2026年10月12日月曜日

狂つた一頁(日本、1926年作)監督:衣笠 貞之助

 1917年に起こったロシア革命、18年に終わった第一次世界大戦、それを受けた旧世界の崩壊、その世界が変わる激動の中で、ダダイズム、ロシア構成主義、イタリア未来主義(フトゥリズモ)、ドイツ表現主義(Expressionismusエクスプレスィオニスムス)などのモダニズム芸術運動がヨーロッパでは興隆していた。

 日本の映画界においても、1918年に純映画劇運動が起こる。この運動では、1.舞台脚本から映画シナリオへの、2.女形から女優への、そして、3.活動弁士から字幕への、変革が主張され、キネマトグラフィーは、「活動写真」から「映画」へと、映画独自の表現言語を獲得していくようになる。それは、映画が歌舞伎劇から独立していくことを意味し、1920年に、松竹は、映画製作会社の中では最初に「女優」を本格的に養成し始める。これはまた、演劇界で新劇が登場したことに対応する、松竹映画における現代劇ジャンルの登場を意味する。

 しかし、1923年の関東大震災により東京にあった映画スタジオが焼失してしまうと、撮影の本拠を一時京都に移さざるを得なくなり、こうして、京都は時代劇の本拠であったことから、時代劇が再び勢いを取り戻し、新派・女形映画が引き続き撮られることになる。

 このような中、自らも女形として日活の新派劇映画にスターとして出演していた衣笠貞之助は、女優の進出という事態から女形としての可能性に見切りを付けて、自らメガホンを取ることに決める。こうして1920年以降、自らも女形の役を演じながら、映画を撮り始める。監督としての力量を認められ、マキノ・プロダクションに所属していた衣笠は、25年に、横光利一が書いた小説を基にした映画『日輪』を発表する。卑弥呼を題材としたこの映画は、当時は、卑弥呼が天照大御神であったという説があったことから、不敬罪ということで、右翼の批判するところとなり、牧野省三がこの作品の上映中止を一人で決めたことから、それを不満に思った衣笠は、自立することに決める。彼が弱冠29歳の時のことである。

 こうして、『日輪』の制作で知り合った横光と意気投合していた衣笠は、川端康成らを含む新感覚派の文学者達と、1926年4月10日に「新感覚派映画連盟」を結成し、これらの文学者からアイディアを貰いながら、本作『狂つた一頁』を撮ることになる。

 撮影のためのカメラは、知り合いのドイツ人青年Aldenborgアルデンボルクを上海に行かせて、フランス製撮影機 Parvo Modell K(パルヴォK型;レンズを四種類装着することが可能であり、一本122mの長さの通常フィルムをカセットに入れられる)を購入してもらう。このような経緯があったことからか、Aldenborgは、精神病院の外国人医師の役で本作に二箇所で出演している。撮影には、松竹が協力して、京都の下加茂撮影所が使えることになり、クルー約70名で、5月6日から撮影を開始する。主演の井上正夫が五月一杯しかスケジュールが空いていなかったため、撮影にはチームが不眠不休で当たり、5月31日までに撮影を終える。故に、撮影期間は、25日間程であった。衣笠が六月初旬に完成した本作を持って東京に行くが、個人試写会で本作を観た横光が字幕なしを提案すると、それを受けて、衣笠が字幕を割愛した。自主映画製作会社の作品であることから、上映館が中々見つからなかったのであるが、ある試写会で本作を観た映画人・岩崎昶などの推薦を受けて、洋画上映の専門館「武蔵野館」での上映が決まって、映画完成から約四ヶ月経った9月24日から一週間公開された。当時人気弁士であった徳川夢声が本作の解説を担当した。

 東京以外でも幾つかの洋画専門館で本作は上映されたが、心ある映画人には評価はされたにも関わらず、アヴァンギャルド映画の典型的な運命を辿って、本作も興行的には失敗したことより、「新感覚派映画連盟」は本作の一本を以って解散する。

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狂つた一頁(日本、1926年作)監督:衣笠 貞之助

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