命からがらモガディシュー市内の戦闘区域を撤退してきたアメリカ兵十数人は、駆け足で国連軍の管理下にあるスポーツ競技場を目指していた。そのスポーツ競技場へのゲートに続く道路上、あと200メートルもあるであろうという所である。
突然、煙に包まれた中から現地のソマリア人の子供達が数人、笑いながら、そしてアメリカ兵に手招きをしながら、アメリカ兵を先導するように道をいっしょに走り出てくる。この子供達の笑顔を、モガディシュー市内の前日の15時40分以降一昼夜を掛けた市街戦の「地獄」と比べると、それは何という違いであることか。
すると、道路上に、ビジネスマンなのであろう、スーツを身につけたソマリア人が携帯電話を掛けながら何か話している光景が目に入ってくる。今までの異常であるはずの戦闘状態の中に突然表出した日常的行為。しかし、それはアメリカ人の目から見た世界の捉え方であり、内戦状態の中に生きているソマリア人にとっては戦闘状態こそ「常態」であり、その常態の中で、所謂「日常的」生活もまた営まれているのである。沿道には、アメリカ兵を歓迎しているのか、揶揄しているのか、これまた現地のソマリア人達が立ち並んでアメリカのエリート兵士に手を振っている。
このソマリア人の「世界」から隔絶した世界が、実は、国連軍やアメリカ軍のベース・キャンプなのであり、駆け足で、そして疲れきって競技場のゲートをくぐりぬけた、これらアメリカ兵士を出迎えてくれたのは、パキスタン人風の軍属らしき数名で、彼らは、手にお盆を持って、「死地」から逃れてきたアメリカ兵たちにコップに入った水を差し出してくれる。何という違いであろうか。
安心感がどっと溢れ出る。この競技場は、ソマリアという「海」の中の絶海の孤島であり、植民地主義的「地上の楽園」である。こうして、二日間に亘って繰り広げられた「モガディシューの戦い」が事実上終わった。それは、本来一時間で終わるはずであった、アメリカ派遣軍の独断専行の作戦だったのであるが……。
約二時間二十分のうち二時間は戦闘場面に費やされている本作品は、その戦闘場面がまるで従軍カメラマンがその場にいて撮ったような、リアルで迫力のある作品である。ロケット弾が当たって下半身がちぎれた人体や、トラックのドアを突き破ったロケット弾が胴体に突き刺さって即死する兵士、吹き飛ばされた右足の応急処置が上手くいかず大量出血で死ぬ兵士などと、戦場の現実と真実 (「自分が殺られるか、殺られないか、自分が左右することは出来ない」) が余すところなく描かれており、「散花」した18人の(19人ではない)アメリカ兵の戦死の場面をほとんど個々に記録しようとしているかのような印象である。
一方、確かに自分の子供に撃たれて死ぬソマリア人民兵のある父親や、恐らく自分の夫であろう、その殺られた夫の銃を取って仇を討とうとするソマリア女性が撃たれるシーンなどがあることはあるが、基本的にはウンカの如くに押し寄せるソマリア人民兵が機銃掃射で次から次へとなぎ倒されていくという、かつてのベトナム戦争のベトコン兵の無名性とこれは同じレベルの表現である。この「モガディシューの戦い」で、それが、たとえ千人以上の死者をソマリア民兵の側で出したことが本当だとしてもである。結局はアメリカ人の視点で撮られている映画であることを頭に入れて見る必要があるであろう。
ところで、 この映画の製作者は、例の言語道断の駄作、安っぽいCG技術で作られた映像に彩られた、陳腐なメロドラマ・戦争映画『パール・ハーバー』の製作者である。イギリス人監督R.スコットは、あの『パール・ハーバー』の監督よりは才能があるのであろう。映画は中々よく取りまとめられており、ストーリー自体はアメリカ万歳の愛国主義映画には堕してはいない。しかし、突き詰めると、その内容は、個々の兵士の「仁義」、即ち「戦友は置き去りにしない」という極小化されたレベルのストーリーであり、この作品には、『アポカリプス・ナウ』のようなテーマの大局性の次元が欠如している。ジェノサイドの蛮行に国際連合軍が介入することの是非が語られていないのである。
登場人物の一人が映画の中で語っているように、兵隊として考えすぎないことがいいのか。つまるところは、兵隊も「父親」なのであり、「英雄」も「ウォー・ジャンキー」なども本来存在せず、兵隊とはただ戦友を助けるために戦争をしているというのか。これがこの作品のメッセージだとすれば、これでは筆者には物足りない。こう考えると、映画の最初のプラトンの箴言の、中途半端な引用が象徴的である。即ち、「戦争の終わりを見る者はただ死者のみなり」と。では、諸君考えてみよう。戦争に生き残った者はどうするべきであるのか、と。
