これ程までにエンディング・ロールに映画の全編の意味が込められた作品も珍しいのではないか。しかも、それ自体では何気ないものである。作品中のD.リンチ並の、何かボイラーの騒音ででもあるかのような不気味な通奏低音はこの時点で消えている。恐らく明け方の暗がりで、小鳥たちがさえずりはじめ、今日もまた、日常のある一日が始まるという感じである。しかし、このありふれた日常性が、それまでの映画の展開の文脈の中で、出来事の異常さを逆に強調し、その異常性が日常性の中に入り込んだことで、筆者は、余計に恐怖感を覚えて背筋に何かじわりとした寒気を感じざるを得なかったのである。ここに、監督黒沢清の力量の程が伺われる。
ラスト・シーンのファミリー・レストランの中では、これまでストーリーの中心となっていた一連の猟奇的殺人事件に一見決着が着いたかのような安心感を観ている者に与える。しかし、この安心感を裏切るかのようにまた殺人事件が主人公高部刑事のいる前で起こるのであるが、実はこの殺人事件を「教唆」したのが高部刑事本人であり、また、その教唆の方法もそれまで同様の殺人教唆を行った手口よりも、はるかに巧妙である。このことは、それまでの犯意の媒体よりもより強力なメディウム:媒体、謂わば「魔王」が登場したことを意味していた。これに例のエンディング・ロールが繋がると、この「啓示」が心肝寒からしめるものとして見ている者の意識に明確化されるのである。
話はある売春婦が頚動脈付近をX字に切られて殺されるところから始まる。同じ手口の犯行は既に数件起こっていた。しかし、それぞれの犯人自体は異なり、その殺人の動機も不明瞭であった。犯人は異なるが、手口が同一の連続殺人事件の奇妙さ。殺人が回を重ねられていく毎に、その殺人を「教唆」する背後の人物像のベールが一枚一枚剥がされていき、その巧妙な手口が暴かれていく。そして、この過程は同時に犯行を追う高部刑事自身が殺人教唆者の魔の手に取り込まれていき、そして最後にはこれを逆に乗っ取って、自らが「魔王」となる過程でもあったのである。
その殺人教唆者間宮の手口とは如何なるものか。「あんたはだれや?」のソクラテス的質問を繰り返す精神異常者を装い、火や水の道具を使って相手を暗示状態に持っていく。そうやって、相手が元々抑圧して持っていた願望を解き放ってやって、その願望を殺人という形で成就させてやるという、正に魔の「癒し:キュア」であった。この、「教唆」即ち悪の「癒し」の施療をより巧妙に継承したのが高部刑事なのである。映画は、こうして「癒し」を求める日本社会の危険性を衝く、社会批判の次元を持つに至る。
この社会性という点で、本作品は、同じ連続殺人事件を描き、明暗の「暗」を生かした同様のフィルム現像の手法を使ったアメリカ映画界の気鋭D.フィンチャーの『セブン』を凌駕するものである。『セブン』(1995年作)の場合、その犯人は七つの大罪をその犯行の宗教的動機とし、最後には自分をキリストの如くに犠牲、「生贄」にするという、全く精神異常の犯行者である。であるから、映画の彼岸と観る者の此岸とは隔絶しており、そこには、ひょっとして自身が犠牲者になるかもしれないという危機感があるだけで、自らが犯行者になるという危険がない、「安全な」世界である。これに対して、社会性を持った、良質のサイコ・サスペンス映画が日本にできたことに、本作に対して、日本の映画ファンとして満腔の賞賛を送るものである。
2023年2月18日土曜日
2023年2月11日土曜日
クリスティーン(USA、1983年作)監督:ジョン・カーペンター
ホラー版『アメリカン・グラフィティー』はいかが?
