原作が『平凡』という青少年向けの雑誌の連載小説であるところからも推察できる通り、その内容が当時の日活の若者路線に上手く、はまったのであろう。本作は、日活の若手俳優、長門裕之と津川雅彦の、現実にも兄弟である二人を主人公にして、平安時代中・後期の若侍の仇討ちの物語りにストーリーは出来上がっている。当然ながら、浅丘ルリ子(長門の許婚役)、香月美奈子(猟師の娘あけみ役)、稲垣美穂子(藤原一族の息女役)などの若手女優陣との色恋沙汰も入るのであるが、とは言え、本作が取り扱う時代背景が面白い。つまり、平清盛が平氏政権を樹立する1160年以前では、地方の武士階層が、映画にも登場する藤原頼通(平安期摂関政治の代表的人物たる藤原道長の息子の一人で、没年:1074年)の時代に京都で任官するとすれば、精々、検非違使として牢獄の番人にしかなれない時代のことである。その後ほぼ百年でその状況が変貌する訳であるが、この意味でも、「侍」の元々の語源である「さぶらう」が、「貴族たる主人に仕える」意味であったことがよく思い出されるべき歴史的背景が本作、そしてその原作にあったのである。
映画の冒頭には、ストーリーの場所として、「若狭の國、小浜の庄」と出てくる。即ち、現在の福井県の一部で、若狭湾に面した地域であり、その国府は小浜付近にあったと言う。この小浜の、ある「庄」の管理者が長門・津川兄弟の一族であった。更に付け加えて言えば、武士階層の成立の一つの経路が、土地所有農民の一部が次第に武力行使に専業化していった経過であったのであり、蓋し、長門・津川兄弟の一族はこのような武士階層の身分形成の途中経過を表しているように思われる。
さて、本作は、「日活初の総天然色大型映画」であると言われ、「日活スコープ」というワイドスクリーンで初めて撮られており、「総天然色」作品としては、日活イーストマンカラーによって日活第二作目である。日活スコープ第一作目と言うことで、日活がこの作品に掛ける意気込みをこれでよく知られよう。タイトルロールでも、「ワイド技術」、「色彩計測」の担当者名が挙げられている。また、ワイドスクリーンのための撮影に、しっかりと京の街などのセット作りがなされていることも本作を目で楽しむ一つのファクターであろう。(美術:西亥一郎)
映画冒頭の長門、浅丘、津川の登場する、物語り上、若狭湾の海岸沿いであるはずの場面で、津川が長門と許嫁の浅丘を冷やかそうとして、突然、岩陰の後ろか岩に駆け上がり、二人に摘んだ花を投げつける。その時に津川が来ていた着物の色が薄い黄色で実に風景の中に映えている。
また、浅丘は、人買いにさらわれて、結局は、白拍子となり、権力者藤原頼通の前で舞いを舞うことになるが、その時に浅丘が来ていた桃色の着物と彼女が手に持つ扇の、鮮やかな赤色は、さすがは、イーストマンカラーの彩色である。
2025年2月27日木曜日
日本侠客伝-花と龍(日本、1969年作)監督:マキノ雅弘
1960年代初めまでは、東映と言えば、「時代劇の東映」であったが、映画産業がピークを迎えた1950年代半ば以降60年代初めになると、東映の時代劇は興行成績が余り上がらなくなっていた。1963年に偶然にヒットした『人生劇場 飛車角』に目を付けた東映首脳陣は、その翌年から、時代劇映画のストーリーのテーストを残しながら、時代だけは明治・大正期に動かし、主人公を侍ではなく、任侠・やくざとする路線を取る。これが、東映やくざ映画路線の始まりであり、石油ショックの年1973年以降の、やくざ映画の実録もの路線と区別するために、1963年から1973年までの東映ヤクザ映画は、「任侠路線映画」と呼ばれる。その任侠映画スターの一角が鶴田浩二であるとすれば、そのもう一角が高倉健であり、高倉を主演とした任侠映画シリーズの一つが、本作の『日本侠客伝シリーズ』である。高倉を主演とする任侠映画シリーズには、他に『網走番外地シリーズ』と『昭和残侠伝シリーズ』の二つがあるが、両シリーズは、共に1965年より開始されている。この『昭和残侠伝シリーズ』こそは、義侠がその最後を飾って「残侠」として残っており、ヤクザの争いが「仁義なき抗争」へと堕していく時代への過渡期の「白鳥の歌」であった。このシリーズは、蓋し、高倉と池辺良との間の「男気」の美を描き切った傑作シリーズである。
監獄ものと言える『網走番外地シリーズ』を抜いて話しを進めると、『昭和残侠伝シリーズ』は1972年までに九作が制作され、その内、三本が、本作の監督ともなったマキノ雅弘監督作品である。それは、第四作(1966年)、第六作(1969年)、第七作(1970年)であるが、その何れにも、本作にも登場する藤純子が絡んでいるのも興味深い。
一方、『日本侠客伝シリーズ』は、1971年までに11本撮られているが、その内、第一作から第九作までがマキノ雅弘監督作品である。シリーズと言っても、話しが時系列でつながっている訳ではなく、各作が、『昭和残侠伝シリーズ』もそうであるが、独立しており、例えば、「浪花編」とか「関東編」とかがあって、場所が異なっても構わないのである。こうしたことから、本作の第九作には、火野葦平の原作を持ってきて、場所を北九州、時を日露戦争の終わった直後、即ち明治時代が終わる数年前としたのである。
原作の『花と龍』は、1952年から53年まで『読売新聞』に連載された新聞連載小説であり、火野葦平は、自分の父親玉井金五郎と母マンが如何に苦労して「玉井組」を切り盛りしたかを描く大河小説を書き上げた。この原作を基に、東映は既に1954年に二部作でこれを映画化しており、62年には今度は日活が石原裕次郎を主演にして再映画化している。その二年後、東映はこの小説を再度二部作で映画化しており、主演は中村錦之助であった。本作によるこの原作の映画化は、これにより、合計で四度目となる。こうして、『花と龍』の映画化の筋と、『日本侠客伝シリーズ』の1964年以来のシリーズ化の筋が1969年の本作で上手く交錯したと言える訳である。
