2025年4月30日水曜日

沈黙の艦隊(日本、1995/1998年作)監督:高橋 良輔

 「SeaBatシーバット:海の蝙蝠」とは、日米が隠密裏に共同開発した原子力潜水艦のコードネームで、この日本初の原潜の完成後は、この原潜は、名目上はハワイを基地とするUSA第七艦隊所属の艦艇であった。この最新鋭の潜水艦(水中排水量:9000t;全長:120m;最大水中速力:55kt、最大潜行進度1250m;兵装:核武装可能なMk48魚雷及びハープーンUSM計50発)には、米軍のオブザーバーの将校一名が同乗したが、それ以外は、艦長も乗組員・総員76名も手練れの日本人潜水艦乗りである。処女航海が始まるとまもなく、海江田艦長は、世界に対して、自身を元首とし、潜水艦SeaBatを唯一の領域とする独立国家建国を宣言し、SeaBatを「やまと」と名付けた。こうして、「やまと」は、USA第七艦隊(漫画版では通常空母「ミッドウェー」旗艦、OVA版では、原子力空母「エンタープライズ」旗艦)を含め、USA原潜、ロシア原潜などとも戦い、やがて、戦局の天王山とも言える「北極海潜行海戦」が始まる。

 この海戦で「やまと」に対抗するのは、「シーウルフ」級USA原潜である。ウィキペディアによると、漫画版では、「シーウルフ」級とされているが、作画時点では、性能諸元が公表されていなかったことから、原作者かわぐちかいじの想像が多分に入って描かれており、1995年から98年にかけてのアニメ・OVA版では、これが、実在の「シーウルフ」級ではなく、「やまと」と同型となる「シーバット」級同型艦とされた。因みに、現実の「シーウルフ」級原潜の性能を記しておくと、水中排水量:9150t、全長:107m、最大水中速力:35kt、潜行深度:610m、兵装:Mk48魚雷、ハープーンUSM、トマホーク、各種機雷計53発であると言う。

 この「海の蝙蝠」対「海の狼」の戦いでは、「アップトリム90」という、現実にはありえない操艦が出てくるが、それでも、意外な作戦展開が見られ、「やまと」ソナー員対「シーウルフ」ソナー員の対決あり、碁盤上での格闘の如き、後手を予想して先手を打っておく魚雷戦のスリルもあり、さすが当時の先進的なメディアとしてのOVA版の「潜水艦もの」の面白さを実写作品以上に見せてくれる。

 さて、かわぐちかいじの原作漫画の掲載時期は、1988年から1996年のことである。1989年には昭和が終わって、平成が始まり、この同じ年には、ベルリンの壁が「落ちて」、東西冷戦も理念上は終わる。しかし、日本は、1993年頃から約十年間続く、バブル崩壊後の「平成不況」に入る。正にこの時期に、この原作漫画が発表され、日米安保の軍事同盟を含めた日本の安全保障の問題の在り方が問われたと言える。「国連の依頼を受けての」という制約が付くものの、本来国内での防衛任務だけに携わるはずの自衛隊が海外派兵させられる事態がまもなく到来する。

 この時代的背景を頭に入れながら、この原作によるOVAのアニメを改めて観ると、この中で唱えられた考えは部分的には革新的なものもあり、面白い。「世界政府」の発想は、既にSF作品でよく言われていることであり、この点では目新しくはない。また、国連軍の創設は、原作で唱えられた「政軍分離」の考えと通じるものであり、以前からあるものである。しかし、現実の軍事戦略においても核武装された原子力潜水艦の軍事的な意味が高まっていたこの時期に、「政軍分離」の世界的体制の構築と、それを保障するものとしての、SSSS (Silent Security Service from the Sea) 、また、これを経済的に補完するものとしての、「やまと保険」のアイディアは独創的であるとさえ言える。

 「やまと保険」とは、何か、ウィキペディアからその一部を引用すると以下のようなものである:

 「英国大手保険会社『ライズ』を介して日本政府が[原子力潜水艦]やまとに保険をかけ、理念に同意した各国政府を保険の引受人、国連を受取人とする。これにより軍産複合体のように戦争が利益を生む構造ではなく、平和が利益を生む構造へシフトさせ、結果的に軍事バランスとも条約とも無関係に平和関係が成立する、新しい安全保障体制である。国連の沈黙の艦隊実行委員長となった、[民自党のハト派派閥である鏡水会の幹事である]大滝曰く『平和を金で買う』保険であり、彼は世界市民一人一人に1ドルからの株主を募り、配当として世界の核兵器廃絶と軍備永久放棄を目指す株式会社を設立することを提唱した。」

 国連が核武装をした原子力潜水艦部隊を就役させ、「やまと保険」で世界市民一人一人を参与させてその経済的担保とするというのは、喩えそれがマンガチックであっても、アイディアとしてはオリジナルティーがあり、これは、日米間の二国間軍事同盟という枠組みと、核兵器に絡む、現在の日本の状況、即ち、核拡散防止条約には批准していながら、唯一の核被爆国としては核兵器禁止条約には参加していない矛盾した政治状況を越える政治的選択肢になり得る。何れにしても、この原作漫画は、『攻殻機動隊』と並んで、読者の政治的好奇心を十二分に満足されてくれる作品であろう。

2025年4月26日土曜日

バスカヴィル家の犬(イギリス、1959年作)監督:テレンス・フィシャー

 「エロ、グロ、ナンセンス」とは、1930年代の日本における大衆文化の傾向を端的にまとめた表現である。イギリスのB級映画製作会社Hammer Film Productionsによる本作の「嗜好」をこれになぞらえるならば、「エロ、グロ、エレメンタリー」ということになろうか。

 本作の映画素材がTechnicolorであることに若干の驚きを隠せないところであるが、Holmes映画初のカラー作品たる本作の終盤に藤色のロングドレスを着て登場するセシル嬢が、本作の「エロ」の部分を表しているであろうか。少々言い過ぎのところがあるかもしれないが、それでもそう言えるのは、セシル嬢は、初対面のサー・ヘンリー・バスカヴィル準男爵から接吻を自分から奪うからである。Chr. Lee演じるところのサー・ヘンリーは早速セシル嬢に悩殺されてしまう。(準男爵とは、英語でBaronetで、この世襲爵位で最下位の爵位は、Knightより上位で、Baronより下位にあるものである。身分は貴族ではなく平民で、敬称は「サー」である。但し、サー・ヘンリー、乃至サー・ヘンリー・バスカヴィルはありではあるが、姓のみの「サー・バスカヴィル」とは呼称されない身分であると言う。)

 それでは、「グロ」の方であるが、こちらはイギリスの伝統的ゴシック小説の作法に則って、魔の大型ハウンド犬にまつわる伝承が本作の序盤に登場する。このケルベロスの魔犬が夜に目を光らせて、呪われたバスカヴィル家の人間を襲うというのである。

 そして、本作は名探偵Sherlock Holmesホルムズが主役を演じる探偵映画であるから、当然に「elementary」ということになろう。「ナンセンス」よりは、合理的推理能力が基本であるからである。因みに、よく言われて名台詞になっている「Elementary, my dear Watson.」は、あるサイトによると、Conan Doyleコウナン=ドイル氏の作品に一度も登場したことがないそうである。

 何れにしても本作は、ゴシック・ホラー的おどろおどろしい雰囲気を未だ漂わせる19世紀末イングランドを背景として、犯人捜しの醍醐味は余りないのでこれは無理として、Hammer Film Productionsの大スターPeter Cushingが演じるところのSherlock Holmesなる人物の、殆んど「超人」の如き性格的特異性を「愉しむ」べき作品であると筆者は言いたい。