すると、道路上に、ビジネスマンなのであろう、スーツを身につけたソマリア人が携帯電話を掛けながら何か話している光景が目に入ってくる。今までの異常であるはずの戦闘状態の中に突然表出した日常的行為。しかし、それはアメリカ人の目から見た世界の捉え方であり、内戦状態の中に生きているソマリア人にとっては戦闘状態こそ「常態」であり、その常態の中で、所謂「日常的」生活もまた営まれているのである。沿道には、アメリカ兵を歓迎しているのか、揶揄しているのか、これまた現地のソマリア人達が立ち並んでアメリカのエリート兵士に手を振っている。
このソマリア人の「世界」から隔絶した世界が、実は、国連軍やアメリカ軍のベース・キャンプなのであり、駆け足で、そして疲れきって競技場のゲートをくぐりぬけた、これらアメリカ兵士を出迎えてくれたのは、パキスタン人風の軍属らしき数名で、彼らは、手にお盆を持って、「死地」から逃れてきたアメリカ兵たちにコップに入った水を差し出してくれる。何という違いであろうか。
安心感がどっと溢れ出る。この競技場は、ソマリアという「海」の中の絶海の孤島であり、植民地主義的「地上の楽園」である。こうして、二日間に亘って繰り広げられた「モガディシューの戦い」が事実上終わった。それは、本来一時間で終わるはずであった、アメリカ派遣軍の独断専行の作戦だったのであるが……。
約二時間二十分のうち二時間は戦闘場面に費やされている本作品は、その戦闘場面がまるで従軍カメラマンがその場にいて撮ったような、リアルで迫力のある作品である。ロケット弾が当たって下半身がちぎれた人体や、トラックのドアを突き破ったロケット弾が胴体に突き刺さって即死する兵士、吹き飛ばされた右足の応急処置が上手くいかず大量出血で死ぬ兵士などと、戦場の現実と真実 (「自分が殺られるか、殺られないか、自分が左右することは出来ない」) が余すところなく描かれており、「散花」した18人の(19人ではない)アメリカ兵の戦死の場面をほとんど個々に記録しようとしているかのような印象である。
一方、確かに自分の子供に撃たれて死ぬソマリア人民兵のある父親や、恐らく自分の夫であろう、その殺られた夫の銃を取って仇を討とうとするソマリア女性が撃たれるシーンなどがあることはあるが、基本的にはウンカの如くに押し寄せるソマリア人民兵が機銃掃射で次から次へとなぎ倒されていくという、かつてのベトナム戦争のベトコン兵の無名性とこれは同じレベルの表現である。この「モガディシューの戦い」で、それが、たとえ千人以上の死者をソマリア民兵の側で出したことが本当だとしてもである。結局はアメリカ人の視点で撮られている映画であることを頭に入れて見る必要があるであろう。
ところで、 この映画の製作者は、例の言語道断の駄作、安っぽいCG技術で作られた映像に彩られた、陳腐なメロドラマ・戦争映画『パール・ハーバー』の製作者である。イギリス人監督R.スコットは、あの『パール・ハーバー』の監督よりは才能があるのであろう。映画は中々よく取りまとめられており、ストーリー自体はアメリカ万歳の愛国主義映画には堕してはいない。しかし、突き詰めると、その内容は、個々の兵士の「仁義」、即ち「戦友は置き去りにしない」という極小化されたレベルのストーリーであり、この作品には、『アポカリプス・ナウ』のようなテーマの大局性の次元が欠如している。ジェノサイドの蛮行に国際連合軍が介入することの是非が語られていないのである。
登場人物の一人が映画の中で語っているように、兵隊として考えすぎないことがいいのか。つまるところは、兵隊も「父親」なのであり、「英雄」も「ウォー・ジャンキー」なども本来存在せず、兵隊とはただ戦友を助けるために戦争をしているというのか。これがこの作品のメッセージだとすれば、これでは筆者には物足りない。こう考えると、映画の最初のプラトンの箴言の、中途半端な引用が象徴的である。即ち、「戦争の終わりを見る者はただ死者のみなり」と。では、諸君考えてみよう。戦争に生き残った者はどうするべきであるのか、と。
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