原作者火野は、ウィキペディアによると、その自伝的小説『青春の岐路』で、昭和初期、つまり1926年頃の港湾荷役労務者(「沖仲仕」、本作中では「ごんぞ」)の姿を次のように描いている:「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」。請負師には、元請けもあれば、下請けもあり、下請けには更に下請けの下請けがある状況は、入る労務役が急であれば、日雇いの労務者をかき集める「手配師」が介入する可能性がある。ここに、強力な手配師が港湾労務を取り仕切るヤクザ組織となるケースがあった訳で、1915年頃に神戸港では労務者供給事業から山口組を生まれ出たと言う。ここら辺の事情は、本作でも、請負師とヤクザ組織との勢力争いとして描かれている。
さて、本作の題名の一部ともなっている原作名『花と龍』では、「龍」が意味するところは容易に想像が出来るのであるが、「花」は、独特の意味合いを与えられていると言われ、それは、玉井金五郎の理想、下衆なこの世にあっても人としての品格を持って生きることを象徴的に現していると言う。
一方、映画である本作では、この「花」は、正に現実の花であり、それは、黄色い菊の花である。そして、この花は、同時に、後に妻になる前のマンの金五郎に対する愛の象徴でもある。映画の序盤、金五郎がヤクザと喧嘩をして頭を殴られ、それが原因で寝込むことになる。マンが金五郎を見舞おうとするのであるが、その際に、マンは、自宅の傍に咲いている黄色い菊の花を一本手折って金五郎が寝ている部屋に持って行く。マンは、金五郎の寝ている部屋で、早速一輪挿しにして、縁側の手前の小さな台の上に置く。画面は、金五郎が寝ているアングルから取られており、画面手前は畳、中景に台の上に置かれた一輪挿しの黄色い菊の花、後景が縁側の向こうにある庭のようであり、自然の緑色をしている。ここで、緑色に強い富士カラーが活きている。本作のラストシーンも、俯瞰アングルからズームアップして、門の前に咲いている菊の花のアップで終わっている。(撮影監督:飯村雅彦)
そして、この花と龍のモチーフは、刺青のモチーフともなる。金五郎が駆け出しの頃、賭博をやって運が付いて勝った時、その賭場で壺振りをしていたのが、女壺振り師・お京(藤純子)であった。お京は、この時、金五郎にとっては、「幸運の女神」であった訳であるが、それ以来、二人は会わないままであった。しかし、金五郎がマン(星由里子)と所帯を持ち、玉井組を起ち上げた後のある時、金五郎はお京と偶然に会う。金五郎を心憎いとは思っていなかったお京は、再会を喜び、この機会に二人の仲が発展するのではないかと淡い期待も心に秘めて金五郎の家庭の事情を聞いたのであるが、金五郎にもう誰かいると言われて、僅かに見せた苦渋の顔を金五郎に隠す。それでも、金五郎との関わりを永遠に刻もうとして、刺青彫師でもあるお京は、自分の左肩に彫られた牡丹に蝶の刺青を見せながら、自分に刺青を是非彫らして欲しいと金五郎に懇願する。その心根にほだされた金五郎は、それを承知するが、龍に黄色い菊の花を彫ってくれるようにとお京に頼むのであった。
監獄ものと言える『網走番外地シリーズ』を抜いて話しを進めると、『昭和残侠伝シリーズ』は1972年までに九作が制作され、その内、三本が、本作の監督ともなったマキノ雅弘監督作品である。それは、第四作(1966年)、第六作(1969年)、第七作(1970年)であるが、その何れにも、本作にも登場する藤純子が絡んでいるのも興味深い。
一方、『日本侠客伝シリーズ』は、1971年までに11本撮られているが、その内、第一作から第九作までがマキノ雅弘監督作品である。シリーズと言っても、話しが時系列でつながっている訳ではなく、各作が、『昭和残侠伝シリーズ』もそうであるが、独立しており、例えば、「浪花編」とか「関東編」とかがあって、場所が異なっても構わないのである。こうしたことから、本作の第九作には、火野葦平の原作を持ってきて、場所を北九州、時を日露戦争の終わった直後、即ち明治時代が終わる数年前としたのである。
原作の『花と龍』は、1952年から53年まで『読売新聞』に連載された新聞連載小説であり、火野葦平は、自分の父親玉井金五郎と母マンが如何に苦労して「玉井組」を切り盛りしたかを描く大河小説を書き上げた。この原作を基に、東映は既に1954年に二部作でこれを映画化しており、62年には今度は日活が石原裕次郎を主演にして再映画化している。その二年後、東映はこの小説を再度二部作で映画化しており、主演は中村錦之助であった。本作によるこの原作の映画化は、これにより、合計で四度目となる。こうして、『花と龍』の映画化の筋と、『日本侠客伝シリーズ』の1964年以来のシリーズ化の筋が1969年の本作で上手く交錯したと言える訳である。
原作者火野は、ウィキペディアによると、その自伝的小説『青春の岐路』で、昭和初期、つまり1926年頃の港湾荷役労務者(「沖仲仕」、本作中では「ごんぞ」)の姿を次のように描いている:「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」。請負師には、元請けもあれば、下請けもあり、下請けには更に下請けの下請けがある状況は、入る労務役が急であれば、日雇いの労務者をかき集める「手配師」が介入する可能性がある。ここに、強力な手配師が港湾労務を取り仕切るヤクザ組織となるケースがあった訳で、1915年頃に神戸港では労務者供給事業から山口組を生まれ出たと言う。ここら辺の事情は、本作でも、請負師とヤクザ組織との勢力争いとして描かれている。
さて、本作の題名の一部ともなっている原作名『花と龍』では、「龍」が意味するところは容易に想像が出来るのであるが、「花」は、独特の意味合いを与えられていると言われ、それは、玉井金五郎の理想、下衆なこの世にあっても人としての品格を持って生きることを象徴的に現していると言う。
