どの程度かは知る由もないが、ある程度は(Mitchellのことをウィキペディアで読んでみると、「可成り」)理想化されているB. Mitchell像を、善良な優等生ながら、内には人間的威厳を秘めた人間を演じさせるには持って来いの役者G.クーパーが体現している。しかも、本作では、Mitchellが自分の持ったヴィジョンに対して如何に確信的であったか、そして、彼がその確信に対して如何に堅固であったかという本人の性格性が加味されている。
このヴィジョンと信念の人Billy Mitchellを「審問」するのが、ロッド・スタイガーが名演している辣腕の軍事法律家Guillionギヨン少佐で、彼が、その巧妙な論述で、軍律を破り、(上官に対する)軍人的忠誠心に欠けたと言うMitchellの「罪」を暴きだすのである。愛国に基づく自己の信念と、それに対立する軍人的忠誠心を巡るこの論争場面こそが本作のクライマックスである。論戦の醍醐味という点で、本作は、法廷劇の、知的であるが、スリリングな展開を満喫させてくれる。
監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。
さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。
それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。
William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。
父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。
1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。
既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。
フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。
こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。
19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。
その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。
さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。
これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。
US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。
同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。
海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。
しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。
22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)
また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。
丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。
そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。
こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。
Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。
仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。
監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。
さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。
それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。
William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。
父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。
1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。
既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。
フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。
こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。
19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。
その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。
さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。
これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。
US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。
同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。
海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。
しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。
22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)
また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。
丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。
そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。
こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。
Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。
仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。
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