2025年5月15日木曜日

あにいもうと(日本、1953年作)監督:成瀬 巳喜男

 DVDのカバーのスチール写真の構図に何故か惹かれて本作を見てしまった。普段着の和服の京マチ子が、身体の左側を下にし、両足を揃えてちょっと折った姿勢で直に畳の上に寝ている。左肘を立て、左手に頭を載せて、京マチ子は横になっているのであるが、その顔はふくれっ面であるようである。そのすぐ後ろには、森雅之が見える。彼は、何か大工職人のような服装で、頭には、よく労働者が被るキャスケット帽(レーニンが好んで被っていたので「レーニン帽」とも、乃至は、中国人民解放軍兵士が被っていたので、「人民帽」とも呼ばれる帽子)を被って、大股を開いてちゃぶ台に腰掛けている。

 この二人が兄・妹なのであるが、実は、このスチール写真のシーンは本作には出てこないので、本作を観おわって、若干、裏切られたような気もしないのではないが、この二人の京・森が、筆者にはミスマッチのキャスティングであったので、余計に残念な感じが強くなったのである。

 まず、本人二人が与える年齢と演技上の年齢が合わないように見える。室生犀星の同名原作によると、兄・伊之助は、28歳で、妹・もんは、23歳であると言う。演じている森は40歳代に、京は、少なくとも30歳代初めに見える。更に、演じている職業柄からして、京はまあまあ納得できても、森に関しては、墓石を彫る石工職人という感じではない。どっかのホワイトカラーの人間が、無理やりブルーカラーの人間をわざと「べらんめえ調」に演じている感じが滲み出てくるからである。

 そして、何よりも、室生犀星の同名原作を読んでいないので、何とも判断が付きかねるのであるが、本作の脚本を書いている女性脚本家水木洋子の手になる脚本における「あにいもうと」の「確執」の度合いに何かすっきりと来ないのである。

 川(ロケ地は多摩川)を越えて東京に働きに出たもんが、いいところの家のある坊ちゃん・大学生(堀越英二)に孕まされて里に戻ってくる。それに対して、父親でもない兄の伊之助が過剰反応する。兄自体、どこかの女給と関係があるようであり、仕事をやらせれば、いい仕事をするタイプの職人であるが、普段からまともに仕事をしているようには見えないタイプなのである。そんな彼が、妊娠して戻ってきた妹に「ふしだら」であるとは言える立場ではない。

 「いもうと」が「女」として戻ってきたことへの心理的屈折が「あに」の方にあるとすれば、親がいない家庭環境とか、親がいても兄・妹を強く結び付ける出来事とかがあったなどの、とりわけ、兄側の心理的な前提条件が本作で描かれていないと説得力がない。それ故、この兄の妹に対する過剰反応が不可解過ぎるのである。

 とは言え、他の配役はよい。伊之助ともんの父親たる赤座(山本礼三郎)は、嘗ては川仕事の人夫頭で鳴らした男ではあったが、今は、コンクリートを使って護岸工事をやる会社に仕事を取られて、近くの飲み屋で嘗てを懐かしんでくだを巻くだけである。であるから、妊娠して戻ってきた娘に説教する意気もなくなっている。ここは、この現代を描いて、それが家族に与える影響を描いて秀逸である成瀬監督の得意技であろう。

 この夫にかしずく妻・りき(浦辺粂子がいつものように好演)は、川沿いの茶店を切り回し、冬はおでんを、夏はかき氷を川沿いを歩く人々に提供し、物の仕入れには、嘗て自分の子供を育てた時に使った乳母車を使用するといった具合である。その、人生の荒波にも何か飄々とそれを受け流す、雑草のような生命力を秘めた、りきの生活力に、尊敬の念さえ起きる存在である。   

 もんとは対照的な、もんの妹のさん(久我美子)は、東京で看護学校に通っており、着実に生活設計を立てて、自分の目的に邁進するタイプの「やり手」である。このもんとさんの二人の姉妹の性格の対照も本作の面白いところである。

