「一に脚本、二に脚本、(三・四がなくて、)五も脚本」
タイトル・ロールの一番最初に、「協力 防衛庁」と出てくる。今の「防衛省」の前身である。制作年の1964年と言えば、第一回の東京オリンピックの年でもあるが、防衛省がまだ防衛「庁」であったことを思うと、時代は変わったとも思える。
しかし、本作に防衛庁が全面的に協力したということであれば、それでは、本作は、防衛庁の「プロパガンダ映画」であり、「プロパガンダ映画」には、よくあることで、本作の脚本は、駄作中の駄作である。
当時流行っていた「民衆視点」の歴史観よろしく、本作でも、一等主計兵の目で、駆逐艦雪風の、太平洋戦争中の運命が語られるが、ストーリーは、この「奇跡の強運艦」の「生きざま」を、おとなしく、その起工・進水・竣工から、戦後直後までを順を追って、詰まらなく描く。
こんな駄作に駆り出された松竹の看板女優岩下志麻も、役者としての見せどころがなく、出ては、そのままストーリー上から消える。62年に撮られた、巨匠小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』で長女役をこなした彼女は、66年に、松竹ヌヴェル・ヴァーグの立役者の一人篠田正浩監督と結婚し、日本現代アート映画の顔の一人になる女優である。それを思うと、本作での岩下は、痛々しいほどであるが、脚本が良くなければ、いくらいい俳優であっても、映画は救えないということであろう。A.ヒッチコックにならって、述べるとすれば、「一に脚本、二に脚本、(三・四がなくて、)五も脚本」とでも言えようか。
筆者が、不肖、一脚本家であったとすれば、まずは、艦の腹に平仮名で左書きで「ゆきかぜ」と書いてあるのを、カタカナの右書きで「ゼカキユ」とする。時は、戦前であるからである。そして、時間軸を戦後の復員輸送艦時代(46年2月から同年年末まで)とし、そこを基点として、過去から飛び石的にエピソードを語って、ストーリー上の現時点に戻ってきて、さらに、エンドロールで、未来を語る。なぜなら、「ユキカゼ」は、戦時賠償艦としての運命を辿り、48年以降「丹陽(タンヤン)」と名称を変えて、中華民国海軍の軍艦となり、更には一時期、その旗艦となるからである。
なぜ時間軸を復員輸送艦時代とするかは、ユキカゼが、「奇跡の強運艦」として、太平洋戦争を生き残ったことをはっきりさせるためで、そのためにいいエピソードがあるからである。
ユキカゼは、終戦後、復員輸送艦として改造され、1946年2月11日に舞鶴から佐世保を経由して中国汕頭へ向かう最初の引揚任務に出発する。本作のラストシーンは、恐らくこの時の光景を映像化したものであろう。同年7月から10月にかけては、戦前には中国東北部と華北を結ぶ戦略的に重要な地域の、拠点港湾都市であり、また満洲から日本への引揚船の出発地としても有名となる満州・葫芦島市(ころとう-し)からの復員・避難民輸送任務に計五回当る。更に、1946年12月28日までに、ラバウル二回、ポートモレスビー一回、サイゴン及びバンコク二回、那覇四回の計15回の復員輸送任務を遂行し、約1万3千人以上を日本に送り届けた。その中には、ラバウルのあるニューブリテン島から復員した、後に漫画家として有名となる水木しげるもいたと言う。また、サイゴン及びバンコクへの往路では現地法廷へ向かうB・C級戦犯を乗せていたのである。
この時期のことである。ウィキペディアによれば、無傷のユキカゼの姿を怪訝に思った引揚者のある一人が、「お国が大変と言う時に、一体この艦はどこで何をしていたのか。今あちこち見回ったが、弾丸の跡一つ無いではないか。内地を出たのはこれが初めてだろう!」と難詰したことがあったと言う。このエピソードは、ユキカゼの「強運」をよく物語るものであると同時に、敗戦直後の日本を活写するのに格好のものであると筆者には思える。
この1946年を基準として、過去に遡るとしたら、ユキカゼは、太平洋戦争の緒戦から敗戦まで、16回以上の主要な作戦に参加しているので、それを一々追っかけていては、些末になる。それ故、三つのエピソードを選んで、駆逐艦本来の水雷戦に関わることが出来た第三次ソロモン海戦、駆逐艦が輸送任務に携わざるを得なくなるガダルカナル島撤退作戦、そして、「不沈艦」大和が「水上特攻」などという不条理な作戦に駆り出されて沈没し、ユキカゼが、海に放り出された大和の乗組員を救助したエピソードの三つを取り上げてみてはいかがであろう。
駆逐艦とは、その艦艇類別において、19世紀末から20世紀初頭にかけて成立した類別であり、水雷艇に対抗すべき駆逐艇として誕生し、それが水雷艇駆逐艦に発展し、更に、名称の簡易化が行なわれて、「駆逐艦」となったものである。水雷艇に対して水雷を以ってする訳で、今度は、防衛的な意味だけではなく、駆逐艦そのものが、敵艦隊への水雷襲撃を行ない、更に、対潜、偵察・哨戒活動も担うに至る。最初は、戦闘艦として、「軍艦」に類別されていたが、日本では、日露戦争以降の1905年には、戦艦や巡洋艦などの艦種から自立して、独自の艦種となる。1912年(大正元年)に等級を制定し、計画排水量1.000噸以上を一等、1.000噸未満600噸以上を二等、600噸未満を三等駆逐艦と分類する。1931年に、三等駆逐艦の等級別を廃止し、34年には、基準排水量1.000噸以上を一等駆逐艦、1.000噸未満を二等駆逐艦とし、等級分類の変更を行なう。
水雷艇に対する、より大きな攻撃力を求められていた艦種としての駆逐艦は、元々大型化への傾向を内在していたが、艦隊行動が出来る航海性能の高さや、艦隊決戦における水雷戦を十分に行なえる、より強い打撃力を要求されるに至って、この艦隊型駆逐艦への傾向は更に強められた。1921年のワシントン海軍条約により、主力艦の保有制限が取り決められると、制限された分を補助艦で補おうと、小型巡洋艦とでも言える、駆逐艦の重武装化へと向かう。
こうして出来上がったのが、吹雪型駆逐艦である。計画排水量を約1.700噸とし、凌波性能を追求した船形による良好な航海性能、艦橋を露天式から密閉式に改めるなどの居住性の改善、排水量に対して比較的重武装にした兵装化(砲塔式12,7cm連装砲3基、61センチ魚雷9射線)を目指した。
1930年のロンドン海軍軍縮条約の結果、駆逐艦を含む補助艦艇の保有合計排水量と個艦排水量の制限が入り、日本は1.500噸(基準排水量)を超える駆逐艦の建造が不可能となる。初春型駆逐艦(計画排水量1.400噸)や、初春型駆逐艦の準同型艦ともいえる艦級「白露型駆逐艦」が建造される。しかし、この型は、小排水量に過大な武装を盛り込んだことにより、復元性能や船体強度が問題となり、最終的に、建造計画の中断を余儀なくされる。
満州事変後の、国際連盟からの日本の脱退(33年)により、戦闘艦の建造制限がなくなると、日本は、再び、吹雪型の改良型を求める。これが、朝潮型駆逐艦であり、その後に建造される駆逐艦(陽炎型や夕雲型)の基本型となる。ユキカゼは、この陽炎型艦の八番艦である。
全19隻が建造された陽炎型駆逐艦と、それから、その改良型である夕雲型駆逐艦とは、両者を合わせて「甲型」駆逐艦と呼ばれる。この甲型は、確かに、最新鋭の艦隊型駆逐艦として最良の完成形と言えるのであるが、しかし、対空・対潜能力が優れているとは言えず、太平洋戦争で第一線に投入されると、終戦まで生き残ったのは、陽炎型と夕雲型がそれぞれ19隻、そして、前身となった朝潮型10隻と合わせた全48隻中、ユキカゼただ一隻のみとなる。損耗率98%、生存率2%となり、いかにユキカゼが、強運艦であったかが窺われる。(因みに、甲型に対して、乙型駆逐艦、つまり、秋月型駆逐艦は、防空に兵装の重点を動かしている点で、丙型駆逐艦、つまり、島風型駆逐艦は、40ノットが出る高速艦である点で、丁型駆逐艦、つまり、松型駆逐艦は、兵装の重心を対空・対潜に移し、更に生産を容易なものとした点で、その特徴がある。)