「Christineクリスティーン」が突然カー・ラジオを操つる。独りでにカー・ラジオが掛かり、車内はクリーム・ソーダを緑色に着色したようになった。ラジオのボリュームが幾らか上がって、カー・ラジオのスピーカーから曲が流れ出てくる。年代はうまく特定できないが、恐らく車のモデルからして、1950年代末のロックンロール系の曲であろう。(音楽は、一部は監督のJ.Carpenterが担当)
この、50年代、60年代への懐古趣味といい、音楽の選曲の好みといい、はたまた、ストーリーの演じられる場所がハイ・スクールということで、筆者は、1983年作の本作を楽しみながら、G.ルーカス監督、F.F.コッポラ製作の『アメリカン・グラフィティー』(1973年作)を懐かしくも思い出していた。
あの映画では、1960年代初頭のヒット・パレードの如く、これでもか、これでもかという具合にロックンロールが聴けたものであった。そして、車という偶像への畏敬もまた、この映画では青春の一つの要素として重要な役割を演じていた。
さて、Stephen Kingの同名の小説を原作とする本作品のストーリーであるが、これは、車という外形の事物に人間がフェティシズム的に偏愛し、この人間の愛に今度は呪物対象物がそれに応えて自ら動き出すという、例のギリシャ神話のピュグマリオーン王と象牙の彫刻ガラテアの恋愛ストーリーを、ホラーとして変形させたものである。(或いは、このようなObject Sexuality対物性愛を、1979年に自分はベルリンの壁と結婚していると主張した、スェーデン人女性芸術家「エイヤ=リータ・エクレフ=ベルリナー=マウアーEija-Riitta Eklöf Berliner-Mauer」現象という。 )
ホラー映画とは、その人間の原初的な恐怖感だけに訴えるということで、本来B級映画としてしか存在し得ないものである。しかし、そのB級性においてもそこに傑作と駄作とがあるのであり、ホラー映画の「巨匠」J.カーペンター監督の本作品は、カーペンター監督の作品歴の中でも秀作の一つに入るものであろう。
音楽と供にその濃厚なフィルムの色彩感覚も1950年代にマッチさせてあり、監督のセンスのよさを感じさせる。(撮影監督は、この時期のCarpenter組のDonald M. Morganである。)1958年型のPlymouth Furyプリムス・フューリー(Sportcoupé型)の特殊赤色塗装(Toreador Red)が、如何にも「クリスティーン」と呼ばれる、この車への情熱を代弁している。
ホラー映画というと血だらけのシーンを連続させたり、わざと観衆を驚かせるように大胆な編集をしたりと、下品な小手先を使う作品がままある中、本作品、映画作りを職人的にこなしている監督の「粋」が感じられて、好感が持てる。
惜しむらくは、この映画の制作でプリムス・フューリーが、恐らくは20台近くが壊されていると聞いていることで、オールド・タイマー・ファンが、映画の終盤ともなると、少々悲しくもなきにしもあらずであろうことは、容易に想像できることである。
「Christineクリスティーン」が突然カー・ラジオを操つる。独りでにカー・ラジオが掛かり、車内はクリーム・ソーダを緑色に着色したようになった。ラジオのボリュームが幾らか上がって、カー・ラジオのスピーカーから曲が流れ出てくる。年代はうまく特定できないが、恐らく車のモデルからして、1950年代末のロックンロール系の曲であろう。(音楽は、一部は監督のJ.Carpenterが担当)
この、50年代、60年代への懐古趣味といい、音楽の選曲の好みといい、はたまた、ストーリーの演じられる場所がハイ・スクールということで、筆者は、1983年作の本作を楽しみながら、G.ルーカス監督、F.F.コッポラ製作の『アメリカン・グラフィティー』(1973年作)を懐かしくも思い出していた。
あの映画では、1960年代初頭のヒット・パレードの如く、これでもか、これでもかという具合にロックンロールが聴けたものであった。そして、車という偶像への畏敬もまた、この映画では青春の一つの要素として重要な役割を演じていた。
