争であった。
サイパン島守備隊が「玉砕」した44年七月以降、日本は米軍の空襲の脅威に曝されることは明白となり、それを受けて、沖縄からも学童疎開が組織されて、対馬丸他二隻が児童や一般疎開者を乗せて那覇から長崎に出発する。しかし、8月22日に対馬丸は米潜水艦に撃沈され、約千五百名が亡くなる。その中には、疎開児童に付き添った和子の母で、国民学校教員・与那嶺ハツ(乙羽信子)もいたのであり、国民学校校長仲地(東野英治郎)は、いわゆる「対馬丸事件」の責任を取って、自死する。そして、母を失った和子は、弟と二人だけの家族となる。
予想された通り、沖縄は空爆や艦載機(双発で異常に胴が太い航空自衛隊機か?)の機銃掃射を受ける事態となり、師範学校校舎も焼失し、戦時色は一気に濃くなる。44年十月十日は、米側は、南西諸島一帯に大規模な空爆を仕掛けており、那覇市も大きな被害を出していた。米側は、この空襲で対日戦で初めて焼夷弾を使用し、民間施設も含めた、戦争犯罪である無差別攻撃を実行した。
こうして、沖縄は、45年三月下旬から6月23日(現在、この日が沖縄慰霊の日になっているが、別に9月7日説もある)まで行なわれた、当時の沖縄県民の四分の一が戦没することになる凄惨な沖縄戦に引きずり込まれる。既に三月中旬の九州沖航空戦が沖縄戦の事実上の前哨戦であったが、3月24日には沖縄本島に艦砲射撃が開始され、4月1日に米軍は沖縄本島に対する上陸を開始する。
一方、既に勤労奉仕活動でろくに勉学も出来ないでいた沖縄県立師範学校女子部の女子生徒(「師範生」と呼ばれた)と、同じ場所に校舎が並立していた沖縄県立第一高等女学校の女子生徒達の222人と引率教員18名で、看護要員部隊が3月23日に編成され、第32軍直轄の沖縄陸軍病院に動員される。(「ひめゆり学徒隊」という名称は、戦後の通称であり、「姫百合」の冠称がどこから来ているかも色々と説があるが、一高女の学校広報誌が『乙姫』と、師範学校女子部の学校広報誌が『白百合』と名付けてあったことから、両誌の名称を合わせて『姫百合』としたという説もある。『ひめゆり』と平仮名書きにするのも、戦後のことであると言う。)
陸軍病院と言ってもそれは壕であり、壕の中で、看護要員は、従軍看護婦の指導の下、包帯替えなどの患者の世話をしたり、外科壕の外に出て、危険な水汲みや飯上げ(炊飯部から炊けた飯を運んでくる作業)、そして、遺体の処理に携わり、5月25日以降、「陸軍病院」の移動と行動を共にして彼女達は沖縄本島を南下していった。南部では、学徒隊は、各外科壕六カ所(15m程の深さのある壕で、現地では「ガマ」と呼ばれていた)に分散していた。こうして、6月18日に学徒隊の解散命令が出ると、自己責任で安全な場所に逃げて、生き延びよということになるが、戦場を右往左往する中、この日から23日までに、学徒隊の百余名が亡くなったと言う。生徒・教員240名の学徒隊の内、陸軍病院関連で亡くなったのは、136名であった。大変な死亡率である。また、動員されなった女子生徒でもこの沖縄戦の最中に命を落とした女子生徒が91名いたと、戦後の調査で明らかにされている。
和子の同窓生・比嘉トミ(和泉雅子)は、危険な飯上げ当番の際に、機銃掃射を受けて負傷し、歩けない傷を負う。そのため、彼女自身も「病棟」に横たわることになるが、病院移動で壕の中に取り残されたままにされる。そして、軍が配る、青酸カリの入った牛乳を飲まされて、彼女は苦しみながら非業の最期を遂げることになる。
和子の淡い恋の相手たる西里は、現地戦時招集の鉄血勤皇隊の一員として、和子の目の前で戦死していったが、和子自身も、彼女のことを「お姉さま」と呼ぶ後輩と伴に抱き合って、崖の上で口で手榴弾のピンを抜いて、自爆する。何故か?米軍に投降する選択肢は彼女にはなかったのである。彼女が竹槍訓練をしている時に、ある陸軍軍曹は女子生徒の前で言う:
「この沖縄にアメリカが上陸するようなことがあれば、鬼のような奴らは、まず、君らのような若い娘を捕まえるぞ。そして、奴らは君らを素っ裸にする。そうやって、戦車の前面に縛りつけるんだぞ!」