幸運艦としては、『呉の雪風、佐世保の時雨』と、白露型駆逐艦二番艦であるシグレが、よくユキカゼといっしょに言及される。シグレもまた緒戦当時からの「歴戦の勇士」であったが、1945年1月、輸送船団護衛中にマレー半島近海で米潜水艦に撃沈される。実は、この護衛任務には、シグレではなく、ユキカゼが当たることになっていたのであるが、機関故障のために直前に離脱し、このために、護衛の駆逐艦がシグレを入れて三隻に減っていた中であった。このシグレの沈没を以って、白露型駆逐艦全10隻が喪失したことになるが、シグレは、奇しくも、ユキカゼの身代わりになったとも言える。
また、同年4月の坊ノ岬沖海戦においても、ユキカゼはその「強運」を示す。この、沖縄への海上特攻により、「不沈艦」戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦浜風、朝霜、霞が沈没、駆逐艦涼月が大破、冬月が中破するという中、太平洋戦争中、三代目の艦長寺内正道は、ウィキペディアによると、「艦橋に椅子を置いて天井の窓から首を出し、航海長の右肩を蹴ると面舵、左肩を蹴ると取舵という操舵方法でアメリカ軍機の攻撃を殆ど回避した」と言われ、また、魚雷一本が命中しかけたものの、どういう訳か、ユキカゼの艦底を通過したというのである。こうして、ユキカゼは、敵潜水艦に攻撃される危険を冒して、長時間、大和他の乗組員の救助に当たった。その数日後には、中国の廈門市で座礁し、進退不能となった姉妹艦天津風が自沈し、全19隻建造された陽炎型駆逐艦もユキカゼ一隻となって終戦を迎えることとなる。
中華民国海軍から除籍となり、既に60年代半ばに解体されていたという丹陽、即ちユキカゼは、奇しくも、真珠湾奇襲の丁度30年後の、1971年12月8日、横浜港において中華民国政府より、ユキカゼの舵輪と錨のみが返還された。現在、ユキカゼの舵輪は、江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に、錨はその庭に展示されている。
2023年4月16日日曜日
2023年4月12日水曜日
インディアン狩り(USA、1968年作)監督:シドニー・ポラック
北アメリカ大陸の先住民ネイティブ・アメリカンの一部族であるKiowaカイオワ族は、18世紀に、恐らく、ヨーロッパから入植してきた白人たちに押しやられて西進せざるを得なかったスー族によって、南部大平原へさらに追いやられた。彼らは、言わば騎馬民族として、コマンチ族と同盟し、現在で言うテキサス州全土で略奪を行う。19世紀半ば以降になると、アメリカ・白人政府に、テキサスの「領土」を明け渡し、現在のオクラホマの保留地へ移住するよう強制される。これに対し、彼らは、再びコマンチ族と組んで一大抵抗戦を組織し、これにより、白人の入植地などは戦火で包まれることになる。こうして、彼らには賞金が掛けられ、その賞金を目当てに、白人の賞金稼ぎが彼らを追跡する。これらの、「インディアン」の賞金首を「ハンティング」する白人の賞金稼ぎを、本作の英語原題となる「Scalphunter」という。
この賞金稼ぎの一味の一つが、Jim Howieハウイー(俳優テリー・サヴァラスが悪役を好演)を首領とする一団である。彼らは、酔っ払ったインディアンの一行を見つけ、彼らをあっさり撃ち殺してしまう。インディアン達が丁度毛皮も一山持っていたことから、一味はこれもチャッカリ頂いてしまうのであるが、それが、彼らの「運の尽き」であった。実は、この毛皮の一山の、元々の所持者は、Joe BassというTrapperトラッパーで、先程の、ハウイー一味に殺されたインディアン達に強要されて、毛皮と、それから彼が携行していた荷物を「物々交換」させられていたのである。
さて、この「物々交換」の、インディアン側の交換物とは、何と黒人奴隷であった。この黒人は、コマンチ族から「黒い羽根」と呼ばれていたが、口から先に生まれてきたと言えるほど、口達者な奴隷で、本名をJoseph Leeといい、どういう訳か、学があり、中世のヨーロッパ知識人よろしく、ラテン語の箴言を引用し、Joe Bassとは異なり、読み書きも出来るという、文化人「奴隷」なのである。その一方で、彼は、野生で生きる術を何も知らず、腕力に訴えて敵対者に勝つ根性もない人間であった。
この「文化人」の黒人奴隷Josephと、野生で生きる「野蛮人」の白人Joeの掛け合い、そして、この両者の、奴隷と主人の関係が次第に対等の関係へと発展していくストーリー展開が、本作の「旨味」であり、本作がウェスタン・コメディーの良作の一本であると言われる所以である。しかも、黒人と白人の立場が、文化人と野蛮人と逆転しているところに、本作の「コメディー性」があるのであり、人種差別の重い問題を、こうしたコメディーとして扱っているところに、本作の、とりわけ脚本(アメリカ人脚本家William W. Nortonの初期の脚本)の「強み」があるのである。
黒人奴隷Josephを演じるOssie Davisも、白人の野蛮人を演じるBurt Lancasterも、1960年代前半からの公民権運動にひとかたならぬアンガジュマンを示してきた俳優であった。B.ランカスターが、本作の製作者の一人となっていることからも、彼の本作に対する思い入れの深さが感じられる。
ところで、このランカスターとは私生活で一時深い仲であったのが、本作のヒロインShelley Wintersウィンタースで、本作では彼女は、その喉のいいところも示して、一曲歌っている。その彼女は、本作では、悪党ハウイーの、少々下品な愛人Kateを演じているのであるが、彼女を含む何人かの女性が馬車に乗り込んで、一味と同行をしている。こうした役柄で、S.Winters もこの映画のストーリーに絡むことになる。映画の終盤で、映画の初めの方でハウイー一味に殺されたカイオワ・インディアン達の仇を取る形で、その酋長「黒色のカラス」に率いられたカイオワ・インディアンの別動隊にハウイー一味が皆殺しに遇うことになる。この時、S.Winters達、白人女性達は生き残り、彼女達は、インディアン達に連れ去られる運命となる。
その「運命」を悟ったのか、S.Wintersは一席演説をぶつ:„Indian Man, I don't know how many wifes you have now, but you're going to have yourself the damnedest white squaw in the entire Kiowa Nation!“(the damnedest white squawとは、今風に言えば、「とんでも白人スコー女」とでも訳せようか、squawとは、今では差別用語として使用が憚られるインディアン語で「女」を意味し、とりわけ、白人の妻となったインディアン女性を言うとのことである。)
S.Wintersと言えば、1950年作で、アンソニー・マン監督の正統派西部劇『ウィンチェスター銃'73』で、J.ステュワートと共演でヒロインを演じた女優である。ここでは、開拓者の若い妻役を演じたS.Wintersは、表題のウィンチェスター銃を持って、危険とあれば、相手を射殺する女丈夫であり、仮にインディアンに生け捕りにされそうものなら、恐らくは、捕まる前に、自らを撃って自殺していただろう役柄である。その彼女が、18年後であるが、同じ西部劇ジャンルである本作では、インディアンの「妻」になることを、潔しくとはしないものの、それを受け入れるのである。『ウィンチェスター銃'73』が正統派ウェスタンの「走り」であるとすれば、本作の『インディアン狩り』を以って、西部劇ジャンルが変わっていく転換点がはっきりとマーキングされた言えるであろう。あの、アーサー・ペン監督の『小さな巨人』が上映されるのは、本作の二年後である。