 さて、本作の同名原作小説であるが、こちらの方は、室生犀星が1934年に書いて『文芸春秋』に発表したものである。ウィキペディアによると、主人公の赤座もんは、室生犀星の養母・赤井ハツをモデルにしていると言う。筆者には、養母ハツの姿が伊之助の妹もんに投影されていることに、意外感を持つ。投影の対象が、伊之助の母りきではないのである。

 そこで、室生犀星の複雑な父母関係をここで照らし出してみようと思う。

 室生は、1889年に金沢市で生まれた。金沢市内には犀川が流れており、その西側に住んでいたところから、また、国府犀東という漢詩人がおり、それへの対抗心もあってか、「犀西」に、これを更に書き換えて、「犀星」とメルヘンチックにしたと言う。犀星の生まれと生立ちは、ウィキペディアに上手くまとめられているので、それを以下に引用する:

 「加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。」

 つまり、犀星は、女中の私生児として生まれ、すぐに里子に出され、養母・赤井ハツの私生児として育ち、更には七歳の時に、ハツの内縁の夫である寺の住職の養子に入ったという生立ちである。インターネットの「青空文庫」で適切な作品を見つけたので、その一部を更に引用する:

 ...母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
 「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
 「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
 「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
 「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
 「二日に一ぺんよ。」
 私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった...


 生母ハルは、相方が亡くなると、結局、小畠家から追い出され、その行方が分からなくなってしまう。故に、犀星は、母ハルには永遠の憧憬を持ち続けたようである。これに対して、養母の赤井ハツについては、同じ作品『幼年時代』(大正八年:1919年発表)で以下のように犀星は記している:

  ...私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
 母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家(さと)へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐つくもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
 私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家(ここんち)へ来たら此処(ここ)の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
 こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家(うち)においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
 母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。  

 母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった...


 つまり、犀星は、ここで、養母ハツに対して「しっくりこない」心のしこりがあったことを告白している。このことを本作に当てはめると、もんがこの心のしこりを起こさせる存在として、もんに養母ハツを投影したのではないか。そこには、あくまでも憧憬の対象としての生母ハルをもんの母りつに重ねていた心理的機微もあったのではないか。そうして、犀星自身はもんの兄の視点を取って、その自らの心のしこりを、もんの妊娠を契機として、もんの兄・伊之助の心のしこりとして発現させたのではないか。このように、伊之助のもんに対する「過剰反応」が解釈できるかもしれない。何れにしても、犀星の原作『あにいもうと』を筆者は一度読んでみたいと思う。

 原作の雑誌上での発表は1934年で、単行本に所収されたのはその翌年である。36年には、木村荘十二監督下、『兄いもうと』という題名で原作の最初の映画化がなされる。故に、本作は、劇映画化の二回目(53年作)に当たり、監督は、溝口健二とは別の意味での「女性映画」監督である成瀬巳喜男である。尚、二回目の映画化の前年の52年には水谷八重子らが大阪歌舞伎で原作を上演している。

 成瀬は、私見、1951年作の『めし』で、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立している。本作では、この「方程式」からは若干外れて、男性の犀星が書いた原作を、女性脚本家水木洋子に脚本化させ、兄と妹とを主人公にしている。但し、もんとさんとの絡み、さんが体現する現代女性としての、より自立的な生活設計への志向を描いているところは、本作がさすがは「女性映画監督」成瀬の手によるものであることを肯けさせてくれる。

2025年5月13日火曜日

めぐりあう時間たち(USA、2002年作)監督:スティーヴン・ダルドリー

 自分の誕生日にあんなバースデー・ケーキを作ってもらってうれしいと思うであろうか:恐らくはチョコレートがたっぷり入った黒に近い焦げ茶色のケーキ、それに、飾りとして円形のケーキの縁取りにホイップ・クリームが載せられてあるのであるが、その色が濃い青色なのである。筆者には合わない色彩感覚である。


