2023年7月3日月曜日

秒速5センチメートル(日本、2007年作)監督:新海 誠

 2007年作の本作は、SF味を無くした『ほしのこえ』(2002年作)であり、恋の物語りとしての『言の葉の庭』(2013年作)への展開の前提となる作品と位置づけられる。

 本作は、オムニバス形式で、三つの短編からなっており、合計で67分である。一本20分程度の長さの短編アニメを、一つのテーマ「別離」でまとめたものである。『ほしのこえ』も、同様のテーマであり、また25分の短編であった。

 ストーリーのセッティングとしては、小学校から中一年生にかけた男女生徒の、出逢いと離別から本作は始まる。年齢の割には「大人」である二人の精神発達のレベルを、少々訝しく思いながらも観る筆者にとってさえ、本作の第一話「桜花抄」は、鉄道の旅も含めて、浪漫的であり、雪景色の中での櫻の木の下でのシーンは、主人公の年齢を無視すれば、一幅の「絵」でさえ、あり得る。

 ゆえに、第一話での年齢を引き上げて、両者を高校三年生としてはいかがであろうか。より現実味が増すと思われる。それに合わせて、第二話「コスモナウト」は、大学での片思いのストーリーとしよう。一途に主人公を想う澄田花苗(かなえ)の、みずみずしさと痛々しさは、女子大学生の年齢でも十分に表現できるはずである。

 第三話の、櫻の花が地上に落下する速度を表すという題名の「秒速5センチメートル」でのセッティングは、原作同様の、主人公が社会人となっているものでそのまま行けるはずである。同様に、主人公と三年も付き合っていて、それでも、「1000回にわたるメールのやり取りをしたとしても、心は1センチほどしか近づけなかった」水野理沙の切なさと無残さは、主人公の、第一話での、初期体験の「初恋」の想い入れを強調するためだけの役割を持つとしても、本作を観る者にとっては、極めて印象に残るプロットである。

 さて、新海アニメのストーリー展開には、「喪失感」の契機が大きな役割を演じていることに注目すべきであろう。それは、つまり、男女の出逢い、別れ、そして、その喪失感に由来する「想い」の強烈さである。この契機は、新海がアニメ作家としてアニメ界で有名になった、2002年の、ほぼ自作自演の短編アニメ『ほしのこえ』以来、『言の葉の庭』までの新海アニメに、はっきりと通底するものである。そして、物語りの語りの視点は、基本的に男性、否、男子である。この傾向が違ってくるのが、『言の葉の庭』後の、『君の名は。』(2016年作)以降である。ゆえに、『君の名は。』以降を以って、新海アニメ・ワールドは、第二段階に入ったと言えるであろう。

 という訳で、『君の名は。』以降、制作形態も変わっているのであるが、本作での制作形態は、新海をアニメ界で有名にした『ほしのこえ』と同様で、無声映画期のチャップリンを思わせる「ワンマンショー」ぶりである。監督、脚本は当然として、メディア・ミックスということで原作も書き、絵コンテならぬ「ヴィデオ・コンテ」を精密に描きあげる。

 本作では、さすがにキャラクターデザインと作画監督には、他のアニメーターを持ってきてはいるが、演出は新海であり、新海アニメの「肝」となるべき、フォト・リアリズム・アニメに肝要な、色彩設計、また、とりわけ光効果に大事である撮影のパート、そして、編集(本作では共作)は、新海が担当している。このことを以って、正に、新海が「アニメ作家」たりと呼べる理由である。

2023年7月2日日曜日

君の名は。(日本、2016年作)監督:新海 誠

 46分の長さの中編アニメ『言の葉の庭』(2013年作)で「大人のアニメ」への展開を予想させた新海アニメ・ワールドは、次の三年後の長編アニメ『君の名は。』で方向を変える。神道主義者になった新海は、それ以降の『天気の子』(2019年作)と、2022年作の『すずめの戸締り』に繋がる、一つの制作定式を見つけた出したのである。

 つまり、本作『君の名は。』には、ストーリー展開において四つの特徴がある。

1.日本的民俗の要素、ここでは神社をストーリーに取り入れる。
2.ストーリーを基本的にファンタジーとする。
3.主人公を中学生・高校生とする。
4.女子生徒には、特殊な能力を持たせる。

 高校二年生の「三葉(みつは)」は、岐阜県飛騨地方にある神社の巫女である。祖母が一葉、母が二葉、妹が四葉と、世代が繋がっており、父親は、民俗学者である。『言の葉の庭』で万葉集をテーマとした新海は、日本古代を改めて「発見」したのである。それゆえに、「お神酒」でもある「口噛み酒」が本作でも重要な役割の演ずる。「口噛み酒」は、処女が噛んだ酒米でなければならないのである。

 主人公の三葉は、自ら望んだ訳ではないが、東京にいる、同じく高校二年生の立花瀧と体を「入れ替える」ことが出来るのである。物語りの展開に従って、それが、実は、空間だけではなく、時間軸においても「ずれ」が生じていたことが分かるのであるが、この時空間での「ズレ」というテーマは、新海は、2002年に彼が殆んど自作自演で制作したSF短編アニメ『ほしのこえ』で扱っていたものである。

 一方、もう一人の主人公・立花瀧は、女子の身体に入れ替えることが出来て、「興奮」する。実は、本作の題名は、企画書の段階では、『夢と知りせば―男女とりかえばや物語』であったと言う。つまりは、日本文学を大学で勉学した新海は、ストーリーを日本の古典から採ってきて、男児を「姫君」として、そして女児を「若君」として育てる、平安時代の『とりかへばや物語』を想定し、これにさらに、「絶世の美女」たる小野小町の和歌「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(古今和歌集)を設定に取り込んだのであると言う。蓋し、妙案である。こうして、新海ファンタジー・ワールドは成立したのである。

