2026年11月6日金曜日

炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えたシーンは、筆者には、未だに印象的な場面として記憶に残っている。今回、本作を観て、1958年前後に彼が何を撮っていたか、改めて調べてみると、成程、『ビルマの竪琴』(日活、1956年作)があった。市川が、この作品を以って、映画監督としてヴェネツィア国際映画際で「サン・ジョルジョ賞」を獲得するなど、国際的にも評価される作品を撮り始めた作品である。

 戦後の東宝争議の中で、言わば「スト破り」的に東宝から離脱し、「新東宝」が1947年に設立されるが、その新東宝への移籍により、監督昇進のカードを手にした市川は、48年から監督として活動をし始め、50年代初めには、監督として東宝に戻ることになる。55年には夏目漱石作品たる『こころ』を映画化する。56年以降は、市川は、文芸路線の大映に所属して、矢継ぎ早に、文芸作品を発表している。石原慎太郎作品を映画化した『処刑の部屋』(1956年作)、泉鏡花作品の『日本橋』(同年、市川初のカラー作品)、三島由紀夫作品の本作(58年作)、谷崎潤一郎作品の『鍵』(59年作)、大岡昇平作品の『野火』(同年)、島崎藤村作品の『破戒』(1962年作)などである。

 『ビルマの竪琴』の上映を巡って意見が合わず、日活を離籍しようとしていた市川は、本人の言によると、大映にいる撮影監督の宮川一夫と一緒に仕事がしたくて、辣腕の永田雅一社長がいる大映に移籍する。こうして、市川は、本作でようやく希望が叶い、宮川と仕事をすることになる。しかも、それは、『金閣寺』という観念小説の映画化であって、その脚本化には、有能な脚本家であり、市川の妻でもあった和田夏十(わだ なっと)と、もう一人の脚本家長谷部慶治の手を借りても難航した。そこら辺の事情を市川は次のように回想している:

 「原作を生かすためには、あくまでも映画としてのオリジナルの切り口を持たねばならないという発想から、原作にある有為子を切り、トップとラスト・シーンの構成を変更した。シナリオが難航して困っていたら、藤井君が大学ノートを三、四冊持って来た。それには、三島さんが小説を書くため歩いて取材したメモが、鉛筆でビッシリ書いてあった(創作ノート)。(中略)脚本の夏十さんと相談して、三島さん独特の名文をいったん横に置いて、親子の話に絞ることにした。『美とは何か』という抽象的なことではなくて、裏日本で育った何でもない青年の生き方、悩み、親との離反、そういったものを、金閣寺を背景に追求してみよう、その方が逆に、原作の主題に迫れるのではないかと。」 —  市川崑「映画化の経緯」より(ウィキペディアからの再引用)

 自分の妻を「夏十さん」と呼ぶ、市川の妻に対する尊敬振りも推察できる引用であるが、本作の映画化に当たっての脚本化の方向性がよく理解できる部分である。「原作の主題」は、別なところにあり、本稿筆者個人としては、放火は金閣寺の絶対的美(それは、また同時に神格たる天皇)からの自己解放の行為と理解する。故に、原作では、主人公は放火後に生きようと覚悟するのであるが、本作では、逆に、主人公は、京都から東京への護送中、滋賀県付近で列車から飛び降り自殺をしており、主人公溝口は、むしろ、金閣寺の美に殉じているのではないか。何れにしても、原作の有為子を切ったことにより、戦中と戦後の対比や、性が人生へコミットする「窓口」であったという、溝口と女性との関わりが本作では薄くなっていることは否めない。であるからと言って、戦後80年以上の経った2026年に本作を鑑賞して、現状において戦前・戦中との関わりがこれ程も薄れている中、本作が原作からこのように離れたことにより、逆に、戦争を知らない世代にとっては、本作の内容がより理解しやすい切り口になってはいないか。

 上に挙げた引用の中に登場する「藤井君」とは、大映のプロデューサーで、本作の企画を担当した藤井浩明(ふじい ひろあき)のことである。三島作品の映画化に尽力した藤井は、1957年作の『永すぎた春』の映画化以降、三島と親交を持つようになり、『炎上』(58年作)、『お嬢さん』(61年作)、『剣』(64年作、市川雷蔵主演の現代劇)、『獣の戯れ』(同年作)、『複雑な彼』(66年作封切)と、三島作品を企画・映画化している。66年には、藤井は、三島の自主製作映画『憂国』を共に製作している程の三島文学への心酔振りであった。

 この市川監督の本作の脚本について、1950年代前半にイタリア留学をし、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学んで帰国した後、溝口健二や市川崑の助監督となった当時の映画理論家とでも言える増村保造が、次のように論評している:

