2026年8月21日金曜日

死海殺人事件(USA、1988年作)監督:マイケル・ウィナー

 まず、本作のジャンル分けが、「ミステリー映画」というのは、納得が行かない。「ミステリー」とは、何か不可解なもの、人間の理性では説明の付かないものと関係する。本作は、犯罪推理小説を原作としており、故に、「推理もの」と言うべき映画である。主人公の名探偵Hercule Poirotエルキュール・ポワロ―の口癖である、「灰色の脳細胞(gray braincells)」とは、神経線維ばかりの部位(白質)に対して、神経細胞体が存在している部位(灰白質)で、大脳皮質と呼ばれる大脳の表面に拡がる薄い層のことを言う。ここが、脳の高次機能を司るのである。つまり、知覚、記憶、思考などの機能であり、当然、これが、名探偵の活動、「推理」にも関わるものである。故に、推理によって鮮やかに謎を解くのであれば、それは、ポワローが実地で示す通り、説明不可能なものではなく、以って、それは、ミステリーではないと言うことになる。

 次に、本作の原題名は、『Appointment with Death』である。原作題名の邦訳としては、『死との約束』というのがあるようであるが、何か違うような気がしてならない。当時は、「アポイントメント」がそれ程カタカナ語化していなかったから、そうなのであろうが、2020年代の現代では、むしろ、「死とのアポイントメント」とした方がしっくりくる。それでも、何でもカタカナ語にしてしまう現代の風潮を嫌う筆者としては、「死者との待ち合わせ時間」とでも訳したいところである。

 ところで、本作の邦題が『死海殺人事件』となっているのは、殺人が起こるのが、死海の西側にあるQumranクムランという発掘場所であるからである。上手い邦題である。実は、この地Qumranは、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の写本が発掘された場所として有名になるのであるが、それは、1947年以降のことであり、本格的な発掘調査が行なわれたのは、1951年になってからである。つまり、本作の時間設定が1937年のことであり、所謂「死海文書(写本)」なるものは、未だ発見されていない時期のことである。

 何故にこのような「間違い、乃至は、思い違い」が起こったのかと言うと、Agatha Christieアガサ・クリスティーの原作では、殺人が起こる場所は、現ヨルダン領にあるPetraペトラという、赤砂岩で出来た廃墟都市である。しかし、であるからと言っても、ペトラではロケ撮影が出来なかったのである。と言うのは、本作の撮影に関わったイスラエルの撮影ティームがヨルダンに入国することは、政治・外交上、無理であったからである。本作の撮影が行なわれたのは、1987年のことで、この年の12月には、イスラエル国内にいるパレスティナ人による暴力・非暴力の抵抗運動、第一次Intifadaインティファーダ運動が始まるような状況であったからである。筆者も、この年の翌年の1988年春にイスラエルに偶然に滞在したことがあり、イェルサレムの旧市街地は、抗議のストライキのせいで、パレスティナ人が経営している店は、軒並み閉まったままであったのを今でも記憶している次第である。(因みに、筆者は、1994年にももう一度イスラエルに行っているが、その時には、ペトラにもイスラエルから行っている。但し、二重のパスポートを用意して、イスラエル入国には一つ目のパスポートを使って、これにイスラエル入管のスタンプを付けさせ、ヨルダンに入国する際には、二つ目の、イスラエル入管のスタンプが付いていないものを使って、ヨルダンに入国したという「策」を使った次第であった。)

 さて、創作者A.クリスティー自身からは内心では余り好かれてはいなかった、小説上で設定された人物H.ポワローは、ベルギー人で元警察官であった探偵である。少々気障な口髭を蓄え、自身の推理力にかなりの自身を持っている、人間としては随分癖のある、この、自他ともに名探偵と認める人物をよく体現した俳優は、劇映画、TV映画史上、蓋し、二人いる。一人は、イギリス人俳優David Suchetデイヴィット・スーシェイ(「スーシェ」の表記もあるが、アクセントは何れにしても「スー」)である。彼は、TV映画版シリーズの『名探偵ポワロ』で、本作上映の翌年の1989年から2013年まで「ポワロー」役を演じた、ポワロ―第一人者である。

 もう一人が、本作でもポワロ―役を演じている、イギリス人名優Peter Ustinovピーター・ユスティノフである。

 A.クリスティーの作品で、ポワロ―が探偵として登場する作品は、数多くあるが、その中で劇映画化されたものは、ウィキペディアのまとめが正しければ、1974年までは、1930年代に三本、戦後の1965年に一本であった。それが、1974年にシドニー・ルメット監督が豪華キャストで撮った『オリエント急行殺人事件』(ポワロ―役は、アルベート・フィニー)がヒットし、USアカデミー賞で六部門ノミネートされると、今度は、ポワロ―役をP.ユスティノフに替えて、1978年に『ナイル殺人事件』が、そして、1982年に『地中海殺人事件』が発表された。

 本作は、P.ユスティノフをまたぞろポワロ―役に据えて、三匹目の「ドジョウ」を狙って、撮られたものであるが、B級映画を製作する三流の製作会社が製作に当たり、Michael Winnerマイケル・ウィナーという、チャールズ・ブロンソンを主演とする私刑もので名前が売れた監督が担当した作品である。M.ウィナーは、本作のプロデューサーの一人でもあり、脚本作成にも参加し、更には、別名義で編集もこなすという働きぶりではあるが、やはり、本作の質の低さは、P.ユスティノフの演技力を以ってしても救いようがなかったと言える。という訳で、本作を以って、劇映画としては、ポワロ―・ブームは下火となり、再び、名探偵ポワロ―が銀幕に登場するまでには、ほぼ三十年の時が経なければならないことになる。2017年、イギリス人ケネス・ブラナーが、監督としてメガホンを握り、ポワロ―役も演じる。それが、2017年版『オリエント急行殺人事件』であるが、筆者は未見であるので、残念ながら、K.ブラナーによるポワロ―の役作りも評価できないところである。

 1974年版『オリエント急行殺人事件』では、その演技で、イングリッド・バーグマンがUSアカデミー助演女優賞を獲得しているが、本作に登場するローレン・バコールは、この作品にも、本作同様な、おしゃべり好きで騒がしいUSアメリカ人女性を演じている。恐らく、本作でのセット撮影であろうが、イェルサレムにある「嘆きの壁」で、女性立ち入り禁止なのにも関わらず、つかつか近寄って、「嘆いている」ユダヤ人男性に睨まれても、それを気にせずに、自分を記念撮影させる場面は、本作における彼女の役柄を物語って余りあるものであろう。

 とは言え、L.バコールが体現する英国下院議員たるウェストホルム卿夫人も、また、殺されるボイントン未亡人(パイパー・ローリー)も、如何にして社会的底辺から、社会的名声を得る地位にまで這い上がって来られたのかが、本作ではその説得性に欠け、ストーリーの欠陥の重要な一点ともなっている。

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