 さて、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズは、その元々の設立は、1934年であったが、一時期の中断などがあり、戦後の1949年に再創立された。1955年に発表したSFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせると、「Hammer Horror」のブランドが生まれた。この成功を見て、1930年代から1940年代にかけて怪奇映画のブームを作ったUSAのユニバーサル映画社がその再来を期待して、古典派ホラー映画のリメイクをHammer Filmの方に打診したのである。こうした経緯もあって、Hammer Filmは、1957年にワーナー・ブラザースからの出資を受けて、ユニバーサル・ホラーの代表作とも言われる『フランケンシュタイン』(1931年作)のカラー版リメイクを撮る。これが、『フランケンシュタインの逆襲』(1957年作)であった。この作品の監督が、Terence Fisherテレンス・フィッシャーで、フランケンシュタイン男爵役にはPeter Cushing、そして、人造モンスター役にChr. Leeが起用された。このカラー・リメイク版は、その残酷性とグロテスク性で、試写会では懸念が表明されたのであるが、公開されると、一挙に世界的なヒットを記録する。この好結果を受けて、Hammer Filmは続けて、ユニバーサル・ホラーの第一作目であった『魔人ドラキュラ』(1931年作)のリメイクとして、『吸血鬼ドラキュラ』(1958年作)を撮る。これも大ヒットとなり、この二作の成功により、Hammer Filmはホラー映画製作会社として約10年間、世界の映画界に君臨することになる。そのHammer Horror映画が、1959年にFisher, Cushing, Leeの「黄金トリオ」で撮った作品が、本作である。

 元々はテレビ映画畑のPeter Cushingは、上述の『フランケンシュタインの逆襲』で狂気の科学者フランケンシュタイン男爵を演じて、映画界のスターとなり、『吸血鬼ドラキュラ』では、「正義の吸血鬼ハンター」・ヴァン・ヘルシングを演じており、二作とも、狂気であるかは別として、何かについて専門的知識を持った人間を体現している。その意味で、本作での役Sherlock Holmesも、犯罪に関しての専門的知識を持っており、前二作と同系統の人間像を体現していると言えるであろう。この専門性に、Holmesの場合、更に、鋭い観察力、鋭利な分析力、そして、透徹した推理力が加わる。そして、これらの性格を、Peter Cushingの鷲を思わせる鋭い眼光と尖った鼻先がよく形象している。この意味で、この配役は、正にキャスティングの勝利であると言える。因みに、Holmesのトレード・マークとも言える、1.鹿撃ち帽(deerstalker hat:頭の上にあるリボンを外すと、両耳を覆うことが出来、また、前と後ろの庇があるので、キャップではなく、ハット )、2.インヴァ―ネス・コート(Inverness coat:ケープ付きの丈の長いスコットランド風コート)、そして、3.Calabash Pipe(瓢箪から作ったパイプで、柄から吸い口の部分が強く曲がっている形のベント・タイプのパイプ)も、イングランド人俳優Peter Cushingによく似合う。

 1859年にスコットランドで生まれ、自身をむしろ歴史小説家と自認していたArthur Conan Doyleは、医業の傍ら、小説を書いていた。こうして、彼はある時Sherlock Holmesなる人物を主役とする探偵小説を書き上げる。その第一作目が『緋色の研究』(1887年発表)という二部に分れた長編小説である。第一部では、医師Watsonが探偵Sherlock Holmesと知り合う経過とロンドンで起こった事件が描かれ、第二部では、その事件が起こった遠因がUSAにあることが語られるという趣向である。Conan Doyleは、この三年後、Sherlock Holmesシリーズの第二作目の長編『四つの署名』を発表する。この作品も二部構成で、第一部では、大英帝国陸軍大尉の娘メアリー・モースタン嬢の登場とロンドンでのある殺人事件が、第二部では、その殺人事件の遠因となる、インドでの大英帝国派遣軍での出来事が語られる。(話しの終わりには、めでたく美貌のモースタン嬢とDr.ワトスンが結ばれる。)