一方、映画である本作では、この「花」は、正に現実の花であり、それは、黄色い菊の花である。そして、この花は、同時に、後に妻になる前のマンの金五郎に対する愛の象徴でもある。映画の序盤、金五郎がヤクザと喧嘩をして頭を殴られ、それが原因で寝込むことになる。マンが金五郎を見舞おうとするのであるが、その際に、マンは、自宅の傍に咲いている黄色い菊の花を一本手折って金五郎が寝ている部屋に持って行く。マンは、金五郎の寝ている部屋で、早速一輪挿しにして、縁側の手前の小さな台の上に置く。画面は、金五郎が寝ているアングルから取られており、画面手前は畳、中景に台の上に置かれた一輪挿しの黄色い菊の花、後景が縁側の向こうにある庭のようであり、自然の緑色をしている。ここで、緑色に強い富士カラーが活きている。本作のラストシーンも、俯瞰アングルからズームアップして、門の前に咲いている菊の花のアップで終わっている。(撮影監督:飯村雅彦)
そして、この花と龍のモチーフは、刺青のモチーフともなる。金五郎が駆け出しの頃、賭博をやって運が付いて勝った時、その賭場で壺振りをしていたのが、女壺振り師・お京(藤純子)であった。お京は、この時、金五郎にとっては、「幸運の女神」であった訳であるが、それ以来、二人は会わないままであった。しかし、金五郎がマン(星由里子)と所帯を持ち、玉井組を起ち上げた後のある時、金五郎はお京と偶然に会う。金五郎を心憎いとは思っていなかったお京は、再会を喜び、この機会に二人の仲が発展するのではないかと淡い期待も心に秘めて金五郎の家庭の事情を聞いたのであるが、金五郎にもう誰かいると言われて、僅かに見せた苦渋の顔を金五郎に隠す。それでも、金五郎との関わりを永遠に刻もうとして、刺青彫師でもあるお京は、自分の左肩に彫られた牡丹に蝶の刺青を見せながら、自分に刺青を是非彫らして欲しいと金五郎に懇願する。その心根にほだされた金五郎は、それを承知するが、龍に黄色い菊の花を彫ってくれるようにとお京に頼むのであった。
2025年2月26日水曜日
昭和残侠伝--吼えろ唐獅子(日本、1971年)監督:佐伯 清
シリーズ第八作
時:関東大震災の年1923年から8年後というから、1931年
場所:最初は前橋で、小諸経由で、金沢
対立抗争:東京のやくざ組織と関わって、金沢の伝統的組とそれに対抗する悪徳組織の対立
高倉は渡世人であるが、金沢の悪徳組織の客人である。池辺は、金沢の伝統的組の元組員で、今は堅気の男である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、今は金沢の伝統的組の組長の妻:松原智恵子
ある寺の墓地で、既に土葬にされた弟文三とその恋人おつたの墓の前に立つ重吉であった。画面右後ろから秀次郎が画面内に入ってくる。それに気付いた重吉が、秀次郎の顔を見ないまま、「秀次郎さん、二度と持たねえと誓ったドスですが、所詮は染み付いた垢。笑ってやっておくんなさい。」と語りながら、重吉は左回りに身体を回し、若干軸が外れる位置ではあるが、秀次郎と背中合わせになるような形になる。言い終えたところで、重吉は振り返る。すると、秀次郎も振り返って、二人は目と目を合わせる。秀次郎が言う:
「重吉さん、お互い馬鹿が承知の渡世だ。ご一緒さしてもらいますよ。」
顔だけではなく、身体も秀次郎に向けて、重吉は言う:
「あたしたちには、赤い着物か...」
「白(しれ)い着物だ。」と、秀次郎は、重吉の言葉を受けて、言い切る。
アップにされたままの重吉が、左の口角を若干上げて、苦笑いするようにして、肯く。カメラは逆方向で秀次郎の顔をアップで撮る。無言のままの秀次郎のアップから、カメラが返しでまた重吉の胸までの大きさで重吉を捉える。重吉の顔は右を向いて画面の左方向に歩き出す。二・三歩歩いたところで、BGMで、高倉健が歌う『唐獅子牡丹』の主題歌が流れ出す。朝霧が立ち込めた中である。秀次郎も数歩遅れた形で重吉の後ろに付く。重吉は、黒の着物に白の帯、秀次郎は、灰色の着物に紺か黒の帯である。
カメラは、一時、正面から二人を写すが、また、後ろに回り、二人が今度は薄野の中を歩いているのが分かる。この道が、仁義の花道である。カメラは、立ち止まって、二人が画面の奥に続けて歩いて行くのを見送る。
すると、撮影方向が替わり、重吉を画面の左に、秀次郎を画面の右に置いて、二人を横から捉える。歌の一番が終わったところで、アングルは斜め上からのものとなる。画面の手前にはガス燈の灯りがほんのりと見える。再び、横からのアングルに戻り、静かな何か木管楽器のような音のBGMが低く聞こえる。
カメラは、今度は枯れ木を手前に置いて、正面から奥で二人を捉える。歌の二番が始まる直前、二人は、手に持っている長ドスを包んでいる布をほどき、ほどいた布を道端に放り投げる。二人は、木の前で固定されていたカメラの、観ている方から見て左の方に通り過ぎたところで、画面が替わり、稲葉組の家がある通りとなる。通りの奥から歩いてくる二人は、稲葉組の玄関の少し前で、今までの左右の位置を変えて、今度は重吉が画面の右に、秀次郎が左に立つ。歌が終わるのと共に二人は長ドスを抜く。BGMも消えたところで、秀次郎と重吉は、稲葉組の家の中に斬り込んでいくのである。
ところで、本作の約16分台から次のような旅人の食事の作法が描かれる:
まず、「御厚情に預かります。」と挨拶する。座席に着くと、懐から懐紙を取り出し、左側の畳の上にそれを置く。膳の手前・左に山盛りにした茶碗、その右側に味噌汁、膳の左上に沢庵二切れ、膳の右上に焼き魚が置いてある。まずは、飯を一口、そうして、味噌汁をすすると、焼き魚に箸を持って行くが、魚の尻尾は、さっきの懐紙の上に置く。飯一膳だけでは縁起が悪いので、お替りをするが、もう一杯飯が食べきれないと分かっている時には一膳目の茶碗の飯の中央に穴を作り、それにお替り分を盛り足してもらうのが作法に叶った飯のお替りの仕方である。米一粒も残さずに食べるのが作法であり、焼き魚の骨と頭も先程の懐紙に置き、その懐紙を二つ折りにしてそのまま懐に入れる。後で、外に出た時に、その懐紙は目立たないようにして捨てる。「手厚き、御もてなし、ありがとうございました。」と言って、座席を立つ。
