2023年12月7日木曜日

ドライブ・マイ・カー(日本、2021年作)監督:濱口竜介

 本作の原作は、村上春樹の同名の短編による。村上が2013年12月から翌年3月まで発表した六篇の連作短編は、『女のいない男たち』と題されて、短編小説集として発刊される。『ドライブ・マイ・カー』は、その一本目の短編で、本作のストーリーは、この短編のストーリーの骨格から採られているが、同短編集の第四編目『シェエラザード』と第五編目『木野』も、本作のストーリーに使われていると言われ、とりわけ、『シェーラザード』からは、印象的なプロットが採用されている。本作にも登場するヤツメウナギの話しである。原作の短編から引用すると、次のように、30歳代半ばの、子持ちの専業主婦は、不倫の相手との性交の後に、『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードの如く、語る:

  「私にははっきりとした記憶があるの。水底で石に吸い付いて、水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり、上を通り過ぎていく太った鱒を眺めていたりした記憶が」(ウィキペディアより)

 この短編には、同様に、もう一つの「睦言」があり、それも本作には登場する。高校二年の時に、日本版シェエラザードが、クラスの同級生を好きになり、この男子生徒の部屋に空き巣のように入って彼の持ち物を盗む。そのお返しに、自分のタンポンを机の奥に隠したというエピソードである。彼女は言う:

 「でもただ盗むだけではいけないと思った。だってそれだとただの空き巣狙いになってしまうじゃない。私は言うなれば『愛の盗賊』なのだから」(ウィキペディアより)

 こうして、誠に長い、約40分の前段の話しが終わると、本作のタイトル・ロールが出てくる。 

 村上の原作では、主人公は、妻と寝ていた高槻という若い俳優と、銀座の夜のバーを幾度か訪れて、友達になってしまうのであるが、本作では、原作と異なって暴力性向がある高槻とは、自分の妻を寝取ったのではないかという疑心暗鬼に主人公は囚われながら、その緊張関係は、解消されずに、ストーリーが展開する。一方、自分の赤い愛車Saabを運転してくれることになる女性ドライバー・みさきとの交流に、本作では、ストーリーの重点が置き換わっている。これは、ストーリー建ての妙であると言えるが、本作のストーリー展開のいいところの、もう一つの点は、妻の突然の死の後、主人公が舞台俳優並びに舞台演出家と成功しており、広島での国際演劇祭で、自分もその演技で名声を得た、帝政ロシアの劇作家アントン・チェホフ(Anton Pavlovič Čechov)作の『ワーニャ伯父さん』の演出を担当することになる点である。

 まず、死んだ、脚本家の妻が感情を殺して棒読みして吹き込んだ相手役の台詞を、主人公は、暗記した自分の台詞を以って、これまた大根役者のように、無感動で言いあげる。このような台詞との「対話」を、主人公は、広島で指導する役者にも「強要」する。しかも、それぞれの登場人物は、その役者の母語である言葉を日本語に翻訳しないままで、それぞれの母語で言い合うのである。これを「多言語演劇」と言うようであるが、観客自身は、日本語以外の言語を、翻訳された字幕を目で追いながら、その劇の進行を理解するという寸法である。

 しかも、『ワーニャ伯父さん』の主人公となるソーニャ役には、韓国人の女優がなり、彼女は、耳は聞こえるが、台詞には韓国語の手話を使う俳優なのである。日本語、台湾・中国語など多言語が飛び交う中で、手話が入ることにより、音声が無くなった特殊な空間が突然、舞台上に成立する。脚本も書いている濱口監督が、この点において、自らの力量の限界を感じ取り、脚本共同執筆者に大江崇允(たかまさ)を選んだのは正解であった。と言うのは、大江は、今では映画監督もやっている人物であるが、元々は、舞台俳優、舞台監督として、経歴を積み上げてきた人物であり、彼の、当を得たアイディアが本作における脚本の質を上げることになる。不条理劇のオーソドックスと言われる、S.ベケット作『ゴドーを待ちながら』が、本作の初めに登場するのも、なるほどなと頷ける。