 このケーキを幼い息子のリッチーと一緒に作ったのは、1951年のロスアンジェルスに住んでいる中流家庭の主婦Mrs. Brownであった。蜂蜜色のフィルターを掛けて撮られているこの1950年代初頭のUSA社会は、第二次世界大戦が終わって六年が経ち、物質的には恵まれているはずである。第二次世界大戦から復員して再び職に就いたMr. Brownは、恐らく高校時代に知り合ったMrs. Brownに、他の女の子とは異なった雰囲気の彼女に惹かれていて、復員してすぐに求婚したのであろう。息子のリッチーは五歳位の年齢である。そして、Mrs. Brownは、二人目の子供を妊娠中である。つわりが強いのか、やさしい夫Danが仕事で出掛けようとしている時も寝室にいる。どういう訳か手にしている本は、イギリスの女流作家Verginia Woolfの作品『Mrs. Dalloway』で、Mrs. Brownは、この小説の一行目を読み始めた: "Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself."


 こうして、1951年のロスアンジェルスと、1923年の、ロンドン市街から南東に15km程離れた嘗ての宮殿都市リッチモンドとに時間的架け橋が掛けられたのである。1923年のある朝、Verginia Woolfは、目が覚めて思い付いた上述の第一文をペンで書き留めた。こうして書き始められたV. Woolfの新作は1925年に、彼女自身とユダヤ人の夫Leonardが1917年以来経営している出版社「Hogarth Press」から出されることになる。装丁の表紙絵(装画)は、V. Woolfより三歳年上の姉Vanessaが描いており、VerginiaとVanessaが如何に緊密な関係にあったかが想像される。作家Clive Bell(クライヴ・ベル)と結婚したところからBellと名乗るVanessaは、Cliveとの間に、本作にも登場する長男と次男を儲けるが、本作にも登場する娘Angelicaは、Cliveが同性愛関係にあった画家Duncan Grantとの間の子供である。(この点、興味のある方は、「Bloomsberries」と呼ばれた知識人グループのことを調べてみるとよいであろう。)

 小説『Mrs. Dalloway』は、James Joyceジェームズ・ジョイスが『ユリシーズ』(1922年発表)で使った手法、即ち、「意識の流れ」を基底においた叙述法を早速用いた実験小説であり、主人公の51歳のMrs. Dalloway夫人がその日の晩に催す社交会を準備するためにウエストミンスター界隈の花屋に出掛ける、1923年6月のある水曜日の朝からの一日を描くものである。ウエストミンスターにはBig Benがあり、ここから定刻に鐘の音が刻まれていく。(このBig Benが刻む時の鐘の音から、本作の題名「The Hours」が出てくるのであり、V. Woolfも自分の作品をそのように名付けようと思っていた。)

 こうして、Mrs. Dallowayが外界から受ける印象が更に彼女の連想や思い出を呼び起こす。それがまた他の登場人物の意識の流れとも混ざりあっていく。こうして、Mrs. Dallowayの一日が描かれるのである。彼女は、信頼がおけ、社会的にも成功はしているが、知的にはつまらない夫Richardと結婚しており、この日の夜会には、自分に嘗てプロポーズしたことのある、そして、今インドから一時帰国しているPeterも来ることになっていた。(Peterは、映画中のLouisのように、予定の時間より早く夜会に現れる。)そして、嘗て一度熱い接吻を交わしたことがある女友達のSally(映画中に同名の役あり)も今晩来る予定である。

 このMrs. Dallowayの日常の生活に対して、ほぼ並行して別のストーリーの筋が描かれる。第一次世界大戦からの復員兵Smithが、戦争で受けたトラウマを解消できずに、神経症を患っている筋である。1923年6月のある水曜日、とうとうこの神経症に耐えられなくなったSmithは、ある精神病院を訪れるのであるが、即同日、入院しなければならないとされ、それに絶望した彼は病院の窓から身を投げて自殺をする。