さて、Stephen Kingの同名の小説を原作とする本作品のストーリーであるが、これは、車という外形の事物に人間がフェティシズム的に偏愛し、この人間の愛に今度は呪物対象物がそれに応えて自ら動き出すという、例のギリシャ神話のピュグマリオーン王と象牙の彫刻ガラテアの恋愛ストーリーを、ホラーとして変形させたものである。(或いは、このようなObject Sexuality対物性愛を、1979年に自分はベルリンの壁と結婚していると主張した、スェーデン人女性芸術家「エイヤ=リータ・エクレフ=ベルリナー=マウアーEija-Riitta Eklöf Berliner-Mauer」現象という。 )
ホラー映画とは、その人間の原初的な恐怖感だけに訴えるということで、本来B級映画としてしか存在し得ないものである。しかし、そのB級性においてもそこに傑作と駄作とがあるのであり、ホラー映画の「巨匠」J.カーペンター監督の本作品は、カーペンター監督の作品歴の中でも秀作の一つに入るものであろう。
音楽と供にその濃厚なフィルムの色彩感覚も1950年代にマッチさせてあり、監督のセンスのよさを感じさせる。(撮影監督は、この時期のCarpenter組のDonald M. Morganである。)1958年型のPlymouth Furyプリムス・フューリー(Sportcoupé型)の特殊赤色塗装(Toreador Red)が、如何にも「クリスティーン」と呼ばれる、この車への情熱を代弁している。
ホラー映画というと血だらけのシーンを連続させたり、わざと観衆を驚かせるように大胆な編集をしたりと、下品な小手先を使う作品がままある中、本作品、映画作りを職人的にこなしている監督の「粋」が感じられて、好感が持てる。
惜しむらくは、この映画の制作でプリムス・フューリーが、恐らくは20台近くが壊されていると聞いていることで、オールド・タイマー・ファンが、映画の終盤ともなると、少々悲しくもなきにしもあらずであろうことは、容易に想像できることである。
2023年2月8日水曜日
トゥルー グリット(USA、2010年作)監督:コーエン兄弟
原作の『True Grit』は、1968年に新聞連載小説として発表された、ジャーナリスト兼小説家のCharles M. Portisの長編小説である。Portis自身が、ルイジアナ州の真北にあるArkansasアーカンソー州出身であり、小説のストーリーもアーカンソー州にあるFort Smithから始まる。小説では、当時14歳であった主人公であるMattie Rossが、あたかも自分の自叙伝を書いているように、1928年時点からの懐古としての視点が採られている。
1968年度のヒット作となった原作は、早速同年にはH.Hathawayハサウェイ監督により、同名の映画化がなされ、翌年に初上映を飾った。J.Wayneウェインが、連邦保安官MarshalのReuben „Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、70年に映画『イチゴ白書』でのLinda役で映画史上忘れられない女優となるKim Darbyが、Mattie役を担う。当然ストーリーの重点はJ.ウェインに置かれ、彼は、この役で、その年のアカデミー賞男優賞を獲得する。
一方、2010年に原作の二度目の映画化となる本作では、ストーリーは、年を取ったMattieの懐古の視点からの、オフレコのナレーションを以って、語られる。M.Damon演じるTexas Rangerテキサス・レインジャー、LaBoeufラ・ボフ(フランス系移住民の子孫か)の絡み方が若干異なる以外は、本作の脚本は、ほぼ原作に忠実になぞられて書かれてある。
本作の原題も、原作同様であるが、邦題では、69年作で、『勇気ある追跡』とされているので問題はないとして、本作では、英語の原題をそのままカタカナ化しているのは、問題であろう。Trueは分かるとして、普通の日本人には分からないGritを「グリット」では、何のための邦題か。Gritを「勇気」と訳すことも可能ではあるが、英語辞書によると、この言葉は、「珪質砂岩、堅実、堅忍、気概、闘志、意気、肝っ玉」と、様々な訳が付いている。Trueとの関係で、思うに、True Gritを「真実の気概」と訳するとすれば、本作の描き方から言って、別の解釈が成り立つのではないか。„Rooster(雄鶏)“ Cogburnの、本当の気概とは、毒蛇に咬まれたMattieを助けるために、Mattieの愛馬を乗り潰し、その後は、Mattieを両腕で抱えて、息も絶え絶えに走り続けた、その後ろ姿に示されたのではないか。