 それでは、なぜ、A.チェホフの演劇『ワーニャ伯父さん』が本作で取り扱われるのか。

 A.チェホフは、1860年生まれの、帝政ロシアの作家であり、古典科中学校卒業後に、医学を勉学し、1884年以降、医師として働くことになるが、彼は、すでに中学校時代から、ものを書き始め、医学を勉強する傍ら、自分の学資を稼ぐために、雑誌にユーモア作品を投稿していた、文才がある人間であった。1886年以降は、本格的な小説、戯曲の執筆に心掛け、その翌年、長編戯曲『イワーノフ』を書き上げ、この作品が、紆余曲折を経て、1889年にサンクト・ベテルブルクで成功を収める。

 ある程度成功をした文学者として、A.チェホフは、1892年にモスクワ郊外に土地を購入して、そこに喜々として移り住むが、その三年後に、チェホフ後期の四大名作戯曲の第一作目に当たる『かもめ』を発表するに至る。96年の初演は惨憺たる失敗であったが、98年のモスクワ芸術座の再演では、大成功を収め、これ以降、チェホフの四大戯曲が次々と発表されることになる。すなわち、99年の、本映画と関係がある『ワーニャ伯父さん』、20世紀に入った1901年の『三人姉妹』、そして、1904年の『桜の園』である。

 1904年と言えば、日露戦争の勃発の年であり、その翌年には、日露戦争のせいで、帝政ロシアに第一次革命が起こる。戯曲『桜の園』では、ある地主が自分の土地を売らざるを得なくなり、その土地にあった桜の木々が無残に伐採されるところから、その題名が来ているのであるが、ここでは、ロシア社会の変動の「嵐」をA.チェホフが感じていたと言える。1914年に勃発した第一次世界大戦が帝政ロシア社会の変化を加速させ、これが、1917年のロシア革命につながる。

 一方、『三人姉妹』は、田舎住まいの高級軍人の三人の娘の生き方を描くことで、新しい20世紀の頭に、社会の閉塞感をいかに乗り越えるかという点で、興味のある作品であるが、一番下の妹が、現実的な結婚を選び、他の土地に引っ越そうとしている矢先に、婚約者が決闘で死んでしまうところで、劇は終わる。ここでも、A.チェホフは、『桜の園』の女地主の娘同様に、若い娘にその淡い希望を託している。

 チェホフの四大戯曲の第一作目『かもめ』とは、希望に溢れた、女優志望の若い娘ニーナの象徴であるが、その「かもめ」は、劇作中で「撃ち落され」、現実に引き戻される。その苦い現実を噛みしめ、耐えながらも、この人生を生きていこうとするニーナの、諦観の混じった「意志」をA.チェホフは描く。

 この『かもめ』と同様のトーンで、『ワーニャ伯父さん』もまた、書かれている。「ワーニャ叔父」とは、本作の主人公とでも言える、余り美人ではないソーニャから見てであり、ソーニャの亡き母の兄である。この二人が、田舎にある荘園を切り盛りしているのであるが、亡き母は、今は退職している老教授との間にソーニャを儲けていた。ソーニャの父親たる老教授は、しかし、ソーニャの母親が亡き後は、年齢の若い後妻と結婚しており、この老教授夫妻二人が、田舎の荘園にやってきて生活することで起こる騒動を描いている。

 その戯曲最後の第四幕目は、ソーニャの独白で終わる:

「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」(ウィキペディアにより)

 本作映画の最後のエピローグは、突然飛んで韓国の地となっている。それは、主人公と女性ドライバーが、お互いの心の「傷」を見せ合ったことで、お互いに心的に近づき、今度は、お互いの心の傷を舐め合って生きていくことにしたということ表象なのである。『ワーニャ伯父さん』のワーニャとソーニャのように。

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