 このSmithの運命をMrs. Dallowayの夜会に招かれた精神科医が夜会で話題にすることで、Mrs. Dallowayも知ることになり、こうして、それまで、並行して流れていた二本のストーリーの筋が繋がるという展開で、『Mrs. Dalloway』の物語りは終わるのである。

 さて、Mrs. Dallowayの名前は、Clarissaというが、1951年から半世紀経った2001年のニュー・ヨークで出版社に勤めるClarissa Vaughan(クラリッサ・ヴォーン)は、Sallyという恋人と同棲をしている。テレビ局の仕事か何かで朝帰りしてきたSallyに起こされたClarissaは、自分で花屋に花を買いに行くと言う。と言うのは、この日、自分の嘗ての恋人で詩人のRichard(小説『Mrs. Dalloway』ではMrs. Dallowayの夫の名前)が名のある文学賞を取ったので、自分のアパートで授賞パーティーを催そうというのである。花を買ったついでにエイズにかかっているRichardのロフトに行く。この日の晩にパーティーがあることをRichardに告げて、彼に心の準備をさせるためである。文学者であるRichardには、Clarissaの名前と、夜会ということで、『Mrs. Dalloway』が思い出されたのであろう。早速、Richardは、Clarissaのことを「Mrs. Dalloway」と呼ぶのである。

 こうして、1923年にV. Woolfが描くMrs. Dalloway、1951年のMrs. Brown、そして、2001年のClarissaが、時代と空間を越えて重層的に繋がり、本作のストーリーは展開していく。

 この三層の時代を技巧豊かに組み合わせた、流れるように澱みもなく構築されたストーリー展開の妙は、アカデミー賞ものである。脚本は、イングランド出身の劇作家David Hare(ヘアー)による。彼は、映画『Wetherby(ウェザビ―)』(1985年作)という作品で監督も務め、この作品でベルリン国際映画祭銀熊賞を授賞している。本作では、米・英アカデミー脚本賞でノミネートはされたが、授賞しなかったものの、全米脚本家組合賞を授賞しており、このことは、如何にこの脚本がよいものであるかの証左であろう。

 本作には原作があり、原作がV. Woolfの『Mrs. Dalloway』をどのように使って、ストーリーを構築しているのか、更に、脚本家のHareがその原作を映画にアダプトするためにどのように改変したのかは誠に興味あるところである。原作者Michael Cunningham マイケル・カニングムは、自作の題名を『The Hours』として、V. Woolfが『Mrs. Dalloway』に元々付けようとした題名を採る。そして、その時間層を1923年、1949年、1999年とする。原作の発表が、1998年であるから、ニュー・ヨークでの時間層を一年だけ先送りし、その半世紀前ということで、ロスアンジェルスの時間層が1949年となった訳である。1923年の時間層は移動のさせようがないのは当然である。映画脚本では、今度は本作の上映が2002年であるので、一年だけ早めて2001年とする。何れにしても、そうすることによりニュー・ヨークの時間層は、21世紀のものとなる。その50年前は1951年であり、21世紀において、それを20世紀の半ばの世相と較べてみると、如何に性的志向の問題で21世紀初頭のUSA社会が解放されているかが分かるであろう。(その約四半世紀後の2025年のUSAの状況を鑑みると、USAの現況が政治も含めて如何に後退したものであるかが肯ける。)

