2023年4月16日日曜日

駆逐艦雪風(日本、1964年作)監督:山田 達雄

「一に脚本、二に脚本、(三・四がなくて、)五も脚本」


 タイトル・ロールの一番最初に、「協力 防衛庁」と出てくる。今の「防衛省」の前身である。制作年の1964年と言えば、第一回の東京オリンピックの年でもあるが、防衛省がまだ防衛「庁」であったことを思うと、時代は変わったとも思える。

 しかし、本作に防衛庁が全面的に協力したということであれば、それでは、本作は、防衛庁の「プロパガンダ映画」であり、「プロパガンダ映画」には、よくあることで、本作の脚本は、駄作中の駄作である。

 当時流行っていた「民衆視点」の歴史観よろしく、本作でも、一等主計兵の目で、駆逐艦雪風の、太平洋戦争中の運命が語られるが、ストーリーは、この「奇跡の強運艦」の「生きざま」を、おとなしく、その起工・進水・竣工から、戦後直後までを順を追って、詰まらなく描く。

 こんな駄作に駆り出された松竹の看板女優岩下志麻も、役者としての見せどころがなく、出ては、そのままストーリー上から消える。62年に撮られた、巨匠小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』で長女役をこなした彼女は、66年に、松竹ヌヴェル・ヴァーグの立役者の一人篠田正浩監督と結婚し、日本現代アート映画の顔の一人になる女優である。それを思うと、本作での岩下は、痛々しいほどであるが、脚本が良くなければ、いくらいい俳優であっても、映画は救えないということであろう。A.ヒッチコックにならって、述べるとすれば、「一に脚本、二に脚本、(三・四がなくて、)五も脚本」とでも言えようか。

 筆者が、不肖、一脚本家であったとすれば、まずは、艦の腹に平仮名で左書きで「ゆきかぜ」と書いてあるのを、カタカナの右書きで「ゼカキユ」とする。時は、戦前であるからである。そして、時間軸を戦後の復員輸送艦時代(46年2月から同年年末まで)とし、そこを基点として、過去から飛び石的にエピソードを語って、ストーリー上の現時点に戻ってきて、さらに、エンドロールで、未来を語る。なぜなら、「ユキカゼ」は、戦時賠償艦としての運命を辿り、48年以降「丹陽(タンヤン)」と名称を変えて、中華民国海軍の軍艦となり、更には一時期、その旗艦となるからである。

 なぜ時間軸を復員輸送艦時代とするかは、ユキカゼが、「奇跡の強運艦」として、太平洋戦争を生き残ったことをはっきりさせるためで、そのためにいいエピソードがあるからである。

 ユキカゼは、終戦後、復員輸送艦として改造され、1946年2月11日に舞鶴から佐世保を経由して中国汕頭へ向かう最初の引揚任務に出発する。本作のラストシーンは、恐らくこの時の光景を映像化したものであろう。同年7月から10月にかけては、戦前には中国東北部と華北を結ぶ戦略的に重要な地域の、拠点港湾都市であり、また満洲から日本への引揚船の出発地としても有名となる満州・葫芦島市(ころとう-し)からの復員・避難民輸送任務に計五回当る。更に、1946年12月28日までに、ラバウル二回、ポートモレスビー一回、サイゴン及びバンコク二回、那覇四回の計15回の復員輸送任務を遂行し、約1万3千人以上を日本に送り届けた。その中には、ラバウルのあるニューブリテン島から復員した、後に漫画家として有名となる水木しげるもいたと言う。また、サイゴン及びバンコクへの往路では現地法廷へ向かうB・C級戦犯を乗せていたのである。

 この時期のことである。ウィキペディアによれば、無傷のユキカゼの姿を怪訝に思った引揚者のある一人が、「お国が大変と言う時に、一体この艦はどこで何をしていたのか。今あちこち見回ったが、弾丸の跡一つ無いではないか。内地を出たのはこれが初めてだろう!」と難詰したことがあったと言う。このエピソードは、ユキカゼの「強運」をよく物語るものであると同時に、敗戦直後の日本を活写するのに格好のものであると筆者には思える。

 この1946年を基準として、過去に遡るとしたら、ユキカゼは、太平洋戦争の緒戦から敗戦まで、16回以上の主要な作戦に参加しているので、それを一々追っかけていては、些末になる。それ故、三つのエピソードを選んで、駆逐艦本来の水雷戦に関わることが出来た第三次ソロモン海戦、駆逐艦が輸送任務に携わざるを得なくなるガダルカナル島撤退作戦、そして、「不沈艦」大和が「水上特攻」などという不条理な作戦に駆り出されて沈没し、ユキカゼが、海に放り出された大和の乗組員を救助したエピソードの三つを取り上げてみてはいかがであろう。

 駆逐艦とは、その艦艇類別において、19世紀末から20世紀初頭にかけて成立した類別であり、水雷艇に対抗すべき駆逐艇として誕生し、それが水雷艇駆逐艦に発展し、更に、名称の簡易化が行なわれて、「駆逐艦」となったものである。水雷艇に対して水雷を以ってする訳で、今度は、防衛的な意味だけではなく、駆逐艦そのものが、敵艦隊への水雷襲撃を行ない、更に、対潜、偵察・哨戒活動も担うに至る。最初は、戦闘艦として、「軍艦」に類別されていたが、日本では、日露戦争以降の1905年には、戦艦や巡洋艦などの艦種から自立して、独自の艦種となる。1912年(大正元年)に等級を制定し、計画排水量1.000噸以上を一等、1.000噸未満600噸以上を二等、600噸未満を三等駆逐艦と分類する。1931年に、三等駆逐艦の等級別を廃止し、34年には、基準排水量1.000噸以上を一等駆逐艦、1.000噸未満を二等駆逐艦とし、等級分類の変更を行なう。