 「三島由紀夫氏の小説『金閣寺』に於ける金閣は、主人公にとって、一つの主観的な美意識であり、映画が追究するには厄介な対象であった。ところが市川監督は、映画化に際し、この『金閣』を、主人公の父親への愛情と、社会的な正義感の結晶に転換し、彼の金閣に対する愛情を見事に客観的に描き出したのである。『炎上』はその意味で、小説の鮮やかな映画的再構成と言えるであらう。」 — 増村保造「原作映画とその映画化」より(ウィキペディアからの再引用)

 上述の引用で、「社会的な正義感の結晶」という部分は筆者には理解しがたいが、「主人公の父親への愛情」は、市川監督の意図とも合致し、よく理解できる。肺結核で病弱な父・溝口承道(浜村純)は、同窓の「驟閣寺」の田山道詮老師(二代目 中村鴈治郎)と違って、日本海を臨む舞鶴市・成生岬(なりゅうみさき)にある小寺の住職に甘んじていた。しかも、その梵妻・あき(北林谷栄)が自分の兄弟である男と不義を働いているのを知っていた。息子・吾市がその不貞を目撃した際には、父はその目を塞いで、吾市を岬に連れて行き、驟閣寺ほど美しいものはこの世に存在しないと言い聞かす。こう言われた吾市は、自分の母を汚らわしいと思う気持ちに逆比例する形で、尊敬する父が考える驟閣寺の「美」が彼にとって絶対的なものになったのである。映画化のための脚本化に対して、市川監督夫妻とは小説の内容の議論はすることはあっても、脚本が如何にあるべきか一切の口出しをしなかった原作者三島は、本作の中のあるシーンに関して次のように記述している:

 「黒白の画面の美しさはすばらしく、全体に重厚沈痛の趣きがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックな美しさを持つてゐる。放火前に主人公が、すでに人手に渡つた故郷の寺を見に来て、みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところは、怖しい白日夢を見るやうである。俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は望めないほどだ。試写会のあとの座談会で、市川崑監督と雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。センチメンタリズムの少しもないところが、外国人にうけるだらう。」 — 三島由紀夫「日記――裸体と衣裳」(昭和33年8月12日付)(ウィキペディアからの再引用)

 蓋し、これは、三島の慧眼であり、筆者も、「みしらぬ住職が梵妻に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところ」から始まるシークエンスは、浜辺に用意された場所に父親が入っている棺桶が置かれ、そこに吾市がマッチで火を点けて、父を自らの手で荼毘に掛ける場面となる。この場面は、正に、後に、父が究極の美と息子に言い聞かせた驟閣寺に放火する光景と重なる、本作における最も重要な場面であったと言えるのである。

 さて、三島が言うところの「白黒の画面の美しさ」を創り出したのは、市川監督が大映に入る時に欲していた、モノクロームの映像美で定評のあった宮川一夫撮影監督であった。宮川は、黒澤明監督の『羅生門』(1950年作)でその白黒撮影の審美眼が世界的にも実証されていたが、その後は、溝口健二監督の『お遊さま』(51年作)、同監督の『雨月物語』(53年作)で、一流の撮影監督としての地位は映画界では揺るぎないものとなっていた。筆者は、とりわけ、白黒映画の美学としては、溝口監督、宮川撮影監督の作品『近松物語』(54年作)をより高く評価するものであるが、市川監督は、とりわけ『雨月物語』での撮影技術の見事さに感嘆していたと言う。本作で、ようやく、市川監督・宮川撮影監督の共作が叶った訳であるが、その後は、このデゥェットは、上述の市川監督作品である、『鍵』(59年作)、『破戒』(62年作)、『東京オリンピック』(65年作)でも成立しており、とりわけ、市川監督作品の『おとうと』(60年作)では、宮川は、いわゆる「銀残し」の手法を開発し、カラー・フィルムの現像時に銀を意図的に残して、カラー撮影に白黒フィルムの蓋いを掛けたようにして、陰影のコントラストをより高める技法を創り出したのであった。

 会社大映側は、本作をカラー作品として撮ることを市川監督に提案していたが、市川は、それに対して、カラーにしては、肝心の炎上のシーンが間延びすることを恐れて、白黒で撮ることを、また、「大映スコープ」の横長の画面比率にすることを条件とした。会社側との交渉で市川の二条件は飲まれたが、宮川にとっては、「シネマスコープ」は初めての挑戦であった。故に、画面の構図の取り方では、市川と宮川は最初は議論を交わすこともしばしばあったが、次第に、お互いに意気投合したと言う。