時:関東大震災の年1923年から8年後というから、1931年
場所:最初は前橋で、小諸経由で、金沢
対立抗争:東京のやくざ組織と関わって、金沢の伝統的組とそれに対抗する悪徳組織の対立
高倉は渡世人であるが、金沢の悪徳組織の客人である。池辺は、金沢の伝統的組の元組員で、今は堅気の男である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、今は金沢の伝統的組の組長の妻:松原智恵子
ある寺の墓地で、既に土葬にされた弟文三とその恋人おつたの墓の前に立つ重吉であった。画面右後ろから秀次郎が画面内に入ってくる。それに気付いた重吉が、秀次郎の顔を見ないまま、「秀次郎さん、二度と持たねえと誓ったドスですが、所詮は染み付いた垢。笑ってやっておくんなさい。」と語りながら、重吉は左回りに身体を回し、若干軸が外れる位置ではあるが、秀次郎と背中合わせになるような形になる。言い終えたところで、重吉は振り返る。すると、秀次郎も振り返って、二人は目と目を合わせる。秀次郎が言う:
「重吉さん、お互い馬鹿が承知の渡世だ。ご一緒さしてもらいますよ。」
顔だけではなく、身体も秀次郎に向けて、重吉は言う:
「あたしたちには、赤い着物か...」
「白(しれ)い着物だ。」と、秀次郎は、重吉の言葉を受けて、言い切る。
アップにされたままの重吉が、左の口角を若干上げて、苦笑いするようにして、肯く。カメラは逆方向で秀次郎の顔をアップで撮る。無言のままの秀次郎のアップから、カメラが返しでまた重吉の胸までの大きさで重吉を捉える。重吉の顔は右を向いて画面の左方向に歩き出す。二・三歩歩いたところで、BGMで、高倉健が歌う『唐獅子牡丹』の主題歌が流れ出す。朝霧が立ち込めた中である。秀次郎も数歩遅れた形で重吉の後ろに付く。重吉は、黒の着物に白の帯、秀次郎は、灰色の着物に紺か黒の帯である。
カメラは、一時、正面から二人を写すが、また、後ろに回り、二人が今度は薄野の中を歩いているのが分かる。この道が、仁義の花道である。カメラは、立ち止まって、二人が画面の奥に続けて歩いて行くのを見送る。
すると、撮影方向が替わり、重吉を画面の左に、秀次郎を画面の右に置いて、二人を横から捉える。歌の一番が終わったところで、アングルは斜め上からのものとなる。画面の手前にはガス燈の灯りがほんのりと見える。再び、横からのアングルに戻り、静かな何か木管楽器のような音のBGMが低く聞こえる。
カメラは、今度は枯れ木を手前に置いて、正面から奥で二人を捉える。歌の二番が始まる直前、二人は、手に持っている長ドスを包んでいる布をほどき、ほどいた布を道端に放り投げる。二人は、木の前で固定されていたカメラの、観ている方から見て左の方に通り過ぎたところで、画面が替わり、稲葉組の家がある通りとなる。通りの奥から歩いてくる二人は、稲葉組の玄関の少し前で、今までの左右の位置を変えて、今度は重吉が画面の右に、秀次郎が左に立つ。歌が終わるのと共に二人は長ドスを抜く。BGMも消えたところで、秀次郎と重吉は、稲葉組の家の中に斬り込んでいくのである。
ところで、本作の約16分台から次のような旅人の食事の作法が描かれる:
まず、「御厚情に預かります。」と挨拶する。座席に着くと、懐から懐紙を取り出し、左側の畳の上にそれを置く。膳の手前・左に山盛りにした茶碗、その右側に味噌汁、膳の左上に沢庵二切れ、膳の右上に焼き魚が置いてある。まずは、飯を一口、そうして、味噌汁をすすると、焼き魚に箸を持って行くが、魚の尻尾は、さっきの懐紙の上に置く。飯一膳だけでは縁起が悪いので、お替りをするが、もう一杯飯が食べきれないと分かっている時には一膳目の茶碗の飯の中央に穴を作り、それにお替り分を盛り足してもらうのが作法に叶った飯のお替りの仕方である。米一粒も残さずに食べるのが作法であり、焼き魚の骨と頭も先程の懐紙に置き、その懐紙を二つ折りにしてそのまま懐に入れる。後で、外に出た時に、その懐紙は目立たないようにして捨てる。「手厚き、御もてなし、ありがとうございました。」と言って、座席を立つ。
現代と言えども、見習いたい作法である。
昭和残侠伝--死んで貰います(日本、1970年作)監督:マキノ雅弘
シリーズ第七作
時:関東大震災の年1923年前後
場所:東京下町
対立抗争:伝統的組と新興ヤクザ組織
高倉は渡世人であるが、元々は料亭の主人の息子で、池辺は、この料亭の板前である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の芸者:藤純子
「任侠」とは、自分の命も顧みずに、暴力を以ってしても他者を助けることである。その失われていこうとする「義侠心」への「白鳥の歌」が、東映やくざ映画の金字塔を飾る「昭和残侠伝シリーズ」である。「残侠」という、ノスタルギーのこもった言葉を味わいたい。その様式化された美は、時にうぶな男気の羞じらいを見せる高倉健と、苦みの効いた、男立ちの高貴を匂わせる池辺良の間の、殆どホモ・エローティッシュな感情の絡み合いによって伴奏される。任侠道が失われれば、そこには露骨な、仁義なき闘いしか残らないであろう。昭和残侠伝から実録やくざものへの転換もまた、時代の変化に対応したものであったのであり、それは、一つの必然であったとも言えるのである。
「ご一緒、願います。」と、風間は秀次郎に謂った。ちょうど小橋を渡りきったところで脇から風間に「重さん!」と声を掛けた秀次郎は、風間に近づいてさらに続けて言う:
「重さん、このケリは俺に付けさせておくんなせえ。堅気のおめえさんに行かせる訳に行かねえ。」これまでの撮影方向を逆にして、秀次郎の後姿が画面右、風間の斜め正面が画面左となり、風間は口を開ける:「秀次郎さん、あれから十五年...」