この賞金稼ぎの一味の一つが、Jim Howieハウイー(俳優テリー・サヴァラスが悪役を好演)を首領とする一団である。彼らは、酔っ払ったインディアンの一行を見つけ、彼らをあっさり撃ち殺してしまう。インディアン達が丁度毛皮も一山持っていたことから、一味はこれもチャッカリ頂いてしまうのであるが、それが、彼らの「運の尽き」であった。実は、この毛皮の一山の、元々の所持者は、Joe BassというTrapperトラッパーで、先程の、ハウイー一味に殺されたインディアン達に強要されて、毛皮と、それから彼が携行していた荷物を「物々交換」させられていたのである。
さて、この「物々交換」の、インディアン側の交換物とは、何と黒人奴隷であった。この黒人は、コマンチ族から「黒い羽根」と呼ばれていたが、口から先に生まれてきたと言えるほど、口達者な奴隷で、本名をJoseph Leeといい、どういう訳か、学があり、中世のヨーロッパ知識人よろしく、ラテン語の箴言を引用し、Joe Bassとは異なり、読み書きも出来るという、文化人「奴隷」なのである。その一方で、彼は、野生で生きる術を何も知らず、腕力に訴えて敵対者に勝つ根性もない人間であった。
この「文化人」の黒人奴隷Josephと、野生で生きる「野蛮人」の白人Joeの掛け合い、そして、この両者の、奴隷と主人の関係が次第に対等の関係へと発展していくストーリー展開が、本作の「旨味」であり、本作がウェスタン・コメディーの良作の一本であると言われる所以である。しかも、黒人と白人の立場が、文化人と野蛮人と逆転しているところに、本作の「コメディー性」があるのであり、人種差別の重い問題を、こうしたコメディーとして扱っているところに、本作の、とりわけ脚本(アメリカ人脚本家William W. Nortonの初期の脚本)の「強み」があるのである。
黒人奴隷Josephを演じるOssie Davisも、白人の野蛮人を演じるBurt Lancasterも、1960年代前半からの公民権運動にひとかたならぬアンガジュマンを示してきた俳優であった。B.ランカスターが、本作の製作者の一人となっていることからも、彼の本作に対する思い入れの深さが感じられる。
ところで、このランカスターとは私生活で一時深い仲であったのが、本作のヒロインShelley Wintersウィンタースで、本作では彼女は、その喉のいいところも示して、一曲歌っている。その彼女は、本作では、悪党ハウイーの、少々下品な愛人Kateを演じているのであるが、彼女を含む何人かの女性が馬車に乗り込んで、一味と同行をしている。こうした役柄で、S.Winters もこの映画のストーリーに絡むことになる。映画の終盤で、映画の初めの方でハウイー一味に殺されたカイオワ・インディアン達の仇を取る形で、その酋長「黒色のカラス」に率いられたカイオワ・インディアンの別動隊にハウイー一味が皆殺しに遇うことになる。この時、S.Winters達、白人女性達は生き残り、彼女達は、インディアン達に連れ去られる運命となる。
その「運命」を悟ったのか、S.Wintersは一席演説をぶつ:„Indian Man, I don't know how many wifes you have now, but you're going to have yourself the damnedest white squaw in the entire Kiowa Nation!“(the damnedest white squawとは、今風に言えば、「とんでも白人スコー女」とでも訳せようか、squawとは、今では差別用語として使用が憚られるインディアン語で「女」を意味し、とりわけ、白人の妻となったインディアン女性を言うとのことである。)
S.Wintersと言えば、1950年作で、アンソニー・マン監督の正統派西部劇『ウィンチェスター銃'73』で、J.ステュワートと共演でヒロインを演じた女優である。ここでは、開拓者の若い妻役を演じたS.Wintersは、表題のウィンチェスター銃を持って、危険とあれば、相手を射殺する女丈夫であり、仮にインディアンに生け捕りにされそうものなら、恐らくは、捕まる前に、自らを撃って自殺していただろう役柄である。その彼女が、18年後であるが、同じ西部劇ジャンルである本作では、インディアンの「妻」になることを、潔しくとはしないものの、それを受け入れるのである。『ウィンチェスター銃'73』が正統派ウェスタンの「走り」であるとすれば、本作の『インディアン狩り』を以って、西部劇ジャンルが変わっていく転換点がはっきりとマーキングされた言えるであろう。あの、アーサー・ペン監督の『小さな巨人』が上映されるのは、本作の二年後である。
2023年4月10日月曜日
大反撃(USA、1969年作)監督:シドニー・ポラック
文化論としての奥の深さがある、「変則」戦争映画。一度、ご覧あれ。
アメリカの知識人にはよくヨーロッパ文化への賞賛から、そして、その底の浅いアメリカ文明自体への嫌悪感からか、歴史あるヨーロッパ文化に対するコンプレックス、乃至は、劣等感を持つ者がいる。本作に登場する、アメリカ歩兵部隊のベックマン大尉(パトリック・オニール)は、美術専門家でもあり、ヨーロッパ芸術に限りない尊敬を抱いている人物である。そのような人間の目から見れば、霧に包まれた冬のアルデンヌ地方の森の中にある、由緒ある城館の、伯爵夫人を「もの」にしているFalconerファルコナー少佐(バート・ランカスター)は、文化の花を踏みにじる「野蛮人」である。(因みに、少佐の階級の将校が、大隊ならばまだ分かるのであるが、小隊/分隊八人を率いているのも、アンバランスで不思議である。)
一方、伝統的権威をものともせず、傍若無人に振舞う「アメリカ人」に、ある種の生命のバイタリティーを感じているのが、ヨーロッパ人なのかも知れない。隠花植物のように日陰にぼんやりと、か弱く棲息しているものが、頽廃、そして没落を予言され、その没落を自覚しているのであり、それが西欧文明なのである。アメリカ人のそのバイタリティーの前には、歴史の覇権者としての席を譲らざるを得ないと見たのか、de Maldoraisドゥ・マルドレ伯爵(フランス人俳優ジャン=ピエール・オモン)は、自分より随分と若い伯爵夫人、実は自分の姪テレーズとファルコナー少佐の睦言を敢えて容認する。
このように、頽廃するヨーロッパ文化対「野蛮な」アメリカ文明の間の「文化・文明」論風に解釈できる戦争映画というのも珍しいのではないか。本作の原作を読んでいないので、その内容には寡聞であるが、さすがは純文学作品(William Eastlakeの、本作の英題名と同名の『Castle Keep』)を映画化しているからであろう、中々奥が深い。浅薄な邦題『大反撃』では、全く当てる的が異なっており、困ったものである。せめて、『城塞死守』ぐらいには命名してもらいたかったものである。