 以上の二冊は余り評判にもならず、Conan Doyleは、1890年にベルリンでの医学会議に参加したりしたが、1891年には何を思ったか、資格もないのに眼科医としてロンドンで開業をし始める。しかし、資格がないのであるから、患者が彼の診療所に来るわけもなく、暇に暇を重ねている内に、ある月刊誌のために、Sherlock Holmesを主人公とした連載短編小説を書くことにする。これが意外にも当たって大人気となり、歴史小説家としてのConan Doyleは困惑するものの、結局は、12編を書く次第となる。これが、短編集『シャーロック・ホームズの冒険』として1892年に単行本として発刊される。更に、二年後には第二の短編集『シャーロック・ホームズの回想』(1894年発表)が出されるが、本来、歴史小説家して自負しているConan Doyleとしては、シャーロック・ホームズの人気は自分の意とするところではなかったので、彼は、1893年12月号の短編『最後の事件』でシャーロック・ホームズが格闘の末、滝つぼに落ちて亡くなったことにしてしまったのである。

 1894年以降は、再び歴史小説家として、ナポレオン戦争時代をテーマとした『ジェラール准将』を書き、それなりの販売数には達したものの、『シャーロック・ホームズ』ものの人気には及ばず、時代は世紀末を迎える。それは、国際政治的には、1899年に勃発した「ボーア戦争」を意味し、この植民地主義戦争は、大英帝国の威信に関わるものとなった。なぜなら、この戦争において、歴史上初めて、大国による戦争犯罪が問題視されたからである。ウィキペディアに挙げられている箇所をここに引用しておく:
 「...ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた。民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した...1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている...イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった...」

 「焦土作戦」は、独ソ戦におけるソ連軍側の作戦でもあったとしても、「強制収容所」はナチス・ドイツの政策であり、これと同じことを世紀末前後の大英帝国軍を行なっていたことは、強く記憶に留めたいところであるが、このような状況に対しての、Conan Doyleの、1902年3月の『ボーア戦争における原因と行ない』での反論も興味深い:

 「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ(であり、)責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある。...(さらに、強制収容所については)焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない。...(また、イギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については)いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ...」と大英帝国を擁護したのである。

 この帝国主義戦争擁護の小冊子は、イギリスで大きな反響を呼ぶこととなり、その「愛国主義的な」活動に対して、Conan Doyleは、1902年10月に国王エドワードVII世より、Knight Bachelorに叙されたのであった。

 この間、ボーア戦争に志願したのにもかかわらず、年齢を理由に軍隊には入れず、仕方がないので、自由意志で戦地医療奉仕団の一員として志願して、Conan Doyleは、1900年3月に他の医師と共に軍医として戦地に赴く。約四ヶ月で帰国し、『大ボーア戦争』を執筆し、10月には総選挙に戦争支持派で出馬し、落選する。

 こういう政治的な動きのある時期に、1901年3月、Conan Doyleは、戦地で罹った腸チフスの後遺症に悩まされていたことから、ノーフォーク州に行って、療養していたのであるが、その時に、ボーア戦争で知り合ったジャーナリストの知人バートラム・F.ロビンソンと再会し、彼から、彼の出身地Dartmoorで言い伝えられている「黒い魔犬」についての伝説を聞いたのである。Dartmoorは、ロンドンより西に行き、その最西端にあるCornwoll半島の中央部にあるCounty(州)である。

