この時期には、未だ、「清潔な」国防軍というイメージは生きており、このような作品が、確かに一部は歴史的事実に基づくストーリーでもあることから、制作することが可能であった。しかし、この「清潔な」国防軍のイメージは、遅くとも1990年代には崩れる。第二次世界大戦中の歴史を検証する90年代の作業の中で、ドイツ国防軍も、ナチス党とその下部組織、例えば親衛隊などと同様に、とりわけ東部戦線においては組織的に戦争犯罪を行なっていたことが判明したからである。
このような1950年代の西ドイツの戦争映画と比較すると、本作ははっきりと戦争指導部を批判しており、その意味で、本作が反戦映画であると考えてよいであろう。そして、このような明確な反戦映画が撮り得たのは、一重に監督Frank Wisbarの意志によるところが大きい。プロイセン王国の幼年学校を出ている彼は、軍隊が何たるところであるかは肌身に感じていたはずである。その彼が、やはり、映画畑に進出し、ナチスの文化担当者と映画制作の方針で対立したこと、そして、自分の妻が非アーリア人であったことから、1938年11月の反ユダヤ主義のポグローム「水晶の夜」を以って、妻とUSAに亡命したことは、彼の政治的潔癖性を証左する証拠であったと言える。
そのFrank Wisbarが50年代の半ばに映画制作の成功者としてUSAから西ドイツに戻ってきたことは、ドイツの映画産業界での彼の活動に有利に働いたことは確かであろう。こうして、彼は、言わば「戦争もの」四本を撮り始める。その最初が、本作の前年の58年に発表した『サメと小魚』というU-ボート映画であった。そして、1960年には四作目に当たる『将校達の工場』を発表している。この四作目の映画は、自分の幼年学校時代の経験を生かした、ナチス時代の士官学校をテーマとした作品であった。
本作の原作となるFrank Wössフランク・ヴェスの『Hunde, wollt ihr ewig leben』が発表されたのが、1957年である。この原作が出て、恐らくFrank Wisbarは、早速映画化の権利を交渉したであろうが、それは、自作の『サメと小魚』の制作の構想を練っていた時期か、或いは、その撮影に取り掛かっていた時期であった。そして、ウィキペディアのよると、本作の脚本作成には二年が掛かっているということであり、Frank Wisbarは、脚本共同作成者Frank Dimen (フランク・ディーメン)とHeinz Schröter (ハインツ・シュレーター)と綿密にスタリーングラード攻防戦を調べ上げたと言う。尚、H.シュレーターも本作の原案となる『スタリーングラードからの最後の命令』を書いていると言う。
可能な限り史実に基づいて本作を撮りたいという、三人の脚本作成者の願いは、まずは、戦時中に映画館で上映された週間時事ニュースを出来るだけ使おうというところに現れていると言える。ストーリー展開に合うような場面を探し出すのは、大変な作業であったろうことは想像に難くないが、探し出したそれらの場面を細かくつなぎ合せた、女性編集担当のMartha Dübberマルタ・デュバー女史の並々ならぬ苦労も如何ばかりであったかと思われる。
この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。
また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。
本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。
この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。
また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。
本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。
0 件のコメント:
コメントを投稿