本作の前半における、この「文化・文明」論に「色合い」を添えるのが、ファルコナー少佐が率いる小部隊を構成する兵隊たちの顔ぶれである。上述の、美術専門家のベックマン大尉、宣教師志望の中尉、シャバではパン職人の軍曹、ドイツ車Volkswagen狂いの伍長、そして、小説家志望の二等兵で本作のナレーターを務めるベンジャミンなどである。このベンジャミンは、恐らくは、原作の作者Eastlakeの姿が引き写されている存在であろう。彼は、映画の終盤、ファルコナー少佐から、ある重要な「任務」を追わせられることになる。しかも、彼は、黒人であることも、気に掛けておいて点であろう。本作の制作が1969年であれば、60年代前半の公民権運動の展開、68年からの学生運動の高揚を背景にしていることは間違いない。
と、ドイツ軍の機甲師団が、突如、城に攻めてくる。時は、1944年冬である。アルデンヌの森からのドイツ国防軍の、西部戦線における最後の「大」反撃が始まったのであった。城を死守するとなぜか決断したファルコナー少佐の命令の下、防衛線を敷くアメリカ軍分隊である。壕に囲まれた城の屋根に50㎜機関銃座と迫撃砲を据えさせ、彫刻とバラに埋もれた庭に塹壕が掘られる。
こうして本作の前半とは全く異なるストーリー展開と後半はなる。攻めてくるドイツ軍と死守するアメリカ軍との戦闘の中、庭にある彫刻群は無残に打ち砕かれ、バラは踏み躙られ、城館は砲火の下、焼け落ちる。ベックマン大尉やファルコナー少佐も壮烈に戦死してゆく中、この映画の、殆んどシュールな大団円は、戦争とは、文化も文明をも破壊する「狂想曲」であることを表現している。最後の死の「狂宴」は、砲火の下、詩的でさえある。恰も、その死の灰の中から、不死鳥フェニックスが生き返るが如く、新しい文化が生まれてくるとでも言いたげである。
追記:
原作者William Eastlakeについて、ウィキペディアで調べたものを簡単に記する。
Eastlakeは、1917年にニューヨークはブルックリンで、イギリス生まれを両親の許で生まれた。その後ニュージャージー州で育った彼は、40年代の初めに、ロスアンジェルスで、本屋の店員として勤める。42年にアメリカ陸軍に入隊し、数か所の基地を移動する。1941年12月7日(アメリカの現地時間)の真珠湾奇襲攻撃以降、アメリカ軍に所属していた日系アメリカ人兵隊は、カルフォルニア州にあるCamp Ordに一時集められていた。Eastlakeは、ここの監視兵として、日系アメリカ人と接触することになる。彼は書いている:「私は、これらの日系アメリカ人兵より、アメリカ寄りで、アメリカ愛国主義のグループを知らない。」これらの日系アメリカ人兵は、日系人部隊に編成されて、ヨーロッパ戦線に送られる。後に、Eastlakeは、この経験を元に、『Ishimoto's Land』という作品を彼の最初の作品として書くのであるが、ある出版社がこのような作品を出版するには時期尚早であるとして、この作品は、この時に発表されていないままであった。
Eastlakeは、彼がイギリス生まれの両親の許で生まれたという経歴であろう、イギリスに駐屯するアメリカ軍兵士がイギリスに早く馴染めるために世話をする部署に付くためにイギリスに送られる。その世話をした部隊と共に、Eastlakeは、ノルマンディー上陸作戦で「オマハ・ビーチ」に上陸。続けて、フランスからベルギーへと進攻する。こうして、本作のストーリーに反映される体験を彼自身がする。小隊長としてアルデンヌ地方にいた彼は、アメリカ軍のいう「バルジの戦い」、ドイツ軍のいう「アルデンヌの反攻」に遭遇し、右肩を負傷することになる。
終戦後は、スイスやパリに行き、文学活動を行なう。パリ滞在中に発行した雑誌『Essai』に、上述の作品『Ishimoto's Land』が初めて発表されることになる。本作の原作となる『Castle Keep』は、1965年に発刊された。
一方、伝統的権威をものともせず、傍若無人に振舞う「アメリカ人」に、ある種の生命のバイタリティーを感じているのが、ヨーロッパ人なのかも知れない。隠花植物のように日陰にぼんやりと、か弱く棲息しているものが、頽廃、そして没落を予言され、その没落を自覚しているのであり、それが西欧文明なのである。アメリカ人のそのバイタリティーの前には、歴史の覇権者としての席を譲らざるを得ないと見たのか、de Maldoraisドゥ・マルドレ伯爵(フランス人俳優ジャン=ピエール・オモン)は、自分より随分と若い伯爵夫人、実は自分の姪テレーズとファルコナー少佐の睦言を敢えて容認する。
このように、頽廃するヨーロッパ文化対「野蛮な」アメリカ文明の間の「文化・文明」論風に解釈できる戦争映画というのも珍しいのではないか。本作の原作を読んでいないので、その内容には寡聞であるが、さすがは純文学作品(William Eastlakeの、本作の英題名と同名の『Castle Keep』)を映画化しているからであろう、中々奥が深い。浅薄な邦題『大反撃』では、全く当てる的が異なっており、困ったものである。せめて、『城塞死守』ぐらいには命名してもらいたかったものである。
本作の前半における、この「文化・文明」論に「色合い」を添えるのが、ファルコナー少佐が率いる小部隊を構成する兵隊たちの顔ぶれである。上述の、美術専門家のベックマン大尉、宣教師志望の中尉、シャバではパン職人の軍曹、ドイツ車Volkswagen狂いの伍長、そして、小説家志望の二等兵で本作のナレーターを務めるベンジャミンなどである。このベンジャミンは、恐らくは、原作の作者Eastlakeの姿が引き写されている存在であろう。彼は、映画の終盤、ファルコナー少佐から、ある重要な「任務」を追わせられることになる。しかも、彼は、黒人であることも、気に掛けておいて点であろう。本作の制作が1969年であれば、60年代前半の公民権運動の展開、68年からの学生運動の高揚を背景にしていることは間違いない。
と、ドイツ軍の機甲師団が、突如、城に攻めてくる。時は、1944年冬である。アルデンヌの森からのドイツ国防軍の、西部戦線における最後の「大」反撃が始まったのであった。城を死守するとなぜか決断したファルコナー少佐の命令の下、防衛線を敷くアメリカ軍分隊である。壕に囲まれた城の屋根に50㎜機関銃座と迫撃砲を据えさせ、彫刻とバラに埋もれた庭に塹壕が掘られる。
こうして本作の前半とは全く異なるストーリー展開と後半はなる。攻めてくるドイツ軍と死守するアメリカ軍との戦闘の中、庭にある彫刻群は無残に打ち砕かれ、バラは踏み躙られ、城館は砲火の下、焼け落ちる。ベックマン大尉やファルコナー少佐も壮烈に戦死してゆく中、この映画の、殆んどシュールな大団円は、戦争とは、文化も文明をも破壊する「狂想曲」であることを表現している。最後の死の「狂宴」は、砲火の下、詩的でさえある。恰も、その死の灰の中から、不死鳥フェニックスが生き返るが如く、新しい文化が生まれてくるとでも言いたげである。
追記:
原作者William Eastlakeについて、ウィキペディアで調べたものを簡単に記する。
Eastlakeは、1917年にニューヨークはブルックリンで、イギリス生まれを両親の許で生まれた。その後ニュージャージー州で育った彼は、40年代の初めに、ロスアンジェルスで、本屋の店員として勤める。42年にアメリカ陸軍に入隊し、数か所の基地を移動する。1941年12月7日(アメリカの現地時間)の真珠湾奇襲攻撃以降、アメリカ軍に所属していた日系アメリカ人兵隊は、カルフォルニア州にあるCamp Ordに一時集められていた。Eastlakeは、ここの監視兵として、日系アメリカ人と接触することになる。彼は書いている:「私は、これらの日系アメリカ人兵より、アメリカ寄りで、アメリカ愛国主義のグループを知らない。」これらの日系アメリカ人兵は、日系人部隊に編成されて、ヨーロッパ戦線に送られる。後に、Eastlakeは、この経験を元に、『Ishimoto's Land』という作品を彼の最初の作品として書くのであるが、ある出版社がこのような作品を出版するには時期尚早であるとして、この作品は、この時に発表されていないままであった。