 この伝承に着想に得て書き上げたのが本作と同名の原作である。この原作の執筆の際には、Conan Doyleは、Dartmoorに調査に行っていると言う。Dartmoorとは、泥炭の厚い層に覆われた原野や、底なし沼ともなる湿地(Moorムーア)からなる、平均標高約520mの高地で、ヒツジや子馬の放牧の他、花崗岩や陶土の採掘が行なわれた地域である。このDartmoorの中央にはPrincetownプリンスタウンがあり、ここには、1806年には、対仏戦争の絡みで、この地に刑務所が建設され、ナポレオン戦争の際のフランス人捕虜をここに収容したと言う。本作でも、ある刑務所を脱走した「凶悪犯」のプロットが出てくるが、これは、この刑務所のことを言っているのである。Conan Doyleの現地調査が原作のプロット展開に上手く働いた結果である。

 こうして、Sherlock Holmesシリーズの長編第三作目『バスカヴィル家の魔犬』が20世紀に入った初年の1901年に発刊されたのである。一度死なせたことになっていたSherlock Holmesは、生き返させるわけにはいかないので、事件が起こった年をその死の以前とし、それを以って、Sherlock Holmesは、問題なく再び、活躍することが出来たという訳である。

2025年4月20日日曜日

壮烈第六軍!:最後の戦線(西ドイツ、1959年作)監督:フランク・ヴィスバール

 1950年代に入ると、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)でも第二次世界大戦をテーマとした戦争映画が撮られるようになるが、一部には、戦時中のナチスドイツ国防軍の戦いぶりをあたかも正当化しようとするような描き方がないでもなかった。そのよい例が、『激戦モンテカシノ』(ドイツ語原題:「モンテカシノの緑色の悪魔」;Harald Reinlハラルト・ラインル監督、1958年制作)であろう。イタリアのモンテカシノ僧院に疎開してあった多数の美術品を、USA軍の攻撃の前に救うために努力するドイツ国防軍の将校・兵隊の姿が描かれる。モンテカシノ山はドイツ国防軍第1落下傘兵師団が守備をしている陣地であり、落下傘兵の兵科の色は緑色であった。そこからこの「緑の悪魔」という異名が付いた訳である。

 この時期には、未だ、「清潔な」国防軍というイメージは生きており、このような作品が、確かに一部は歴史的事実に基づくストーリーでもあることから、制作することが可能であった。しかし、この「清潔な」国防軍のイメージは、遅くとも1990年代には崩れる。第二次世界大戦中の歴史を検証する90年代の作業の中で、ドイツ国防軍も、ナチス党とその下部組織、例えば親衛隊などと同様に、とりわけ東部戦線においては組織的に戦争犯罪を行なっていたことが判明したからである。

 このような1950年代の西ドイツの戦争映画と比較すると、本作ははっきりと戦争指導部を批判しており、その意味で、本作が反戦映画であると考えてよいであろう。そして、このような明確な反戦映画が撮り得たのは、一重に監督Frank Wisbarの意志によるところが大きい。プロイセン王国の幼年学校を出ている彼は、軍隊が何たるところであるかは肌身に感じていたはずである。その彼が、やはり、映画畑に進出し、ナチスの文化担当者と映画制作の方針で対立したこと、そして、自分の妻が非アーリア人であったことから、1938年11月の反ユダヤ主義のポグローム「水晶の夜」を以って、妻とUSAに亡命したことは、彼の政治的潔癖性を証左する証拠であったと言える。

 そのFrank Wisbarが50年代の半ばに映画制作の成功者としてUSAから西ドイツに戻ってきたことは、ドイツの映画産業界での彼の活動に有利に働いたことは確かであろう。こうして、彼は、言わば「戦争もの」四本を撮り始める。その最初が、本作の前年の58年に発表した『サメと小魚』というU-ボート映画であった。そして、1960年には四作目に当たる『将校達の工場』を発表している。この四作目の映画は、自分の幼年学校時代の経験を生かした、ナチス時代の士官学校をテーマとした作品であった。

