2025年4月26日土曜日

バスカヴィル家の犬(イギリス、1959年作)監督:テレンス・フィシャー

 「エロ、グロ、ナンセンス」とは、1930年代の日本における大衆文化の傾向を端的にまとめた表現である。イギリスのB級映画製作会社Hammer Film Productionsによる本作の「嗜好」をこれになぞらえるならば、「エロ、グロ、エレメンタリー」ということになろうか。

 本作の映画素材がTechnicolorであることに若干の驚きを隠せないところであるが、Holmes映画初のカラー作品たる本作の終盤に藤色のロングドレスを着て登場するセシル嬢が、本作の「エロ」の部分を表しているであろうか。少々言い過ぎのところがあるかもしれないが、それでもそう言えるのは、セシル嬢は、初対面のサー・ヘンリー・バスカヴィル準男爵から接吻を自分から奪うからである。Chr. Lee演じるところのサー・ヘンリーは早速セシル嬢に悩殺されてしまう。(準男爵とは、英語でBaronetで、この世襲爵位で最下位の爵位は、Knightより上位で、Baronより下位にあるものである。身分は貴族ではなく平民で、敬称は「サー」である。但し、サー・ヘンリー、乃至サー・ヘンリー・バスカヴィルはありではあるが、姓のみの「サー・バスカヴィル」とは呼称されない身分であると言う。)

 それでは、「グロ」の方であるが、こちらはイギリスの伝統的ゴシック小説の作法に則って、魔の大型ハウンド犬にまつわる伝承が本作の序盤に登場する。このケルベロスの魔犬が夜に目を光らせて、呪われたバスカヴィル家の人間を襲うというのである。

 そして、本作は名探偵Sherlock Holmesホルムズが主役を演じる探偵映画であるから、当然に「elementary」ということになろう。「ナンセンス」よりは、合理的推理能力が基本であるからである。因みに、よく言われて名台詞になっている「Elementary, my dear Watson.」は、あるサイトによると、Conan Doyleコウナン=ドイル氏の作品に一度も登場したことがないそうである。

 何れにしても本作は、ゴシック・ホラー的おどろおどろしい雰囲気を未だ漂わせる19世紀末イングランドを背景として、犯人捜しの醍醐味は余りないのでこれは無理として、Hammer Film Productionsの大スターPeter Cushingが演じるところのSherlock Holmesなる人物の、殆んど「超人」の如き性格的特異性を「愉しむ」べき作品であると筆者は言いたい。

 さて、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズは、その元々の設立は、1934年であったが、一時期の中断などがあり、戦後の1949年に再創立された。1955年に発表したSFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせると、「Hammer Horror」のブランドが生まれた。この成功を見て、1930年代から1940年代にかけて怪奇映画のブームを作ったUSAのユニバーサル映画社がその再来を期待して、古典派ホラー映画のリメイクをHammer Filmの方に打診したのである。こうした経緯もあって、Hammer Filmは、1957年にワーナー・ブラザースからの出資を受けて、ユニバーサル・ホラーの代表作とも言われる『フランケンシュタイン』(1931年作)のカラー版リメイクを撮る。これが、『フランケンシュタインの逆襲』(1957年作)であった。この作品の監督が、Terence Fisherテレンス・フィッシャーで、フランケンシュタイン男爵役にはPeter Cushing、そして、人造モンスター役にChr. Leeが起用された。このカラー・リメイク版は、その残酷性とグロテスク性で、試写会では懸念が表明されたのであるが、公開されると、一挙に世界的なヒットを記録する。この好結果を受けて、Hammer Filmは続けて、ユニバーサル・ホラーの第一作目であった『魔人ドラキュラ』(1931年作)のリメイクとして、『吸血鬼ドラキュラ』(1958年作)を撮る。これも大ヒットとなり、この二作の成功により、Hammer Filmはホラー映画製作会社として約10年間、世界の映画界に君臨することになる。そのHammer Horror映画が、1959年にFisher, Cushing, Leeの「黄金トリオ」で撮った作品が、本作である。

 元々はテレビ映画畑のPeter Cushingは、上述の『フランケンシュタインの逆襲』で狂気の科学者フランケンシュタイン男爵を演じて、映画界のスターとなり、『吸血鬼ドラキュラ』では、「正義の吸血鬼ハンター」・ヴァン・ヘルシングを演じており、二作とも、狂気であるかは別として、何かについて専門的知識を持った人間を体現している。その意味で、本作での役Sherlock Holmesも、犯罪に関しての専門的知識を持っており、前二作と同系統の人間像を体現していると言えるであろう。この専門性に、Holmesの場合、更に、鋭い観察力、鋭利な分析力、そして、透徹した推理力が加わる。そして、これらの性格を、Peter Cushingの鷲を思わせる鋭い眼光と尖った鼻先がよく形象している。この意味で、この配役は、正にキャスティングの勝利であると言える。因みに、Holmesのトレード・マークとも言える、1.鹿撃ち帽(deerstalker hat:頭の上にあるリボンを外すと、両耳を覆うことが出来、また、前と後ろの庇があるので、キャップではなく、ハット )、2.インヴァ―ネス・コート(Inverness coat:ケープ付きの丈の長いスコットランド風コート)、そして、3.Calabash Pipe(瓢箪から作ったパイプで、柄から吸い口の部分が強く曲がっている形のベント・タイプのパイプ)も、イングランド人俳優Peter Cushingによく似合う。

