名所の絵葉書の羅列では映画にはならないが、...
映画鑑賞の醍醐味とは、やはり映画館に行って、銀幕の大画面の映像美に圧倒されることであろう。この醍醐味を味あわせてくれる映画は、テレビ映画的撮影が主流となっている昨今では、中々撮られてはいない。また、CGで「捏造」された画面は、どうも薄っぺらで迫力が無い。
久しぶりに本作品を再鑑賞して、懐かしくも思い、はたまた、悲しくも思われた:何故、今節はかような映画が撮られないのかと。或いは、かような映画を撮れるような、押しの効く監督がいなくなったのかと。最近の例で言うと、イギリス人監督Christopher Nolanや同じくイギリス人監督のSam Mendesであろうか。Chr.ノーランは、2017年の作品『ダンケルク』で、35㎜版、70㎜版、IMAX版と、色々なヴァージョンで撮っており、映画作家としての映像へのこだわりを示している。また、S.メンデスは、2019年作の『1917』において、IMAXヴァージョンで、しかもノーカットで全作を撮るという快挙を成し遂げている。さすがは、伝統を重んじる大英帝国出身の映画監督たちであろうか。
本作は、意外なことに、70mmなどではなく、普通の35㎜版であるが、照明を人工の灯りではなく、18世紀の時代に合わせて、蝋燭の燈りの下で撮ろうという、N.Y.人、Stanley Kubrickのこだわりがあったことにより、とりわけ、明るいレンズ、Zeissツァイス製のレンズPlaner50mm/F0,7と、映像素材にEastmancolorとMetrocolorを使用している。また、特別の現像技術を採用し、さらに、現実とは異なり、より数多くの蝋燭を燈して、撮影したと言う。撮影監督は、イギリス人John Alcottで、キューブリックとは、『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』(1971年作)、本作、そして、『シャイニング』(1980年作)で共作している。彼は、本作でUSAアカデミー・撮影賞を受賞した。
さて、原作は、イギリス19世紀の作家William M. Thackerayサッカレーのピカレスク小説『Barry Lyndonの備忘録』である。原作は、風刺的なウィットを効かせながら、アイルランド人Lyndon自身が自分の、場合によっては「ほら」を吹かせた「冒険譚」を一人称で語る物語りであるのに対し、映画では、ナーレーターが第三者的にLyndonの皮肉な運命を語るという展開である。
本作が、キューブリック監督の歴史物の代表作とすれば、彼には、それぞれのジャンルで「傑作」を作ろうという野望があったのかもしれない。1956年作の『現金に体を張れ』では、ドキュメンタリー・タッチのフィルム・ノワール物を、1960年作の『スパルタクス』では、古代ローマをテーマとした「サンダル」物を、 1968年作の『2001年』は言わずもがな、1971年作の『時計仕掛けのオレンジ』では、未来社会批判物を、1980年作の『シャイニング』では、ホラー物を、1987年作の『フルメタル・ジャケット』では、アメリカ人の良心的映画監督であれば一度は撮らなければならないベトナム戦争物を撮っているのである。私見、キューブリック監督作品で第一の傑作『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか 』は、「冷たい戦争」の愚かさを風刺物タッチで描いた作品である。制作は、冷戦中の真っ只中の1964年である。
それでは、本作のストーリーに話しを戻そう。本作の制作年1975年という時期に、約200年前の、18世紀の、ある成り上がり者が如何に成功し、没落したのかを、歴史物のパノラマとして見せることの、キューブリックの監督として、いや、映画作家としての心意気に筆者は感服した。
貴族の館やバロック庭園の、名所の絵葉書然としたものをただ羅列するだけでは、映画にはならない。17,18世紀の名画を持ってきて、それを映像化するだけでは、やはり映画作品にはならない。そこには、歴史的場面を再構成する時の、即ち、幻影を本物のように映像化する監督やキャメラマンの眼とセンスの問題がある。豪壮な館や豪奢なバロック庭園の絵葉書の下劣さに堕さないこと、巨匠の画家の名画の場面に似せながら、それでいてキッチュに流れないこと、その自己の審美眼を訓練した賜物を作品として献上できる、映画作家としての、その「誇り」に、筆者はただただ首を垂れるのみである。
蛇足ながら、このマスター・ピィースの中で惜しむらくは、ライアン・オニールの非個性的な顔立ちであろうか。そして、本作品を観ていて、聞かせられる音楽である。この物語がフランス革命勃発直前のストーリーであるとすると、キューブリックは、ロココ時代の音楽家、例えばモーツアルトなどの作品を使っているのではあるが、何故に19世紀ドイツ・ロマン派の作曲家シューベルトのピアノ三重奏(変ホ長調、op. 100)も、作中で聞こえてくるのか。これでは、どうしても音楽史的にも辻褄が合わないのである。(因みに、作中で、プロイセン軍の兵士たちが居酒屋で歌うHohenfriedberger Marschホーエンフリートベルク・マルシュは、メローディー自体は確かに18世紀のものであるが、歌詞は19世紀半ばのものであると言う。これは、果たして、音楽監修のミスか?)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
リバティ・バランスを射った男(USA、1962年作)監督:ジョン・フォード
西部劇の「古典」をストーリー的に捉えると、北アメリカ大陸の西部を舞台として、ピストルの威力にものを言わせて、無法者や北米「インディアン」と闘って、正義と秩序を維持する構図と言えるであろうか。これを古典的西部劇と名付けるとすると、北米先住民の観点に立って、ストーリーを語ろうとした...
-
まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。 すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには...
-
本作、画面の構図と色彩感覚がいい。画面の構図は、監督・是枝裕和の才能であろう。色彩感覚は、むしろ撮影監督・中堀正夫の持ち味であろうか。 原作は、神戸出身の作家・宮本輝の1978年発表の同名小説である。筆者は原作を読んでいないので、本作のストーリー(脚本:荻田芳久)が原作のそれ...
-
グローバル・プレイヤーとしての製薬・生命維持産業がその社会を支配しているというプロットは、SF映画でよく聞く話しで何も目新しくない。ただ、それが、社会の多数派を占める吸血鬼人間に、人血を供給するという点は、中々面白い。 とは言え、その人血の製造が、人間の生命を維持する形で、し...
0 件のコメント:
コメントを投稿