本作と同名の原作の作者は、安部公房であり、本作の脚本を担当しているのも本人自身である。と言うことは、脚本の内容に原作者も同意しているということであり、本作が発するメッセージに原作者も異論がないという理解でOKであるということになる。
筆者は、原作を読んでいないので、断定的なことはここでは言えないが、他の批評を読んだ限り、次のことが言える。まず第一点は、原作においては、仮面を製作するのは本人自身であることである。第二点は、サイドストーリーと言える「ケロイドの女」は、原作にも登場する人物であるという点である。
「ケロイドの女」については、原作を知らない筆者は、特別に映画用に創意された人物と想像していたのであるが、映画内の彼女は長崎に住んでいたようでもあり、これをケロイドと結び付ければ、女は幼少の時に長崎で核爆弾に被曝して、右顔の半面にケロイドを持つようになったと言えるであろう。つまり、『他人の顔』は、単に、自己同一性という、個人レベルの問題を扱っているのではなく、ケロイドを顔に持つことの歴史性、つまり、戦争との関わりをも問題にしている点で、つまり、テーマを、単なる個人の問題から社会の問題へと地平を広げている点で、本作を筆者は評価したい。
ケロイド、核爆弾、戦争とつなげてみると、映画内で語られる「ケロイドの女」の戦争への恐怖もまたよく理解でき、ケロイドのせいで、戦後約20年が経った日本で未だに肩身の狭い思いをしなければならない彼女の苦悩もまた想像できるのである。顔の左側だけを見れば綺麗すぎるほどの「美女」であり、顔の右側を見ると、「化け物」になるという彼女には、「非健常者」に対する差別が強い日本社会では、余計に風当りが強かったのではないか。
しかも、彼女の父親か親戚は、戦闘中の後遺症で精神病を病むようになった元日本兵の一人であるようであり、故に、彼女はある精神病棟に赴く。そこには、未だ、戦時中の心の傷を背負っている「傷痍軍人」が、戦後になっても未だに戦闘を闘っているのであった。このシークエンスの背景音では、二度、ヒトラーと思しき男がドイツ語で激しく演説している声が聞こえる。ナチス・ドイツ、日独伊三国同盟、第二次世界大戦とイメージがつながる。実際、戦闘帽を被り、白い衣服を着て、松葉杖を手にしてひっそりと立っている傷痍軍人が、1960年代の半ばまでは日本の街中でも見受けられたものである。
本作が発表された1966年という年は、60年安保の政治闘争が終わって六年が経ち、沖縄の日本への返還が未だなされない中、沖縄に基地を持つUSAが次第にヴェトナム戦争の泥沼にのめり込んでいく時期に当たる。日本が高度経済成長に酔い痴れている中、アジアの一角では同じアジア人が戦争で血を流していた。この意味で、「ケロイドの女」の、一見、理由なき戦争への不安は、それなりの根拠があったと言えるのではないか。
それでは、原作との関わりで気になるもう一点である。原作では仮面作りの製作者が本人自身である。と言うことは、映画での、仮面を巡る、主人公と精神科医との間の対話は、原作では、実は、自己との饒舌なモノローグということになる。映画化において、主人公の中にある「もう一人」を外在化させたことは、映像化という点で、それを可視化させた訳であり、確かにその点で、この「策」は当たっているのであるが、その分、モノローグの内省性・内密性が減り、ストーリーの緊張度が低くなったのはマイナス点であろう。これは、小説と映画という媒体の違いが生み出した長所・短所の出方の違いと言うべきであろうか。
ただ、「顔」というものにこれだけ重きを置くことの問題の浅薄さは拭えない。映画の冒頭の方でも言われる点でもあるが、「顔」は、たかだか200㎠の表面に張った「饅頭の皮」である。映画の冒頭でも見せられるように、顔をX線撮影にしてしまえば、そこにはただ骨格だけしか見えない。「饅頭の皮」という皮膚を張った顔は、確かに、ヒトの個体差を見分ける最も有効な標識ではあるが、しかし、であるからと言って、それが、その個体の自己同一性に決定的な要因として働くかと言えば、そうではないであろう。(とは言え、映画の終盤で、駅から溢れ出る通行人が全員、同じようなのっぺらぼうの顔をしていることの「恐怖」もまた否定できないのであるが...)
顔がヒトに与えられた生得の「装い」であるとすれば、それは、機能としては「服」と同じなのであり、「服」であれば、それにファッション性を求めてもよい。つまり、「顔」におけるファッション性とは、「化粧」なのであり、そうであれば、それは、本質的には「仮面」と同じ性質のものである。生得の「顔」に仮面を被せることで、自分の「顔」を異なるものとして他者に見せる。しかし、服や化粧に個性を与えるのは、それを着る個人、化粧をする個人が内面に持っている個性なのではないか。個性が先にあって、その後に、「服」や「化粧」があるはずである。故に、新しい仮面を被るようになったことでその人物に変化が起こったのは、その人物に何も新しい個性ができた訳ではなく、本来の「顔」の下で固定化されていた社会的行動様式が、新しい仮面を身に付けたことで、解放されたと見るべきである。つまり、本作の最終場面での主人公の殺傷行為は、自身の解放のための、自由への「暴挙」であったと言うべきであろう。
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他人の顔(日本、1966年作)監督:勅使河原 宏
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