 本作の原作となるFrank Wössフランク・ヴェスの『Hunde, wollt ihr ewig leben』が発表されたのが、1957年である。この原作が出て、恐らくFrank Wisbarは、早速映画化の権利を交渉したであろうが、それは、自作の『サメと小魚』の制作の構想を練っていた時期か、或いは、その撮影に取り掛かっていた時期であった。そして、ウィキペディアのよると、本作の脚本作成には二年が掛かっているということであり、Frank Wisbarは、脚本共同作成者Frank Dimen (フランク・ディーメン)とHeinz Schröter (ハインツ・シュレーター)と綿密にスタリーングラード攻防戦を調べ上げたと言う。尚、H.シュレーターも本作の原案となる『スタリーングラードからの最後の命令』を書いていると言う。

 可能な限り史実に基づいて本作を撮りたいという、三人の脚本作成者の願いは、まずは、戦時中に映画館で上映された週間時事ニュースを出来るだけ使おうというところに現れていると言える。ストーリー展開に合うような場面を探し出すのは、大変な作業であったろうことは想像に難くないが、探し出したそれらの場面を細かくつなぎ合せた、女性編集担当のMartha Dübberマルタ・デュバー女史の並々ならぬ苦労も如何ばかりであったかと思われる。

 この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。

 また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。

 本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。

2025年4月13日日曜日

軍法会議(USA、1955年作)監督:オットー・プレミンジャー

 ポスターに軍服を着たG.クーパーが見えるので、本作は戦争映画ではないかと思ったら、それは間違いである。本作の題名『軍法会議』(原題:The Court-Martial of Billy Mitchell)が正しくも暗示するように、本作は、法廷劇である。そして、本作は、法廷劇を描くことで、「Air Forceアメリカ空軍の父」と言われるBilly Mitchellの人柄とそのヴィジョンが如何に正しかったかを明らかにする作品である。

 どの程度かは知る由もないが、ある程度は(Mitchellのことをウィキペディアで読んでみると、「可成り」)理想化されているB. Mitchell像を、善良な優等生ながら、内には人間的威厳を秘めた人間を演じさせるには持って来いの役者G.クーパーが体現している。しかも、本作では、Mitchellが自分の持ったヴィジョンに対して如何に確信的であったか、そして、彼がその確信に対して如何に堅固であったかという本人の性格性が加味されている。

 このヴィジョンと信念の人Billy Mitchellを「審問」するのが、ロッド・スタイガーが名演している辣腕の軍事法律家Guillionギヨン少佐で、彼が、その巧妙な論述で、軍律を破り、(上官に対する)軍人的忠誠心に欠けたと言うMitchellの「罪」を暴きだすのである。愛国に基づく自己の信念と、それに対立する軍人的忠誠心を巡るこの論争場面こそが本作のクライマックスである。論戦の醍醐味という点で、本作は、法廷劇の、知的であるが、スリリングな展開を満喫させてくれる。

 監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。

 さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。

 それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。

 William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。

 父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。

 1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。

 既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。

 フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。

 こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。

 19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。

 その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。

 さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。

 これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。

 US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。

 同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。

 海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。

 しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。

 22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)

 また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。

 丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。

 そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。

 こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。

 Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。

 仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。

2025年4月6日日曜日

ベルリン物語(西ドイツ、1948年作)監督:ロベルト A. シュテムレ

 本作の脚本を書いているGünter Neumannギュンター・ノイマンは、1913年にベルリンで生まれた。彼は、ギムナジウム卒業後、音楽大学で勉学するが、1929年以降、Kabarett der Komikerカバレット デア コーミカーという小芸術劇場で、「鍵盤上のコメディアン」として活動する。W. Finckらが29年に創設した「Die Katakombe」でもG. Neumannは中心的な役割を演じ、上演演目の設定役を勤める。ナチス政権の抑圧により「Katakombe」が上演活動が出来なくなると、G. Neumannは、再び、Kabarett der Komikerに戻り、そこでレヴュー演目を上演する。第二次世界大戦が始まると、前線慰問活動を行なったり、連合軍の捕虜になると、収容所劇団を結成したりした。

