映画の冒頭に宣伝カーがうるさく流している歌謡曲は、舟木一夫の『高校三年生』という、1963年に大ヒットした曲である。これで、映画の頭から本作が、上映年度の前年をテーマとした作品であることが、当時の観ている人には分かる「現代劇」となっている。
さて、その宣伝カーが何を宣伝しているか。あるスーパーマーケットが、開店一周年記念に、「歯ブラシから農機具まで」の全品半額引きの大セールをやろうという宣伝である。農機具というから、このスーパーマーケット、どこかの地方の店舗らしい。(ウィキペディアによると、今は静岡市に合併されて存在していない清水市)
この派手な宣伝を、地元の個人商店の経営者たちは苦々しく聞いている。プロットが更に進むと、卵一個を11円で売っている食料品関係の個人商点経営者が、このスーパーマーケットに卵一個を5円で売られ、やれきれずに悲観して、妻と子供を残して首吊り自殺をしてしまうというところまで話しが展開する。
1963年と言えば、73年のオイル・ショックの10年前で、55年以来の、所謂「高度経済成長政策」が完全に軌道に乗った時期である。そして、それは、日本の経済復興と成長が実を結んだ証明となる第一回東京オリンピックの前年である。本作を観ながら、既にこの時期に、将来の、地方都市の商店街の「シャッター街」化現象が芽生えていたのであると痛感する。思えば、ここ約半世紀ほどに過ぎない間の、日本の地方経済の展開である。この地方のスーパーマーケットは、当時は恐らくは、まだしも地方の資本で経営されていたであろうが、その後は、この地方資本も中央の資本に飲み込まれていく。経済合理性を突き詰めるとこうなるのであろうが、この資本の原理に、安いものを求める「消費者」もまた、これに加担していることも認識しておくべきではないかと、筆者は本作を観ながら、思う。
という訳で、本作の批評からは大分逸れたが、本作の本題は、松山善三がオリジナル脚本を、1960年代の「コンビ」の成瀬巳喜男監督のために書いた、「悲劇」のメロドラマである。地方都市の酒屋に嫁いできた高峰秀子は、夫が戦死した後は、姑三益愛子にかしづきながら一人で店を切り回していた。小姑の草笛光子や白川由美は嫁に出ていっているところに、東京の大学を出て、就職を一応したのではあるが、そこの職場を辞めた義弟の加山雄三が、元恋人の浜美枝を残して、実家に戻ってくる。地元に進出してきたスーパーのこともあり、加山を経営者として酒屋自体をスーパーに切り替える話しさえも出てくる中、高峰は実家に戻ることを決心し、長年務めた森田家を後にすることにする。ここで、ストーリーは、一度に展開する。
一回り年齢が違う義理の姉を慕う義弟の情熱にほだされ、ストーリー上37歳の高峰は、「乱れる」。義弟の加山は、少々「大根」っぽいのであるが、それが逆に、この25歳の青年の一途さに、ある種の真実味を与えている。送っていくと言い、列車内で次第に高峰に近づいていく加山であり、一方、高峰は、加山に「男」を感じ、身を引こうと、自分の実家のある、山形県新庄市に列車で帰ろうとしていた。そこを、義弟に追いかけられて、途中下車をする。奥羽本線の途中にある大石田駅である。ここから、当時はバスで一時間も乗るのであろうか、大正ロマンを彷彿とさせる銀山温泉に二人は到着する。そして、五重塔の建物に両翼を付けて広めたような、この地の有名な旅館の、右隣の旅館に二人は泊まることになる。このシークエンスが、本作の山場となる。映画ラストの高峰の、クローズアップに堪える女優として力量が光るのが、成瀬監督作品の本作である。
2023年4月6日木曜日
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