 1859年にスコットランドで生まれ、自身をむしろ歴史小説家と自認していたArthur Conan Doyleは、医業の傍ら、小説を書いていた。こうして、彼はある時Sherlock Holmesなる人物を主役とする探偵小説を書き上げる。その第一作目が『緋色の研究』(1887年発表)という二部に分れた長編小説である。第一部では、医師Watsonが探偵Sherlock Holmesと知り合う経過とロンドンで起こった事件が描かれ、第二部では、その事件が起こった遠因がUSAにあることが語られるという趣向である。Conan Doyleは、この三年後、Sherlock Holmesシリーズの第二作目の長編『四つの署名』を発表する。この作品も二部構成で、第一部では、大英帝国陸軍大尉の娘メアリー・モースタン嬢の登場とロンドンでのある殺人事件が、第二部では、その殺人事件の遠因となる、インドでの大英帝国派遣軍での出来事が語られる。(話しの終わりには、めでたく美貌のモースタン嬢とDr.ワトスンが結ばれる。)

 以上の二冊は余り評判にもならず、Conan Doyleは、1890年にベルリンでの医学会議に参加したりしたが、1891年には何を思ったか、資格もないのに眼科医としてロンドンで開業をし始める。しかし、資格がないのであるから、患者が彼の診療所に来るわけもなく、暇に暇を重ねている内に、ある月刊誌のために、Sherlock Holmesを主人公とした連載短編小説を書くことにする。これが意外にも当たって大人気となり、歴史小説家としてのConan Doyleは困惑するものの、結局は、12編を書く次第となる。これが、短編集『シャーロック・ホームズの冒険』として1892年に単行本として発刊される。更に、二年後には第二の短編集『シャーロック・ホームズの回想』(1894年発表)が出されるが、本来、歴史小説家して自負しているConan Doyleとしては、シャーロック・ホームズの人気は自分の意とするところではなかったので、彼は、1893年12月号の短編『最後の事件』でシャーロック・ホームズが格闘の末、滝つぼに落ちて亡くなったことにしてしまったのである。

 1894年以降は、再び歴史小説家として、ナポレオン戦争時代をテーマとした『ジェラール准将』を書き、それなりの販売数には達したものの、『シャーロック・ホームズ』ものの人気には及ばず、時代は世紀末を迎える。それは、国際政治的には、1899年に勃発した「ボーア戦争」を意味し、この植民地主義戦争は、大英帝国の威信に関わるものとなった。なぜなら、この戦争において、歴史上初めて、大国による戦争犯罪が問題視されたからである。ウィキペディアに挙げられている箇所をここに引用しておく:
 「...ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた。民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した...1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている...イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった...」

 「焦土作戦」は、独ソ戦におけるソ連軍側の作戦でもあったとしても、「強制収容所」はナチス・ドイツの政策であり、これと同じことを世紀末前後の大英帝国軍を行なっていたことは、強く記憶に留めたいところであるが、このような状況に対しての、Conan Doyleの、1902年3月の『ボーア戦争における原因と行ない』での反論も興味深い:

 「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ(であり、)責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある。...(さらに、強制収容所については)焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない。...(また、イギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については)いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ...」と大英帝国を擁護したのである。

 この帝国主義戦争擁護の小冊子は、イギリスで大きな反響を呼ぶこととなり、その「愛国主義的な」活動に対して、Conan Doyleは、1902年10月に国王エドワードVII世より、Knight Bachelorに叙されたのであった。

 この間、ボーア戦争に志願したのにもかかわらず、年齢を理由に軍隊には入れず、仕方がないので、自由意志で戦地医療奉仕団の一員として志願して、Conan Doyleは、1900年3月に他の医師と共に軍医として戦地に赴く。約四ヶ月で帰国し、『大ボーア戦争』を執筆し、10月には総選挙に戦争支持派で出馬し、落選する。

 こういう政治的な動きのある時期に、1901年3月、Conan Doyleは、戦地で罹った腸チフスの後遺症に悩まされていたことから、ノーフォーク州に行って、療養していたのであるが、その時に、ボーア戦争で知り合ったジャーナリストの知人バートラム・F.ロビンソンと再会し、彼から、彼の出身地Dartmoorで言い伝えられている「黒い魔犬」についての伝説を聞いたのである。Dartmoorは、ロンドンより西に行き、その最西端にあるCornwoll半島の中央部にあるCounty(州)である。

 この伝承に着想に得て書き上げたのが本作と同名の原作である。この原作の執筆の際には、Conan Doyleは、Dartmoorに調査に行っていると言う。Dartmoorとは、泥炭の厚い層に覆われた原野や、底なし沼ともなる湿地(Moorムーア)からなる、平均標高約520mの高地で、ヒツジや子馬の放牧の他、花崗岩や陶土の採掘が行なわれた地域である。このDartmoorの中央にはPrincetownプリンスタウンがあり、ここには、1806年には、対仏戦争の絡みで、この地に刑務所が建設され、ナポレオン戦争の際のフランス人捕虜をここに収容したと言う。本作でも、ある刑務所を脱走した「凶悪犯」のプロットが出てくるが、これは、この刑務所のことを言っているのである。Conan Doyleの現地調査が原作のプロット展開に上手く働いた結果である。

 こうして、Sherlock Holmesシリーズの長編第三作目『バスカヴィル家の魔犬』が20世紀に入った初年の1901年に発刊されたのである。一度死なせたことになっていたSherlock Holmesは、生き返させるわけにはいかないので、事件が起こった年をその死の以前とし、それを以って、Sherlock Holmesは、問題なく再び、活躍することが出来たという訳である。

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