 終戦と伴に、G. Neumannはベルリンに戻ってくるが、当地で早速、小芸術劇場の演目の作家として活動し始め、レヴュー作品『すべてが演技』(47年作)と『Schwarzer Jahrmarkt闇の歳の市』(48年作)で当たり作を書く。この『闇の歳の市』が本作の原作になっている。

 本作にもプロットとして一時出てくる「ベルリン封鎖」の時期(48年から49年に掛けて)には、G. Neumannは、西ベルリンで風刺雑誌『Insulaner島国の住人』を編纂し、これを受けて、ラジオ放送番組「Die Insulaner」を制作し、これが、RIAS(リアス:Rundfunk im amerikanischen Sektorアメリカ・セクターの放送局)の大好評人気番組となる。「島国」とは、ソ連軍管理下にある東ベルリンと東部ドイツに囲まれた「陸の孤島」のような西ベルリンのことを指しており、そのような西ベルリン市民の日常を東西冷戦の枠組みの文脈の中で面白可笑しく描いたものであった。G. Neumannは、本作の脚本を書く前には、既にナチス政権時代の1939年に一本脚本を書いており、翌年には、レヴュー映画の音楽とそれへの歌詞を書いている。本作以後は、とりわけ、音楽映画のために曲と作詞を書いて、1960年代後半まで活動した。

 本作でも、歌が歌われる場面が数回あり、これらは作詞を含めてG. Neumannの創作である。とりわけ、本作の後半、「女六人に男一人の割合」の妄想に囚われてOttoがベルリンの街中を歩くと、丁度六人のベルリン女性に言い寄られる場面があるが、これは、歌あり、踊りありの、正にレヴュー映画的な場面である。

 それでは、最後に、本作の原作となったG. Neumannの『Schwarzer Jahrmarkt』について述べておこう。

 まず、題名であるが、これは、Schwarzmarkt(闇市)とJahrmarkt(歳の市)を掛け合わせたものである。「Marktマルクト」は、週毎に市場で開かれる市(いち)であるが、年に二回は、大きな市が開催される。日本語の「歳の市」は冬に開かれる大きな市であるが、ドイツでは、夏と冬に大きな市が開催される。故に、そのような大きな市のことを「Jahrmarkt」と呼び、ここに沢山の出店が出て、また、食べ物屋や催し物の店も出る訳である。

 戦後のドイツは、日本と同様に、敗戦に伴ない、物資不足から、当然に「闇市」が横行する。この人間の欲望が剝き出しになる「闇市」に、庶民の生活と直結した「歳の市」の風物を掛け合わせて、このレヴュー作品は、歌と踊りを間に入れながら、敗戦直後のドイツの風景を22のスケッチとして描いた訳である。そこから、この作品の副題には、「Eine Revue der Stunde Null」(時間ゼロの一つのレヴュー)が付けられている。「Stunde Nullシュトゥンデ ヌル」とは、軍事的、政治的、道義的破綻を受けて、ドイツがゼロから始めなければならないという標語のような言葉であり、これは、日本における「一億総懺悔」とニュアンスが異なるが、これと似たような概念である。

 この出し物は、ベルリンの小芸術劇場「Ulenspiegel」(Ulenspiegelは、Eulenspiegelオイレンシュピーゲルの低地ドイツ語の別形)で1947年12月頭から上演され、本作に登場するHans Deppeや、G. Neumannの妻で、本作でも脇役を演じているTatjana Saisなどが出演している。スケッチでは、復員兵、反動的保守主義者などが取り扱われるが、本作のOttoに当たる「Herr Häufigヘア ホイフィヒ」(「度々」さん)がここでは登場する。本作の題名「Otto Normalverbraucher」も「一般消費者オットー」を意味し、本作が批評からも大衆からも支持されたヒット作品となったことから、題名自体が、ドイツ語辞書に採用され、現在でも通用している言葉となっている。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...