2023年6月30日金曜日

言の葉の庭(日本、2013年作) 監督:新海 誠

 恋の物語りとしてのセッティングとしては、大人びた高校一年の男子生徒と、同じ高校で古文を担当する、27歳の女性教員という取り合わせは、余りに無理があるのではないか。

 その違和感を抑え込むために、筆者は、主人公の年齢を無視して本作を観ていた。ゆえに、男子生徒は、せめて高校三年生とし、相手方は、23か24歳の、他の高校の古文の新米教員として欲しいところである。であれば、現実味も増すのではないか。或いは、日本社会では、こんな現実味のある関係は、むしろ拒否されるのであろうか。であれば、こんな関係を描きたいためには、新海は、逆手を取って、むしろ現実味のない関係をセッティングしたのであろうか。

 一方、主人公・秋月孝雄の回りの人間模様も興味深い。母親は、47歳の大学職員で、離婚経験者である。若作りにして、一回りも年齢の若い恋人を持っていると言う。26歳の兄は、恋人と同棲するために家を出ていくと言う。保守的倫理観の持ち主からは、母親が「だらしない」から、息子も「だらしない」結婚観を持っているのであると言われかねない、主人公孝雄の家庭環境である。であれば、孝雄自身が、自分の「恩師」に血道を上げるのも無理からぬことと、保守主義者はのたまうかもしれないが、こういう倫理的・道徳的摩擦もストーリーの中に取り込んだ新海の「勇気」を応援するものである。筆者は、単なる男女の陸み事に終わらせず、ストーリーに社会性を持たせるストーリーの書きぶりに共感する。

 さて、新海アニメのストーリー展開には、一つの特徴がある。それは、つまり、男女の出逢い、別れ、そして、その喪失感に由来する、離別の遠くからの「想い」の独白である。この特徴は、彼がアニメ作家としてアニメ界で有名になった、2002年の、ほぼ自作自演の短編アニメ『ほしのこえ』以来、新海アニメに通底するものである。ゆえに、本作でも、両主人公は、ストーリーの終盤になると、東京と四国に別れて住みながらも、手紙を通じて繋がりを保ち続けるという展開となる。その意味で、出逢い、別れ、そして、別離の中での繋がりの三位一体が、新海アニメの特徴なのである。

 さらに、本作では、このストーリー展開の特徴に、和歌が重要な媒体となって加わっている点が「ミソ」である。この点において、さすがは大学で日本文学を勉学した新海の教養が大事な土台となっていると言えるであろう。調べたところによると、本作に登場するのは、万葉集からの、詠み人知らずの、一連二首の問答歌であるという。

 物語りの比較的最初に、古文の教諭は、初めて孝雄に遇った、梅雨入り前の雨が降る新宿御苑で、孝雄との別れ際に、謎のような和歌を一首詠む:

 雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 (なるかみの しまし とよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめん)

一夜をいっしょに過ごした女が、相手を返したくないので、雷が鳴るのを聞いて、雨が降ってほしいと願う歌である。高校生に贈る歌としては、かなり思わせぶりの歌である。

 問答歌であるから、今度は、贈られた歌には返歌がなければならない。それゆえ、贈られた当人である孝雄は、映画の中盤に次のような歌を返す:

 雷神の 少し響みて 降らずとも 吾は留まらむ 妹し留めば

 (なるかみの しまし とよみて ふらずとも われはとどまらん いもしとどめば)

返歌なので、歌の始めが最初の歌と共通になっているのは仕方がないにしても、相手の女性が、「君を留めむ」と言っているのに、「妹し留めば」と言っているのは、少々野暮であろう。但し、この歌を本作の文脈にはめ込めば、この返歌を詠っているのは、「うぶな」男子高校生であり、この歌の稚拙さは、肯けなくもない。

 とは言え、題名を『言の葉の庭』し、そのストーリーに『万葉集』からの恋歌を引いたのは、蓋し、ハイセンスの思い付きであろう。本作は、「大人の」アニメとして堪能したいものである。

