本作の脚本を書いているGünter Neumannギュンター・ノイマンは、1913年にベルリンで生まれた。彼は、ギムナジウム卒業後、音楽大学で勉学するが、1929年以降、Kabarett der Komikerカバレット デア コーミカーという小芸術劇場で、「鍵盤上のコメディアン」として活動する。W. Finckらが29年に創設した「Die Katakombe」でもG. Neumannは中心的な役割を演じ、上演演目の設定役を勤める。ナチス政権の抑圧により「Katakombe」が上演活動が出来なくなると、G. Neumannは、再び、Kabarett der Komikerに戻り、そこでレヴュー演目を上演する。第二次世界大戦が始まると、前線慰問活動を行なったり、連合軍の捕虜になると、収容所劇団を結成したりした。
終戦と伴に、G. Neumannはベルリンに戻ってくるが、当地で早速、小芸術劇場の演目の作家として活動し始め、レヴュー作品『すべてが演技』(47年作)と『Schwarzer Jahrmarkt闇の歳の市』(48年作)で当たり作を書く。この『闇の歳の市』が本作の原作になっている。
本作にもプロットとして一時出てくる「ベルリン封鎖」の時期(48年から49年に掛けて)には、G. Neumannは、西ベルリンで風刺雑誌『Insulaner島国の住人』を編纂し、これを受けて、ラジオ放送番組「Die Insulaner」を制作し、これが、RIAS(リアス:Rundfunk im amerikanischen Sektorアメリカ・セクターの放送局)の大好評人気番組となる。「島国」とは、ソ連軍管理下にある東ベルリンと東部ドイツに囲まれた「陸の孤島」のような西ベルリンのことを指しており、そのような西ベルリン市民の日常を東西冷戦の枠組みの文脈の中で面白可笑しく描いたものであった。G. Neumannは、本作の脚本を書く前には、既にナチス政権時代の1939年に一本脚本を書いており、翌年には、レヴュー映画の音楽とそれへの歌詞を書いている。本作以後は、とりわけ、音楽映画のために曲と作詞を書いて、1960年代後半まで活動した。
本作でも、歌が歌われる場面が数回あり、これらは作詞を含めてG. Neumannの創作である。とりわけ、本作の後半、「女六人に男一人の割合」の妄想に囚われてOttoがベルリンの街中を歩くと、丁度六人のベルリン女性に言い寄られる場面があるが、これは、歌あり、踊りありの、正にレヴュー映画的な場面である。
それでは、最後に、本作の原作となったG. Neumannの『Schwarzer Jahrmarkt』について述べておこう。
まず、題名であるが、これは、Schwarzmarkt(闇市)とJahrmarkt(歳の市)を掛け合わせたものである。「Marktマルクト」は、週毎に市場で開かれる市(いち)であるが、年に二回は、大きな市が開催される。日本語の「歳の市」は冬に開かれる大きな市であるが、ドイツでは、夏と冬に大きな市が開催される。故に、そのような大きな市のことを「Jahrmarkt」と呼び、ここに沢山の出店が出て、また、食べ物屋や催し物の店も出る訳である。
戦後のドイツは、日本と同様に、敗戦に伴ない、物資不足から、当然に「闇市」が横行する。この人間の欲望が剝き出しになる「闇市」に、庶民の生活と直結した「歳の市」の風物を掛け合わせて、このレヴュー作品は、歌と踊りを間に入れながら、敗戦直後のドイツの風景を22のスケッチとして描いた訳である。そこから、この作品の副題には、「Eine Revue der Stunde Null」(時間ゼロの一つのレヴュー)が付けられている。「Stunde Nullシュトゥンデ ヌル」とは、軍事的、政治的、道義的破綻を受けて、ドイツがゼロから始めなければならないという標語のような言葉であり、これは、日本における「一億総懺悔」とニュアンスが異なるが、これと似たような概念である。
この出し物は、ベルリンの小芸術劇場「Ulenspiegel」(Ulenspiegelは、Eulenspiegelオイレンシュピーゲルの低地ドイツ語の別形)で1947年12月頭から上演され、本作に登場するHans Deppeや、G. Neumannの妻で、本作でも脇役を演じているTatjana Saisなどが出演している。スケッチでは、復員兵、反動的保守主義者などが取り扱われるが、本作のOttoに当たる「Herr Häufigヘア ホイフィヒ」(「度々」さん)がここでは登場する。本作の題名「Otto Normalverbraucher」も「一般消費者オットー」を意味し、本作が批評からも大衆からも支持されたヒット作品となったことから、題名自体が、ドイツ語辞書に採用され、現在でも通用している言葉となっている。
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