戦時における性暴力の問題が、和子の自決の背景にあったこと、そして、この問題は、21世紀になっても、未だに起こっていることを我々は心に刻む必要があろう。
映画は、女性が書いたような平仮名書道体で読める次の文章で終わる:
沖縄戦で散った
殉国学徒の数は
師範 中学 女学校
あわせて 一五〇三名(「ひめゆり学徒隊」の他にも幾つかの学徒隊があった。)
教え子を引率して
仆れた教師 九二名
このように若い学徒の
犠牲者を出した戦争は
世界史上どこにも
その例を見ないという
この文章が一行ずつ映し出される間、ある曲のメロディーが辛うじて聞き取れる位の音量で流れる。吉永が歌っている主題歌でもあるが、これは作中、女子生徒達が陣地構築の勤労奉仕をさせられていた時に、彼女達が「やさしい少尉さん」と呼んでいた太田少尉(和田浩治)が海岸の作業現場にやって来て、それを見た引率の音楽教員・東風平恵位(こちんだ・けいい)が音頭を取って、生徒達が輪になって歌う場面でも聴かれる曲である。タイトルは『相思樹(そうしじゅ)の歌』といい、太田少尉が作詞したもので、それに東風平が作曲して、『別れの曲(うた)』として、彼女達の卒業式で歌うつもりでいたものであった。しかし、彼女達は卒業前に学徒隊に動員され、この歌は、女子生徒達の間で時々歌われて、戦争を生き延びたのであった。戦後は、軍隊行進調ではない、揺れるような八分の六拍子のこの曲は、戦時中に自らの青春の夢を叶えられずに戦禍に斃れていった同窓生のための、鎮魂の歌となって、今に歌い継がれている。
まずは、この曲の歌詞を挙げておこう:
第一連(卒業生が在校生に向けて):
目に親(ちか)し 相思樹(そうしじゅ)並木
往きかえり 去り難(がた)けれど
夢の如(ごと) 疾(と)き年月(としつき)の
往きにけむ 後(あと)ぞくやしき
第二連(在校生が卒業生に向けて):
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからむ
吾が寮に 睦(むつ)みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも
第三連(卒業生が在校生に向けて):
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き 嘆きぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時(いつ)の日か 再び逢わん
第四連(在校生が卒業生に向けて):
微笑みて 吾等おくらむ
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るき まみ(「眼差し」のこと)よ
健やかに 幸多かれと 幸多かれと
作詞者の太田博少尉は、44年八月に沖縄に送られてきた野戦高射砲第79大隊第二中隊に所属する部隊の将校であった。その彼が、高射砲陣地構築の作業にやって来ていた師範学校女子部の生徒の健気な働きぶりに感動し、一部の女子生徒の卒業の時期も近くなっていたことから、『卒業生に贈る詩』と題する一篇を書き上げたのである。それを知った同校の音楽教員・東風平がこれに曲を付けることとなり、『別れの曲(うた)』となる。
東風平恵位は、1922年に宮古島に生まれ、41年に沖縄師範学校に入学した。努力して難関であった東京音楽学校(現、東京藝術大学)に入学するも、学徒動員で繰り上げ卒業となり、43年十月に母校の女子部の音楽教員として赴任していた。こうして、彼が『別れの曲(うた)』を作曲することになる。女子生徒達は、何かの機会にはよくこの曲を口ずさんでいたと言うが、ある時、以下のような印象的な事柄が起こったと言う。それを、ウィキペディアから直接に引用する:
「東風平が、学園を訪れる機会もないままに作詩した太田の心情を思いやり、昭和20年(1945年)1月のある日曜日の夜、太田を学園の寄宿舎に招いた。東風平は見学の最後に、とある一室の前で立止まり、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しかけた。歌声を耳にして寮内にいた乙女たちが一室に群れ集い、時ならぬ大合唱が夜の静寂の学園に響き渡った。心を通わせた太田が学徒たちの合唱を聞くことができるように、東風平の深い思いやりが実った瞬間だった。歌いなれた讃美歌のメロディにも似たコーラスを聞いた太田少尉にとって、推敲を重ねた自分の詩作が歌となって人に感動を与えた初めての経験であり、直立不動の姿勢で自らも深い感動とともに詩人としての喜びの中にあった。」
1921年に東京で生まれた作詞者の太田は、30年に福島県郡山市の伯父の養子となり、そこの郡山商業学校を卒業して、郡山商業銀行に務めていたが、学校時代から詩作に励んだクリスチャンの文学青年でもあった。徴兵された42年以降も、詩作ノートを離さずに詩作をし続け、ひめゆり学徒隊の最後の地・糸満市にほど近い所で、45年6月20日に意味のない突撃攻撃で戦死した。作曲者の東風平も、太田少尉と前後する日時に、教え子達と共に避難していたガマの中に米軍のガス弾が投げ込まれ、教え子達と共に戦没している。
『別れの曲』は、いつしか、この五七調の作詞の第一連の一行目に出てくる「相思樹」という聞き慣れない言葉で呼ばれようになり、学徒隊の生き残りの生徒の間で戦後歌い継がれる。ひめゆりの塔も戦後まもなくの46年に建立されるが、1972年の沖縄返還までは、沖縄は米軍の占領下にあり、本土との行き来はままならなった。返還後の1975年に、東風平の嘗ての同窓生で、東風平の生死を別れて以来ずっと慮っていた、高知大学教授・橋本憲佳がある琉球大学講師を通じて、東風平の運命と『別れの曲』の存在を知ることとなる。返還により沖縄を訪れるために、もはやヴィザが必要ではなくなっていたこともあり、橋本は早速沖縄に渡り、戦地を訪れ、『別れの曲』を探し求めたが、戦禍で楽譜は逸失しており、橋本は何人ものひめゆり学徒隊の生存者を訪れて、歌い継がれていたメロディーを採譜したと言う。そして、76年五月、橋本によって合唱曲に編曲された『相思樹の歌』は、本土で初めて演奏され、今日に至っていると言う。
恐らくは、師範学校の前にあった並木道の両側の木々を、在校生と卒業生に見立て、お互いがお互いを相思いあう場として、詩人太田はイメージしたのであり、それを受けて、音楽家・東風平も八分の六拍子の揺れるようなメロディーを構想したのであったろう。二人の戦火を越えての希望の祈りを、ひめゆり学徒隊の女子生徒も戦後へと歌い継いだのである。
追記:このブログ記事の投稿日は、2025年9月2日であり、奇しくも、日本が東京湾上の戦艦の上で連合国との無条件降伏書に調印した日から80年経った日である。
このタイム・ギャップを繋げようとしたのか、監督舛田利雄は一計を案じる。舛田は、石原裕次郎主演で計25本も作品を撮っているという、日活アクション映画全盛期(つまり、日活青春映画路線と同時期)に数々の作品を撮り、「日活の舛田天皇」と言われた程にこの時期に「権勢」のあった監督であった。その彼が、同じ時期に「裕次郎二世」と名付けられて、日活アクション・ニュースターとして売り出されていた渡哲也に映画の冒頭で特別出演させ、制作時点の1968年と、沖縄戦当時の1945年とを結び付けることを考える。ほぼ四半世紀の時間的距離を繋ぐ役である。
ディスコで踊り狂う若者達は、18歳前後で、正に戦後に生まれた、戦争を知らない子供達である。彼等は、嘗ての「鬼畜」であった欧米のロック音楽を真似たグループサウンズ(GS)の音楽に合わせて踊る。それをクールに見つめている青年(渡哲也)は、場違いな歌『相思樹の歌』をリクエストして、担当者にインタヴューされる。何故にこの曲をリクエストしたのかと。実は、この歌はひめゆり学徒隊と深く関係のある歌で、こうして、映画は、1944年の沖縄に着地する。
ところで、この映画の冒頭の、戦後の平和な日本と戦中の日本を比べるシークエンスは何を意味するのであろうか。戦後復興、奇蹟の経済発展、高度経済成長政策、1964年の東京オリンピック開催と、戦後日本はその経済的豊かさを順調に作り上げたが、舛田監督は、その土台は大戦末期の若人の犠牲の上にあるとでも言いたいのであろうか。渡が演じる若者は『相思樹の歌』をリクエストした理由をはっきりとは語らないが、それでは、こう言おう:なぜ負けると分っていた対米戦を日本は始めたのかと。始めなければ、これらの若人の犠牲もなかったはずである、と。