 映画初盤の、主人公の市川雷蔵が初めて驟閣寺にやってくる場面での、背景の白壁がくっきりと浮き上がり、中間部は土間で灰色、前景が黒の木造の造りという画面構成は、このシーン一つで、禅宗の禁欲的建築構造を感じさせて、観ている者を満足させる場面である。また、主人公が彷徨する、夜の新京極の路地の、宵の闇と店の灯りのコントラストも魅力的である。ウィキペディアによると、主人公が、成生岬の崖から日本海を見下ろす映画中盤のシーンでは、風景の厳しさを出すために、わざわざ曇りの日にロケ撮影を狙い、それでも足りずに、崖一面に墨汁を噴霧器で散布して黒色を誇張したと言う。流石である。

 それでは、原作では「おびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたやう」と表現されている、本作のクライマックスの「炎上」場面では、さて、どんな工夫がされていたか、ウィキペディアに従って述べてみよう。驟閣寺の普通の撮影では、真言宗の寺院である大覚寺の池のほとりに原寸大のセットが建てられて撮影されたが、炎上のシーンのためには、嵐山の川の中州に二分の一のミニチュアが作られて、これを燃やした。しかし、それでも炎上の迫力が出ないので、シネマスコープ・サイズで撮ったものと、普通の35㎜で撮影して、それをシネマスコープ・サイズに伸ばしたものとをモンタージュして制作したと言う。火の粉が夜空に舞い上がる場面では、カンナ屑を燃やしたりもしたのであるが、十分満足のいく撮影とはならず、色々な議論の末、金粉を炎の中に混ぜるアイディアが出て、それを採用することにした。大映の美術監督と言えば、この人と言われる西岡善信がチーフであった美術部スタッフは、黒布を背景とし、餅焼き網のようなものの下から扇風機を金砂子(きんすなこ)を舞い上がらせる「操撮」を工夫したと、西岡は言う:

 「金砂子というのは金箔を屑にしたようなもので、襖に糊を敷いて金砂子を撒くという手法は京都でよく使われていた。それだけだと金が降ってくるだけなので、襖二枚ぐらいの黒布バックに、餅焼き網のようなものの下から扇風機を当て金粉を舞い上らせ、さらに風で流れるように見せるために、横から団扇で扇ぐ。」 —  西岡善信「映画美術とは何か」より (ウィキペディアからの再引用)

 こうして、題名に相応しい「炎上」の場面が撮られた訳である。このシーンは、監督、撮影監督、美術監督の努力が実った、日本映画史に記録されるべき成功例であろう。

 音楽は、作曲家の黛敏郎で、黒地に金閣寺の見取り図を見せるタイトル・ロールの背景音楽には、黛が作曲した『涅槃交響曲』(1958年作)の一部が使われいて、それは、声明であった。本作の芸術性をより高める背景音楽であるが、ウィキペディアによると、黛は劇伴をすべてこの感じで通そうとしたのに対して、市川監督が待ったを掛けて黛と大議論をして、タイトル・ロール以外は、残りは現代音楽風に変えさせたと言う。蓋し、市川監督の正しい指示であった。

 放火の夜に主人公が話しをする五番町の娼妓役の中村玉緒、「洋館の女」役の浦路洋子、「花の師匠」役の新珠三千代は、それぞれ適切な配役で、とりわけ、主人公が憧れる高貴な美を体現していた新珠は、とりわけ、ストーリーの展開上、脇役ではあるが、重要な役柄を演じている。それまで大映の時代劇のスター的存在であった市川雷蔵が、性格俳優として現代劇に初めて挑戦した作品が本作であり、三島も、雷蔵以外にこれ程のはまり役はいないと褒めちぎっているが、その主役を喰っている助演男優が仲代達也である。女との関係では初心な主人公・溝口に対して、仲代演ずる戸刈は、自分の足が不自由であることを逆手に取り、逆に相手に良心の呵責を起こさせて、その呵責を攻め上げて、女を陥落させる汚い手を使う。この手に、洋館の女も花の師匠も籠絡される。この仲代が体現する、悪魔的・メフィストフェレス的な存在は、この現世において美しいと思われているものの化けの皮を剥がす存在であり、仲代の演技力の強烈さを印象付ける、彼の初期の作品の一本に挙げられるであろう。

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炎上(日本、1958年作)監督:市川 崑

 市川崑と言えば、筆者には、1965年作品のドキュメンタリー映画『東京オリンピック』が、まず最初に挙げられる監督である。記憶が正しければ、スタート・ラインからダッシュする黒人陸上短距離選手を、後ろを黒色の背景とし、その選手のみをサイドから撮る形で、しかも、スローモーションで捉えた...