2023年6月29日木曜日

天気の子(日本、2019年作)監督:新海 誠

 新海アニメ・ワールドの一つの特徴は、それが写真ではないかと、もう一度目を凝らす、写実的なアニメーション作画の精緻さである。それは、自然の風景や都市景観によく表現されるのであるが、この効果は、雨が降った後に太陽が差し込んでくる時の、刻一刻と変化する光彩の変化がアニメーション作画に付け加えられることにより、さらに強められる。ゆえに、新海は、ストーリー作りにおいて、「雨男」であると同時に、「晴れ男」でもあり、雨と、雲間から晴れだす太陽光は、お互いに「必要・十分条件」なのである。

 こうして、本作では、雨が降り続ける東京という、新海にとって絶好のセッティングが取られる。そして、これと、「晴れ女ならぬ晴れ女の子」がタッグを組めば、正に「最強」である。

 天気が晴れますようにという「願い」を考えると、人はすぐにでも「てるてる坊主」のことに思い至る。そして、ウィキペディアによると、さらに、この「照り照り坊主」の元ネタには、ある中国伝説があると言う。ウィキペディアは言う:

 「[当時の首都]北京には、頭が良く、切り紙が得意な美しい娘、晴娘[チンニャン]がいた。ある年の六月[日本であれば梅雨の時期]、北京に大雨が降り[続き]、水害となった。北京の人々はこぞって雨が止むよう、天に向かって祈願をし、晴娘も祈りを捧げた。すると、天から、晴娘が[四海龍王の内、尤も広大な領土を持つ]東海龍王の妃になるなら雨を止ませてやろうという声が聞こえた。街の人々を救うと誓った晴娘が頷き、同意すると、雨は止み、その瞬間に風が吹き、晴娘は消えた。その後、晴娘の姿は見つからず、空は晴れ渡った。以来、北京の人々は皆、雨が続くと、晴娘を偲んで切り紙で作られた人形を門[の左側]に掛けるようになった。」 というのである。(中国書の『帝京景物略』などに拠る。)

 これが、「掃晴娘(さおちんにゃん)」の伝説である。「掃」の字が最初に来るのは、晴娘に、雨雲を掃いて晴天にするための箒を持たせるためである。何れにしても、この伝説は、正に人身御供の話しであるが、これに、田舎から東京に家出をしてきた高校一年生の視点を加えることで、アニメ制作のターゲットとする年齢層を少々低くしたのが、今回の新海アニメのストーリー・セッティングである。大人びた高校一年の男子生徒と、古文を担当する女性元教員との関係を描いた『言の葉の庭』のセッティングに較べると、年齢が低くなった分、ストーリーがシンプルになり過ぎたのが、如何せん、気になるのが本作の出来であろう。

 しかも、気候変動をテーマにしている本作のストーリーにおいて、そのままにしていれば、東京は水没するというメッセージは、メッセージ性としては、筆者には弱すぎる。フライデー・フォア・フューチャー運動や「ラスト・ジェネレーション」という過激派さえもが生まれ出ている、今の時代を鑑みると、この不満感は余計に強まるのである。

2023年6月2日金曜日

昼下りの情事(USA、1957年作)監督:ビリー・ワイルダー

 本作は、果たして、「コメディー」なのか、或いは、コメディーであるとして、成功しているであろうか。喜劇は、悲劇を演ずるよりも、格段に難しいことを念頭に入れても、本作には、笑える部分がいくらかはあるにはあるが、観客を笑わせようとする意図が見え過ぎて、笑うに笑えないシーンがいくつかあったことも否めず、本作は、コメディーのジャンルを専門とするB.ワイルダー監督の手になるにしても、コメディーとしては成功していないように、筆者には、思われる。

 B.ワイルダー監督がA.ヘップバーンと共作して1954年に上映された作品『Sabrina:麗しのサブリナ』を人は誰も「ラブ・コメディー」とは呼ばないであろう。精々は「ロマンティック・コメディー」たる、この作品では、若いA.ヘップバーンは、中年のH.ボーガートとお相手をする。一方、その三年後の本作では、ストーリー上19歳であることになっているA.ヘップバーンは、金持ちのアメリカ人・中年紳士役のG.クーパーと共演している。