何れにしても、ストーリーは戦中の、しかし未だ和やかな運動会の場面に移る。ガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗退に終わる1943年二月以降、日本は守勢に回っており、次第に米軍に追いつめられていく日本軍ではあったが、1944年半ばの沖縄は、戦争の成り行きに不穏な気持ちを持ちながらも、未だ、安穏だったのである。
運動会は、戦後の本土の女子高の運動会を思わせるが、ここは、沖縄県立師範学校女子部の運動会である。師範学校とは、教員養成のための学校で、沖縄全県から優秀な少女たちが将来の教員を目指して、ここで寄宿生活を送りながら、学業に励んでいたのである。女子部があれば、男子部もある訳で、その男子部の生徒の一人西里順一郎(浜田光夫)は、招待状がなければ入り込めない女子部運動会に学友数名と共に潜り込む。その不正入場を咎めたのが、女子部最高学年生で、「南国のシャン(ドイツ語から来た、男子学生の隠語で美人の意味)」与那嶺和子(吉永小百合)であった。こうして、二人は知り合い、日活青春映画よろしく、二人の間には淡い恋心が芽生えることになるが、それを踏みにじるのは戦争であった。
サイパン島守備隊が「玉砕」した44年七月以降、日本は米軍の空襲の脅威に曝されることは明白となり、それを受けて、沖縄からも学童疎開が組織されて、対馬丸他二隻が児童や一般疎開者を乗せて那覇から長崎に出発する。しかし、8月22日に対馬丸は米潜水艦に撃沈され、約千五百名が亡くなる。その中には、疎開児童に付き添った和子の母で、国民学校教員・与那嶺ハツ(乙羽信子)もいたのであり、国民学校校長仲地(東野英治郎)は、いわゆる「対馬丸事件」の責任を取って、自死する。そして、母を失った和子は、弟と二人だけの家族となる。
予想された通り、沖縄は空爆や艦載機(双発で異常に胴が太い航空自衛隊機か?)の機銃掃射を受ける事態となり、師範学校校舎も焼失し、戦時色は一気に濃くなる。44年十月十日は、米側は、南西諸島一帯に大規模な空爆を仕掛けており、那覇市も大きな被害を出していた。米側は、この空襲で対日戦で初めて焼夷弾を使用し、民間施設も含めた、戦争犯罪である無差別攻撃を実行した。
こうして、沖縄は、45年三月下旬から6月23日(現在、この日が沖縄慰霊の日になっているが、別に9月7日説もある)まで行なわれた、当時の沖縄県民の四分の一が戦没することになる凄惨な沖縄戦に引きずり込まれる。既に三月中旬の九州沖航空戦が沖縄戦の事実上の前哨戦であったが、3月24日には沖縄本島に艦砲射撃が開始され、4月1日に米軍は沖縄本島に対する上陸を開始する。
一方、既に勤労奉仕活動でろくに勉学も出来ないでいた沖縄県立師範学校女子部の女子生徒(「師範生」と呼ばれた)と、同じ場所に校舎が並立していた沖縄県立第一高等女学校の女子生徒達の222人と引率教員18名で、看護要員部隊が3月23日に編成され、第32軍直轄の沖縄陸軍病院に動員される。(「ひめゆり学徒隊」という名称は、戦後の通称であり、「姫百合」の冠称がどこから来ているかも色々と説があるが、一高女の学校広報誌が『乙姫』と、師範学校女子部の学校広報誌が『白百合』と名付けてあったことから、両誌の名称を合わせて『姫百合』としたという説もある。『ひめゆり』と平仮名書きにするのも、戦後のことであると言う。)
陸軍病院と言ってもそれは壕であり、壕の中で、看護要員は、従軍看護婦の指導の下、包帯替えなどの患者の世話をしたり、外科壕の外に出て、危険な水汲みや飯上げ(炊飯部から炊けた飯を運んでくる作業)、そして、遺体の処理に携わり、5月25日以降、「陸軍病院」の移動と行動を共にして彼女達は沖縄本島を南下していった。南部では、学徒隊は、各外科壕六カ所(15m程の深さのある壕で、現地では「ガマ」と呼ばれていた)に分散していた。こうして、6月18日に学徒隊の解散命令が出ると、自己責任で安全な場所に逃げて、生き延びよということになるが、戦場を右往左往する中、この日から23日までに、学徒隊の百余名が亡くなったと言う。生徒・教員240名の学徒隊の内、陸軍病院関連で亡くなったのは、136名であった。大変な死亡率である。また、動員されなった女子生徒でもこの沖縄戦の最中に命を落とした女子生徒が91名いたと、戦後の調査で明らかにされている。