さて、本作の監督は、Coenコーエン兄弟である。コーエン兄弟と言えば、あのユダヤ人的ブラック・ユーモアが「ミソ」である。という訳で、筆者は、それなりに捻りにひねった皮肉をストーリーに期待して観ていたのであるが、それは、原作をほぼ忠実に追うばかりで、そこには、皮肉や風刺が効いた「捻り」が、殆んどない。
俳優J.Bridgesブリッジスは、本作で„Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、左目に眼帯を掛けたJ.Wayneに対抗して、右目に眼帯を掛けて、熱演する。その彼がコーエン兄弟と初めて組んで撮った傑作『ビッグ・リボウスキ』(1998年作)を思えば、本作での皮肉の捻りのなさが意外とさえ言える。
コーエン兄弟の、1984年以来の作品歴を鑑みるに、その後期の制昨年歴に数えられる本作を以って、コーエン兄弟の創作力も、後期に入って、いまいち若干低下したかと疑われる程であるが、調べてみて、本作の製作総指揮がS.スピルバーグであると分かると、この甘いストーリー展開は、むべなるかなとも思われる。何れにしても、コーエン兄弟作品としては、本作を以ってして、作品経歴史上、最高の興行収入を得たと言う。
1968年度のヒット作となった原作は、早速同年にはH.Hathawayハサウェイ監督により、同名の映画化がなされ、翌年に初上映を飾った。J.Wayneウェインが、連邦保安官MarshalのReuben „Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、70年に映画『イチゴ白書』でのLinda役で映画史上忘れられない女優となるKim Darbyが、Mattie役を担う。当然ストーリーの重点はJ.ウェインに置かれ、彼は、この役で、その年のアカデミー賞男優賞を獲得する。
一方、2010年に原作の二度目の映画化となる本作では、ストーリーは、年を取ったMattieの懐古の視点からの、オフレコのナレーションを以って、語られる。M.Damon演じるTexas Rangerテキサス・レインジャー、LaBoeufラ・ボフ(フランス系移住民の子孫か)の絡み方が若干異なる以外は、本作の脚本は、ほぼ原作に忠実になぞられて書かれてある。
本作の原題も、原作同様であるが、邦題では、69年作で、『勇気ある追跡』とされているので問題はないとして、本作では、英語の原題をそのままカタカナ化しているのは、問題であろう。Trueは分かるとして、普通の日本人には分からないGritを「グリット」では、何のための邦題か。Gritを「勇気」と訳すことも可能ではあるが、英語辞書によると、この言葉は、「珪質砂岩、堅実、堅忍、気概、闘志、意気、肝っ玉」と、様々な訳が付いている。Trueとの関係で、思うに、True Gritを「真実の気概」と訳するとすれば、本作の描き方から言って、別の解釈が成り立つのではないか。„Rooster(雄鶏)“ Cogburnの、本当の気概とは、毒蛇に咬まれたMattieを助けるために、Mattieの愛馬を乗り潰し、その後は、Mattieを両腕で抱えて、息も絶え絶えに走り続けた、その後ろ姿に示されたのではないか。
さて、本作の監督は、Coenコーエン兄弟である。コーエン兄弟と言えば、あのユダヤ人的ブラック・ユーモアが「ミソ」である。という訳で、筆者は、それなりに捻りにひねった皮肉をストーリーに期待して観ていたのであるが、それは、原作をほぼ忠実に追うばかりで、そこには、皮肉や風刺が効いた「捻り」が、殆んどない。
俳優J.Bridgesブリッジスは、本作で„Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、左目に眼帯を掛けたJ.Wayneに対抗して、右目に眼帯を掛けて、熱演する。その彼がコーエン兄弟と初めて組んで撮った傑作『ビッグ・リボウスキ』(1998年作)を思えば、本作での皮肉の捻りのなさが意外とさえ言える。
コーエン兄弟の、1984年以来の作品歴を鑑みるに、その後期の制昨年歴に数えられる本作を以って、コーエン兄弟の創作力も、後期に入って、いまいち若干低下したかと疑われる程であるが、調べてみて、本作の製作総指揮がS.スピルバーグであると分かると、この甘いストーリー展開は、むべなるかなとも思われる。何れにしても、コーエン兄弟作品としては、本作を以ってして、作品経歴史上、最高の興行収入を得たと言う。
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