懐から短刀を取り出して、それを見つめながら、風間は続ける:
「見ておくんなせえ! 恩返しの花道なんですよ。」すると、封印をされた短刀のアップ。風間はその短刀の、握った右手の親指で、封を切る。その短刀と秀次郎の顔のアップ。短刀を見つめていた秀次郎、目だけを上に上げて無言で風間の方を見つめる。逆方向で風間の顔がアップになると、風間、固い意志を秀次郎に告げるように:
「ご一緒、願います。」ここで、テーマソングが再び鳴り出し、風間から目をそらした秀次郎、まずは無言で一人で歩き出す。画面の奥の方に数歩歩いた秀次郎、振り返って風間の方を見やると、風間の方もまた歩き出し、秀次郎に追いつき、追い越そうとする刹那、秀次郎が左手で風間の右肩に手を掛ける。こうして、風間は、秀次郎と並んで「恩返しの花道」を歩んで行くのであった。
時:関東大震災の年1923年前後
場所:東京下町
対立抗争:伝統的組と新興ヤクザ組織
高倉は渡世人であるが、元々は料亭の主人の息子で、池辺は、この料亭の板前である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の芸者:藤純子
「任侠」とは、自分の命も顧みずに、暴力を以ってしても他者を助けることである。その失われていこうとする「義侠心」への「白鳥の歌」が、東映やくざ映画の金字塔を飾る「昭和残侠伝シリーズ」である。「残侠」という、ノスタルギーのこもった言葉を味わいたい。その様式化された美は、時にうぶな男気の羞じらいを見せる高倉健と、苦みの効いた、男立ちの高貴を匂わせる池辺良の間の、殆どホモ・エローティッシュな感情の絡み合いによって伴奏される。任侠道が失われれば、そこには露骨な、仁義なき闘いしか残らないであろう。昭和残侠伝から実録やくざものへの転換もまた、時代の変化に対応したものであったのであり、それは、一つの必然であったとも言えるのである。
「ご一緒、願います。」と、風間は秀次郎に謂った。ちょうど小橋を渡りきったところで脇から風間に「重さん!」と声を掛けた秀次郎は、風間に近づいてさらに続けて言う:
「重さん、このケリは俺に付けさせておくんなせえ。堅気のおめえさんに行かせる訳に行かねえ。」これまでの撮影方向を逆にして、秀次郎の後姿が画面右、風間の斜め正面が画面左となり、風間は口を開ける:「秀次郎さん、あれから十五年...」
懐から短刀を取り出して、それを見つめながら、風間は続ける:
「見ておくんなせえ! 恩返しの花道なんですよ。」すると、封印をされた短刀のアップ。風間はその短刀の、握った右手の親指で、封を切る。その短刀と秀次郎の顔のアップ。短刀を見つめていた秀次郎、目だけを上に上げて無言で風間の方を見つめる。逆方向で風間の顔がアップになると、風間、固い意志を秀次郎に告げるように:
「ご一緒、願います。」ここで、テーマソングが再び鳴り出し、風間から目をそらした秀次郎、まずは無言で一人で歩き出す。画面の奥の方に数歩歩いた秀次郎、振り返って風間の方を見やると、風間の方もまた歩き出し、秀次郎に追いつき、追い越そうとする刹那、秀次郎が左手で風間の右肩に手を掛ける。こうして、風間は、秀次郎と並んで「恩返しの花道」を歩んで行くのであった。
昭和残侠伝--人斬り唐獅子(日本、1969年作)監督:山下 耕作
シリーズ第六作
時:不明、何れにしても戦前
場所:浅草
対立抗争:浅草のヤクザ組織同士の縄張り争い(玉の井の私娼窟)
高倉は悪玉組織の客人で、池辺は、悪玉組織の代貸で、二人は義兄弟である。池辺は後に破門される。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、事情があって善玉組織の姐さんとなる:小山明子
日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリー
悪玉親分から破門された風間、秀次郎に向かって言う:
「後生大事に守ってきた渡世の仁義も、もう縁はねえ!今の俺にゃ、生まれた時には別々だが、死ぬ時はいっしょの、おめえだけだ!」
秀次郎は、叩き割ろうとしていた義兄弟の盃を既に懐に入れていたが、雪の中、風間に近づいていき一声掛ける:「兄弟(きょうでえ)!」
風間は、苦笑いをして、左の口角をやや引き上げる。と、テーマソングはまた鳴り出し、そのBGMをバックに、風間と秀次郎は長ドスを左手に下げながら、並んで死地に歩き出すのであった。
本作、日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリーでもある。現墨田区にあった玉の井は、戦前からの私娼窟で、映画の中で爆殺される売春婦も、少なくとも約千人はここにいたと言われる私娼たちの一人だったのである。
時:不明、何れにしても戦前
場所:浅草
対立抗争:浅草のヤクザ組織同士の縄張り争い(玉の井の私娼窟)
高倉は悪玉組織の客人で、池辺は、悪玉組織の代貸で、二人は義兄弟である。池辺は後に破門される。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、事情があって善玉組織の姐さんとなる:小山明子
日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリー
悪玉親分から破門された風間、秀次郎に向かって言う:
「後生大事に守ってきた渡世の仁義も、もう縁はねえ!今の俺にゃ、生まれた時には別々だが、死ぬ時はいっしょの、おめえだけだ!」
秀次郎は、叩き割ろうとしていた義兄弟の盃を既に懐に入れていたが、雪の中、風間に近づいていき一声掛ける:「兄弟(きょうでえ)!」
風間は、苦笑いをして、左の口角をやや引き上げる。と、テーマソングはまた鳴り出し、そのBGMをバックに、風間と秀次郎は長ドスを左手に下げながら、並んで死地に歩き出すのであった。