和子の同窓生・比嘉トミ(和泉雅子)は、危険な飯上げ当番の際に、機銃掃射を受けて負傷し、歩けない傷を負う。そのため、彼女自身も「病棟」に横たわることになるが、病院移動で壕の中に取り残されたままにされる。そして、軍が配る、青酸カリの入った牛乳を飲まされて、彼女は苦しみながら非業の最期を遂げることになる。
和子の淡い恋の相手たる西里は、現地戦時招集の鉄血勤皇隊の一員として、和子の目の前で戦死していったが、和子自身も、彼女のことを「お姉さま」と呼ぶ後輩と伴に抱き合って、崖の上で口で手榴弾のピンを抜いて、自爆する。何故か?米軍に投降する選択肢は彼女にはなかったのである。彼女が竹槍訓練をしている時に、ある陸軍軍曹は女子生徒の前で言う:
「この沖縄にアメリカが上陸するようなことがあれば、鬼のような奴らは、まず、君らのような若い娘を捕まえるぞ。そして、奴らは君らを素っ裸にする。そうやって、戦車の前面に縛りつけるんだぞ!」
戦時における性暴力の問題が、和子の自決の背景にあったこと、そして、この問題は、21世紀になっても、未だに起こっていることを我々は心に刻む必要があろう。
映画は、女性が書いたような平仮名書道体で読める次の文章で終わる:
沖縄戦で散った
殉国学徒の数は
師範 中学 女学校
あわせて 一五〇三名(「ひめゆり学徒隊」の他にも幾つかの学徒隊があった。)
教え子を引率して
仆れた教師 九二名
このように若い学徒の
犠牲者を出した戦争は
世界史上どこにも
その例を見ないという
この文章が一行ずつ映し出される間、ある曲のメロディーが辛うじて聞き取れる位の音量で流れる。吉永が歌っている主題歌でもあるが、これは作中、女子生徒達が陣地構築の勤労奉仕をさせられていた時に、彼女達が「やさしい少尉さん」と呼んでいた太田少尉(和田浩治)が海岸の作業現場にやって来て、それを見た引率の音楽教員・東風平恵位(こちんだ・けいい)が音頭を取って、生徒達が輪になって歌う場面でも聴かれる曲である。タイトルは『相思樹(そうしじゅ)の歌』といい、太田少尉が作詞したもので、それに東風平が作曲して、『別れの曲(うた)』として、彼女達の卒業式で歌うつもりでいたものであった。しかし、彼女達は卒業前に学徒隊に動員され、この歌は、女子生徒達の間で時々歌われて、戦争を生き延びたのであった。戦後は、軍隊行進調ではない、揺れるような八分の六拍子のこの曲は、戦時中に自らの青春の夢を叶えられずに戦禍に斃れていった同窓生のための、鎮魂の歌となって、今に歌い継がれている。
まずは、この曲の歌詞を挙げておこう:
第一連(卒業生が在校生に向けて):
目に親(ちか)し 相思樹(そうしじゅ)並木
往きかえり 去り難(がた)けれど
夢の如(ごと) 疾(と)き年月(としつき)の
往きにけむ 後(あと)ぞくやしき
第二連(在校生が卒業生に向けて):
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからむ
吾が寮に 睦(むつ)みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも
第三連(卒業生が在校生に向けて):
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き 嘆きぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時(いつ)の日か 再び逢わん
第四連(在校生が卒業生に向けて):
微笑みて 吾等おくらむ
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るき まみ(「眼差し」のこと)よ