Eastlakeは、彼がイギリス生まれの両親の許で生まれたという経歴であろう、イギリスに駐屯するアメリカ軍兵士がイギリスに早く馴染めるために世話をする部署に付くためにイギリスに送られる。その世話をした部隊と共に、Eastlakeは、ノルマンディー上陸作戦で「オマハ・ビーチ」に上陸。続けて、フランスからベルギーへと進攻する。こうして、本作のストーリーに反映される体験を彼自身がする。小隊長としてアルデンヌ地方にいた彼は、アメリカ軍のいう「バルジの戦い」、ドイツ軍のいう「アルデンヌの反攻」に遭遇し、右肩を負傷することになる。
終戦後は、スイスやパリに行き、文学活動を行なう。パリ滞在中に発行した雑誌『Essai』に、上述の作品『Ishimoto's Land』が初めて発表されることになる。本作の原作となる『Castle Keep』は、1965年に発刊された。
2023年4月7日金曜日
第三の男(英国、1949年作)監督:キャロル・リード
本作の撮影が1948年であったので、ストーリーは46年乃至47年を想定していると考えられる。こんな時期のWienを、友人H.Limeに呼ばれて、アメリカ人・三文小説家H.Martinsが訪れるところから本作の物語は始まる。本作の脚本を書いたイギリス人作家G.Greeneは、本作の脚本を書くために実際Wienにやって来ている。恐らく、その時の自身の感じたものをGreeneは、ストーリー中の作家Martinsの姿に、きっと投影しているにちがいない。
脚本家Greeneは、監督C.Reedとは本作以前にいっしょに働いたことがあった。それは、48年作のイギリス映画『落ちた偶像』でである。元々はハンガリー出身のイギリス人・名プロデューサーであるAlexander Kordaコルダの下、監督ReedのためにGreeneは、自らの短編を原作にして、この作品のために脚本を書いたのである。子供を主人公にしたこの作品は、英国アカデミー賞で作品賞を、ヴェネツィア国際映画祭で脚本賞を取って、成功した作品となった。
そこで、コルダは、ある時Greeneに次の映画製作のためのいいアイディアはないかと聞くと、Greeneは、自分が一度封筒の裏に書き付けたプロットを読み上げる。が、それは、コルダにはあまり気に入らなかった。そこで、丁度そこに同席していた、映画監督でもあるKarl Hartlカール・ハルトルが、そのプロットの場所をWienにし、しかも、Wienをロケ地にしてみれば、いいのではないかと提案した。ハルトルは、オーストリア人で、20年代にWienでコルダのために製作アシスタントを務めていた男であった。
こうして、監督Reedと伴に、Greeneは1948年のWienに赴くこととなり、そこで、ペニシリンの密売のことやWienの地下を巡らす排水溝網を実際現地で体験することになる。
以上のようにして出来上がった台本であったが、その第一稿は、ハッピー・エンドで終わるものであった。Limeを進駐軍に引き渡す小説家と劇場の踊り子のヒロインは、ラストシーンでは、腕に腕を組むという結末であった。この終わり方には、監督のReedが大反対をして、最終的に、本作のような終わり方になったと言う。
脚本の作成には、主役のO.Wellesも関わっていたと言うが、それは、ストーリーの後半、Praterプラーター公園にある大観覧車のワゴンの中で、主役のH.Limeがぶつ、いわゆる、「郭公鳥時計・演説」のみであったというのが真相であるようである。しかも、この演説は、1938年のW.チャーチルの演説からの引用であると言う:
「ボルジア家支配下のイタリアの30年間は、戦争、テロ、殺人、流血に満ち満ちていたが、この時代は、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そして、ルネサンスを生んだ。スイスでは、同胞愛、500年間の民主主義と平和があったが、これが一体何を生んだか...? つまり、郭公鳥時計だよ。」
郭公鳥時計自体が、スイス製ではなく、南西ドイツにある黒い森の工芸品であるという、事実認識の誤りを、この「名言」は、含んでいるだけではない。エリート主義の傲慢さの下、同胞愛、民主主義、そして平和をないがしろにしているのが、このLimeの「演説」である。闇市でぼろ儲けが出来ることに目がくらみ、道徳倫理を失ってしまった人間Limeと時代の狂気がこの言葉には如実に示されている。そして、この倫理観を失った人間Limeがアメリカ人であるということも興味深い。
脚本家Greeneは、監督C.Reedとは本作以前にいっしょに働いたことがあった。それは、48年作のイギリス映画『落ちた偶像』でである。元々はハンガリー出身のイギリス人・名プロデューサーであるAlexander Kordaコルダの下、監督ReedのためにGreeneは、自らの短編を原作にして、この作品のために脚本を書いたのである。子供を主人公にしたこの作品は、英国アカデミー賞で作品賞を、ヴェネツィア国際映画祭で脚本賞を取って、成功した作品となった。
そこで、コルダは、ある時Greeneに次の映画製作のためのいいアイディアはないかと聞くと、Greeneは、自分が一度封筒の裏に書き付けたプロットを読み上げる。が、それは、コルダにはあまり気に入らなかった。そこで、丁度そこに同席していた、映画監督でもあるKarl Hartlカール・ハルトルが、そのプロットの場所をWienにし、しかも、Wienをロケ地にしてみれば、いいのではないかと提案した。ハルトルは、オーストリア人で、20年代にWienでコルダのために製作アシスタントを務めていた男であった。
こうして、監督Reedと伴に、Greeneは1948年のWienに赴くこととなり、そこで、ペニシリンの密売のことやWienの地下を巡らす排水溝網を実際現地で体験することになる。
以上のようにして出来上がった台本であったが、その第一稿は、ハッピー・エンドで終わるものであった。Limeを進駐軍に引き渡す小説家と劇場の踊り子のヒロインは、ラストシーンでは、腕に腕を組むという結末であった。この終わり方には、監督のReedが大反対をして、最終的に、本作のような終わり方になったと言う。
脚本の作成には、主役のO.Wellesも関わっていたと言うが、それは、ストーリーの後半、Praterプラーター公園にある大観覧車のワゴンの中で、主役のH.Limeがぶつ、いわゆる、「郭公鳥時計・演説」のみであったというのが真相であるようである。しかも、この演説は、1938年のW.チャーチルの演説からの引用であると言う:
「ボルジア家支配下のイタリアの30年間は、戦争、テロ、殺人、流血に満ち満ちていたが、この時代は、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そして、ルネサンスを生んだ。スイスでは、同胞愛、500年間の民主主義と平和があったが、これが一体何を生んだか...? つまり、郭公鳥時計だよ。」
郭公鳥時計自体が、スイス製ではなく、南西ドイツにある黒い森の工芸品であるという、事実認識の誤りを、この「名言」は、含んでいるだけではない。エリート主義の傲慢さの下、同胞愛、民主主義、そして平和をないがしろにしているのが、このLimeの「演説」である。闇市でぼろ儲けが出来ることに目がくらみ、道徳倫理を失ってしまった人間Limeと時代の狂気がこの言葉には如実に示されている。そして、この倫理観を失った人間Limeがアメリカ人であるということも興味深い。
2023年4月6日木曜日