本作、日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリーでもある。現墨田区にあった玉の井は、戦前からの私娼窟で、映画の中で爆殺される売春婦も、少なくとも約千人はここにいたと言われる私娼たちの一人だったのである。
昭和残侠伝-唐獅子仁義(日本、1969年作)監督:マキノ雅弘
シリーズ第五作
時:昭和初期
場所:東京から移動して名古屋経由で信濃の小諸
対立抗争:国有林の入札を巡る伝統的組と、これと対抗する悪徳ヤクザ組織
高倉は伝統的組の客人で、池辺は、対抗するヤクザ組織の客人である。お互いがお互いの組の親分を刺殺した因縁がある。
ヒロイン:高倉に好意を持つ女で、池辺の妻:藤純子
場所:東京から移動して名古屋経由で信濃の小諸
対立抗争:国有林の入札を巡る伝統的組と、これと対抗する悪徳ヤクザ組織
高倉は伝統的組の客人で、池辺は、対抗するヤクザ組織の客人である。お互いがお互いの組の親分を刺殺した因縁がある。
ヒロイン:高倉に好意を持つ女で、池辺の妻:藤純子
おるいのためにも、どうかこのあっしに死に花を咲かせてやっていただきます
いつものテーマソングをBGMに森の中を行く秀次郎を左側からお供をするカメラは(1時間20分代)、秀次郎に近づいたり、離れたりする(二回)。それから、カットが少々早くなり、ショットがバストと、頭から膝までのアメリカン・ショットとを交互に繰り返す(四回)。すると、そこから更にカットのテンポを速めて、秀次郎の肩までのプロフィールが九回連続の「激写」となる。十回目からまたバストのショットに戻ると、秀次郎は森の小道を抜け出る。そこから、道を右に曲がる秀次郎の後ろ姿のショットになり、テーマソングの一番が終わる直前、秀次郎の後ろから、オフの「秀次郎さん!」と呼ぶ風間の声が聞こえる。ここまでで、1時間21分代ちょっとである。第五作の本作以降の、本シリーズの最後の九作目までの編集を担当したのは、田中修で、彼の、キャメラマンの坪井誠とのこの仕事は、蓋し、日本アカデミー・編集賞ものであろう。
さて、本作のストーリーの目玉は、何と言っても、藤純子の役回りである。風間は、藤が演ずる、元柳橋芸者おるいの旦那で、ストーリーの始めに、風間は因縁あって秀次郎と対決し、左腕を切られてその腕が使えなくなってしまっていたという曰く付きである。それにまた、おるいは、やくざとのいざこざで左手に怪我をした秀次郎を偶然に手当てをして、それが縁で、秀次郎のことも悪くは思っていない。そのおるいと秀次郎の気持ちの関わり合いがなんとも色っぽい。とりわけ、おるいを演じる藤が、成熟した女の香を濃厚に匂わせ、しかもそれに不倫の感覚が混ぜ込む演技には、観ている40代以降の男性の誰もが「悩殺」されたと思われる。それでも、操を通して、愛する夫、風間の腕の中で死んだおるいの薄幸は、本作の男と男の世界に、男と女の色恋沙汰の、言わば、「白薔薇」の絵を添えるものである。
昭和残侠伝-血染の唐獅子(日本、1967年作)監督:マキノ雅弘
シリーズ第四作
時:昭和初期
場所:浅草、上野
対立抗争:鳶職人をまとめる伝統的組と、工事利権を得ようとするヤクザ組織
高倉は伝統的組の者で、池辺は、対抗するヤクザ組織の代貸しである。映画後半、池辺は破門される。
ヒロイン:高倉に惚れる女で、池辺の妹:藤純子
時:昭和初期
場所:浅草、上野
対立抗争:鳶職人をまとめる伝統的組と、工事利権を得ようとするヤクザ組織
高倉は伝統的組の者で、池辺は、対抗するヤクザ組織の代貸しである。映画後半、池辺は破門される。
ヒロイン:高倉に惚れる女で、池辺の妹:藤純子
男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔 本作、ストーリーが少々変則で、善玉・悪玉の割り振りがはっきりし過ぎており、とりわけ、秀次郎の内面の葛藤が、秀次郎が完全に善玉側に立ってしまっていることで、薄い。風間は悪玉側だが、秀次郎とは元々幼馴染とあっては、男二人の義理の立場の対立の局面がこれまた薄くなっている。さらに、二人の女(芸者染次と、風間の妹文代)に慕われる秀次郎は、殆ど押しかけ女房的な文代(藤純子)とは、所帯持ちになる直前である。となれば、「さすらい」の秀次郎のイメージもこれまた薄い。そして、どもりの竹(津川雅彦)に伴われて、秀次郎と風間が殴り込みを掛けるとなると、秀次郎と風間の男同士の関係の緊密感がやはり薄らいでしまう。となると、復讐を終えた秀次郎と後を追ってきた文代の、「濡れ場」のラストに、何か物足りなさの感じを受けるのは筆者だけであろうか。
とは言え、本テーマソングの二番は、『昭和残侠伝』の本質を突いてあまりあるものがある:
男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔
喧嘩馴染みの お前(風間)と俺(秀次郎)さ
何も言うまい その先は
背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹
昭和残侠伝(日本、1965年作)監督:佐伯 清
1965年から始まった本シリーズ『昭和残侠伝』が、高倉健主演の何本かのシリーズものの中で、最も魅力を感じさせる、その理由は俳優・池辺良の存在であろう。伝統的に仁義を守る善玉一家と、仁義を守らない新興悪玉一家の対立をストーリーの背景にして、これに高倉を慕う紅一点(第一、第二作の三田佳子、第三、第四、第五、第七作の藤純子、第六作の小山明子、第八作の松原智恵子、第九作の星由里子)を絡ませ、恋には晩熟の、さすらいの渡世人・高倉が、堪えに堪えて、最後に悪玉親分を切り倒す、これが『昭和残侠伝』のストーリーの基本構造である。しかし、この最後の、懲悪の「道行き」には渋い相方が付くことが、このシリーズの「味噌」であり、斬り合いの中で死んでいく悲劇の相方を体現したのが、俳優・池辺なのである。