健やかに 幸多かれと 幸多かれと
作詞者の太田博少尉は、44年八月に沖縄に送られてきた野戦高射砲第79大隊第二中隊に所属する部隊の将校であった。その彼が、高射砲陣地構築の作業にやって来ていた師範学校女子部の生徒の健気な働きぶりに感動し、一部の女子生徒の卒業の時期も近くなっていたことから、『卒業生に贈る詩』と題する一篇を書き上げたのである。それを知った同校の音楽教員・東風平がこれに曲を付けることとなり、『別れの曲(うた)』となる。
東風平恵位は、1922年に宮古島に生まれ、41年に沖縄師範学校に入学した。努力して難関であった東京音楽学校(現、東京藝術大学)に入学するも、学徒動員で繰り上げ卒業となり、43年十月に母校の女子部の音楽教員として赴任していた。こうして、彼が『別れの曲(うた)』を作曲することになる。女子生徒達は、何かの機会にはよくこの曲を口ずさんでいたと言うが、ある時、以下のような印象的な事柄が起こったと言う。それを、ウィキペディアから直接に引用する:
「東風平が、学園を訪れる機会もないままに作詩した太田の心情を思いやり、昭和20年(1945年)1月のある日曜日の夜、太田を学園の寄宿舎に招いた。東風平は見学の最後に、とある一室の前で立止まり、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しかけた。歌声を耳にして寮内にいた乙女たちが一室に群れ集い、時ならぬ大合唱が夜の静寂の学園に響き渡った。心を通わせた太田が学徒たちの合唱を聞くことができるように、東風平の深い思いやりが実った瞬間だった。歌いなれた讃美歌のメロディにも似たコーラスを聞いた太田少尉にとって、推敲を重ねた自分の詩作が歌となって人に感動を与えた初めての経験であり、直立不動の姿勢で自らも深い感動とともに詩人としての喜びの中にあった。」
1921年に東京で生まれた作詞者の太田は、30年に福島県郡山市の伯父の養子となり、そこの郡山商業学校を卒業して、郡山商業銀行に務めていたが、学校時代から詩作に励んだクリスチャンの文学青年でもあった。徴兵された42年以降も、詩作ノートを離さずに詩作をし続け、ひめゆり学徒隊の最後の地・糸満市にほど近い所で、45年6月20日に意味のない突撃攻撃で戦死した。作曲者の東風平も、太田少尉と前後する日時に、教え子達と共に避難していたガマの中に米軍のガス弾が投げ込まれ、教え子達と共に戦没している。
『別れの曲』は、いつしか、この五七調の作詞の第一連の一行目に出てくる「相思樹」という聞き慣れない言葉で呼ばれようになり、学徒隊の生き残りの生徒の間で戦後歌い継がれる。ひめゆりの塔も戦後まもなくの46年に建立されるが、1972年の沖縄返還までは、沖縄は米軍の占領下にあり、本土との行き来はままならなった。返還後の1975年に、東風平の嘗ての同窓生で、東風平の生死を別れて以来ずっと慮っていた、高知大学教授・橋本憲佳がある琉球大学講師を通じて、東風平の運命と『別れの曲』の存在を知ることとなる。返還により沖縄を訪れるために、もはやヴィザが必要ではなくなっていたこともあり、橋本は早速沖縄に渡り、戦地を訪れ、『別れの曲』を探し求めたが、戦禍で楽譜は逸失しており、橋本は何人ものひめゆり学徒隊の生存者を訪れて、歌い継がれていたメロディーを採譜したと言う。そして、76年五月、橋本によって合唱曲に編曲された『相思樹の歌』は、本土で初めて演奏され、今日に至っていると言う。
恐らくは、師範学校の前にあった並木道の両側の木々を、在校生と卒業生に見立て、お互いがお互いを相思いあう場として、詩人太田はイメージしたのであり、それを受けて、音楽家・東風平も八分の六拍子の揺れるようなメロディーを構想したのであったろう。二人の戦火を越えての希望の祈りを、ひめゆり学徒隊の女子生徒も戦後へと歌い継いだのである。
追記:このブログ記事の投稿日は、2025年9月2日であり、奇しくも、日本が東京湾上の戦艦の上で連合国との無条件降伏書に調印した日から80年経った日である。
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