 若い女性が金持ちの中年紳士に恋することは、あり得ることであるので、本作でのG.クーパーが年が取りすぎていて、こんなカップルは考えられないという意見に筆者は組するものではないが、世界を駆け巡るプレイボーイとしての本作でのG.クーパーの役どころは、誠実感がただよう人間としての俳優G.クーパーと、どうしても違和感となり、それ故に、役柄と俳優の人間性との間のミスマッチ感が押えきれない。(映画に登場する、G.クーパーの世界を駆け巡るお色気の「行状」について、一つ、1953年という走り書きがある日本語の新聞記事の見出しがある。それには、「新聞王ケーン死す」とあり、恐らくは映画『市民ケーン』と関係がある記事の左横に、何か中国風の芸者に囲まれて、お風呂に入っているG.クーパーの写真が載せられてあり、それは、残念ながら、いかにも合成写真のように見える。)

 パリのコンセルヴァトワールでチェロを勉強しているパリ娘Arianeが恋に落ちるのであれば、その相手は、パリの、あるオペラ座でR.ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴きながら、コンサート用のプログラムを望遠鏡のように丸めて、その一方からコンサート会場を覗くなどという無教養な人間であってほしくない、と感じるのは、筆者だけではないであろう。せめて、エスプリのある会話ができる漁色家であってほしい。こう考えると、本作の主人公Frank Flannagan氏のキャスティングも違ってくるであろうし、コメディー性ももっと他に探せたはずである。

 このコメディー性という点では、パリの高級ホテルHôtel Ritzに泊まっている、犬を連れたご婦人と共に、本作の初盤と、終盤への展開点で重要な役回りをする登場人物Monsieur Xを演じるJohn McGiverジョン・マッギーヴァーの存在に注目すべきである。アメリカン・「カサノヴァ」に自分の妻を寝取られた夫役で、その存在自体は何も笑えないのではあるが、彼の置かれた状況が作り出す「可笑しみ」は、その後のB.ワイルダー調の滑稽味につながるものである。ニューヨーク市っ子のJ.マッギーヴァーは、高校の英語の教員として働く傍ら、演劇に興味を持ち、舞台監督や舞台俳優として、活動していた。かつての同僚に誘われて、1955年に初めて、ある舞台劇の主役を務めたことにより、職業俳優となり、これ以降、その小柄で、はげ頭の容姿が印象深いところから、性格俳優としての道を歩むことになる。映画での初めての役は、本作であり、A.ヘップバーンとは、ティファニーの親切な店員として、1961年作の『ティファニーで朝食を』で共演している。

 さて、本作には原作がある。その名を、『Ariane, jeune fille russeアリアーネ、あるロシア人の若い娘』といい、スイス生まれのフランス人 Claude Anetクロード・アネが、1920年に発表したものである。C.アネは、1868年生まれで、ソルボンヌ大学で精神科学を勉学し、卒業後一時会社勤めなどをした後、イタリア、ペルシャ、ロシアなどを旅行をして歩き、その旅行記を発表したり、テニス選手として、1892年にフランスのテニス選手権で優勝したりしている人物である。ロシア旅行の際には、ロシア革命を実際に体験しており、『ロシア革命、年代記 1917-1920』という本まで出している。ノンフィクション作品だけではなく、C.アネは、小説も書いており、その一本が本作の原作になる本で、彼のロシアでの体験が反映されているものと思われる。

 ウィキペディアの解説をまとめると、この作品は、1900年頃のロシアを舞台とし、叔母の許で育った、17歳のArianeという娘が、叔母の許しを得て、但し、叔母の資金援助なしで、モスクワの大学に勉学に行くところから始まる。そして、そのモスクワで、彼女は、アメリカ人の金持ちのコンスタンティンと知り合いになり、休暇でいっしょにクリミア半島に出掛けたりするという話しである。20世紀の初頭のロシアでArianeのような若い娘がいたということが中々信じがたいのであるが、女子学生のArianeとアメリカの金持ちの男性という関係は、確かに、本作に反映されている。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...