 水雷艇に対する、より大きな攻撃力を求められていた艦種としての駆逐艦は、元々大型化への傾向を内在していたが、艦隊行動が出来る航海性能の高さや、艦隊決戦における水雷戦を十分に行なえる、より強い打撃力を要求されるに至って、この艦隊型駆逐艦への傾向は更に強められた。1921年のワシントン海軍条約により、主力艦の保有制限が取り決められると、制限された分を補助艦で補おうと、小型巡洋艦とでも言える、駆逐艦の重武装化へと向かう。

 こうして出来上がったのが、吹雪型駆逐艦である。計画排水量を約1.700噸とし、凌波性能を追求した船形による良好な航海性能、艦橋を露天式から密閉式に改めるなどの居住性の改善、排水量に対して比較的重武装にした兵装化(砲塔式12,7cm連装砲3基、61センチ魚雷9射線)を目指した。

 1930年のロンドン海軍軍縮条約の結果、駆逐艦を含む補助艦艇の保有合計排水量と個艦排水量の制限が入り、日本は1.500噸(基準排水量)を超える駆逐艦の建造が不可能となる。初春型駆逐艦(計画排水量1.400噸)や、初春型駆逐艦の準同型艦ともいえる艦級「白露型駆逐艦」が建造される。しかし、この型は、小排水量に過大な武装を盛り込んだことにより、復元性能や船体強度が問題となり、最終的に、建造計画の中断を余儀なくされる。

 満州事変後の、国際連盟からの日本の脱退(33年)により、戦闘艦の建造制限がなくなると、日本は、再び、吹雪型の改良型を求める。これが、朝潮型駆逐艦であり、その後に建造される駆逐艦(陽炎型や夕雲型)の基本型となる。ユキカゼは、この陽炎型艦の八番艦である。

 全19隻が建造された陽炎型駆逐艦と、それから、その改良型である夕雲型駆逐艦とは、両者を合わせて「甲型」駆逐艦と呼ばれる。この甲型は、確かに、最新鋭の艦隊型駆逐艦として最良の完成形と言えるのであるが、しかし、対空・対潜能力が優れているとは言えず、太平洋戦争で第一線に投入されると、終戦まで生き残ったのは、陽炎型と夕雲型がそれぞれ19隻、そして、前身となった朝潮型10隻と合わせた全48隻中、ユキカゼただ一隻のみとなる。損耗率98%、生存率2%となり、いかにユキカゼが、強運艦であったかが窺われる。(因みに、甲型に対して、乙型駆逐艦、つまり、秋月型駆逐艦は、防空に兵装の重点を動かしている点で、丙型駆逐艦、つまり、島風型駆逐艦は、40ノットが出る高速艦である点で、丁型駆逐艦、つまり、松型駆逐艦は、兵装の重心を対空・対潜に移し、更に生産を容易なものとした点で、その特徴がある。)

 幸運艦としては、『呉の雪風、佐世保の時雨』と、白露型駆逐艦二番艦であるシグレが、よくユキカゼといっしょに言及される。シグレもまた緒戦当時からの「歴戦の勇士」であったが、1945年1月、輸送船団護衛中にマレー半島近海で米潜水艦に撃沈される。実は、この護衛任務には、シグレではなく、ユキカゼが当たることになっていたのであるが、機関故障のために直前に離脱し、このために、護衛の駆逐艦がシグレを入れて三隻に減っていた中であった。このシグレの沈没を以って、白露型駆逐艦全10隻が喪失したことになるが、シグレは、奇しくも、ユキカゼの身代わりになったとも言える。

 また、同年4月の坊ノ岬沖海戦においても、ユキカゼはその「強運」を示す。この、沖縄への海上特攻により、「不沈艦」戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦浜風、朝霜、霞が沈没、駆逐艦涼月が大破、冬月が中破するという中、太平洋戦争中、三代目の艦長寺内正道は、ウィキペディアによると、「艦橋に椅子を置いて天井の窓から首を出し、航海長の右肩を蹴ると面舵、左肩を蹴ると取舵という操舵方法でアメリカ軍機の攻撃を殆ど回避した」と言われ、また、魚雷一本が命中しかけたものの、どういう訳か、ユキカゼの艦底を通過したというのである。こうして、ユキカゼは、敵潜水艦に攻撃される危険を冒して、長時間、大和他の乗組員の救助に当たった。その数日後には、中国の廈門市で座礁し、進退不能となった姉妹艦天津風が自沈し、全19隻建造された陽炎型駆逐艦もユキカゼ一隻となって終戦を迎えることとなる。

 中華民国海軍から除籍となり、既に60年代半ばに解体されていたという丹陽、即ちユキカゼは、奇しくも、真珠湾奇襲の丁度30年後の、1971年12月8日、横浜港において中華民国政府より、ユキカゼの舵輪と錨のみが返還された。現在、ユキカゼの舵輪は、江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に、錨はその庭に展示されている。

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