2026年7月13日月曜日

猿の惑星: 聖戦記(USA、2017年作)監督:マット・リーヴス

 前作の監督であったマット・リーヴスが、本作の監督を続投し、しかも、脚本も共同で担当しているのは、何か嫌な予感がする。元々の脚本家夫婦リック・ジャッファとアマンダ・シルヴァーは、今回は抜け、前作で共同脚本家であったマーク・ボンバックがM.リーヴスと脚本を共同執筆している。

 さて、本作の二人の共同脚本家にはかなり難しい課題が課せられていた。まずは、前作の結末が本作の始まりであり、本作の結末が、1968年の元々の第一作のストーリーにつながらなければならないからである。つまり、スタートとゴールが決まっていて、その間をどう「盛り付ける」かである。そして、本作での「盛り付け」は、余り成功していないように見える。

 本作の始まりは、サルとヒトとの闘争である。サルの武力のレベルは、騎兵と石槍のレベルである。それに対するヒトの武装は、20世紀のエリート部隊のレベルであり、火力の点では、シーザーには勝ち目はない。

 一方、本作の結末は、1968年作品のストーリーの状態につながらなければならない。即ち、サルがヒトを支配し、ヒトは言語を持たずにサルより知能が低い状態に成らなければならない。

 この二つの前提をどう「料理する」か。結末に関しては、説得ある理由が提示できており、納得できる。しかし、ラストシーンは、余りに調和主義的ではないか。或いは、白人の北米原住民の征服の端緒を暗示しているのであろうか。

 一方、映画の始まりから登場するエリート部隊の存在とその在り方は、映画の中盤になって、筆者にはある映画を思い出させた。『地獄の黙示録』(1979年作)である。この映画にも、マーロン・ブランドーが演じる「大佐」が登場する。USA陸軍特殊部隊に所属していた彼は、上官の許可を得ずに独自の行動を取り、カンボジア東部のジャングルの中に前哨基地を築いて、そこを独立王国として、地元民兵からは半神と崇められていた存在である。本作の、狂気を内に秘めた人物を演じさせると一品のWoody Harrelsonが演じる「大佐」も、本隊から離反して、独立の大隊を率いて拠点を構えて、軍事独裁者として振舞っている。彼は、自らに課した、信念とでも言えるある「任務」を遂行していたのであり、それ故に、彼は、本隊から離反していたのである。

 本作では、もう一人、否、もう一匹、ある映画を思い出させる存在がいる。Bad Apeである。他人の物を盗み、人間のように衣類を纏っている。何故なら、体毛が抜け落ちているからである。しかも、手話は出来ないが、動物園で育ったことから、英語は流暢に話せる存在である。ひょうきん者で、憎めないとも思えるが、こちらが油断をしたら、何をされるか分からないところもある。この性格の二重性が、筆者にはある映画に登場するキャラクターを思い出させたのである。『ロード・オブ・ザ・リング』の、とりわけ、第二作目『二つの塔』(2002年作)で重要な役を演じるGollumゴラムである。ウィキペディアの記述によると、Gollumは、「骨と皮ばかりに痩せており、目ばかりがぎょろりとした姿で頭髪・体毛はほとんど失われ」ていると言う。Bad Apeに外見が似ている。Gollumの本来の名前はSméagolスメアゴルで、元来は邪悪な存在ではなかったが、「指輪」の持つ魔力に侵されて狡猾さと残忍さを身に付けたが、「指輪」の魔力が弱くなると、スメアゴルの良心が一時的に復活するという二重人格の存在である。

 という訳で、「大佐」と「Bad Ape」という、余りオリジナリティがないキャラクターが本作の「キー・パーソン」の一部になっている点で、「盛り付け」が上手く盛り付けられていないように感じざるを得なかったのが
残念であった

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 前作の監督であったマット・リーヴスが、本作の監督を続投し、しかも、脚本も共同で担当しているのは、何か嫌な予感がする。元々の脚本家夫婦リック・ジャッファとアマンダ・シルヴァーは、今回は抜け、前作で共同脚本家であったマーク・ボンバックがM.リーヴスと脚本を共同執筆している。  さて...