1918年生まれの池辺は、このシリーズ制作当時は、40歳代後半で、嘗ての二枚目青春スターの過去を背負って、どこか翳りのある、知的で苦み走った男性像を表象している。しかも、側頭と後頭部を刈り上げ、頭の上部だけ長めにするという、当時としては印象的な髪形で、それに、とりわけ黒の着物を、(本当は「いなせに」と言いたいところだが、これは気の早い若い人に言う言葉であると言うから)「粋に」着こなす池辺は、正に和製のダンディズムの権化と言えるであろう。こんな池辺に死地への道行きの相方を務めてもらっては、さすがの健さんも男冥利に尽きたことは想像に余りある。
1918年生まれの池辺は、このシリーズ制作当時は、40歳代後半で、嘗ての二枚目青春スターの過去を背負って、どこか翳りのある、知的で苦み走った男性像を表象している。しかも、側頭と後頭部を刈り上げ、頭の上部だけ長めにするという、当時としては印象的な髪形で、それに、とりわけ黒の着物を、(本当は「いなせに」と言いたいところだが、これは気の早い若い人に言う言葉であると言うから)「粋に」着こなす池辺は、正に和製のダンディズムの権化と言えるであろう。こんな池辺に死地への道行きの相方を務めてもらっては、さすがの健さんも男冥利に尽きたことは想像に余りある。
2025年2月15日土曜日
三文オペラ(西ドイツ/フランス、1963年作)監督:ヴォルフガング・シュタウテ
クルト・ウルリヒ映画制作会社は、『三文オペラ』の映画化を1950年代後半には発表しており、その上映を58年・59年のシーズンに行ないたいとしていた。最初は、当時の西ドイツで最良の映画人の一人であったHelmut Käutnerヘルムート・コイトナーに監督を依頼し、この時から既にC.ユルゲンスの主役は決まったいた。しかし、H.コイトナーは監督職から降板し、様々な経緯を経て、結局、東ドイツから西ドイツに活動の中心拠点を移してから数年しか経っていなかったW.シュタウテが、本作の監督を引き受けることとなる。
彼は、本作の撮影が開始される60年10月の約二年前から、脚本の共同執筆に骨を折っていた。結局、取得した映画化権の期限が切れるところから、本作の撮影に踏切り、撮り終えた訳であるが、USAへ上映権が販売されると、買い取ったUSAの映画会社が、監督のW.シュタウテの許可を得ることなく、サミー・デイヴィスJr.の場面を付け足したのである。故に、映画冒頭の、サミー・デイヴィスJr.が「メッキー・メッサ―のモリタート」を歌う部分は、英語となっており、ドイツ語版でもその吹き替えは行なわれていない。
脚本の共同執筆をしていたW.シュタウテは、B.ブレヒトが1920年代後半に書いた『三文オペラ』のストーリーを、より映画撮影当時の1960年代の状況にマッチしたものにしようとしていた。その素案では、ロンドンのSohoソーホー地区に住む下層住民が、ブルジョワ階級が自分達の生活を脅かすのに対抗して、その抗議運動の一環として、『三文オペラ』を上演したという風にストーリーの枠組みを読み替えたのであった。
しかし、この案は、1956年に死んだB.ブレヒトの遺志執行人たるHelene Weigelヘレーネ・ヴァイゲルによって拒否され、W.シュタウテは仕方がなくほぼ原作通りに映画化せざるを得なかったのである。
とは言え、W.シュタウテは、可能な範囲で自らの可能性を模索している。確かに、映画は、正に、演劇舞台の真ん前にカメラを据えて、劇場での演技をそのままに撮影したようにされてはいるが、本作では、わざと金を掛けた舞台背景にし、わざと人工的に汚くした服装にエキストラの乞食達を装わせ、わざと高額な出演料を払わせる国際的俳優陣に演技をさせたのであった。また、原作中に出てくる歌の順序を変えて本作では歌が登場する。それぐらいの芸術上の「自由」は、W.シュタウテは得たようである。また、ストーリーの展開は、登場人物が歌を歌っている最中に場面が展開するようにしてあり、あたかもミュージカル的な手法である。これは、映画人たるW.シュタウテが、「叙事詩的流れ」を提唱する演劇人たるB.ブレヒトの舞台劇とは異なるものとして本作を制作しようとして苦心した点であろう。
彼は、本作の撮影が開始される60年10月の約二年前から、脚本の共同執筆に骨を折っていた。結局、取得した映画化権の期限が切れるところから、本作の撮影に踏切り、撮り終えた訳であるが、USAへ上映権が販売されると、買い取ったUSAの映画会社が、監督のW.シュタウテの許可を得ることなく、サミー・デイヴィスJr.の場面を付け足したのである。故に、映画冒頭の、サミー・デイヴィスJr.が「メッキー・メッサ―のモリタート」を歌う部分は、英語となっており、ドイツ語版でもその吹き替えは行なわれていない。
脚本の共同執筆をしていたW.シュタウテは、B.ブレヒトが1920年代後半に書いた『三文オペラ』のストーリーを、より映画撮影当時の1960年代の状況にマッチしたものにしようとしていた。その素案では、ロンドンのSohoソーホー地区に住む下層住民が、ブルジョワ階級が自分達の生活を脅かすのに対抗して、その抗議運動の一環として、『三文オペラ』を上演したという風にストーリーの枠組みを読み替えたのであった。
しかし、この案は、1956年に死んだB.ブレヒトの遺志執行人たるHelene Weigelヘレーネ・ヴァイゲルによって拒否され、W.シュタウテは仕方がなくほぼ原作通りに映画化せざるを得なかったのである。
とは言え、W.シュタウテは、可能な範囲で自らの可能性を模索している。確かに、映画は、正に、演劇舞台の真ん前にカメラを据えて、劇場での演技をそのままに撮影したようにされてはいるが、本作では、わざと金を掛けた舞台背景にし、わざと人工的に汚くした服装にエキストラの乞食達を装わせ、わざと高額な出演料を払わせる国際的俳優陣に演技をさせたのであった。また、原作中に出てくる歌の順序を変えて本作では歌が登場する。それぐらいの芸術上の「自由」は、W.シュタウテは得たようである。また、ストーリーの展開は、登場人物が歌を歌っている最中に場面が展開するようにしてあり、あたかもミュージカル的な手法である。これは、映画人たるW.シュタウテが、「叙事詩的流れ」を提唱する演劇人たるB.ブレヒトの舞台劇とは異なるものとして本作を制作しようとして苦心した点であろう。