乱れる(日本、1964年作)監督:成瀬 巳喜男
映画の冒頭に宣伝カーがうるさく流している歌謡曲は、舟木一夫の『高校三年生』という、1963年に大ヒットした曲である。これで、映画の頭から本作が、上映年度の前年をテーマとした作品であることが、当時の観ている人には分かる「現代劇」となっている。
さて、その宣伝カーが何を宣伝しているか。あるスーパーマーケットが、開店一周年記念に、「歯ブラシから農機具まで」の全品半額引きの大セールをやろうという宣伝である。農機具というから、このスーパーマーケット、どこかの地方の店舗らしい。(ウィキペディアによると、今は静岡市に合併されて存在していない清水市)
この派手な宣伝を、地元の個人商店の経営者たちは苦々しく聞いている。プロットが更に進むと、卵一個を11円で売っている食料品関係の個人商点経営者が、このスーパーマーケットに卵一個を5円で売られ、やれきれずに悲観して、妻と子供を残して首吊り自殺をしてしまうというところまで話しが展開する。
1963年と言えば、73年のオイル・ショックの10年前で、55年以来の、所謂「高度経済成長政策」が完全に軌道に乗った時期である。そして、それは、日本の経済復興と成長が実を結んだ証明となる第一回東京オリンピックの前年である。本作を観ながら、既にこの時期に、将来の、地方都市の商店街の「シャッター街」化現象が芽生えていたのであると痛感する。思えば、ここ約半世紀ほどに過ぎない間の、日本の地方経済の展開である。この地方のスーパーマーケットは、当時は恐らくは、まだしも地方の資本で経営されていたであろうが、その後は、この地方資本も中央の資本に飲み込まれていく。経済合理性を突き詰めるとこうなるのであろうが、この資本の原理に、安いものを求める「消費者」もまた、これに加担していることも認識しておくべきではないかと、筆者は本作を観ながら、思う。
という訳で、本作の批評からは大分逸れたが、本作の本題は、松山善三がオリジナル脚本を、1960年代の「コンビ」の成瀬巳喜男監督のために書いた、「悲劇」のメロドラマである。地方都市の酒屋に嫁いできた高峰秀子は、夫が戦死した後は、姑三益愛子にかしづきながら一人で店を切り回していた。小姑の草笛光子や白川由美は嫁に出ていっているところに、東京の大学を出て、就職を一応したのではあるが、そこの職場を辞めた義弟の加山雄三が、元恋人の浜美枝を残して、実家に戻ってくる。地元に進出してきたスーパーのこともあり、加山を経営者として酒屋自体をスーパーに切り替える話しさえも出てくる中、高峰は実家に戻ることを決心し、長年務めた森田家を後にすることにする。ここで、ストーリーは、一度に展開する。
一回り年齢が違う義理の姉を慕う義弟の情熱にほだされ、ストーリー上37歳の高峰は、「乱れる」。義弟の加山は、少々「大根」っぽいのであるが、それが逆に、この25歳の青年の一途さに、ある種の真実味を与えている。送っていくと言い、列車内で次第に高峰に近づいていく加山であり、一方、高峰は、加山に「男」を感じ、身を引こうと、自分の実家のある、山形県新庄市に列車で帰ろうとしていた。そこを、義弟に追いかけられて、途中下車をする。奥羽本線の途中にある大石田駅である。ここから、当時はバスで一時間も乗るのであろうか、大正ロマンを彷彿とさせる銀山温泉に二人は到着する。そして、五重塔の建物に両翼を付けて広めたような、この地の有名な旅館の、右隣の旅館に二人は泊まることになる。このシークエンスが、本作の山場となる。映画ラストの高峰の、クローズアップに堪える女優として力量が光るのが、成瀬監督作品の本作である。
さて、その宣伝カーが何を宣伝しているか。あるスーパーマーケットが、開店一周年記念に、「歯ブラシから農機具まで」の全品半額引きの大セールをやろうという宣伝である。農機具というから、このスーパーマーケット、どこかの地方の店舗らしい。(ウィキペディアによると、今は静岡市に合併されて存在していない清水市)
この派手な宣伝を、地元の個人商店の経営者たちは苦々しく聞いている。プロットが更に進むと、卵一個を11円で売っている食料品関係の個人商点経営者が、このスーパーマーケットに卵一個を5円で売られ、やれきれずに悲観して、妻と子供を残して首吊り自殺をしてしまうというところまで話しが展開する。
1963年と言えば、73年のオイル・ショックの10年前で、55年以来の、所謂「高度経済成長政策」が完全に軌道に乗った時期である。そして、それは、日本の経済復興と成長が実を結んだ証明となる第一回東京オリンピックの前年である。本作を観ながら、既にこの時期に、将来の、地方都市の商店街の「シャッター街」化現象が芽生えていたのであると痛感する。思えば、ここ約半世紀ほどに過ぎない間の、日本の地方経済の展開である。この地方のスーパーマーケットは、当時は恐らくは、まだしも地方の資本で経営されていたであろうが、その後は、この地方資本も中央の資本に飲み込まれていく。経済合理性を突き詰めるとこうなるのであろうが、この資本の原理に、安いものを求める「消費者」もまた、これに加担していることも認識しておくべきではないかと、筆者は本作を観ながら、思う。
という訳で、本作の批評からは大分逸れたが、本作の本題は、松山善三がオリジナル脚本を、1960年代の「コンビ」の成瀬巳喜男監督のために書いた、「悲劇」のメロドラマである。地方都市の酒屋に嫁いできた高峰秀子は、夫が戦死した後は、姑三益愛子にかしづきながら一人で店を切り回していた。小姑の草笛光子や白川由美は嫁に出ていっているところに、東京の大学を出て、就職を一応したのではあるが、そこの職場を辞めた義弟の加山雄三が、元恋人の浜美枝を残して、実家に戻ってくる。地元に進出してきたスーパーのこともあり、加山を経営者として酒屋自体をスーパーに切り替える話しさえも出てくる中、高峰は実家に戻ることを決心し、長年務めた森田家を後にすることにする。ここで、ストーリーは、一度に展開する。
一回り年齢が違う義理の姉を慕う義弟の情熱にほだされ、ストーリー上37歳の高峰は、「乱れる」。義弟の加山は、少々「大根」っぽいのであるが、それが逆に、この25歳の青年の一途さに、ある種の真実味を与えている。送っていくと言い、列車内で次第に高峰に近づいていく加山であり、一方、高峰は、加山に「男」を感じ、身を引こうと、自分の実家のある、山形県新庄市に列車で帰ろうとしていた。そこを、義弟に追いかけられて、途中下車をする。奥羽本線の途中にある大石田駅である。ここから、当時はバスで一時間も乗るのであろうか、大正ロマンを彷彿とさせる銀山温泉に二人は到着する。そして、五重塔の建物に両翼を付けて広めたような、この地の有名な旅館の、右隣の旅館に二人は泊まることになる。このシークエンスが、本作の山場となる。映画ラストの高峰の、クローズアップに堪える女優として力量が光るのが、成瀬監督作品の本作である。
2023年4月5日水曜日
秋立ちぬ(日本、1960年作)監督:成瀬 巳喜男
1951年作の『めし』で、成瀬は、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立した。その「女性映画監督」としての成瀬は、60年代に入ると、松山善三脚本による、大人の女をテーマとした作品を撮りだす。『娘・妻・母』(60年作、脚本:松山、井出俊郎)、『妻として女として』(61年作 脚本:松山、井出)、『女の座』(62年作 脚本:松山、井出)などである。
そんな中、60年に撮られた『秋立ちぬ』は、子供の視点から撮られた成瀬作品として異色である。成瀬自身がプロデュースしている作品としても、彼の思い入れの程が推察できよう。原案は、東宝の専属脚本家笠原良三のオリジナルシナリオ『都会の子』により、成瀬自身がこれを翻案したと言う。