 しかも、立花瀧がアルバイトをしているイタリア・レストランは「IL GIARDINO DELLE PAROLE」という。イタリア語を訳して、「言葉の庭」、つまりは、新海はここで前作の『言の葉の庭』と本作を繋げているのである。三葉が通う高校の古典の教員が「ユキちゃん先生」であるのも、新海の、『言の葉の庭』から採った「冗談」である。

 さらに、前作との関りから言うと、ラスト・シーンは、2007年の自身作『秒速5センチメートル』からの「パクリ」である。2022月4月に瀧と三葉は東京で偶然に再会するのであるが、それは、桜が満開の雨上がりの朝であった。

 さて、最後に、本作の題名を書く時には、句点を忘れてはならない。忘れてしまっては、それは、1950年代のラジオ・連続メロドラマ、そして、同名の、岸恵子主演の映画作品(1953年作)の題名と同じになってしまうからである。

 因みに、個人的には余り好みではないファンタジー・アニメの本作が成功した一つの要因は、アニメーター・安藤雅司が本作に作画監督として関わったことである。彼は、宮崎駿監督の『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』で、また、今敏監督の『パプリカ』で作画監督を務めた名アニメーターである。ここに敢えて彼の名前を記し、宮崎と新海のアニメ制作上の繋がりを強調しておきたい。

2023年7月1日土曜日

すずめの戸締り(日本、2022年作) 監督:新海 誠

 中編アニメ『言の葉の庭』(2013年作)で大人のアニメへの展開を予想させた新海アニメ・ワールドは、次の、長編アニメ『君の名は。』(2016年作)以降、『天気の子』(2019年作)を経て、本作(2022年作)へと三年毎に作品が発表され、『言の葉の庭』とは別の歩を辿る。『君の名は。』以降の、その展開を鑑みると、そこに一つの制作定式を新海が見つけたのではないかと筆者には思われる。

 つまり、『言の葉の庭』で見せた、リアリティーのあるストーリー性を離れて、ストーリーを基本的にファンタジーとする。その際、日本的民俗の要素をストーリーに取り入れる。主人公は、中学生・高校生とする。女子生徒には、ファンタジーでもあり、宮崎駿アニメ・ワールド並みに特殊の能力を持たせる。以上、新海がこのような制作定式を立てたと類推すると、上述の長編アニメ三作は、理解しやすくなるのではないか。

 という訳で、この制作定式を本作に当てはめると、どうなるか。

1.ファンジー性:現実世界、つまり現世(うつしよ)と常世(とこよ)が、扉・後ろ戸によって結ばれており、主人公たちはこの扉を通じて、二つの世界を行き来することが出来る。

2.日本的民俗:常世の概念自体が民俗的、ないしは、神道的世界の、「あの世」の理解であると共に、すずめの苗字が「岩戸」であり、しかも、すずめが叔母といっしょに育った場所が宮崎県である。岩戸と宮崎と言えば、「天の岩戸」が宮崎県にあったという日本神話の代表的な、女神天照大神の伝説である。

3.主人公は、すずめという、高校二年の女子生徒である。

4.すずめには、常世に繋がる「扉」を見つけ出すことできる、特殊な能力がある。

 何れにしても、本作では、前作二作に較べて、ファンタジー物語の恣意性が少なく、構造化されており、映画終盤における、日常の挨拶語「いってきます」と「お帰り」に込められたメッセージ性がはっきりしていて、好感が持てる。

 以上のように見てみると、本作のストーリー展開の構造がはっきり分かるのであるが、これに、宮崎県から目的地の岩手県宮古までロード・ムーヴィーの道筋が加わることにより、本作は、物語り展開がしっかり構造付けられている。

 ここから、同様に、そのルートが、なぜ神戸、東京、宮古という箇所を通るのかも容易に想像できる。つまり、この三カ所は、それぞれの大震災の被災地としての共通性があるからである。しかも、物語りの時間帯が、2023年ということであれば、関東大震災から丁度100年目の節目に当たる年である。その意味で、本作は、かなり考え抜かれたストーリー構成になっていると言えるのではないか。

 さて、ファンタジーには「悪の力」は、必須の存在であり、本作でもそれは、「ミミズ」となっている。その映画での形も、みみず、或いは、「目見えず」からくる名称「めめず」を巨大化させたものが青黒く描かれており、この名称が、本作における「悪の力」の形象化に大いに役立ったものと推察されるが、筆者個人には、ミミズが、「悪の力」の権化あることに、少なからず抵抗感があった。なぜなら、土壌の性質を肥沃なものにしていく上で、ミミズは欠かせない「益虫」であるからである。ウィキペディアは言う:

 「ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として[これを]排泄する。それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した、[単粒構造に対して、排水性ないしは保水性に優れた]団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。そのため、[ミミズは、]農業では一般に益虫として扱われ、土壌改良のために利用される。表層性ミミズよりも土中性ミミズの方が土壌改良効果が高いとされる。」

 という訳で、筆者にとっては、「悪の力」をもっと無機質的なものにイメージして欲しかったのであるが、このミミズの悪のイメージは、ものの本によると、新海は、村上春樹が阪神淡路大震災後に書いた、短編『かえるくん、東京を救う』からインスピレーションを受けていると言うので、この非難は、むしろ、村上に向けるべきなのであろう。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...