2025年2月12日水曜日
三文オペラ - マック・ザ・ナイフ(USA/オランダ/ハンガリ―、1989年作)監督:メナヘム・ゴーラン
本作は、原作演劇『三文オペラ』の、B.ブレヒトの風刺性とK.ヴァイルの音楽的アヴァンギャルド性を削ぎ取った単純なミュージカル作品である。しかも、主題のテーマは、プエルトリコ人ラウル・ジュリアが演じるMac the Knifeと、同じくラテン系アメリカ人の血が入ったジュリア・ミゲネス演じる娼婦Jennyとの間の「腐れ縁」の愛である。このサイトの映画ポスターでは分からないが、ウィキペディアに出ているポスターでは、二人が熱烈にキスする直前のシーンが採用されており、的を射えている。
尚、本作の終盤フィナーレでの展開は、『三文オペラ』もその通りであり、何も本作の脚本の独創ではない。そもそも、悲劇のバロック・オペラが終章にデウス・エクス・マキナが出て、一挙に問題が解決するというハッピーエンドは、伝統的なオペラの悲劇のエンディングである。
原作演劇『三文オペラ』の初上演は、1928年のことであるが、この演劇の原作は、ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』であり、こちらは、1728年が初上演である。つまり、『三文オペラ』と『乞食のオペラ』の間には丁度200年の差がある訳であるが、『三文オペラ』では、ある女王の戴冠式が、本作の映画と同様に一つのプロットとなっており、それが、ヴィクトリア女王の戴冠式であるとすると、1837年のことになる。となると、正に、『乞食のオペラ』と『三文オペラ』のほぼ中間地点となる。こう考えると、ブレヒトは、実に上手い、作品の時間的設定を行なったと言えるであろう。
原作演劇『三文オペラ』では、メッキ―・メッサ―、即ち匕首のメッキ―と、「乞食王」ピーチャムの箱娘ポリーの関係が中心であるのであるが、本作では、マックとジェニーの関係に焦点が置かれており、また、本作では、ジェニーとはJenny Diverと、『三文オペラ』とは異なり、しっかり述べられているので、このJenny Diverとは誰のことかを少々説明しておこうと思う。
Jenny Diverは、本名をMary Youngといい、1700年頃にアイルランドで生まれた。両親に捨てられた後、施設で育ち、裁縫師の技術を身に付けるものの、ロンドンに移り住み、そこで、女スリの窃盗団に仲間入りすることになる。結局、そのリーダー格になり、綽名でJenny Diverと呼ばれる。彼女は18世紀前半で最も悪名高い存在となるが、彼女は中・上流の市民と交わり、教養もあり、身なりもよく、魅力的な存在であったと言う。
1733年と38年に二度、司法に捕まるものの素性が同定出来なかったことから、一時アメリカ大陸にあるヴァージニアに送られたりもしたが、イギリスに戻ってきて、再び自由の身となる。1741年1月に三度目に捕まり、この時には、素性が分かったことから、結局、アメリカへの強制送還を逃れた重罪の故に死刑の処罰を受ける。同年3月18日、他の死刑判決を受けた人間と共に、死刑に処される。その際、彼女は黒いドレスを纏っていたと言う。
尚、本作の終盤フィナーレでの展開は、『三文オペラ』もその通りであり、何も本作の脚本の独創ではない。そもそも、悲劇のバロック・オペラが終章にデウス・エクス・マキナが出て、一挙に問題が解決するというハッピーエンドは、伝統的なオペラの悲劇のエンディングである。
原作演劇『三文オペラ』の初上演は、1928年のことであるが、この演劇の原作は、ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』であり、こちらは、1728年が初上演である。つまり、『三文オペラ』と『乞食のオペラ』の間には丁度200年の差がある訳であるが、『三文オペラ』では、ある女王の戴冠式が、本作の映画と同様に一つのプロットとなっており、それが、ヴィクトリア女王の戴冠式であるとすると、1837年のことになる。となると、正に、『乞食のオペラ』と『三文オペラ』のほぼ中間地点となる。こう考えると、ブレヒトは、実に上手い、作品の時間的設定を行なったと言えるであろう。
原作演劇『三文オペラ』では、メッキ―・メッサ―、即ち匕首のメッキ―と、「乞食王」ピーチャムの箱娘ポリーの関係が中心であるのであるが、本作では、マックとジェニーの関係に焦点が置かれており、また、本作では、ジェニーとはJenny Diverと、『三文オペラ』とは異なり、しっかり述べられているので、このJenny Diverとは誰のことかを少々説明しておこうと思う。
Jenny Diverは、本名をMary Youngといい、1700年頃にアイルランドで生まれた。両親に捨てられた後、施設で育ち、裁縫師の技術を身に付けるものの、ロンドンに移り住み、そこで、女スリの窃盗団に仲間入りすることになる。結局、そのリーダー格になり、綽名でJenny Diverと呼ばれる。彼女は18世紀前半で最も悪名高い存在となるが、彼女は中・上流の市民と交わり、教養もあり、身なりもよく、魅力的な存在であったと言う。
1733年と38年に二度、司法に捕まるものの素性が同定出来なかったことから、一時アメリカ大陸にあるヴァージニアに送られたりもしたが、イギリスに戻ってきて、再び自由の身となる。1741年1月に三度目に捕まり、この時には、素性が分かったことから、結局、アメリカへの強制送還を逃れた重罪の故に死刑の処罰を受ける。同年3月18日、他の死刑判決を受けた人間と共に、死刑に処される。その際、彼女は黒いドレスを纏っていたと言う。
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