 1923年のMrs. Dallowayは、上層階層の婦人であり、少なくとも家事からは自由な存在である。これは、Mrs. Dallowayを描く作者V. Woolfの存在形態とも同様のものである。彼女達は、一般庶民と比較すれば、「恵まれた」存在である。それに対して、1949年乃至は1951年のMrs. Brownは、中流家庭の存在で、主婦として完全に夫に経済的に依存している。とすれば、主婦としてだけの存在に空虚感を感ずる女性にとっての「閉塞感」は、如何ばかりであったか。筆者としては、V. Woolfを演じたニコール・キッドマンよりも、Mrs. Brownを演じたジュリアン・ムーアにアカデミー賞主演女優賞を授与したいところである。そして、Mrs. Brownの隣人として急に彼女を訪れ、自分の子宮腫瘍の悩みを打ち明けるKittyの存在も興味深い。子供を産めなくなることで、自己の妻たる存在意義を否定されるかもしれないと慄くKittyに感情を動かされたMrs. Brownは、自然の成り行きで思わずKittyの唇に自分の唇をやさしく重ねたのであった。しかし、Kittyは、自分の問題にのみ関心が振り向けられているから、Mrs. Brownの口付けが何の意味を持つのか理解できずに、その場を去ってしまう。この何気ない役であるKittyを演じたToni Colletteには注目すべきであろう。尚、「Mrs. Brown」という名前は、V. Woolfが1924年にある文学評論で使った名前であり、彼女によれば、「Mrs. Brown」とは、普通の庶民の女性一般を代表させた名前であると言う。

 最後に、本作の音楽を担当したPhilip Glassである。ユダヤ系アメリカ人の作曲家である彼は、クラシック音楽のみならず映画音楽にも関わっており、本作における、ある程度水量の嵩んだ渓流の流れのような、連続的に動的な背景音楽を作曲している。彼の音楽が、特徴的で印象的であるところから調べてみると、Paul Schraderが監督した『ミシマ:4章からなる伝記』(1984年作)の音楽を担当していた人物である。同じ日本人として興味ある情報であると思う。

2025年5月7日水曜日

源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶(日本、1962年作)監督:伊藤 大輔

 物語りの終盤に入り、刺青者・初音の鼓は追手に追われていることに気付く。そこで、股旅者の姿から着替えて、今度は白色の着流しに身を包んだ侍姿は、逆に追手を待ち、自分の前に宿敵の追手が現れたところで、決め台詞を吐く:


 「故なくして虐げられる者、正しき者、弱き者が、救いを求めて我が名を呼べば、白い揚羽の蝶が羽ばたく。(ここで、懐に入れてあった両手を袖からさっと出し、左手を小刀の柄に、右手を大刀の柄に、両手を交差させて掛け、両刀を一気に抜く。そうして、万歳をするようにして両刀を上段に構えて、つまり、アゲハ蝶が二枚の羽根を上に揚げ揃えたようにして、更に台詞を続ける。)冥途の土産に覚えておけ!姓は源氏、名は、九郎!」

 他者を思う正義のヒーローの存在が未だ信じられていた幸福な時代の作品である。

 原作は、柴田錬三郎が書いた同名の作品である。柴田と言えば、「眠狂四郎」であり、「眠狂四郎」と言えば、「円月殺法」である。大刀で円弧を描き、その間に相手を催眠に掛けて敵役を倒す剣法が「円月殺法」であれば、源義経の末裔・九郎の剣法は、「揚羽の蝶」の二刀流で、上段・中段に構えた大刀・脇差を左右から次々と振り出して、相手を追いつめる「秘剣」である。

 本作の制作の前には、既に1957年、58年に二本撮られており、その時代設定は、1840年代末、1854年開国直後となっている。これに対して、同東映時代劇シリーズ『源氏九郎颯爽記』の第三作目は、時代設定が天保年間後期の1840年頃である。となると、両人とも架空の人物ではあるのであるが、「源氏九郎」も「眠狂四郎」と同じ時期に活躍した二枚目剣士ということになる。

 眠狂四郎がニヒルな美男剣士であるのに対して、源氏九郎は、任侠を知る熱血漢剣士で、その同じ任侠道を知る「遠山の金さん」とは、本作では、意気が通じる「仲」と言えよう。水野忠邦が推し進めた「天保の改革」は、1841年から43年までのことで、眠狂四郎は、その水野と間接的に関りがあり、その施策に影で協力する。現実の遠山金四郎景元(かげもと)も1840年に北町奉行所奉行に任ぜられており(43年までで、45年から52年までは南町奉行所奉行)、その翌年の41年からは「天保の改革」の施策の、江戸での実行者として協力させられることになる。