信州の田舎から東京に出てきた小学六年生秀男が主人公である。母親は、夫に死なれ、生活に困って、秀男を連れて、東京で新しい生活を営もうと、東京にいる自分の親戚を頼って、出てきたのである。母親は、自分は旅館の仕事を見つけて、旅館に住み込みで働くようになり、息子を親戚の許に置いたままにする。こうして、母親が働く旅館の娘、小学校四年生の順子と秀男は仲良くなる。母親に捨てられる秀男の孤独と、また、母親役の乙羽信子が、母親の責任を捨てて、男にすがらざるを得ない女の「弱さ」が、観ている者の胸を詰まらせる。
そんな中、60年に撮られた『秋立ちぬ』は、子供の視点から撮られた成瀬作品として異色である。成瀬自身がプロデュースしている作品としても、彼の思い入れの程が推察できよう。原案は、東宝の専属脚本家笠原良三のオリジナルシナリオ『都会の子』により、成瀬自身がこれを翻案したと言う。
信州の田舎から東京に出てきた小学六年生秀男が主人公である。母親は、夫に死なれ、生活に困って、秀男を連れて、東京で新しい生活を営もうと、東京にいる自分の親戚を頼って、出てきたのである。母親は、自分は旅館の仕事を見つけて、旅館に住み込みで働くようになり、息子を親戚の許に置いたままにする。こうして、母親が働く旅館の娘、小学校四年生の順子と秀男は仲良くなる。母親に捨てられる秀男の孤独と、また、母親役の乙羽信子が、母親の責任を捨てて、男にすがらざるを得ない女の「弱さ」が、観ている者の胸を詰まらせる。
銀座化粧(日本、1951年作)監督:成瀬 巳喜男
主人公雪子(田中絹代)が雇われマダムをやっている、西銀座にある「バア」の名前は「ベラミイ」である。「Bel Ami」は、フランス語で、「美しき男友達」の意であるが、映画でも言われている通り、フランスの自然主義文学作家Guy de Maupassantの小説である。美貌の、下層階級出の青年ジョルジュ・デュロアが、自分の美貌を使い、上流社会の女性たちを次から次へと「乗り換えて」、19世紀中頃のフランス社会で栄達する姿を描く、この小説の内容が本作のストーリーにどう絡むのかは、謎であるが、現実社会の厭らしさをあまり経験したことがないようである、東北か北陸の良家の「お坊っちゃん」が、このバーの名前を見て、すかさず、de Maupassantに思い当たり、「モパサン」と言う。de Maupassantは、普通は、日本語で「モーパッサン」と表記されていて、「モパサン」と言われると、最初は変な感じを受けるが、確かに言われてみると、「モパサン」の方が、より原語に近い。さらに、銀座のネオンサインの宣伝には、「モンパリ」や、広告には「Vogue」が登場するので、原作者は、フランス文学でも勉強したのではないかと想像して、調べると、その通りであった。原作者井上友一郎は、1930年代に早稲田大学で仏文科を卒業し、一時新聞記者になったりしながら、在学中からの文学活動を続け、戦後は、風俗作家となった人物である。本作の原作は、映画誌連載小説であったので、映画化がしやすかったのであろう。映画の中盤、主人公雪子が、ひょんなことから、田舎出の「坊っちゃん」に銀座を案内するシークエンスがある。1950年当時の銀座や、少し前に埋め立てられた三十間堀川、三原橋、真正な意味での「トルコ風呂」サウナを売り物にした、工事中の「東京温泉」の高層の建物が描かれ、当時の風俗資料を見るようで興味深い。
「終戦」は45年であるから、その5年後である。闇市が蔓延っていたのは、束の間であったのであろう。一様は、「戦後復興」が終わったかの感さえある。特需景気を促す朝鮮戦争が同じ50年に勃発する。日本の、西側諸国一部からの主権回復となるサンフランシスコ平和条約の締結はその一年後、つまり51年で、本作の上映年の年である。こんな時代であれ、主人公雪子が一人息子と住む、戦災にも焼け残ったという、新富芸者で有名な新富町にある借間は、長屋の一軒家にある。この頃未だ来ていた山手の「上客」が寄る繁華街たる、モダンな銀座と好対照をなす新富町である。東京生まれの、職人の息子、監督成瀬は、ここら辺の下町の雰囲気は肌身で感じていたのであろう。ストーリー展開の端々に、チンドン屋や紙芝居屋のシーンを挿入する。とりわけ、二回も出てくる紙芝居屋のシーンは、ファンファーレのような大きなトラペットを吹き鳴らし、その後ろに、ハーメルンの笛吹きよろしく、子供達を引き連れて歩く紙芝居屋の姿はユーモラスでもあり、印象的である。ここに、庶民の日常をさり気なく描く監督成瀬の思い入れが感じられる。
最初は偶然に入社した松竹蒲田撮影所では小道具係りであった成瀬は、約十年の下積み時代を過ごして、1930年に監督となる。まもなく若手監督として注目されるものの、松竹では不遇であり、34年に、東宝の前身であるPCLに移籍する。移籍後の作品『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受け、『キネマ旬報』ベスト・ワンにも選ばれるが、この作品は「Kimiko」という英題で37年にニューヨークで上映された、USAで上映された日本映画の第一作目となる。第二次世界大戦下では、『鶴八鶴次郎』、『歌行燈』、『芝居道』など、いわゆる「芸道もの」を、溝口健二同様に、撮り、戦時体制への「協力」を最低限に抑えている。
終戦後は、自分が脚本を書いた作品を撮ったりしていたが、戦時中にプロパガンダ映画を大量に撮っていた東宝で、東宝争議が起こり、これにより東宝撮影所の機能が麻痺したことから、成瀬は、他の監督などとと共に東宝を離れ、「映画芸術協会」を設立し、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督する。本作は、この時期に成瀬が新東宝のために撮った作品となった。
成瀬巳喜男と言えば、今では、家庭映画の、女性映画の「巨匠」であると言われているが、家庭映画の「巨匠」と言えば、小津安二郎がいる。その意味では、成瀬もいた松竹に、二人の「小津」は必要なく、成瀬がPCL、後の東宝に移籍したのは、必然であった。成瀬は、東宝の「小津」になったのである。
一方、女性映画の「巨匠」と言えば、溝口健二がいる。男に翻弄される、女性としての「業」を背負った「女」を運命的に描かせれば、その右に出る者はいないと言われた溝口である。とりわけ、本作で主演を演じた田中絹代は溝口作品で有名になった女優である。
いわば、成瀬の監督としての立ち位置は、「小津」と「溝口」の間である。その間で、どうやって自らの「特長」を出していくのか。1950年には、成瀬の助監督を一時やっていた黒澤明が、『羅生門』で、ヴェネツィア国際映画祭で「金獅子」賞を取り、日本映画の存在を世界に知らしめたと同時に、黒澤は、「世界の黒澤」になっていた。
こういう中での本作である。「溝口組」の田中を使って、銀座の夜の世界を描いては、「溝口」スタイルと比較される。シングル・マザーとして、かつての旦那に金をせびられながら、一人息子を健気に育てる家庭劇とすれば、松竹・家庭劇の「小津」と比較される。そういう中途半端の立ち位置では、成瀬も立つ瀬がないであろう。
こういった自己の、監督としての存在意義をいかに見出すか、そんな模索の中で、本作と同年に撮られた作品『めし』が、成瀬が「第四の巨匠」となるべき道を開いてくれたのである。時代劇ではなく、現代劇を撮る。そして、女性を主人公にして撮る。原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせる。この「方程式」が成立した時に、成瀬の監督としての「特長」が顕在化したのである。