 ただ、本作に登場する、「淫乱の将軍」とは、第11代将軍家斉であるはずであるが、この将軍は、1841年に死んでおり、この将軍の死により、天保の改革も可能になったのであった。家斉の治世は50年にも及び、この間、少なくとも16人の妻妾を持ち、歴代徳川将軍中最多の53人の子女を儲けたと言う。但し、歴史上の最後の子が生まれたのは、1827年のことである。

 家斉が将軍の座にあった時期は、「化政文化」と言われた江戸文化の二度目の興隆期であったが、それは、寛政の改革を第八代将軍吉宗の曾孫として若い時に経験した家斉がそれで政治嫌いになったことにその一つの遠因であったとも言われる。この政治嫌いの家斉は、「俗物将軍」と渾名されたが、それは、幕政は幕閣に任せ、自分は大奥に入り込んでばかりいたからであると言われる。とすれば、歴代将軍中最多の子女を儲けたというのも頷ける。

 同時に、この家斉の「放任主義」は、幕政の規律が効かなくなることも意味し、とりわけ、本来老中の管轄下にあった御側側用人(おそばそばようにん:上級旗本が就ける側衆の中の筆頭)に権勢を与えることになり、その中でも「御側御用取次」に親任された数名が陰然たる政治力を発揮したと言う。そういう「御側御用取次」の一人に家斉の贔屓でなったのが、水野忠篤(ただあつ)で、彼は、林忠英(ただふさ)、美濃部茂育(もちなる)とともに「天保の三侫人(ねいじん:口先が上手く、媚びへつらう人)」の一人と呼ばれたと言う。この三人は、天保の改革により、処断される。本作に登場する高見沢内匠頭(たくみのかみ:内匠寮の長官で、今で言えば、土木建築局の局長)もこの類の「侫人」である。

 本作の監督は、「時代劇の父」と言われた伊藤大輔で、その監督としての活躍は、無声映画時代の1924年から、白黒のトーキー映画時代を経て、カラー映画の時代の1970年までの長きに亘る。さすがに年季の入った監督であるから、スター/スタジオ・システムながら、映画産業の斜陽の翳りが見えてきた1960年代に入っても自分の脚本で映画が撮れたのである。移動レールに載せたカメラによる撮影はもちろんのこと、映画の冒頭では、宿場町の通りをそぞろ歩いて長唄を聞かせる、悪玉のお仙の後ろを追うカメラが、そぞろ歩きに同じく視点が揺れ動く趣向を見せて中々粋である(撮影は、松井鴻)。そして、夜陰の中を動く御用提灯の集団的動きは、美的・詩的でさえある。

 この夜陰の中を集団で動く御用提灯のモチーフは、実は、伊藤作品の初期から見られるもので、彼の長編劇映画作品として唯一と言っていい程に貴重な無声映画作品『御誂次郎吉格子』(1931年作)でも使われているのである。改めてこの作品の配役を調べてみると、本作に登場する「お仙(長谷川裕見子)」と「喜乃(北沢典子:聾唖者役)」の役名が、こちら作品でも見えるのである。大河内傅次郎が演ずるところの次郎吉に激しい恋慕を抱き、彼のために川に身投げするのが、「おせん」、それに対して、浪人の娘で清純な「お喜乃」に惹かれる次郎吉と、時代劇に人情・恋沙汰の恋愛映画の深みを入れ込んだこの作品の脚本を書いたのは、もちろん、伊藤であった。約30年後に撮った本作に同じ名前が登場することに、伊藤監督の何かの思いを感じる。

若草物語(日本、1964年作)監督:森永 健次郎

 映画の序盤、大阪の家を飛行機(これがコメディタッチ)で家出してきた、四人姉妹の内の、下の三人が、東京の一番上の姉が住んでいる晴海団地(中層の五階建て)に押しかけて来る。こうして、「団地妻」の姉が住む「文化住宅」の茶の間で四人姉妹が揃い踏みするのであるが、長女(芦川いづみ)は、何...