溝口が亡くなり、女性映画の「巨匠」として成瀬の定評が付く1960年代の、成瀬の脚本家は、主に松山善三となるが、それ以前、成瀬が自分で脚本を書いていない時の脚本家は、長らく東宝専属の脚本家として勤めていた井出俊郎である。それに対し、『めし』(1951年作)の原作者は、林芙美子であり、その原作を脚本化したのは、田中澄江である。こうして、林原作・成瀬監督による、文芸映画作品の第一弾が出来上がったのであり、この作品は、第25回キネマ旬報ベスト・テン第二位となる。この、林原作・田中脚本・成瀬監督のトリオは、さらに、『稲妻』(52年作)、『晩菊』(54年作)、『放浪記』(62年作)と続く。林芙美子の原作作品としては、これ以外に、『妻』(53年作、脚本:井出俊郎)、『浮雲』(55年作、脚本:水木洋子)がある。水木脚本の成瀬作品は、『浮雲』以外にもあり、注目すべき点であろう。本作の翌年に撮られた『おかあさん』(52年作、同じく新東宝)の脚本を書いているのが、水木洋子であり、この作品では、田中絹代が母親役、その娘が香川京子、そして、父親役が三島雅夫という点でも、本作と繋がりがある作品である。
余り目立たない点かもしれないが、本作『銀座化粧』での助演男優陣の良さは、特筆されてよいことであろう。戦前は羽振りがよく、戦後は時勢に乗り遅れた、かつての情人で、今は雪子に小銭をたかりにくる男・藤村役の三島雅夫、雪子が借り住まいする長唄の師匠杵屋佐久の夫・清吉役の柳永二郎、雪子に金を貸すことを口実に彼女に言い寄るスケベ親父・菅野役の東野英治郎、雪子目当てに杵屋に長唄を習いに来ている若い男・白井役の田中春男が中々いい。
「終戦」は45年であるから、その5年後である。闇市が蔓延っていたのは、束の間であったのであろう。一様は、「戦後復興」が終わったかの感さえある。特需景気を促す朝鮮戦争が同じ50年に勃発する。日本の、西側諸国一部からの主権回復となるサンフランシスコ平和条約の締結はその一年後、つまり51年で、本作の上映年の年である。こんな時代であれ、主人公雪子が一人息子と住む、戦災にも焼け残ったという、新富芸者で有名な新富町にある借間は、長屋の一軒家にある。この頃未だ来ていた山手の「上客」が寄る繁華街たる、モダンな銀座と好対照をなす新富町である。東京生まれの、職人の息子、監督成瀬は、ここら辺の下町の雰囲気は肌身で感じていたのであろう。ストーリー展開の端々に、チンドン屋や紙芝居屋のシーンを挿入する。とりわけ、二回も出てくる紙芝居屋のシーンは、ファンファーレのような大きなトラペットを吹き鳴らし、その後ろに、ハーメルンの笛吹きよろしく、子供達を引き連れて歩く紙芝居屋の姿はユーモラスでもあり、印象的である。ここに、庶民の日常をさり気なく描く監督成瀬の思い入れが感じられる。
最初は偶然に入社した松竹蒲田撮影所では小道具係りであった成瀬は、約十年の下積み時代を過ごして、1930年に監督となる。まもなく若手監督として注目されるものの、松竹では不遇であり、34年に、東宝の前身であるPCLに移籍する。移籍後の作品『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受け、『キネマ旬報』ベスト・ワンにも選ばれるが、この作品は「Kimiko」という英題で37年にニューヨークで上映された、USAで上映された日本映画の第一作目となる。第二次世界大戦下では、『鶴八鶴次郎』、『歌行燈』、『芝居道』など、いわゆる「芸道もの」を、溝口健二同様に、撮り、戦時体制への「協力」を最低限に抑えている。
終戦後は、自分が脚本を書いた作品を撮ったりしていたが、戦時中にプロパガンダ映画を大量に撮っていた東宝で、東宝争議が起こり、これにより東宝撮影所の機能が麻痺したことから、成瀬は、他の監督などとと共に東宝を離れ、「映画芸術協会」を設立し、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督する。本作は、この時期に成瀬が新東宝のために撮った作品となった。
成瀬巳喜男と言えば、今では、家庭映画の、女性映画の「巨匠」であると言われているが、家庭映画の「巨匠」と言えば、小津安二郎がいる。その意味では、成瀬もいた松竹に、二人の「小津」は必要なく、成瀬がPCL、後の東宝に移籍したのは、必然であった。成瀬は、東宝の「小津」になったのである。
一方、女性映画の「巨匠」と言えば、溝口健二がいる。男に翻弄される、女性としての「業」を背負った「女」を運命的に描かせれば、その右に出る者はいないと言われた溝口である。とりわけ、本作で主演を演じた田中絹代は溝口作品で有名になった女優である。
いわば、成瀬の監督としての立ち位置は、「小津」と「溝口」の間である。その間で、どうやって自らの「特長」を出していくのか。1950年には、成瀬の助監督を一時やっていた黒澤明が、『羅生門』で、ヴェネツィア国際映画祭で「金獅子」賞を取り、日本映画の存在を世界に知らしめたと同時に、黒澤は、「世界の黒澤」になっていた。
こういう中での本作である。「溝口組」の田中を使って、銀座の夜の世界を描いては、「溝口」スタイルと比較される。シングル・マザーとして、かつての旦那に金をせびられながら、一人息子を健気に育てる家庭劇とすれば、松竹・家庭劇の「小津」と比較される。そういう中途半端の立ち位置では、成瀬も立つ瀬がないであろう。
こういった自己の、監督としての存在意義をいかに見出すか、そんな模索の中で、本作と同年に撮られた作品『めし』が、成瀬が「第四の巨匠」となるべき道を開いてくれたのである。時代劇ではなく、現代劇を撮る。そして、女性を主人公にして撮る。原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせる。この「方程式」が成立した時に、成瀬の監督としての「特長」が顕在化したのである。
溝口が亡くなり、女性映画の「巨匠」として成瀬の定評が付く1960年代の、成瀬の脚本家は、主に松山善三となるが、それ以前、成瀬が自分で脚本を書いていない時の脚本家は、長らく東宝専属の脚本家として勤めていた井出俊郎である。それに対し、『めし』(1951年作)の原作者は、林芙美子であり、その原作を脚本化したのは、田中澄江である。こうして、林原作・成瀬監督による、文芸映画作品の第一弾が出来上がったのであり、この作品は、第25回キネマ旬報ベスト・テン第二位となる。この、林原作・田中脚本・成瀬監督のトリオは、さらに、『稲妻』(52年作)、『晩菊』(54年作)、『放浪記』(62年作)と続く。林芙美子の原作作品としては、これ以外に、『妻』(53年作、脚本:井出俊郎)、『浮雲』(55年作、脚本:水木洋子)がある。水木脚本の成瀬作品は、『浮雲』以外にもあり、注目すべき点であろう。本作の翌年に撮られた『おかあさん』(52年作、同じく新東宝)の脚本を書いているのが、水木洋子であり、この作品では、田中絹代が母親役、その娘が香川京子、そして、父親役が三島雅夫という点でも、本作と繋がりがある作品である。
余り目立たない点かもしれないが、本作『銀座化粧』での助演男優陣の良さは、特筆されてよいことであろう。戦前は羽振りがよく、戦後は時勢に乗り遅れた、かつての情人で、今は雪子に小銭をたかりにくる男・藤村役の三島雅夫、雪子が借り住まいする長唄の師匠杵屋佐久の夫・清吉役の柳永二郎、雪子に金を貸すことを口実に彼女に言い寄るスケベ親父・菅野役の東野英治郎、雪子目当てに杵屋に長唄を習いに来ている若い男・白井役の田中春男が中々いい。
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